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Laplace's demon  作者: Norn
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第2話:ひとりの朝

本作は『哭き裂く天使』のサイドストーリーにあたる物語です。

本編と同じ時間軸の出来事を、別の視点から描いています。

物語をより深くお楽しみいただくために、『哭き裂く天使』とあわせてお読みいただくことを推奨いたします。

海の上空で、星がひとつ消えた。


それは誰にも気づかれなかった。

航行中の船も、沖合の灯台も、ただ静かに光を放っていた。


砂漠の観測所では、わずかな重力の歪みが記録される。

数値は誤差と判断され、報告は後回しにされた。


都市の窓に、一瞬だけ空の色が濃く映る。

誰かが空を見上げる前に、それは元に戻った。


世界はまだ、知らない。

防衛網を、何かがすり抜けたことを。





森の奥深く。

暖炉の火は、すでに小さくなっていた。

ロザーリエは母の腕の中で眠っている。


静かな夜だった。


——空が、裂けるまでは。


音はなかった。

最初に壊れたのは光だった。


月が歪む。

星が滲む。

夜が、紙のように引き裂かれる。


次の瞬間、衝撃が木々を吹き飛ばした。


空気が爆ぜる。

窓ガラスが内側へ弾け飛び、邸宅の壁が軋み、大地がひび割れる。


母がロザーリエを抱き締める。

父が叫ぶ。


何かが降りてくる。

それは炎ではない。

雷でもない。

隕石でもない。


理解を拒む異物。

夜の中心から、ゆっくりと。


——その一部が邸宅の庭へ。


着地の瞬間、衝撃波が全てを薙ぎ払った。


アジュガの花が吹き飛ぶ。

ティーカップが砕ける。

暖炉の火が消える。


そして、森が沈黙した。

だがそれは、静寂ではない。

破壊の後に残された、音を失った世界だった。





瓦礫の中で、ロザーリエは目を開けた。

耳鳴りだけが響いている。

母の腕の感触が、まだあった。


「……お母様?」

返事はない。

抱き締める力も、もうない。

その体は、あまりにも静かだった。


「……お父様?」

少し離れた場所で、瓦礫に埋もれた父が横たわっている。


胸は上下している。

だがその呼吸は、壊れかけた時計のように不規則だった。


「……お父様」

ロザーリエは這い寄り、瓦礫をやっとの思いでどかすと、父の身体を抱き起こす。


血が、指先を濡らした。

父の瞼がわずかに開く。


「……ロー……ゼ……」

掠れた声。

それでも、その響きは確かに優しかった。


「ここにおりますわ。大丈夫です。すぐに手当てを——」

「……いい」


父は微かに首を振る。

それだけで、痛みが走ったのか息が乱れる。

「……守れ……なくて……すまない……」


ロザーリエの喉が詰まる。

「違いますわ! わたくしは——」

言葉が続かない。


父の手が、震えながら彼女の頬に触れた。

冷え始めている。

「……強く……なくていい……」


呼吸が、さらに浅くなる。

「……優しいままで……いろ……」


それが、父の最後の願いだった。


ロザーリエは首を振る。

「そんなの……そんなの、無理ですわ……!」


涙が零れる。

だが父は、もうそれを見ることはない。


最後に、ほんの僅かに微笑んだ。

「……生きろ……」


その声は、風に溶けた。

父の手が、ゆっくりと力を失った。

指先が滑り落ちる。


「……お父様?」

返事はない。


胸に耳を当てる。

鼓動は、もう聞こえなかった。

世界が、音を失う。


崩れた天井の隙間から、夜の空が覗いている。

星は、何事もなかったかのように瞬いていた。


ロザーリエは、父の胸に顔を埋めた。

「……いやですわ」

声は、ひどく小さかった。


そのときだった。

胸の奥で、何かが脈打った。


どくん、と。

自分の心臓とは違う拍動。


一瞬、呼吸が止まる。

「……なに、これ……」


次の瞬間。

内側から、焼けるような痛みが走った。


肺が裏返るような感覚。

血管の中を、熱い砂が流れていく。

喉が裂けるほどの悲鳴が、瓦礫の中に響いた。


「やめて……っ!」

誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。


視界が白く弾ける。

骨の隙間に、何かが入り込む。

思考の裏側を、冷たい指で撫でられる。


何かが聞こえた。


声ではない。

概念が直接、脳に流れ込んでくる。


「入って、こないで……!」

拒絶と同時に、痛みが増す。


身体が弓なりに反る。

指先が床を引っ掻き、爪が割れる。


心臓が二つになったようだった。


ひとつは、ロザーリエのもの。

もうひとつは、異質な何か。


鼓動が重なる。


どくん。

どくん。


やがて。

痛みは、唐突に止んだ。

呼吸だけが荒く残る。


瓦礫の上に倒れ込んだまま、ロザーリエは震えていた。

涙と汗で濡れた頬を、冷たい夜風が撫でる。


胸の奥に、もう一つの気配があった。

静かに、確かに。


――生きたい。


それは自分の感情か。

それとも、内側のものか。

区別がつかない。


ロザーリエは、震える手で父の頬に触れた。

温もりは、もう消えかけている。


それでも。


「……埋めませんと」

声は、先ほどよりも少しだけ低かった。


夜は、まだ明けていない。

だが東の空は、わずかに白み始めていた。

ロザーリエは、ゆっくりと父の身体を抱き起こした。


「……少しだけ、失礼いたしますわ」

返事はない。


先ほどまで温もりのあった胸は、もう重いだけだった。

腕を肩に回し、身体を引きずる。

足元で砕けたガラスが鳴った。


一歩。


また一歩。


床に血の跡が残る。


途中で、息が詰まる。


胸の奥が焼けるように痛む。

融合の余波か、それとも別のものか。

それでも、止まらない。


「……生きろと、仰ったのでしょう」

震える声。

それが父に向けたものか、自分に向けたものか、わからない。


階段の前で立ち止まる。

崩れかけた手すりに手をかけ、父の身体を背に負う。

足が震える。


一段、下りる。


木材が軋む。


二段目で、膝が折れそうになる。


「……大丈夫ですわ」

歯を食いしばる。


誰に言い聞かせているのかも、わからないまま。

ようやく一階へ辿り着く。


玄関の扉は半壊していた。


夜の森が、静かに広がっている。

星はまだ瞬いている。


ロザーリエは父を庭の端へ運び、そっと横たえた。

乱れた衣服を整え、閉じかけた瞼を丁寧に下ろす。


「……少々、お待ちくださいませ」

まだ終わらない。


再び邸内へ戻る。

足取りは、さきほどよりも重い。


母は、崩れた寝台の傍らに倒れていた。

抱き締めてくれた腕の形のまま、固まっている。


ロザーリエは、膝をつく。

触れた瞬間、涙が落ちた。


「……あたたかい、はずでしたのに」

もう冷たい。

その事実が、胸を裂く。


母は軽い。

だがその軽さが、かえって残酷だった。


腕に抱え、壊れた廊下を歩く。


視界が滲む。

涙で足元が見えない。

それでも転ばない。


転んではいけない。


庭に出る。

夜気が、頬を撫でる。


父の隣に、母を寝かせる。

二人が並んだ。

まるで、ただ眠っているかのように。


ロザーリエは、その場に崩れ落ちた。

肩が震える。

嗚咽が、こぼれる。


「どうして……」

短い言葉だけが、夜に溶ける。


胸の奥の何かは、何も言わない。

慰めない。

ただ、静かに観測している。


ロザーリエは、両手で涙を拭った。

ゆっくりと立ち上がる。

空が、わずかに白み始めていた。


「……埋めませんと」

その声は、かすれている。

だが、揺れてはいなかった。


庭に二人を横たえたまま、ロザーリエはゆっくりと立ち上がった。


指先が震えている。

涙は、もう止まっていた。


「……道具を」

掠れた声で呟き、邸内へ戻る。

足元に散らばる瓦礫を避けながら、彼女は裏口の物置へ向かった。

そこには、母がいつも使っていた園芸道具がある。


扉を開ける。

湿った土の匂い。


棚の上に、小さなシャベルが置かれていた。

柄の部分に、小さな花の模様。

母が選んだものだ。


ロザーリエはそれを手に取る。

金属部分には、衝撃で入った亀裂が走っていた。

それでも、握る。


「……お借りいたしますわ」

誰に向けたのかもわからない言葉を残し、庭へ戻る。


父の傍らに膝をつき、シャベルを土へ突き立てる。


硬い。


夜露で湿った土は重く、根が絡みついている。


一度。


二度。


三度。


土が、わずかに崩れる。


呼吸が荒くなる。

慣れない動きに腕が震える。

それでも、掘る。


空が少しずつ薄くなる。

東の端が、淡い灰色に変わっていく。


何度目かの振り下ろしで――

ぎし、と鈍い音がした。


次の瞬間。


ぱきん、と乾いた破断音。

柄が、折れた。


シャベルの金属部分が、土の上に転がる。

ロザーリエは、しばらくそれを見つめていた。


動かない。

ただ、壊れた道具だけが、そこにある。


「……どうして」

小さな声。


その瞬間、堪えていたものが崩れた。

肩が震える。

「どうして……こんな、時に……」


母が使っていた道具。

花を植えるための道具。

命を育てるための道具。


それが今、命を埋める途中で壊れた。


涙が土に落ちて染み込む。

胸の奥の異物は、何も言わない。


ただ、観測している。

それが余計に、腹立たしい。


「……触れないでくださいませ」

誰に向けた拒絶かもわからないまま、吐き捨てる。


ロザーリエは、折れた柄を脇へ放った。

ゆっくりと、両手を土に差し入れる。


冷たい。

湿っている。


爪の間に泥が入り込む。

指を曲げ、土を掻き出す。


重い。

根が絡む。

無理に引きちぎる。


爪が軋む。

皮膚が裂ける。


それでも止めない。


掘る。

掘る。


呼吸が乱れる。

涙が止まらない。

嗚咽が漏れる。


「……ちゃんと……眠って、くださいませ……」

声が震える。


土を掴み、後ろへ放る。

指先が赤く染まる。

血と泥が混ざる。


感覚が鈍くなっていく。

それでも掘る。


空が、さらに白む。

鳥の声が、遠くで一つ鳴いた。


世界は、朝を迎えようとしている。

だがロザーリエの夜は、終わらない。


両手で土を掻き分けながら、彼女は泣き続ける。

声を上げて。

抑えきれず。


壊れた子供のように。


けれど――


手は止まらない。

止めない。


胸の奥の異質な鼓動と、自分の鼓動が重なる。

それでも。

この行為だけは、彼女自身のものだった。


やがて、穴は形になる。

浅く、不格好で、不完全な墓穴。


ロザーリエは、泥だらけの手で顔を拭う。

「……大丈夫ですわ」


震える声。

誰に言っているのかは、もう考えない。


まず父の身体を抱き上げる。


重い。

だが、さきほどよりも静かに持ち上げられた。

穴の縁に膝をつき、ゆっくりと下ろす。

土に触れる音は、思っていたよりも小さい。


「冷たく、ありませんように」

ありえない願いを、口にする。


次に母を。

腕の中に収まる軽さが、胸を締めつける。

穴へと寝かせると、父と母の肩がわずかに触れ合った。


ロザーリエは一瞬、息を止める。

そして、そっと二人の手を重ねた。


「……ご一緒なら、寂しくありませんわよね」

声は、ひどく幼い。

涙が、また一滴落ちた。


彼女は、泥に汚れた指先で、母の髪を整える。

父の襟を正す。


できる限り、整えて。

できる限り、丁寧に。


やがて、土をかけ始める。

最初の一掴みは、どうしても震えた。


ぱら、と乾いた音。


その音で、胸の奥が軋む。


それでも、二掴み、三掴み。


やがて二人の姿は、土に隠れていく。


最後に両手で土を押さえ、形を整える。


不格好な、小さな盛り土。

墓標はない。

ただ、そこに在るという印だけ。


ロザーリエは、両手を胸の前で組む。

祈りの言葉は、うまく出てこない。

代わりに、ぽつりと。


「……今までありがとうございました」

娘としての、最後の言葉だった。


そのとき。


森の奥から、淡い光が差し込んだ。


東の空が、ゆっくりと色を変える。

夜の黒が、群青へ。

群青が、薄い橙へ。


光が、庭を照らす。

壊れた邸宅も。

血の跡も。


泥だらけの少女も。


すべてを、等しく。


ロザーリエは目を細める。

眩しさに、涙が滲む。


それが悲しみなのか、光のせいなのか、わからない。

胸の奥の異物は、沈黙したままだ。


世界は、何事もなかったかのように朝を迎えている。


鳥が鳴く。

風が揺れる。

昨日と同じ朝。


けれど、何も同じではない。


ロザーリエは、ゆっくりと立ち上がる。

泥と血に汚れた両手を見つめ、静かに、息を吸った。


「……生きますわ」

誰に聞かせるでもなく。


ただ、それだけを。


朝日は、彼女の影を長く伸ばした。

その影は、まだ少女の形をしていた。

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