「BSSは敗北だ」と闇落ちした親友に言われたので、未完の価値を証明することにした
俺たちは無敵だった。
俺たちならどこまでもいけた。
俺たちは確かに同じではなかった。
人種も年齢も性格も、何もかも違っていた。
だがその根本が同じだった。
同じだと信じていた。
理屈も、理想も、情熱も、
すべてを並べて、すべてを壊して、すべてを作り直せた。
それなのになぜ、
こんなことになってしまったんだ。
東の国の装いをした男が立っている。
黒の羽織に、静かな色味の袴。
足取りは軽いのに、地面を踏む重みだけは消えない。
男の名は、K・ナツメ。
その視線の先にいるのは。
赤い背景に映える銀灰の髪。
細いフレームの赤い眼鏡越しに覗く、冷え切った視線。
口元に咥えられた煙草は火を灯していない。
だがその表情は、すでに何かを焼き尽くした後の灰のようだった。
フェイ・スレス。
かつて同じ道を歩んだ友。
理想を語り、夜を越え、世界を論じ合った男。
二十代。
まだ若い。
だがその目だけが、妙に老いている。
「久しいな、ナツメ」
声は落ち着いている。
怒りも、激情もない。
ただ、切断する刃のような静けさ。
ナツメは一歩だけ前に出た。
「フェイ」
それだけを言う。
それ以上の言葉は、今はまだ不要だった。
風が吹く。
フェイの赤いレンズが鈍く光る。
「俺はな、間違っていなかった」
その言葉に、かつての面影が滲む。
「間違っていたのはお前だ」
ナツメは静かに返す。
「それは違う」
沈黙。
二人の間に横たわる溝。
同じ道を歩き、
同じ景色を見て、
同じ理屈に酔い、
そして違う答えに辿り着いた。
フェイは笑わない。
ナツメも笑わない。
息苦しいほどの沈黙の中で、フェイが切り出した。
「BSSとは弱者の拠り所、敗北に他ならない」
赤いレンズの奥で、目が細くなる。
「BSSの本質を知っているか? BSSは“不完全”で“未完”だ。何も始まっていない。告白もしていない。一歩も踏み出していない。相手に自分の気持ちを一度も伝えていない」
煙草を咥えたまま、淡々と続ける。
風が揺らす銀灰の髪。その声は揺れない。
「“僕が先に好きだったのに”――あの叫びには、まず後悔がある。始めなかったことへの後悔だ。そしてそれに対する執着。行動を起こせずに失った未来の可能性に縋る感情だ。だがな、可能性など最初から存在していなかった。存在していたのは“存在していると本人が思い込んでいた理想”だけだ。第三者が告白し、関係を成立させた瞬間、それは圧倒的な既成事実によって砕かれる」
フェイの視線がわずかに鋭くなる。
「これほど馬鹿げた話があるか。奪われたのではない。最初から掴んでいなかっただけだ。自分の中で育てた淡い妄想。あったかもしれない未来。いつかという曖昧な夢。それらが、現実という形を持った他者によって否定される。その瞬間に“奪われた”と錯覚する。誰も奪ってなどいない。同じ対象に同じ感情を抱いていたとしても、行動した側とそうでない側の差は明白だ。動いた者と、動かなかった者。その優劣は火を見るより明らかだ。動いた行動した側は優れ、そうでない側は劣る。ただそれだけの話だ」
ナツメをまっすぐに見据える。
「それでも動かなかった者は、時間的優位に縋る。“先に好きだった”と。だが時間は実力ではない。与えられただけの偶然だ。それを優位と呼ぶのは、実力から目を背けるための言い訳だ。“順番さえ守れば自分のものだった”――その理屈がどれほど幼稚で他責的か、理解しているか?」
わずかな沈黙が続く。
「悪いのは誰だ? 先天的要因の不利を、後天的努力で覆した者か? それとも先天的優位に胡坐をかき、努力を怠った者か?自分が動かなかった。ただそれだけの事実を受け入れられないから、“先に好きだった”という唯一の優位に縋る。未完の夢を、不完全なまま凍らせる」
赤いレンズの奥の目が、冷たく光る。
「BSSは終わらない。終われない。終わればそれはBSSではないからだ。満たされることのない絶望を抱え、永遠の現在に留まり続ける感情だ」
一歩も動かず、ただ言葉だけが前に出る。
「伝えたが叶わなかった者もいる。だがそれすら、自らを騙し、優位性に縋り、敗因を外に求める。“容姿が”“家柄が”“才能が”――勝てない理由を並べる。その思考の行き着く先に待つ敵は、何よりも恋焦がれたはずの相手だ。“そんな人間とは思わなかった”と理想を貶め、自尊を守る。なんのために恋焦がれ、なんのために求めたのか。自らの理想すらも忘れる愚は見るに耐えぬ」
煙草を指で弾く。
指が震えている。
「BSSは失恋とは違う。失恋は失ったと認める。終わる。だがBSSは違う。失いつつある、失うかもしれない、その曖昧な現在に留まり続ける。恋慕の対象は、最初から未完の理想像でしかない。触れないからこそ汚れず、拒絶されないからこそ完璧でいられる」
そして、決定的に言い放つ。
「BSSとは、自ら行動する現在も、本当の相手を受け入れる現在も選べなかった者の末路だ。慰めでしかない。弱者の拠り所だ。敗北だ。未完を美徳と呼ぶな」
その視線は、かつて隣に立っていた友へ向けられている。
「違うと言うなら、証明してみせろ、ナツメ」
フェイの言葉が風のように通り過ぎたあと、
しばらく誰も口を開かなかった。
ナツメは目を伏せ、そしてゆっくりと顔を上げる。
「……言いたいことはわかる」
声は低く、落ち着いている。
「確かに、行動しなかった。確かに、可能性は現実には存在していなかった。確かに、時間的優位は実力じゃない」
フェイの目がわずかに細まる。
「だがな、フェイ」
ナツメは一歩踏み出した。
「未完であることは、無価値であることとは違う」
沈黙が揺れる。
「始まっていなかった、だから存在しなかった――そう言うのは簡単だ。だが未来は、いつだって存在していない。存在しているのは“選べたかもしれない理想”だけだ」
風が二人の間を抜ける。
「BSSが痛むのは、その理想が閉じる瞬間だ。掴んでいなかったから無かった、ではない。掴む前に閉じた。だから痛む」
ナツメの視線は逸れない。
「行動しなかった者は劣る、とお前は言う。だが人間は、いつでも動けるわけじゃない。恐れも、未熟さも、自信のなさもある。それを切り捨てたら、ほとんどの恋は罪になる」
フェイの眉がわずかに動く。
「BSSは他責だ、と言ったな」
ナツメは小さく首を振る。
「本当に他責なら、相手を憎み、奪った者を呪う。だが成熟したBSSは違う。自分が動かなかった事実を、黙って抱える」
静かな声が、少しだけ強くなる。
「未完は逃避にもなる。未完は救いにもなる。成立した関係は必ず変質する。摩耗し、傷つき、現実に削られる」
赤いレンズに、ナツメの姿が映る。
「未完の想いは、まだ誰も傷つけていない。まだ嘘を混ぜていない。真実を内包したまま。あるべき純度のまま、残る」
フェイは何も言わない。
ナツメは続ける。
「勝敗で測るから劣等になる。恋は競技じゃない。動いた者が勝者で、動けなかった者が敗者――そんな単純な話なら、人間はこんなに複雑じゃない」
わずかな間。
「お前は理想像を幻想だと言ったな。そうだ。幻想だ。だが理想を抱くことは罪か?」
そんなことはないはずだ、とナツメは言う。
「理想を持てた時間もまた、その人間の歴史だ。現実に踏み込めなかった時間も、その人間の一部だ。違うか?」
ナツメの声は揺れない。
「BSSは停滞じゃない。終わらせる勇気が追いついていないだけだ。人はすぐに強くなれない」
そして、静かに言い切る。
「BSSは敗北じゃない。弱さを否定しきれない心の形だ。その弱さをお前は切り捨てた。俺は抱えた。それだけの違いだ」
赤いレンズの奥を、まっすぐ見据える。
「未完は終点じゃない。未完は、まだ終わらせていないだけだ」
ナツメの目は厳しくも優しい。
かつての親友に向ける目と同じだ。
「お前が闇に堕ちたのは、弱さを憎んだからだ、フェイ」
その名を、かつてのように呼ぶ。
「だが人間は、弱いままでも前に進める」




