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 鼻血がとまったので教会を散策することにしました。


 まだ頭はぼんやりしていますが、自分がぼんやりしていることを自覚しているので問題ありません。


 どうやらこの教会はわたしの見立て通り、聖堂に二つの家屋を増設した作りになっているようです。


 南側にあるのがだれもがイメージする長椅子が並べられた聖堂。パイプオルガンもありました。


 東側の家屋はダイニングやキッチン。それとわたしがいた医務室や倉庫など生活に必要な部屋が集まっています。


 西の家屋は子供たちの寝室とローウェルの書斎。客室もありました。


 わたしはいま西の家屋から聖堂に向かう廊下にいます。


 ふと窓を見るとなにやら黒い物体が地面を転げ回っていました。


 世にも珍しい毛玉の魔物でしょうか。


 そう思って注意深く見てみるとそれはルドでした。


 ルドは大型犬三匹と中型犬二匹。小型犬五匹と戯れています。


 ズボンが汚れるのも構わず地面に座り込んで顔をべろべろ舐められています。


 その表情は太陽のような満面の笑顔。


 褐色の肌と対象的な白い八重歯がどうにもわたしの胸をざわつかせました。


「ふっ……くっ……」


 必死に耐えます。なにに耐えているのか自分でもよくわかりませんがとにかく叫びたい衝動だけは抑え込んでいます。


 力みすぎて鼻の奥の血管が切れそうです。


「あはは! やめろってお前らー! よしよし!」


 ルドが腕を広げると犬たちはいっせいに彼の腕の中に寄り添いました。


 ぎゅうぎゅうとルドに体を押し付けています。


 ぽたた、とわたしの鼻から垂れた血が床を汚しました。


「あれ? おーい! そこでなにやってんだよー!」


 窓越しに見つめていると、ルドが手を振ってきました。


 わたしはすぐさまハンカチで血を拭い窓を開きます。


「こんにちは」

「こんちわ! えーと、聖女様?」


 ルドが地面に座ったまま首を傾げると犬たちもいっせいに首をかしげました。


 そのあまりのシンクロ率に、ずっっっきゅうううううううううん!!!! でしたのでわたしは両手で鼻を押さえつけました。


 圧迫止血法です。


「ずきゅっ……」

「は? 聖女様、いまなにかいったか?」

「いいえ、なんでもありません。わたしの名前はシルベット・プリマ・ヴェーラですよ」

「そっか! 俺はルド! ルド・バンディット! よろしくな、シルベット!」


 ルドは勢いよく立ち上がると、自身の胸を親指でつつきながらそういいました。


 いきなり呼び捨てとはずいぶん豪気な少年です。


「へへへ、なあシルベット。ちょっとこっち来いよ」

「? なんですか?」


 ルドに手招きされて窓辺に近づきました。


 すると、もっふん、と顔にフワフワでモコモコのなにかが押しつけられました。


「あっはっは! ひっかかったな!」

「これは……?」


 顔に押しつけられたなにかを引きはがすと、それはつぶらな瞳でわたしを見上げていました。


 落雷に打たれたような衝撃が全身を駆け巡りました。


「子犬だよ。かわいいだろ?」

「か、わ、い、い?」


 子犬をよく見てみます。


 背中側は金色に近い茶色の毛皮に覆われ、お腹側は白です。


 わたしに脇を支えられながら尻尾をぱたぱた振っています。


 見つめ合っていると、くぅん、と鼻の奥で鳴きました。


 わたしは、ごくり、と生唾を飲み込みました。


「お、おいおい、食べるなよ?」


 ルドは顔をひきつらせていました。


 どうやらあらぬ誤解を受けてしまったようですが、わたしは食用と愛玩用の区別くらいはつきます。


 やや食用寄りですが、この子犬は食べものではありません。


「こほん、食べません。ところで、ルド。ひとつお聞きしたいのですが」

「なんだ?」

「かわいい、とはどのような感情なのでしょうか」

「えー? んー、うまくいえないけど、見てると癒されるっていうか、あとは抱きしめたいとか守りたいって思うことなんじゃないかな」


 ルドは「よくわかんねーけど」と付け足しました。


 なるほど。


 たしかにこの子犬を見ていると緊張感とは無縁の存在に見えます。


 この触り心地や温もりも常時体温を放出しているわたしたち人間という生物からすれば傍らに置いておきたいという発想に繋がることも頷けます。


 なによりこの子犬の戦闘能力は、番犬というよりもむしろわたしの庇護対象となるでしょう。


 これがわたしのずっきゅんの理由。わたしはかわいいという感情をうまく言語化できなかったためにずっきゅんしていたというわけだったのです。


 わかりました。わたしはわかってしまいました。


 この場所での修行の本質が。


 それはつまり、かわいいを克服するということだったのです。


「ふ、ふふふ……そうですか……そういうことだったんですか……」

「どうしたシルベット? お腹痛いのか?」


 ルドに声をかけられわたしは顔をあげました。


 すると彼は目を見開いて一歩後ずさりしました。


 いまのわたしはそんなに邪悪な顔をしているのでしょうか。


 しているかもしれません。勝利を確信したいま、わたしはきっと自信に満ち溢れた顔をしていることでしょう。


「ルド」

「お、おう」

「この子犬、とってもかわいいですね」

「そ、そーかよ」


 なぜか黒曜石のような漆黒の瞳を泳がせるルド。


 わたしはいま、それほど威圧感のある表情をしているのでしょうか。


「でも、わたしにはもう十分です。はいどうぞ。お返しします」


 わたしはルドに子犬を返しました。


 名残惜しさなどというものは微塵もありません。


 わたしはかわいいを理解し、そして克服するための第一歩を踏み出したのです。


「ん……あ、あのさ!」

「なんですか?」

「なんていうかさ……シルベットはさ……」

「はい、わたしは?」


 子犬を抱いて顔を赤らめながら頬を掻くルド。


 なにやらとても言いづらそうです。


「笑うと、すっごく……すっごく……か、かわっ……! って、あーもー! 俺は何言ってんだ恥ずかしい!」


 ルドは「うおおおおおお!」と叫んでどこかへ走り去ってしまいました。


 追いかけっこが始まったと思ったのか、彼の後ろを犬たちがきゃんきゃんわんわん嬉しそうに追いかけます。


「なんだったのでしょう?」


 わたしにはよくわかりませんでしたが、彼にもなにか悩みがあるのかもしれません。


 いつか相談にのってあげようと思います。


 これは感謝ではなく、貸し借りをなくしておきたいだけ。ただそれだけです。


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