第6話 二条天皇陛下は日和ったのでは。
私なりに考える平治の乱の発端、動機は、二条天皇陛下の疑心暗鬼(自分を退位させて、自分の父である後白河上皇は自分の弟、守覚親王を天皇に即位させることで、完全に「治天の君」になろうとしているのではないか、更に父の寵臣である信西も加担しているのではないか)ではないか、と考えます。
とはいえ、二条天皇陛下がそれこそ股肱として使える武士は極めて非力(実際に平治の乱に際して、どれだけの武士が三条殿襲撃に協力したかというと)という現実がありました。
そうした状況下にある中で、これまで後白河上皇方にいると考えていた藤原信頼や源義朝が信西に対する不満を零して、二条天皇親政方に寝返ろうとしているという動きが分かりました。
そこで、本当に二条天皇親政方に寝返ったのか、それこそ忠誠心を試すために三条殿襲撃を藤原信頼や源義朝に対して、二条天皇陛下は自らの徒党(二条天皇親政方)と一緒になって行うように命じたのではないでしょうか。
実際問題として、平清盛が京の都を離れている状況下で、源義朝が二条天皇親政方に味方すれば、三条殿襲撃を二条天皇親政方は成功させて、後白河上皇による院政継続を阻止することは容易な状況に、それぞれが味方するであろう武力を考えれば問題ない筈と言っても間違いなかったのです。
平清盛の平治の乱までの行動を、私が調べる限りですが、例えば、保元の乱に際して自らの去就についてはかなり悩んだ(平清盛は崇徳上皇とそれなり以上と言える私的な繋がりがありました。崇徳上皇の皇子で、近衛天皇の後継者にも擬せられた重仁親王の後見人の一人に、清盛の実父の平忠盛はなっており、その地位を清盛は引き継いでいたのです)ようですが、嫡母になる池禅尼の指示によって、正統政府といえる後白河天皇方に付くような行動を執っています。
そんな感じで、正統政府の指示に黙って従う人物、と清盛は見られていたようです。
そういった平清盛のこれまでの行動を考えれば、三条殿襲撃によって二条天皇親政方の正統政府が樹立されれば、清盛はそれに黙って従うと二条天皇を始めとする二条天皇親政方の主な面々から考えられていたのでは、と私は考えます。
ですが、事はそう上手くは流れませんでした。
三条殿襲撃という暴挙は、内大臣藤原(三条)公教らの反感を引き起こします。
更に藤原公教らは平清盛を説得して、自らの味方にします。
それで確保した武力を背景に、藤原公教らは本来の二条天皇親政派に対して、三条殿襲撃という暴挙を実際に行った藤原信頼や源義朝を切り捨てることを求めます。
既述ですが、信西の政策自体は真っ当で多くの貴族が支持するものでした。
だから、信西を討伐して、後白河上皇らを幽閉すると言った行動は、幾ら信西が反感を買っていたとはいえ、余りに酷い仕打ちではないか、という輿論を生むことになります。
こういった輿論(及び武力)を前にして、二条天皇親政派、特に二条天皇は、元をただせば藤原信頼や源義朝は後白河上皇院政支持派だったことから、全ては藤原信頼や源義朝がやったことだ、とトカゲの尻尾切りに奔ることにしたのでは、と私は考えます。
幾ら何でも二条天皇親政派の面々が、味方の筈の藤原信頼や源義朝を切り捨てる筈がない、と言われそうですが。
この後の源平合戦や承久の乱に至るまで、朝廷が如何に強いモノにおもねって、都合の良い態度を執り続けたか。
この頃の歴史を私が調べる程に、二条天皇を始めとする二条天皇親政派が藤原公教らの行動によって日和ってしまい、藤原信頼や源義朝を切り捨てることにしたのでは、それがこの後の平治の乱の流れを決定づけたのでは、と私の目からは考えられてなりません。
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