(2)
昼前にヒュポモネー山地に着いたシータは、目にするのが合同研修以来の山々に感嘆の息を漏らした。今は『炎の神が奮い立つ月』なので風は熱気をはらんでいたが、見晴らしのいい景色はやはり気持ちがいい。
三羽の鳥が渡っていく薄青い空をあおいでシータが大きく息を吸い込んでいると、遅れるよと言ってファイが他の生徒たちの列に続く。シータは慌てて後を追うと、ファイの隣に並んだ。
今回護衛として来た一回生はシータだけだった。一部の槍専攻生や神法学科生は、ファイは護衛なんか必要ないから一回生を選んだんだとか、同期生に友達がいないんだと陰口をたたいていたが、ファイは彼らをまったく相手にしなかった。シータも剣専攻生たちから名誉なことだぞとほめられたし、ファイに恥をかかせてはいけないと気をひきしめた。
全員が集合したところで、コーラル・ロードン教官が注意事項をいくつか伝えた。その中にアングウィスという聞き慣れない言葉があり、シータはファイに尋ねた。
アングウィスはすべての法術をはね返す体質の毒蛇だという。生息場所はヒュポモネー山地やサルムの森で、気温が高い時間帯のみ活動するが、今の時期は夜も蒸し暑いので、夜間に採取に出る場合は気をつける必要があった。あやまって巣に踏み込まないかぎり襲ってはこないが、『治癒の法』が効かないので、もしかまれたときは解毒剤を飲まなければならないらしい。
説明が終了し、いよいよ研修が始まった。神法学科生はまず各担当教官の持つ箱から紙を一枚引き、書かれている材料を二日間かけて採取する。やりかたはシータの経験した合同研修と同じだが、違うのは研修中に薬を完成させなければならないということだ。薬学の授業を選択していない生徒や、材料を見ても作る薬がわからない生徒は、教官に尋ねてもよいことになっている。何人かがキュアノス・ケローネー教官のもとへ駆けていくのを見やり、シータは紙を凝視したままのファイをふり返った。
「ファイの作る薬って何?」
「胸を大きくする薬」
紙を折りたたんでふところにしまいながら、ファイがさらりと答える。
「それって、緑の魔王の事件があったときに武闘学科生が飲んだ薬?」
聞いてから、そういえば喋るなとピュールにおどされていたんだったと思い出し、シータは口を押さえたが、ファイはすでに知っていたようでかぶりを振った。
「あれは体中の筋肉や脂肪を一時的に胸に集めるだけだ。これは効果がほぼ永続的で、女性がよく買い求める薬だよ」
そうなんだとうなずきかけ、シータはかたまった。
「僕は薬司になるのが夢だから、一度も作ったことがないものでも材料と作り方は頭に入ってる。君が想像しているような趣味はないよ」
惚れ薬といい、なぜそんな薬の知識まであるのかという疑問が顔に出ていたらしい。ため息混じりに説明され、シータはついファイの嗜好を疑ってしまったことを反省した。
それから二人は出発した。途中で会った神法学科生の数人はファイとシータの組み合わせを興味深そうに眺め、数人は採取場所がわからないとファイに尋ねにきた。間でシータはバトスとレクシスに会ったが、お互いゆっくり立ち話をする余裕はないので、野営所で会おうと手を振って別れた。その後も水の法専攻生のカルフィー・リベルと剣専攻生のアルス・ゼーテインが魔物と戦っている場面に遭遇したり、タウとイオタを遠目に見かけたり、ラムダとミューが後ろからやって来るのを目にしたが、やはり話はしなかった。
ファイの探すものはシータの知らないものばかりだったが、ファイは確実に一つずつ手に入れていき、生息場所がわからずに迷うことは一度もなかった。襲ってきた獣や魔物も、ファイから適切な指示を受けたシータがさくさく蹴散らしていき、腕があがったのではないかとほめられてシータはふんぞり返った。ウォルナット教官らしき姿が時折ちらちら視界の端をよぎる他は、これといって気になることも困ったこともなく、その日の採取は無事に終わった。
野営所にはすでにいくつかの組が到着していて、天幕の準備をしていた。二人も受付担当になっているシャモアのもとに行って名簿に印をつけてもらい、適当な場所に天幕を張り終えたところで、タウたちが現れた。一緒に夕食をとらないかと誘われ、シータとファイは食材を持って移動した。
タウたちの天幕の横にはラムダたちの天幕が張られていた。すでにどちらの天幕も他の組の天幕にはさまれ、シータたちが入るすきまはない。
「隣同士なんだ?」
うらやましがるシータに、タウが笑った。
「去年もそうしたんだ。寝るときだけは俺とラムダ、イオタとミューが同じ天幕に入るから、並んでいたほうが都合がいいと思って」
「まあ、一種の寝不足予防対策だな」
ラムダの言葉にミューはほんのりと頬を朱に染め、イオタも視線をうろつかせる。
「冒険のときは、いつもみんなで並んでごろ寝するのに?」
なぜ今さらそんなことを気にするのかと首をかしげるシータに、「いくら慣れている相手でも、せまい天幕で男女でくっつきあって眠るのは、やっぱりどうかと思うわよ」とイオタが半分あきれた様子で答えてから、ファイとシータをじっと見た。
「……そういえば、あんたたちも一応男女の組み合わせよね」
「いやいや、そこは大丈夫だろう。ファイとシータだぞ」
ラムダが片手をパタパタ振って否定する。何だかずいぶんな言われようだ。たしかに女らしさはかけらもないと自覚しているし、前にピュールからも嘲笑されたけれど。
実際のところ、ファイはどう考えているのだろうと見やると、目があった。
「僕の薬の材料は夜と明け方に取りに行くものがまだ残っているから、天幕で寝る時間はあまりないんだけど、気になるなら僕は外で寝るよ」
「えっ、それはだめだよ。護衛でついてきているのに、ファイを追い出して私が天幕で寝たりしたら、ウォルナット先生に怒られちゃう。もし外で寝るなら、私が行く」
「この大きさの天幕だと、三人入るのは少しきついしな」
タウが思案顔で腕を組む。
「まあ、念のため、しきりにする布は持ってきてるんだけど」
「さすがファイ。用意がいいな」と感心するラムダに、「というか」とファイが続けた。
「男女がどうとかいう前に、シータってけっこう寝相が悪いから、そういう意味でしきりはあったほうがいいかと思って」
初めて知った。驚惑するシータに、思い当たるふしがあるのか全員が「あー」と声をあげた。
「俺も一度顔面をなぐられたことがあったな」
「俺は背中を二度蹴りされた」
「私は抱き枕にされたわね」
「私は、できるだけ隣で寝ないようにしてたから」
「ミュー、あんた……さりげなく逃げてたのね」
イオタにじろりとにらまれ、ミューがふふっと笑う。
「そう考えると、布一枚でたりるのか逆に心配だな」
ラムダのつぶやきに、イオタも「だったらその布に『盾の法』でもかけておけばいいんじゃない?」と提案した。
好き勝手に言われ、シータはへこんだ。自分はそんなにみんなに迷惑をかけていたのか。
とにかく、今夜はファイの顔を殴り飛ばすことだけはしないように気をつけなければ。そう決意しながら、夕食作りにとりかかった。
タウとラムダはイオタやミューの見えないところでウサギや鳥をさばき、シータは火の番をすることになった。ファイはイオタたちと同じ速さで材料を切り、その手際のよさにシータは目をみはった。それからファイは一度場を離れると調味料を借りて戻ってきたが、このときが一番嬉しそうな顔をしていたのは気のせいではないだろう。やはり実験の感覚で楽しんでいるのだ。だが普段あまり使われることのなさそうな調味料はイオタに取り上げられてしまい、おかげでファイの機嫌が悪くなるのと引き換えに、普通においしいものができあがった。
火を囲んで夕食をとりながら、六人はそれぞれの作る薬や出会った魔物について話をした。イオタは視力の落ちた目を治す薬で、ミューは咳どめの薬だった。ファイの作るものが胸を大きくする薬だと聞き、ラムダが飲んでいた水を吹き出した。
「ローも一緒に来ることができればよかったのに」
ここに七人がそろえば、いつもの冒険と変わらない。シータまでが野外研修に行くと知って寂しそうな顔をしていたローを思い出し、シータがぽつりと言うと、一瞬静まった。
「こればかりはどうしようもないからな」
ラムダが褐色の髪をかく。隣のミューがたき火に向けていた目を上げた。
「少し気になっていたのだけれど、武闘館の学祭あたりからローが元気ないように見えるの」
どこか無理して笑っているような感じがしないかと尋ねられ、シータははっとした。もしかして、あのとき聞こえた悪口が今もずっと心に引っかかっているのだろうか。黙り込んでいたシータは、五人が自分に注目していることに気づいた。
「何か知っているのか、シータ?」
タウに問われ、シータは迷ったすえに飲み物を買いに行ったときのことを話した。タウを馬鹿にしていたことまでは言わなかったが、五人が怒るには十分な話だった。
顔の特徴などを聞かれても漠然としか答えられないシータに、ラムダはいらいらした様子で数人の名前をあげていったが、タウが途中でとめた。憶測で犯人扱いしても今は意味がないと。舌打ちしたラムダは水を一気に飲み干すと大きく息を吐いた。空になったラムダの杯にタウはあらたに水をそそいだ。
「言いたい人間には言わせておけばいい」
「単なるねたみでしょ? こっちは別にやましいことはしていないんだし、気にするだけ損よ」
取り分けた料理をつつきながらイオタも言い捨てる。そこへバトスたちが鍋を持ってやってきたので、話はそこまでとなった。暗くなりかけていた雰囲気を追い払ってくれたバトスたちに感謝したのは、自分だけではないだろう。輪を広げるために席をずれながら、シータは五人の顔を見てそう思った。
それからも時折何人か顔を出しては料理をつまんだり、しばらく話に加わったりした。槍専攻生との合同研修では他の班と一緒に食べるということはなかったので、自由に行動できるこの研修をシータはすっかり気に入った。来年もまた来たいなと漏らすと、ファイは視線を投げてきただけだったが、嫌そうな顔ではなかった。
食後に片付けをしたシータとファイはタウたちと別れ、自分の天幕に戻った。徐々に野営地をともす明かりが消えていく中、一応寝床にしきりとなる布を張ってから、二人は再び荷物を準備した。
「飲む?」
ファイが袋から小さな水筒を取り出す。中身は体力回復剤らしい。杯にそそいでもらって匂いをかいでみると、以前飲んだものと同じ薬のようだ。だが、どろどろに腐った沼のようだった見た目はすっかり改善され、半透明に近い緑色になっていた。味も変わらずおいしいし効果も高い。一日の疲れがきれいになくなった二人は荷を背負うと、たいまつを手に野営地を離れた。
採りにいくのは『女神の月』と呼ばれる花の蜜だった。黄色い花びらは大地の女神を象徴する四角で、月の出ている夜に咲くらしい。大地の女神と月は女性の体質と関係が深いという説明をファイから聞きながら、シータは頭上をあおいだ。
町より明かりが少ないからか、空を彩る星の数はいつもより多い。生い茂る木々の間にのぞく乳白色の半月も不思議と美しさが増しているように見えた。
「くもっていたら材料がそろわなかったんだね」
きっと日頃のおこないがいいからだと言うシータに、ファイは「くもっていても集めるよ」と返した。
「どうやって?」
「風で月のまわりの雲を吹き飛ばす。やってみたことはないけど、ほんの少しの間なら何とかなるんじゃないかと思う」
シータは半分感心して半分あきれた。感覚が鋭いわりに神経がずぶといのは前々からわかっていたが、かなり大胆で楽天的な面もあるらしい。しかもファイなら本当にできそうだから怖い。
二人のたいまつをあわせても先のほうは真っ暗だったが、ファイはやはり迷うことなく森の奥へと踏み込んでいく。立ちどまるのは周囲の木を確認するときだけだ。きっと『女神の月』と同じあたりに生えている植物も知っているのだろう。どうやったらそんなにたくさんのことを覚えられるのかと聞いたら、どうして覚えるのは早いのにすぐ忘れるのかと逆に聞かれ、シータは返事に困った。
「ファイって、誰かに頼ろうと思ったことはないの?」
一本の木の幹を触っていたファイは、シータの質問にいぶかしげな顔をした。
「いろんなことを知っているから頼られるほうが多いだろうけど、何もかも自分だけでやるのってしんどくない?」
「別に。一人でいるのは慣れてるし、困ったことはないけど」
むしろ大勢で動くほうが苦手だとファイは答えた。ローと出会うまでは誰かと行動することはなかったし、友達らしい友達もいなかったのだ。
「じゃあ、今は?」
一緒に冒険しているとはいっても、ファイを助けることより助けられることのほうが多い。正直なところ、自分たちのことをどう思っているのか。
「……わからない」
しばしの沈黙後、ファイはぼそりと答えた。
「みんなといるのは嫌いじゃない。でも一人でいても苦にはならないから」
つまり他の人間に対してあまり執着がないということか。
仲間が困っていれば手を差しのべるが、ファイ自身が窮地に陥ったとき、助けを求めてはこないかもしれない。そう感じて、シータは寂しくなった。
ファイは首をかしげている。期待されていないことを悲しいと自分が思っているなど、想像もしていない様子だ。
「あのね、もしファイが一人では難しいことにぶち当たったら、私たちを頼ってほしいの。まあ、めったにないことだとは思うけど」
「頼る……?」
「うん。私たちがファイにしてもらっているように、私もファイの力になりたいの。だからもしそういう場面にでくわしたら、遠慮しないでほしいなってこと」
遠慮、とも違うかもしれないが、シータはとりあえずそう伝えた。ファイはうんとは言ったものの、あまりぴんときていないようだった。人に頼るという考えをもっていないのだから仕方ない。シータは小さくため息をつくと話題を変えた。
そうしているうちに、とある木の根元で光り輝いている花々が目についた。群生しているのは間違いなく『女神の月』だ。
「きれいだね」
月影を浴びた花びらはやや肉厚で色気があった。シャモアがもう少しぽってりした体型ならこんな印象だろう。
ファイは花に近づくと背負っていた袋を下ろし、ふた付きの小皿と蜜をすくう棒を取り出した。ふたを開けた皿に蜜をしっかりとこすりつける。
生ぬるい風になびくファイの青銀色の髪をぼんやり眺めていたシータは、ふと悲鳴のようなものを聞いた気がした。皿と棒を袋にしまって背負いなおしたファイも、左のほうをじっと見つめている。
今度ははっきりと叫び声がした。二人が顔を見合わせたとき、一人の神法学科生が転がるように走ってきた。
「アングウィスだ!」
炎の法専攻生の言葉に、大地を這う不気味な音が重なる。嫌な予感にシータは寒気を覚えた。
「護衛は?」
シータの質問にも答えず男子生徒は逃げていった。何かを引きずるような音はますます近づいてくる。しかもかなり速い。隣で目を凝らしていたファイが『翼の法』を唱えはじめた。
やがて薄闇にうごめく波が押し寄せてきた。たいまつの明かりに照らされた波の正体に、シータは驚きのあまり呼吸を忘れた。
足が地面から離れる。シータは自分を空中に引っ張り上げたファイを見て、もう一度足元を見た。今まで二人が踏みしめていた大地は、おびただしい数の蛇に埋めつくされている。そのうちの数匹がシータたちに飛びかかってきたが届かない。ぎらつく両眼は透明で、どこを見ているのかわからなかった。
「何なの、これ? 何でこんなにいるの?」
「アングウィスだ。誰かが卵を割ったんだ」
巣に踏み込んだだけならその巣のアングウィスだけが襲ってくるが、卵を割ってしまった場合、アングウィスが怒りのあまり尾を鳴らして仲間を呼び、卵を割った相手をどこまでも追いかけて復讐するのだ。そうなるとアングウィスの暴走はとまらない。その相手が逃げた先にいる生き物はすべて攻撃対象になってしまう。
「それじゃあ、あのまま野営地まで逃げたら……」
「みんなやられる」
シータは蒼白した。
「すぐに知らせないとっ」
アングウィスに法術はいっさい効かない。武闘学科生はともかく、神法学科生は逃げるより他ない。
「ちょっと待って。あれ!」
ファイがシータを連れて野営地に向かおうとした刹那、シータはアングウィスの来たほうを指さした。密集した木々の間にある小さな広場に槍専攻生が倒れている。先ほどの神法学科生の護衛に違いない。
「解毒剤を飲ませないと。一緒に運べる?」
ファイはわずかに眉をひそめると、まず風の神の使いを召喚した。半透明に輝く鳥は野営地のほうへ飛んでいき、二人はアングウィスがいないことを確認してから生徒のそばに降り立った。
男子生徒は体中にかまれた跡があり、唇は真っ青になっていた。ラムダ並に体格がいいのでおそらく三回生だろうが、はたしてファイが連れていけるかどうか。だがシータの心配をよそに、ファイは杖を腰に差すとシータと槍専攻生の手を取って宙に浮いた。
二人も引っ張っているとさすがに遅い。ファイはひたすら前だけを見て飛んだ。シータもファイに負担をかけないよう、できるだけじっとしていた。やがて人の騒ぎ声が風に乗って伝わってきた。遠目に見えた野営地は逃げ回る生徒であふれている。武闘学科生が野営地と森の境でアングウィスを防ごうとしているが、三分の一はすでに敷地内に侵入し、抵抗できない神法学科生に飛びかかっている。数人の生徒を両手につないで飛ぼうとしている風の法専攻生は複数いたが、助けを求めて皆が群がるせいでかえって身動きがとれないようだ。せっかく浮いても他の生徒たちに飛びつかれ、地面に引きずり落とされている。そんな中、ロードン教官が法術で生徒を二人ずつ宙に浮かせていた。
「おお、ファイか。やっと戻ってきたな」
三人を見て、ロードンがしわだらけの顔をほころばせた。
「お前さんが先に使いを寄越してくれなんだら、寝ている間にがぶり、じゃったわい」
ファイが放った風の神の使いは野営地の上空で飛鳴し、教官や生徒たちはその声に驚いて天幕を出てきたらしい。ファイが使いに宿した伝言を読み取ったロードンが緊急避難の鐘をたたいて全員を集合させたところへ、例の炎の法専攻生が逃げ込んできたという。教官の指示でアングウィスの襲撃に備えたにもかかわらず混乱した状態になっているのだから、もし何も知らないままでいたら悲惨なことになっていただろう。
ロードンは二人が連れて帰ってきた槍専攻生に術をかけ、宙に浮かせた。
「『浮雲の法』じゃ。本来は神法学院で習うものじゃが、お前さんなら使えるじゃろう。一度に二人までしかかけられんのが難点じゃがな」
「シータ、ファイ、無事か!?」
そこへタウとラムダがイオタとミューを守りながら駆けてきた。シータはファイに頼んで地面に下ろしてもらった。
「アングウィスは首を取ってもすぐにはえてくる。急所は尾だから尾を切って」
「了解っ」
ファイの指示を受け、シータは向かってきたアングウィスに剣を振り回した。すぐそばではウォルナット教官が見事な剣さばきで毒蛇を片っ端から切り捨てている。こんなときでなければじっくり眺めていたいほどの剣技だ。
「二人を頼む」
ファイはタウにうなずくと、今し方ロードン教官が唱えた法術を繰り返してイオタとミューを空へ逃がした。
「気をつけてね」
心配そうに見下ろしてくる二人にタウとラムダは軽く片手を挙げ、戦いに復帰した。
ファイに気づいた他の神法学科生たちが我先にと寄ってきたので、ファイは押しつぶされる前に上空に飛び、そこから順番に生徒たちに『浮雲の法』をかけていった。だが二人ずつしか上げてもらえないので、待ちきれずにファイに文句を言う生徒が続出した。そこへアングウィスが襲いかかる。人が集まっていると彼らも攻撃しやすいのだ。生徒たちは慌てて散ったが数人がかまれた。
ファイはその後もアングウィスから逃げる生徒を地道に空へ避難させていった。さすがに神法学院で習うだけあって、ファイ以外に使えることができたのは三回生でさえ二人だけだったが、それでも術の発動する時間がファイより遅かった。先に助けられた生徒は野営地を飛びまわるファイたちを励まし、時々『勇みの法』をかけて力を授けた。他の専攻生たちは自分で飛んでいるのではなく風の流れに乗せてもらっている状態なので、下にいる生徒たちの救出に協力することができないのだ。もし手を差しのべれば自分も地面に落ちてしまう。だが高度な法術を連続で使い続けるファイたちにもやがて限界がきた。風の法専攻生の一人が力つきてアングウィスの群れの中へ墜落しかけたのを、ファイはぎりぎりのところですくい上げたが、ファイ自身も息が切れていた。出かける前に体力回復剤を飲んでいなければ、とうに倒れていたことだろう。
大地にはたくさんの武闘学科生とアングウィスが横たわっている。タウとラムダ、シータはまだ奮戦していた。やはり一緒に冒険している仲間と戦うほうがやりやすいのか、残っている武闘学科生のほとんどは数人で陣形を組んで武器を振るっている。アングウィスが相手なので攻撃や防御の法術は効かないが、補助の法なら少しは役に立つ。炎の法専攻生が地上で死力をつくしている武闘学科生たちに『勇みの法』をかけはじめたのを見て、風の法専攻生も『早駆けの法』をかけてまわった。力と速さが加われば、疲労で重くなった体でも動かすことができる。ただ根本から疲れを取り除いたわけではなく、むしろ体の痛みをごまかして酷使させている状態なので、後で影響が出るだろう。
「ファイ! こっちだっ」
声のほうを見やると、バトスとアルスがカルフィーとレクシスをかばってアングウィスと対峙していた。四人は避難しているうちに他の武闘学科生たちからも離れ、野営地のすみにまで来てしまったらしい。獲物の数がかなり減ってきたせいか、アングウィスの追撃も激しさを増している。完全に囲まれてしまっている四人を目指し、ファイは『浮雲の法』を唱えながら急降下した。
先にカルフィーとレクシスを何とか上空の風に乗せる。ファイがバトスとアルスを連れて再上昇するのと、アングウィスがいっせいに飛びかかってくるのがほぼ同時だった。
間一髪で危機をすり抜けたバトスが軽く口笛を吹く。ファイはそのままタウたちのそばまで飛んでいって武闘学科生二人を下ろした。
研修中は神法学科生も法衣をまとわず動きやすい服装をしているため、遠目には武闘学科生と見分けがつきにくい。それでも無事な神法学科生は全員空へ逃がすことができたようだ。一方武闘学科生の頑張りもすばらしく、どうにかアングウィスをすべて討つことができた。
地上には約半分の神法学科生と四分の三の武闘学科生が、アングウィスの山の間で気を失っていた。かまれて一日以内に解毒剤を飲めば毒は消えるが、宿舎に十分な数の薬があるかどうか疑問だ。護衛として来たとはいえ、まさかこんな目にあうとは彼らも思っていなかっただろう。
かちどきをあげる武闘学科生たちに、神法学科生たちも拍手と歓声を送る。ファイのそばではロードン教官がやれやれとぼやきながら肩をほぐしていた。
「ファイー!」
下方でシータが笑顔で剣を振っている。タウやラムダはその場に腰を落としてぐったりしているというのに、シータはまだ余裕がありそうだった。もともと体力はあるところにもってきて、回復剤を飲んでいたのがよかったらしい。シータに向けて下りかけたファイは、はっとした。シータの足元に積まれていたアングウィスの一角が動いたのだ。
「まだ生きてるのが……!!」
警告は間に合わなかった。シータがアングウィスの山をかえりみたときには、一匹のアングウィスが右腕に飛びついていた。
まぶたを通して突き刺さってくるのが陽光だと気づき、シータはゆっくりと目を開けた。
「起きたか」
シータの耳に届いたのは、ウォルナット教官の声だった。
「ここ、どこですか? 今……」
時間はいつ頃かと尋ねかけ、シータははね起きた。脇であぐらをかいていたウォルナットが褐色の瞳をほんの少し大きく開く。
「ファイの採取っ」
明け方にも採りに行くものがあると言っていたのに、自分は寝過ごしたのか。
「もう採ってきて、外で課題の薬を作っている。お前の代わりは俺がしっかりと務めたから、気にしなくていいぞ」
ウォルナットはシータの頭を軽くたたくと腰を浮かした。
「まったく、最後の最後で油断しおって。だから詰めが甘いというんだ」
個人授業でさんざん指摘されたことをあらためて注意され、シータは「すみません」としょぼくれた。ウォルナットはそんなシータを肩ごしに見て、にやりと笑って天幕を出ていった。
熱が出ていたのか、全身汗まみれだ。かまれた腕にはすでに跡はない。シータは自分の袋から新しい服を取って着替えると、天幕の入り口まで這っていって幕を少しめくった。
ファイは天幕の前で石に座り、二つの鍋を火にかけていた。いたるところに転がっていたアングウィスの死骸はきれいに片付けられていて、地面には血の跡だけがあった。シータがのろのろと出ていくと、ファイはもういいのかと聞いてきた。
「朝食できてるけど、食べる?」
シータがうなずくとファイは汁椀を用意し、いい匂いのする鍋から具と汁をすくってシータに渡した。
シータはファイの隣に腰を下ろすと、何度か息をふきかけて食べた。ファイの料理にしては少し薄味だ。どうやら自分の体調にあわせて作ってくれたらしい。
「護衛できなくてごめん」
「さぼったわけじゃないんだから、別にいいよ」
昨日自分たちを頼れと言ったことが恥ずかしかった。何が何でもファイを守れとウォルナットからも念を押されていたのに。
「落第かあ」
大きなため息をついてうなだれるシータに流した視線を、ファイはもう一つの鍋へと移した。
「それはないんじゃない? ウォルナット先生、シータのことをほめていたから」
驚いて顔を上げたシータは、ファイがかきまぜている鍋の臭いを吸い込み、吐きそうになった。ものすごく臭い。まるで世界中のありとあらゆる汚物を全部一緒にして煮詰めているようだ。ファイが平気そうにしているのが不思議でならない。
「一回生で最後まで戦い抜いたんだから、すごいと思うよ。味見してみる?」
どうやら薬が完成したようだ。さじを向けられ、シータは一瞬返事に詰まった。
たしかファイが作っているのは、胸が大きくなる薬だ。だからぜひとも欲しいのだが、臭いがきつすぎて、はたして耐えられるだろうか。
「…………飲む」
やはりこの機会を逃すのはもったいない。臭いのひどさよりも効能への期待が勝った。
ファイが余っている器に薬をよそってシータに差し出す。シータは鼻が曲がりそうな薬を前に一度生唾を飲み込んでから、覚悟を決めて口をつけた。
熱いのと臭いので悲鳴が出そうなのを我慢して、何とか器をからにする。胃液がこみあげてきて吐きそうになった。アングウィスとの闘いよりも苛烈だったとぐったりするシータから器を受け取り、ファイは自分も少しそそいで味を確かめた。
「ちなみに、この薬は少なくとも半年は毎日飲まないと効果がないから」
これで少しは胸が――とわくわくしていた気持ちが粉々になった。
「そういうことは先に言ってよーっ!!」
毎日なんて絶対に無理だ。涼しい顔で提出する瓶に薬を入れるファイに、シータは泣き叫んだ。
ファイの話によれば、逃げた炎の法専攻生がやはりアングウィスの卵を踏んで割っていたらしい。彼は後からモーブ・ヒドリー教官にこっぴどく叱られ、研修も落第が決まった。反省文の枚数もシータが経験したことがないほどの量だという。
「炎の法でも神の使いが召喚できればいいのに」
彼がファイよりも先に野営地に連絡できていれば、もう少し対応に余裕がもてたかもしれない。そう言ったシータに、炎の法にも『召喚の法』はあるとファイは答えた。だから野営地に使いをやらなかったことも彼は怒られたらしい。
「他の神の使いってどんな姿をしてるの?」
「炎の神の使いはとかげで、水の女神は魚。大地の女神は猫だ」
「猫? 蛇じゃなくて?」
たしか、ローが奇跡のパンのおかげで手に入れた珍しい蛇が『女神の御使い』という名前ではなかったか。
「あれは最初に名付けた人が、大地の女神の使いを見たことがなかったせいだと言われているんだ」
ファイが器を片付けながら説明していたところへ、一人の槍専攻生がやってきた。ラムダと同じくらいがっしりした体格の少年は、二人ににこりと笑いかけた。
「君たちが野営地まで運んでくれたと聞いた。あのまま森に置き去りにされていたら命がなかったかもしれない。助けてくれて本当にありがとう」
シータは少年をまじまじと見つめた。暗かったし急いでいたのではっきり顔を覚えていなかったが、どうやらアングウィスに最初にかまれた生徒らしい。
「俺はウィルガ・ベークス。槍専攻三回生だ」
「剣専攻一回生、シータ・ガゼルです。この人はファイ・キュグニー。風の法専攻二回生です」
ファイはウィルガに興味がないのか、黙ってたきぎの火を消す作業に取りかかっていたので、シータが代わりに答え、ファイの分も握手した。そして首をかしげた。ウィルガの名前をどこかで見た気がしたのだ。
「知っている。君たちのことはラムダから聞いていたし、交流戦でともに戦う仲間だからな。頼もしい人間が二人もいるのは心強い」
シータは手を打った。ウィルガは先鋒隊副隊長として名前が載っていた生徒だ。
わざわざ礼を言いにきてくれたことにシータは嬉しくなった。ラムダやオルニス、プレシオ以外にも普通に話ができる槍専攻生はいるのだ。ウィルガが副隊長なら、槍専攻生と喧嘩になることも少ないかもしれない。交流戦を頑張ろうと約束して去っていくウィルガを見送り、シータはますます意欲を燃やした。
ファイがロードン教官に薬を提出した後で、二人は天幕をたたんでタウたちのもとへ行った。アングウィス襲撃事件のせいで明け方に採りに行くはずだった材料が手に入らず、真っ青になっている生徒や、薬が間に合わないとわめいている生徒もそこかしこにいたが、イオタとミューもファイと同じく薬を完成させていたので、六人は火の消えたたきびの跡を囲んでのんびりと談笑して過ごした。四人もファイから体力回復剤をわけてもらったらしく、出来ばえに満足していた。あれなら売れるのではないかとか、売るとしたらいくらくらいかと具体的な話もではじめたところで、集合の合図が鳴った。
シータとファイはタウたちと別れ、風の法専攻生の列に加わった。今回武闘学科生に負けない働きをしたせいか、風の法専攻生たちは疲れの抜けきっていない顔で立っていた。さらに教官の輪の中に、来るときにはいなかった学院長の姿があった。事件の知らせを聞いて駆けつけたらしい。
全員がそろったと報告を受け、ロードン教官が研修の終了を告げる。まずは課題をなしとげた生徒の名前が呼ばれ、皆の前でほめられた。
次にロードンは昨夜のアングウィス事件について語った。誰が卵を割ったかは言わなかったが、すでに生徒たちにはわかっているらしく、一人の炎の法専攻生に視線が集中した。ロードンは咳払いをして注目を自分に戻すと、護衛としての任を果たした武闘学科生をねぎらった。せっかくの機会だから最後まで戦った生徒を紹介しようと言い、ロードンは武闘学科生の名前を読み上げていった。呼ばれた生徒は拍手を浴びながら前に出ていったが、シータの名前があがったときはどよめきが起きた。まさか一回生が残るとは予想していなかったらしい。シータ自身、列に加わるのに抵抗があった。かまれたのは確かに戦いが終わった後だが、かまれたことに変わりはないのだ。だが周りから大きな拍手で背中を押され、シータはおずおずと前へ出た。うまく逃げ回っていただけではないのかというからかいもあったが、シータの奮闘ぶりを見たというたくさんの声にかき消された。
続けてロードンはアングウィス襲撃を野営地に伝えたファイを呼んだ。ファイは渋面したが、やはり周囲から押しだされるようにしてシータの隣に並んだ。ロードンはファイと一緒に高度な法術で生徒たちを救ってまわった二人の風の法専攻生もファイの横に立たせた。するとシャモアが、少しでも多くの生徒を運ぼうとした他の風の法専攻生もたたえるべきだと提案したので、風の法専攻生は全員前へ出ることになった。普段はあまり役に立たないと言われることの多い風の法専攻生たちは、めったにない賞賛の場にあがり、頬を朱に染めてもじもじしていた。
ファイの言うとおり、ウォルナットからは落第だとも減点だとも宣告されなかったので、シータはほっとした。だが油断しやすいという欠点は忘れないよう、しっかり頭にたたき込んだ。




