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Laplace's demon  作者: Norn
3/3

第3話:死の兆し

屋敷は、もう屋敷ではなかった。


崩れた壁から夜風が入り込み、廊下をゆっくりと撫でる。

時計は止まり、使用人の足音もなく、暖炉の火もない。


静かだった。

あまりにも静かで、耳鳴りがするほどに。


ロザーリエは食堂の椅子に座り、月夜に照らされた空の皿を見つめていた。

パンの欠片もない。

水差しも、もう底が見えている。


「……明日で、終わりですわね」

独り言は、壁に吸い込まれた。


数日前まで、ここには声があった。

父の低い声。

母の柔らかな笑い声。

もう思い出そうとしなければ聞こえない。


庭には二つの土の盛り上がりがある。

あれから、あまり近づいていない。

近づけば、何かが崩れる気がした。


床に横になりながら、彼女は目を閉じる。


……眠れない。


そして、なぜか胸の奥がざわつく。

それは未来の予感ではなく、ただの空腹であり、ただの孤独であり、ただの現実だった。




翌朝、崩れた屋敷内に光が差し込む。


彼女はふらつきながら立ち上がった。


「……生きるには、出なければなりませんわ」

静かな決意だった。

怒りもない。

復讐心もない。

ただの生存のための決意。


半開きのまま止まった扉を押し、玄関出る。

辺りから森の匂いがする。


ロザーリエは振り返った。

目の前には崩れた屋敷、割れた窓。

幸せな日常と共に、そこは家とは呼べないほどに破壊されていた。


視線が自然と庭へ向くが、すぐに逸らす。

長く見てはいけない。

見続ければ、足が止まってしまうから。


「……いつか、また戻りますわ」

そう言ったのか、言わなかったのか。

自分でも分からないまま、彼女は森へ踏み出した。




かつては父と馬が通った道の森は、異様に静かだった。


歩くたびに、体が重い。

水も食料もない。

それでも、歩かなければ。


人のいる場所へ。


避難所があるはずだ。

他の人々も生きているはずだ。


そうでなければ――


この世界は、本当に終わってしまう。


その時、遠くで声がした。

数人の男の声だった。

「例の屋敷、漁られてなさそうだよな」

「良い暮らししてそうな男の家だろ?宝石の一つや二つは残ってるだろ」


屋敷、その言葉に胸が冷える。

枝が折れる音と共に、ロザーリエは足を止める。

男たちの姿が木々の隙間から見える。


三人。

少しガタが来ている武器を持っている。


視線が合い、一瞬の沈黙が走る。


「……おい、ガキだ」

「屋敷の生き残り、だろうな」

あっという間に囲まれる。


逃げ道はわずかに残されている。

だが体力はない。


男の一人が近づいてくる。

荒れた呼吸で一歩ずつ詰め寄ってくる。

「お前ら、傷一つ付けんなよ。高く売り飛ばせそうだ」


ロザーリエは思う。

……行かせませんわ。


その思考が、形になるのは――

次の瞬間だった。


男の足元の空間が、音もなく歪む。

地面すれすれに黒い虚空が穿たれ、男の身体が沈む。


支えを失った身体は、叫ぶ間もなく、虚空へと落ちていく。

伸ばされた腕も、荒い息も、次の瞬間には消えていた。

何も残らなかった。


「何だ!?」

残る二人の男が後退る。

ロザーリエは、ただ立ち尽くしていた。


今、何が起こったのか。

理解が追いつかない。

「……これは、私が……?」


両手を見る。

何も付いていない、触れてもいない。

けれど胸の奥に、拭えない感触だけが残っている。

その時、脳裏に言葉が浮かんだ。


――人間の娘。


声ではなく、響きでもない。

ただ、意味だけが直接流れ込む。

ロザーリエの呼吸が止まる。


――継続を望むか。


森は静かなままだった。

目の前では、男たちが狼狽えている。


「な、何しやがった!」

一人が叫び、ナイフを構える。

ロザーリエは理解できない。


何が起きたのかも、何が起きようとしているのかも。


けれど、胸の奥が知っている。

このままでは終わる。

終わらされる。


――終わるか。


問いは冷たく、感情がない。

責めもせずにただ、選択を促す。


――続くか。


ロザーリエの喉が小さく鳴る。

恐怖、罪悪感、混乱。

それでも、彼女はわずかに頷いた。


その瞬間。

何かが、定まった。


「このガキ……!」

二人目の男が踏み出す。

ロザーリエは思う。


(来ないで)


足元の空間が裂ける。

先ほどよりも速く、深く。

黒い穿孔が地面を侵し、男の膝下を呑み込む。


叫び声が途切れる。

引きずり込まれるように、身体が沈む。

森は再び静寂を取り戻した。


残るは、ただ一人。

男は青ざめ、踵を返す。


「ば、化け物だ……!」

枝を踏み、転びかけながら逃げ出す。


距離が開く。

虚界穿孔(ヴォイド・ブレイカー)の間合いから外れる。


ロザーリエは息を呑む。

逃がしてはいけない。

このままでは、屋敷へ向かうかもしれない。


……墓を荒らすかもしれない。


行かせない。

そう思った瞬間――


――距離があるな。


あの冷たい意味が、再び流れ込む。


――ならば、未来を断て。


理解は追いつかないが、思考が先に走る。


「行かせません」


男の背中が、ぶれる。

一歩踏み出したはずの足が、地面に届かない。

次の瞬間へと続くはずの時間が、未来が唐突に断たれた。

男の身体は、次の瞬間には消えていた。


森は、何も知らぬ顔で風を揺らす。

ロザーリエは立ち尽くす。

胸の奥が、ひどく静かだった。


三人。

触れてもいない。

近づいてもいない。

それでも、終わった。


――受け入れたな、人間の娘。


言葉が沈む。

ロザーリエは、震える手を握り締めた。


森は、何も変わらなかった。

風が枝を揺らし、葉が擦れる音がする。


そこに血はない。

叫びの残響もない。

ただ、結果だけが残っている。


ロザーリエは息を吐いた。

指先が震え、膝がわずかに力を失う。


「……私は……」

言葉が続かない。

胸の奥が重く、吐き気が込み上げる。


人を、終わらせた。

守るために、生きるために。

自分の意思で。


それでも、胸の奥にもう一つの感情がある。

それは、静かな安堵だ。


終わった。

奪われなかった。

屋敷も、墓も。


それに気づいた瞬間、ロザーリエは目を見開く。

安心、している。

その事実が、何よりも恐ろしかった。


「……必要でしたの」

小さく呟く。

自身に言い聞かせるように。


「生きるためには……必要でしたのよ」



「……必要でしたの?」

森は答えない。

脳裏の存在も、沈黙している。

ただ、奥底に確かな気配だけがある。


ロザーリエは、ゆっくりと振り返る。

森の奥の見えない場所に、あの屋敷がある。


ロザーリエは、しばらく森の奥を見つめる。

足が、動かない。

戻れば、きっと泣く。

戻れば、きっと、立てなくなる。


……もう、戻れない。


長い沈黙の後。

ロザーリエは、視線を外した。


「……さようなら」

誰に向けた言葉か、自分でも分からない。

森に背を向ける。


一歩、踏み出す。

二歩、三歩。

振り返らずに。


遠くに、薄く煙が上がっている。

人のいる場所。

避難所かもしれない。


まだ世界は、完全には終わっていない。

ロザーリエは歩いた。

その足取りは、まだ少女のものだった。

だが、その影は、わずかに長く伸びている。


森の中に残されたのは三つの結果と、帰らぬ道だけだった。

本編、哭き裂く天使に登場した能力、虚界穿孔(ヴォイド・ブレイカー)未来断絶(ロックアウト)の登場です。

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