第1話:子守唄の夜
静まり返った森に、風の音だけが残っていた。
足元には、かつて家だった場所がある。
壁だったもの、窓だったもの、名前を持っていたはずの欠片たち。
それらを一つひとつ見分けることを、少女はとうにやめていた。
涙は出ない。
怒りもない。
ただ、胸の奥に沈んだままの重さだけが、確かにそこにある。
少女はゆっくりと息を吸い、吐く。
それは祈りにも似ていたが、誰かに向けたものではなかった。
「……」
そう呟いた声は、風にさらわれて消える。
世界は何も答えない。
答えが必要ないことを、彼女はもう知っていた。
そして――
思考が、ひとつ前の時間へと静かに遡っていく。
――――――――――――――――――――――
庭に出ると、母はいつものように花壇の前に膝をつき、土に触れていた。
柔らかな日差しが木々の隙間から落ち、白い手袋の上を照らしている。
「お母さま」
声をかけると、母は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「あら、ロザーリエ。どうしたの?」
「少し、風が心地よかったので……こちらに来てみました」
そう言って近づくと、母は手を止め、花の方を指さす。
「見てごらんなさい。もうすぐ咲きそうでしょう?」
「本当ですね。昨日よりも、少し元気そうです」
ロザーリエは屈み込み、花を覗き込んだ。
淡い蕾はまだ閉じているが、確かに生き生きとしている。
「こうして毎日手をかけていると、ちゃんと応えてくれるのよ」
「……素敵ですね」
ぽつりと呟くと、母は少しだけ驚いたように目を細めた。
「花も、人も……大切にされていると、わかるのですね」
母は何も言わず、そっとロザーリエの髪を撫でた。
「あなたは、優しい子ね」
「……ありがとうございます、お母さま」
ロザーリエは目を伏せ、微笑んだ。
庭には、土と花の香り、そして穏やかな沈黙が満ちていた。
すると――
庭の向こう、屋敷の門がゆっくりと開く音がした。
その音に、ロザーリエはぱっと顔を上げる。
「……あ」
次の瞬間には、もうスカートの裾を押さえながら駆け出していた。
砂利を踏む軽やかな足音が庭に響く。
「お父様!」
門の内側に立っていたのは、外套を肩に掛けた父だった。
長い一日の仕事を終えた顔には、わずかな疲れと、それ以上の柔らかな微笑みが浮かんでいる。
「おや、ロザーリエ。そんなに急いで転びはしないか」
「大丈夫ですわ!……今日は、少し帰りが遅かったですのね」
そう言いながらも、ロザーリエは父の胸元に飛び込む。父は小さく笑い、慣れた手つきで娘の頭を撫でた。
「すまないな。だが、その分、こうして迎えてもらえると思うと疲れも吹き飛ぶ」
少し離れてその様子を見ていた母が、微笑みながら声をかける。
「おかえりなさい。ちょうどお茶の用意ができたところです」
「それはいい。今日の話は、ゆっくりしながら聞いてもらおう」
ロザーリエは父の腕に手を絡め、小さく頷いた。
「ええ。わたくしも、たくさんお話ししたいことがありますの」
夕暮れの光が庭を包み、三人の影が並んで屋敷へと伸びていく。
その時間が、いつまでも続くものだと――この時は、誰も疑っていなかった。
食卓には、湯気の立つスープと、焼きたてのパン、父の好物だという香草の効いた肉料理が並んでいた。
暖炉の火がやわらかく揺れ、皿の縁を淡く照らしている。
「今日は庭のアジュガが、とても綺麗に咲きましたのよ」
ロザーリエは誇らしげに胸を張った。
向かいに座る父は、目を細めて頷く。
「ほう、それは見に行かねばな。ロザーリエが手伝ってくれたのか?」
「ええ。お母様のご指導のもとですわ。わたくし、もう少しで完璧に剪定できますの」
「完璧、だなんて」
母はくすりと笑い、パンをちぎりながら言う。
「完璧でなくていいのよ。植物も、人も、少し足りないくらいがちょうどいいの」
「ですが——」
ロザーリエは少しだけ頬を膨らませ、それから真剣な顔になる。
「わたくしは、お父様とお母様のようになりたいのですわ」
両親が顔を上げる。
「お父様のように強くて、誰かを守れる人に。お母様のように優しくて、誰かを育てられる人に」
小さな手が、テーブルの上でぎゅっと握られる。
「絶対に……絶対に、お二人のような人になりますわ!」
一瞬の静寂。
それから父が低く笑った。
「それは困ったな。私より立派になられたら、父の立つ瀬がない」
「まあ、あなた」
母が柔らかく微笑む。
「でも嬉しいわ、ロザーリエ。そんなふうに思ってくれて」
父は席を立ち、ロザーリエの頭に大きな手を乗せた。
「強くなることも大切だ。だがな、ロザーリエ。強さとは、誰かを守りたいと思う心から生まれるものだ」
「……はい、お父様」
「そして、守られる側でいることも、決して恥ではない。お前は今はまだ、私たちに守られていればいい」
ロザーリエは少し考えるように目を伏せ、それから微笑んだ。
「では今は甘えますわ。でも、いつか必ず——」
その言葉の続きを、誰も疑わなかった。
暖炉の火は穏やかに燃え続け、家の外では夜の風が静かに庭を揺らしていた。
まだ、空は穏やかだった。
食事の後、屋敷はゆっくりと夜の気配に包まれていった。
暖炉の火は小さくなり、ぱちり、と薪のはぜる音だけが静かに響いている。
外では森の木々が風に揺れ、窓辺に影を落としていた。
ロザーリエは母の膝に頭を預け、柔らかな毛布に包まれている。
父は向かいの椅子に腰かけ、本を閉じて二人を見守っていた。
やがて、母がそっと歌い始める。
言葉は古い子守唄。
この屋敷よりも、森よりも、もっと昔から歌われてきた旋律。
高すぎず、低すぎず、まるで揺れる灯火のように、穏やかな声。
ロザーリエは目を閉じたまま、母の衣の裾を小さく握る。
「……お母様」
「なあに、ロザーリエ」
「ずっと、こうしていてくださいませ」
母の手が、ゆっくりとロザーリエの髪を撫でる。
「ええ。あなたが望む限り」
その答えに安心したように、ロザーリエの呼吸は少しずつ深くなっていく。
父が立ち上がり、暖炉の火を整えた。
赤い光が一瞬だけ強くなり、それからまた穏やかに揺れる。
母の歌は途切れることなく続く。
守られているという確信。
愛されているという絶対。
世界はこの部屋の中だけで完結しているかのようだった。
やがて、ロザーリエの指先から力が抜ける。
寝息が、静かに重なる。
母は歌を終え、そっと額に口づけた。
「良い夢を、ロザーリエ」
暖炉の火が、最後にひときわ大きく揺れる。
窓の外では、星が瞬いていた。
——それが、最後の夜だった。




