第35話 遼国の滅亡と異変
「チッ、忌忌しい奴らだ」
蔡京が書きかけの書に筆を運び、文字の形が気に入らず、その紙を丸めると床に投げ捨てた。蔡京に仕える侍女が、床に投げ捨てられた紙を拾った。蔡京はその侍女を側に呼んで座らせ、着物の隙間から手を入れて若い女体を堪能した。
1122年時の蔡京は、76歳である。しかし歯も丈夫で肉も食えるし、酒もいくらでも飲めれば、あっちの方も未だに現役で女も抱ける。徽宗が寵愛しているのは李師師だけであり、他の女性への興味が薄れている為、皇帝に献上されるはずの美女を蔡京が頂戴していたのだ。
「蔡太師、私めに1つ策が御座います」
高俅が蔡京にお目通りすると、対梁山泊への処置を提案した。
「おう、高大尉。どの様な策があると言うのだ?」
「はい、凱旋する梁山泊を付け上がらせてはなりません。なれど遼を撃退した功績を賞しなければ、宿元景などが騒ぎ出す事でしょう。その為に恩賞は与えるが、手続きに時間がかかると言って与えず、そのまま河北の田虎を討伐させましょう。勝てば良し、負けても…くくく」
「なるほど、それは面白い。流石は高大尉であるな」
蔡京はニコリと笑って、高俅に茶をすすめた。
「有り難く頂戴致します」
先程の侍女がお茶を運んで来ると、高俅の椅子の横に据えられているお茶受けに置いた。高俅は先ず茶の香りを嗅いで風流を装い、それから茶を啜った。
「これは龍井茶ですかな?」
龍井茶は、栗にも似たコクのある香りと濃厚な甘味が特徴的だ。古来より高級茶の品種として知られ、現代でも普通の品種で100g1万円くらいする。最高級の等級ともなれば、100万円を超えるものがザラにある。筆者は、お茶1杯が約200万円の等級も見た事がある。
高俅は蹴鞠の腕を見込まれて徽宗の側近となる前は、食客として転々としていた。食客時代はユスリやタカリ、果ては殺しまで請け負い、ヤクザ者の様な汚れ仕事も卒なくこなしていた。頭の回転が早く、相手の感情の機微を察するのが上手かった。
しかしその様な高俅に、茶の味など分かるはずもない。茶は古来より貴族の嗜みとされ、茶の淹れ方に作法があり、これによって茶に味も香りも深みが増すと言う。この作法をマスターするのは容易では無く、茶淹れの品評会もあるほどであった。高俅は、蔡京が淹れてくれた茶だから、龍井茶に違いないと当てずっぽうで言ったのだ。
「ははは、これは吓煞人と言う茶だよ」
洞庭山の碧螺峰には野生の茶樹があり、地元民が長年この茶を摘んで飲んでいた。ある時に娘が茶籠一杯に茶を摘んで、持ち切れなくなった茶葉を懐にしまった。すると茶葉が体温を得て突然芳香を放った為、娘が「吓煞人香(人をびっくりさせる香りだ)」と言った。それからこの茶を「吓煞人」と呼ぶ様になった。
清の時代となり康熙帝が南巡した折にこの茶を賞味し、地元民がこの茶を蘇州語で「嚇煞人(茶の香りが素晴らしくてびっくりする)」と呼んでいるのを聞いた。康熙帝はその卑俗な表現を嫌って、色が緑で形が螺旋で香りが馥郁としている事から「碧螺春」と康熙帝が自ら命名した。それ以降、宮廷で使用するお茶として納めさせたのは有名な話である。
この宋の時代ではまだ吓煞人と呼ばれており、中国十大銘茶に数えられる茶である。
「そうでしたか?いやはや茶に疎くて、お恥ずかしい限りですな」
「いや、そう謙遜するでない。高大尉も貴人である。この茶は、太湖近くの洞庭山の地元民が飲んでいる茶でな、知らぬのも無理は無い。香りも豊かで味わい深い。いずれの銘茶もこれには及ばぬ。この様に人知れず世に埋もれた宝は、数多くあるのだよ」
高俅は賛同して頷いた。確かに蔡京には、天下の富と宝が集まって来るだろう。勿論、賄賂としてだが。どうせこの茶も地元民が献上し、たまたま口にした蔡京が無名の茶に価値を見出したと言うのが真相だろう。
(たかが茶一杯で、偉そうにしおって)
そう思いながらも、確かに美味い茶だなと高俅は感嘆していた。
「勅令である!」
朝廷から使者が水寨に現れたのは、李逵が起こした騒動から10日ほども経ってからだった。宋首領と盧副首領、それから呉軍師に新たな官位が授けられると、他の頭領達は手続きの為にまだ数日かかるとの事だった。
そして、河北一帯を手中に納めた田虎を討伐しろと命じられたのだ。遼の圧力が無くなった為に、田虎が河北の官軍を蹴散らして晋を建国し、晋王を僭称したと言うのだ。これは梁山泊が、遼軍を撃退した後始末が悪かったせいだと朝廷から因縁をつけられた。
「チッ!朝廷の奴ら言いたい放題言いやがって、あの場に李逵の奴がいたら殴りかかってたぞ」
「まったくだ。李逵でなくとも、俺も殴りかかりそうになったわ。宋兄貴と呉軍師が必死に怒りを抑えているのを見たら、殴りかかる訳にはいかないじゃないか」
「はっはぁ。武松よ、朝廷の奴らは儂らの後始末のせいだと言ったのだ。言い掛かりにもほどがあるが、梁山泊の護憲に関わるのだ」
「そうだ。都合の良い時だけ梁山泊を官軍扱いしやがる。官軍である我らの後始末が悪かったせいだと不名誉を着せられたのだ。許せねぇ」
「皆同じ気持ちだ。その怒りを晋の奴らにぶつけて、あっという間に片付けて朝廷の奴らの度肝を抜いてやろうじゃないか?朝廷が手こずっている晋を、梁山泊が簡単に倒してしまうのだ。こんな滑稽な事があるか?今まで官軍は何をしていたんだ?と言う事になる。朝廷の鼻を明かしてやろうじゃないか!」
「そうだ、そうだ!良いぞ!」
魯智深が他の義兄弟たちに乗せられて気を良くし、皆と乾杯した。
「義兄弟たちよ!連戦となり辛い戦いとなるが、此度も必ず勝って皆で美酒を飲もう。干杯!(乾杯!)」
「干杯!(乾杯!)」
それから5日後、梁山泊軍は田虎討伐軍を編成して出陣した。しかしそこに、驚くべき報告が入ったのだ。
「遼が…滅んだ?そんな馬鹿な!!」
「あの遼国が滅んだだと!?誤報では?」
遼国とは死闘を繰り広げたばかりだ。それが一月もせずに滅ぶとは、とても信じられなかった。
「何で遼は滅んだの?」
俺は信じられなかった。今はまだ1122年だ。遼国は1125年に宋国と金国の連合軍によって滅ぶのだ。正確に言うと宋国は遼国に勝てず、業を煮やした金国がほぼ単独で遼国を滅ぼすのである。
「金に…滅ぼされた…?」
そんな馬鹿な。(まだ3年)早過ぎるし、宋と金は共同で遼に攻め込んでいない。一体、何が起きていると言うのだ。
「それで、天寿公主たちはどうなったの?」
「遼の公主は…城壁から飛び降りて亡くなりました」
金の太祖・完顔阿骨打が上京臨潢府と燕京を陥落させ、天寿公主の美しさに魅せられて婚姻を迫り、目の前で婚約者である兀顔延寿を惨殺した。
公主はそれでも拒み、来世で兀顔延寿と夫婦になると言い残すと、城壁から身を投げたと言うのだ。
「なんと痛ましい…」
梁山泊と死闘を繰り広げた在りし日の美しい公主の姿を思い出し、その突然の死を悼んだ。だが凶報は、それで止まらなかった。
「何だって?巴蜀(四川省)に蜀漢が建国され、晋の田虎、楚の王慶、呉の方臘がその傘下に加わっただって?」
俺は、そんな歴史は知らない。水滸伝にも無い話だ。一体何が起こっているのか理解出来なかった。




