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マヌルパン

 自己啓発セミナーの帰り、強烈な虚しさに襲われていた。


 講師はその界隈で有名な先生だった。何冊も本を出し、オンライン講座やイベントも手広くやっている。「好きな事をすれば成功する」が口癖でだった。そんな先生の講座を受ければ、自分もそうなれるんじゃないかと気分は高揚した。


 しかし、それも最初だけ。そもそも自分の好きな事ってなんだ? 


 YouTubeで動画を見ることとゴロゴロ寝っ転がるのが好きな事だ。それを長年続けて成功できるはずもない。


 先生のセミナーに出たのは、現実逃避だったのかもしれない。正社員とはいえ、手取り16万の事務職という事から逃げたかっただけなのかもしれない。


 そんな虚しさを抱えたまま歩いていると、家の近所にあるパン屋に目が止まった。確か同級生がやっているパン屋だ。同じアラサー女性なのに、向こうは好きな事して輝いている。コンプレックスも刺激されそうになり、パン屋をスルーしようとしたが、良い香りが鼻をくすぐる。甘いメープルシロップのような香りだった。


 小さく、さほどオシャレな店でもない。昔ながらの住宅街にあるパン屋といった雰囲気だが、この匂いには抗えず店に入った。


 棚にはさまざまなパンが並んでいた。コロッケパン、焼きそばパン、カレーパンなども惣菜パン、ジャムパン、あんぱん、チョココロネなど甘いやつ、フランスパンなどのハード系も並ぶ。


 他には……。


 ふと、目をやると、マヌルパンがあった。韓国の甘じょっぱいパンだ。ガーリックとハチミツとクリームチーズの罪深い一品。特にクリームチーズがこんもりと入っていて、カロリーは考えたくないものだ。どちらかと言えば大人しい日本では生まれにくそうな欲望全開のパンだ。「お前らが食べたいパンは、こういうハイカロリーなものだろ?」と本音全開で問いかけてきそう。そんなパンだった。


「あずさ、こんにちは。うちの店来てくれたの?


 気づくと、目の前にこのパン屋の店主・橋爪美奈がいた。白シャツにジーンズ、その上に紺色のエプロンを着ていた。髪はきっちりと纏め、キャップにしまってある。


 その目はキラキラしていた。やはり、好きな事してると、輝ける?


「実はこのマヌルパンってうちの店で一番人気なの」

「へえ。意外だね。こんなハイカロリーなのに」


 日本人も案外欲深いようだ。


 そういえば、某ファストフードが顧客のアンケートを取り入れ、ヘルシーなバーガーを作ったが、人気は出なかったらしい。逆に肉肉肉!というハイカロリーなバーガーのが人気だったという。


 人間は嘘をつく。本音と建前を使う。好きな事だけして成功しようというのも綺麗な建前だったのかもしれない。そんな気がしてきた。


「本当はライ麦たっぷりの硬いパン作りたいんだけどね。この辺りは若い人も多いし、ハイカロリーなパンの方が人気なんだわ」


 意外な事に美奈は納得いっていないようだった。


 好きな事。


 本当にそんな事をするのが、成功なのかわからなくなってきた。毎日、YouTubeを見てゴロゴロ寝てたら幸せになれるのだろうか。たぶん、三年ぐらいで飽きそうだ。甘いものだけ食べてたら病気になるように好きな事ばかりしてたら、馬鹿になるのかもしれない。


 一つ言える事は、目の前にあるマヌルパンが美味しそうだという事だ。ぽってりとした丸いフィルムからチーズが見え隠れしている。そこからフワリとガーリックの良い香り。甘じょっぱい味を想像するだけで、口の中がヨダレが出てくる。単に甘いだけじゃない、本音全開で何かを問いかけてきそうなパンを食べたい。


 我慢できなくなり、トレイにマヌルパンを一つ置く。


「マヌルパン、美味しそう」

「ふふ、自信作だからね。あずさが買ってくれて嬉しいよ」


 美奈はほんの少し目を伏せて笑っていた。


 とびっきり美味しそうなマヌルパンをこれから食べる。そう思うと、虚しさは消えていた。

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