第2話 信西に対する反感
私なりに調べる限りですが、信西が藤原信頼や源義朝だけではなく、それ以外の周囲から反感を買う人物だったのは間違いありません。
信西は元をただせば、藤原南家の出身で学者の家で生まれ育ちましたが、縁戚関係から高階家の養子になりました。
ところが院政期になると、家によって職が決まる時代になっていたといっても過言では無く、実家の後を継いで学者として出世して大学頭になりたかった信西は高階家の養子になったことから、その路を断念せざるを得なくなっていました。
更に実務官僚として出世しようにも、当時の高階家は勧修寺流藤原家(後に吉田家や甘露寺家になる)に圧迫される有様で、そういった路も信西には閉ざされていました。
こうしたことから、信西は出家して身分制の枠外に出ることになります。
とはいえ出家したとはいえ、信西は政治の世界から全く離れることはなく、鳥羽法皇の私的な政治顧問になる等の活動を続けることになります。
又、信西の妻の一人が雅仁親王の乳母になり、更に近衛天皇が急に崩御したことから、雅仁親王が御白河天皇に即位するという幸運にも恵まれます。
(尚、この後白河天皇の即位にも信西が暗躍したとの説が強いですが、私としては疑問を覚えます。
後白河天皇の即位は、美福門院と藤原忠通が主導したと私は考えます。
何故かというと、この当時の信西には特に官位等を帯びておらず、それだけの力があったのか、どうにも私には疑問でならないからです。
後白河天皇が即位して、その乳母の夫ということで信西は権力を強めたのではないでしょうか)
更に続けて鳥羽法皇が崩御したことは、摂関家の内紛、藤原忠通とその弟の藤原頼長の対立と結果的に関連することで、保元の乱を引き起こします。
本題から大きく逸れかねないので、途中経過を端折りますが。
保元の乱の結果、後白河天皇方は勝利を収め、摂関家は膨大な荘園を維持・管理する武力を失うことになり、これまでに集積していた荘園の多くに朝廷が介入するのを認めざるを得なくなりました。
そして、摂関家の力が大きく落ちた一方で、信西は大きく躍進することになります。
信西は保元の乱に際して積極的な武力鎮圧を唱えており、それによって後白河天皇に勝利をもたらしたといっても、あながち過言ではありませんでした。
更に乱後の事件処理でも信西は辣腕を振るい、崇徳上皇を筆頭に多くの貴族を流罪に処する一方、死刑を公式に復活させて多くの武士、源為義や平忠正らを死刑にします。
(尚、これまでの平安時代に死刑が全く無かった訳ではありませんが、それは私刑として行われたもので、公式な死刑では無かったのです。
ですが、こういった刑罰は余りに重い措置ではないか、と貴族社会に反感を澱ませます)
更に後白河天皇と協調して信西は保元新制を行い、荘園整理を進めて大内裏の再建を行う等の政治改革にも乗り出します。
この政治改革自体は妥当なモノで、多くの貴族が支持することになりましたが。
その一方で、信西は自分が出世できなかった憂さを晴らすかのように、多数の息子を受領にしたり、弁官等の実務官人にしたりする等、自らの一族の権勢を強めます。
この信西の一族の権勢を強める行動は、当時の院近臣になって出世をしていく多くの貴族からの反感を買う代物でした。
院近臣は受領として出世する家、実務官人として出世する家の二つに大きく分かれており、混じることはありませんでした。
(そういったこともあって信西は俗世での出世を断念したのです)
それなのに信西は自らの息子を受領にしたり、実務官人にしたりとその分を超えた人事を行ったのです。
これまでの既得権を侵された多くの貴族が憤懣を覚えました。
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