第34話 騒動の顛末
丑三つ時(深夜2時)も過ぎた寅の刻(午前3時から4時)の頃、何やら騒がしい物音で目が覚めた。ふわぁ、と欠伸をしながら両腕を上に伸ばすと、全裸であった事に気が付いた。隣りには、寝息を立てて寝ている山田実がいた。
山田実は、北の大宗師である彼の元の名だ。転生してからは、李蓮杰と名乗っているらしい。彼は中国人をジャ◯キー・チェンとジェ◯ト・リーしか知らず、後者の方の名前を少し変えて名乗った様である。
床に散らばっている衣服を拾って身に着け、先ほどの騒がしい物音に聴き耳を立てた。どうやら怒鳴り声がするので、喧嘩が始まっているらしい。俺は山田を起こさない様に、そーっと忍び足で部屋を抜け出ると、そそくさと喧嘩の場に向かった。
「やい!よくも俺のかかぁと寝やがったな!?俺は…お前と大嫂を殺して死ぬ」
孫新が朴刀を構えて、泣きながら訴えていた。
「よせやい、孫新。お前さんの腕じゃあ、オイラは殺せねぇ。大嫂の姐御をちょっと可愛がってやっただけじゃねぇか?許してくんなぃ」
「ふざけんな!俺は、俺は…大嫂を…うぐっ…うっ…うう」
孫新は泣きながら怒りに震えていた。顧大嫂の姐御は、乱れた服のまま夫に縋り付いて赦しを乞うていた。
「俺と大嫂が夫婦になる前の事ぁ目を瞑ってる。こんな良い女が、俺の女房になってくれたんだ。浮いた話の1つや2つくらいあって当然さ。だがな、今度のコイツは話が違う。俺と一緒になってからの話だ」
孫新の目が、殺気に満ちていくのが分かった。ギリギリまで平静を保とうとしているのが見え、愛した妻を犯された憎しみと哀しみが痛いほど伝わって来た。顧大嫂の姐御は、床に這いつくばって号泣していた。
孫新が遂に堪え切れず、朴刀を両手で前に構えて李逵に突進した。バシンっと李逵は右手で孫新を払うと、バランスを崩した孫新が床に転がった。
「おぃおぃ、止めときなって。お前さんじゃ無理だ。それに大嫂の姐御は、オイラに無理に犯られたんでぇ。姐御を殺して自分も死ぬとか、よしとくんな。もっとも最後は自分から上に乗って、腰を振って来たけどな?あははは」
そう言って大笑いする李逵にブチ切れて、竹節虎眼鞭で殴りかかった者がいた。李逵は咄嗟に左腕で受けると、ゴキンっと嫌な音がした。
「痛てぇ!この野郎、本気で殴りやがったぁ!!」
左腕を押さえ痛みで苦痛に堪えながら、右手で腰に下げた二丁斧を手に取った。
「こっから先は、洒落じゃ済まねぇぞ?」
痛みで怒りの形相の李逵が、右手の斧を振り上げた。凄まじいまでの迫力だ。あの場にいたら、恐怖で漏らしてしまいそうになっただろう。だが孫新の兄である孫立は、臆する事なく李逵を睨んで構えた。そこへ事情を聞いた宋首領が、顔色を変えて飛び込んで来て怒鳴った。
「止めんか!馬鹿者!!」
李逵は宋江に怒鳴られると、先ほどまでの勢いはどうした?と言うほど拾って来た猫の様に大人しくなり怯えていた。
「孫新よ…李逵の奴が済まぬ。孫立よ、そいつを貸してくれぃ」
宋首領に手を差し伸べられると、孫立は手にした竹節虎眼鞭を渡した。それを孫新の手に握り締めながら言った。
「復讐したいのであろう?愛する妻を、あの様な粗野で恥知らずな男に犯されたのだ。許せんのだろう?」
宋江の穏やかで聞き心地の良い声が、耳元で広がる。項垂れて泣きじゃくる孫新を見ると、胸が締め付けられた。
「おい」
呉用が手下たちに顎で指図すると、長机が李逵の前に置かれた。手下が呉用に指示され、李逵をうつ伏せにすると縛り付けて猿ぐつわをした。
「杖刑50回だ。手加減するな」
宋江は孫新を立たせると、「自分の手で李逵を打て」と命じた。孫新は怒りのままに、竹節虎眼鞭を李逵の背に振り下ろした。
「この野郎、よくも俺の女房に手を出しやがったな!」
バシンっと肉を打つ音が響いた。
「うぐぐっ」
李逵は猿ぐつわをされ、声が出ない呻き声を上げた。孫新は構わずに力を込めて、何度もその背に振り下ろした。李逵の背中の肉は裂け、血が飛び散った。30回近くも打った頃、孫新は泣きながら竹節虎眼鞭を下ろした。
「もう…良い…うくっ、うう…」
宋江は孫新を抱き締めて、背中をさすった。孫新の気持ちが痛いほど伝わり、貰い泣きする者の啜り泣く声が聞こえた。
これ以上打てば、李逵の命に関わったであろう。宋江はあざとい。孫新に復讐の機会を与え、孫新自ら李逵を打つ事によって、激しい憎悪を吐き出させたのだ。吐き出された怒りを持続させるのは困難である。徐々に怒りもクールダウンし、李逵の背中の肉が裂け血が滴り落ちる惨状に冷静さを取り戻したのだ。
孫新は元来穏やかで心優しい男だ。怒りで我を失っていたが、李逵の背中の傷を見てそれ以上打つ事が出来なくなった。
宋江は計算高く、孫新の性格を理解しており、李逵を殺すほど打つ事は無いだろうと目算していた。仮にもこの梁山泊にいる者は、皆が義兄弟である。義兄弟として共に、この水寨で生活していたのだ。その相手を殺すには躊躇うだろう。万が一にも孫新が、李逵を殺してしまう様な事があれば、いずれ梁山泊から追放された事だろう。だがそうはならなかった。
宋江は李逵を歩兵軍の隊長から一歩兵の身分に格下げし、牢に入れて監禁した。それから宋江は顧大嫂に向き直って言った。
「顧大嫂よ。夫を裏切った罪は重い。凌遅刑に処す!言い残す事は無いか?」
凌遅刑とは、生きまま罪人の肉を少しずつ斬り取っていく処刑方法で、通常2、3日かけて身体を切り刻まれる刑を受ける。
この刑を受けた者で特に有名なのは、明時代の宦官・劉瑾だろう。謀叛の罪により、凌遅三日の刑を受けて処刑された。絶命するまで3,357回も体を切り刻まれたと言う。記録によると、一日目に3000刀ほど肉を削られたが、死ぬことはなく、夜は牢屋に戻された。夕食のお粥とメザシ1匹を食べた。二日目に400回ほど切り刻まれた時点で死亡したと記録にある。
凌遅刑はそれだけでは済まされず、さらに見物に来ていた民衆は、その肉を奪い合った。勿論、食べる為である。人肉には精力と活力を与え、重病者の病いをも治すと信じられていたからだ。
しかし人を殺して肉を食う訳にはいかないので、こんな時くらいしか入手出来るチャンスが無いのだ。肉が手に入らなかった者も、滴る血に布を浸して啜った。
「今夜は大嫂の肉を肴に酒を飲もう」
宋江は冷ややかに言い放った。呉用は手下に命じて、顧大嫂を刑場に連れ去ろうとした。
「ま、待って下さい!宋首領!!」
愛する妻を凌遅にすると宣告され、青ざめた孫新が宋江に縋り付いた。
「どうした孫新?大嫂も自分の手で、斬り刻まなければ気が済まないか?」
「そ、そうじゃありません。妻に、妻に罪は無いんです。全ては李逵が、あの野郎が悪いんです。妻は何も悪くはありません!」
「何だと?不貞を働いた妻を赦すと言うのか!?かつて楊雄は、不貞を働いた妻を赦さず、自らの手で五臓六腑を引き摺り出した。それなのにお前は、その妻を赦す事が出来ると言うのか?」
楊雄は、自分の手で殺した妻・潘巧雲の事を思い出していた。妻は僧侶の裴如海と不倫関係にあった。義弟の石秀の言葉を信じず、妻を信頼した。愚かだった。今でもこの両手に滴る妻の赤い血が目に浮かぶ。
美しい妻の喉に短刀を刺し、そのまま腹まで引き裂いた。そして裂いた身体に手を入れて、そのまま五臓六腑を引き摺り出して投げ捨てた。
胸を裂かれた妻は、心臓を引き摺り出すまでは生きていた。敢えて苦しませて殺す為に、心臓を引き摺り出したのは臓器の中で一番最後だった。内臓を引き摺り出すと言う行為は、裏切り者に対する報復的儀式の意味合いがある。また、恨みのある相手をなるべく苦しめて殺すと言うのが中国人の考え方である。
水滸伝を読んでいると、この様な事がさも当たり前のごとく描かれている。不思議に思って当時の時代背景を調べると、憎い仇の人肉を食べて恨みを晴らすとか、妻の生殺与奪の権は夫が握っており、不貞行為をされた場合は相手もろとも殺害しても罪にはならないなど日常的に行われていた事が分かる。その様な時代であるから誰も(この場合は中国の読者)不思議には思わず、当然の事であった為に作者も特別気にも止める事なく書き進めているのである。
他にも感性の違いにカルチャーショックを受ける。例えば武松が、兄の武大の妻である潘金蓮が西門慶と不倫関係の末に邪魔な夫である武大を毒殺し、真相を知った武松が兄の仇討ちを行う有名な話がある。この時、西門慶は見張の門番として小僧を立たせて「武松が来たら知らせろ」と命令していたのだが、武松は現れると「邪魔だ小僧!」と匕首を一閃して首を刎ね飛ばすのである。
いやいや待て待て、日本のヤクザですら「女子供は下がってな!」と言って見逃す。武松は水滸伝の物語に於いても人気は高く、ヒーロー的な人気だ。そんなヒーローが子供に手を掛けるの?と疑問でしか無いが、これも中国人の感性では「その場にいたんだから敵の一味だろ?殺されて当然だろ」と思うのである。そこには女だから、子供だからなどと言う酌量の余地など無いのである。
尚、五臓六腑とは、中国最古の医学書とされる「黄帝内経」に書かれており、人間の内臓を言い表す時に使われた言葉である。
「五臓」は、心臓、肺、肝臓、脾臓、腎臓を指し、「六腑」とは、胆、胃、小腸、大腸、膀胱、三焦を指す。この五臓の中に膵臓が含まれていないのは、当時の中国医学では発見されていなかったからである。
「大嫂よ、孫新の情けに感謝するのだな」
宋江と呉用は一件落着したと見て、孫新と顧大嫂に声を掛けた。
「失った信頼を取り戻す事は、並大抵な努力ではない。夫婦の絆を取り戻すのは、これからのお前の態度次第だな?」
宋首領と呉軍師は、「解散だ、解散。何時だと思ってる?早く寝ろ!」と言って立ち去った。
殺し合いにも発展しそうだった2人の争いを瞬時に解決し、更には孫新に顧大嫂を赦す様に促した。殺されそうになった所を救われた顧大嫂は、夫の深い愛を知り2度と不貞行為など働かないだろう。
「さすが呉用だ」
あっという間に争いを解決して見せた呉軍師に、改めてその智謀に舌を巻いた。しかし水滸伝の設定では、諸葛亮に匹敵する智謀の持ち主と言う事だが、流石にそれは言い過ぎだなと思った。




