#7 死の温もり
頭が痛い。それも毎朝の起床に度々襲われる頭痛とは比にならないくらいほどの痛みだ。それに起き上がろうにも体が鉛を詰められたかのように重い。物理的な感触は無いものの、関節の痛みや筋肉の疲労が永徒にそう錯覚させている。
「あ、おはよう亜喰くん。調子は……うん、良くはないよね」
横たわる永徒の傍らから声がかけられその方に目を向けるとこちらの顔を覗き込む夢々愛の姿が視界に入り込んだ。普段から夢々愛と顔を合わせることはなかったのだが、笑顔を絶やさない彼女の表情には隠しきれない疲労が表れていた。
昨日、学校での思わぬ騒動に巻き込まれ危うく命までも狙われ彼女には酷い目に遭わせてしまった。心身共に辛いことだけは確かだろう。
「海寺さん、どうしてここに………?」
「……あの、黒い女の子が連れてきてくれて」
「………………今どこにいる?」
「亜喰くんの様子を見てろって言ったきりこの部屋には来てないよ。外に出た感じはなかったけど………」
「そうか………」
永徒は無理矢理に体を起こす。ふと切断された片足の方を見れば、何事もなかったかのように切断の痕はない。傷跡すら残っていない片足を確認するかのように手で撫で付け、よろよろと立ち上がる。咄嗟に支えようと手を伸ばした夢々愛の手を、首を横に振りながら拒否する。
「俺を見ててくれたことはありがとう。そこは素直に感謝してる。でも、───俺とはこれで縁を切ってくれ」
「───────え」
胸が、今にも張り裂けそうだった。杭が突き刺さっているかのようにじくりと痛む。どうして、と夢々愛の瞳が訴えかけてくる。正気の沙汰ではない事は心の中で理解している。自分の言葉の意味を、彼女の心を凄惨に踏みにじっていることを。それでも永徒には、これしか思いつかなかった。
「……………ここから、出ていってくれないか」
「─────わかった。お邪魔しました」
床に置かれた学生鞄を手に取り、夢々愛は永徒に背を向けながら静かに別れを告げて寝室を出た。フローリングを進む足音が遠のき、コツと靴を履く音がする。ドアが開いた音がすると、少しの間を空けて閉まる音が部屋に響いた。
「………………………はぁ」
大きく溜め息をつき壁に寄りかかる。軋むように痛む頭痛の中で、永徒は自らが犯した罪によって咎められ苦しんでいた。
人を拒絶し孤立する事を望む永徒の灰色の世界に唯一、彩りをくれたのが夢々愛だった。一日にも満たない僅かな時間でさえも、彼女と一緒に居た時は少なからず楽しいと思えた。そんな彼女を裏切るような真似をした自分が、あまりにも愚かしかった。
寝室を出て、喉の渇きを潤すために水を求めキッチンへと向かう。足取りはかつてないほどに重く、そしてまた廊下は長く感じられた。と、リビングの入り口から黒い影の揺らめく姿が目に入る。漆黒のドレスを見に纏った少女が俯きながら立ち尽くしていた。昨日の出来事もあり永徒は気まずさを感じていたが、勇気を振り絞りながらロリアに向かって閉じた口を開く。
「……昨日のこと、俺はまだ納得して───」
予想だにしない出来事に永徒は一瞬頭が空白になる。そして空白は余所に気が付くと、永徒は床に押し倒され透き通る白い頬が紅潮したロリアの顔が視界に飛び込んできた。ロリアの息は荒く、その蕩けるような吐息がかかるほどまでにロリアの顔は接近していた。
「ちょっ、おま、いきなり何やってんだ!!!?」
「ええ……本当に。私も今、自分が何をやっているのか理解に苦しんでいるところよ」
「はぁ!!?自分も分からないってどういうことだよ!!」
「そうね………強いて言うなら逆らえないってところかしら」
ロリアは必死に何かを押し殺しながらその紅の瞳を飢えた獣のように爛々と光らせる。ロリアの華奢で白く伸びた腕からは想像もつかない力で両腕を床に押し付けられ身動きが取れない永徒は冷静にこの場を抜ける方法を考えた。だが、無念にもそう簡単に案が出るわけでもなくただ途方に時間だけが過ぎていく。ロリアはそんな足掻く永徒を見つめ、自身の頬が緩むのを抑える余裕などなかった。
「……あなたも初めてなんでしょう?ならお互いにその初めてを楽しめばいいのよ。ほら、力を抜いて」
「お前、本気で言ってんのか……!?こういうのは相手を選べって!!絶対後悔するぞ!?」
「なに?初めての相手が私だと嫌なの……?」
「…………っ!!そういう事じゃなくて!!!」
「…………もう、我慢できない」
そう言って、限界を迎えたロリアは永徒の顔元へと迫る。隔てていた距離は瞬く間に無くなり、永徒は思わず目を瞑った。互いの唇が重なり合い、舌と舌が絡み合う──────事は無く。首に鋭い針が刺さったかのような痛覚があり思わず目を開ける。そしてすかさず視界に入ってきたのは、目を閉じ静かに食事をする吸血鬼の少女の姿だった。小さく声を漏らしながら吸血鬼の少女ロリアは吸血を続ける。自身を巡る血液が搾り取られるのが分かる。通っている血が傷口からどんどん吸われている。不思議と痛みも無くただ吸血される光景を眺めていた。
「んっ、ん、ぁ、んんっ、んっんむ、ぷはぁ………はぁ、はぁ、はぁ」
「…………済んだのか?」
「……………………」
縛りが解け、解放された永徒は上半身を起こす。地面にぺたりと座り込んだロリアは背を向けて顔を見せないようにしている。永徒は普段の冷めた表情のロリアしか見ていなかったために、先程のあのような面を思い返す度には困惑の念しか出てこなかった。
「………なぁ、聞いてもいいか」
「…………………………………」
「さっきのあれ……その、なんていうか、本当にあれが初めてだったんだよな?他の人にやってたりしてないよな?」
「…………………………ずっと吸血衝動は自分で抑えられてた。なのにあなたといい、あの女といい、人間が二人も傍に居たら抑える事なんて無理よ。何百年もの間血の渇きを魔力で凌いでいたけれど、目の前に獲物を寄越されたら我慢できるのもできないわよ」
「じゃあ、お前は何百年の間ずっと血を口にしてないってことか……」
「聖堂教会からも追われてて目立つようなことをしたくなかっただけのこと。変な勘違いはやめて」
吸血鬼にとって、血を吸う事が食事のようなものだ。それを何百年もの間、ロリアは一度も行為にいたらなかったのである。魔力で飢餓を満たせるのかどうかは定かではないが、それでも並外れた精神力の持ち主であることがわかる。一体何がロリアの飢えをここまで保つことができたのか、永徒の思惑が正しいか否か。それは彼女の口からしか答えは得られない。
「…………早く失せなさい」
「…………はいはい。っていうか俺噛まれたけど大丈夫なのか?吸血鬼になったりしないよな?」
「私の血を譲渡すれば人間でも吸血鬼になれる。でもあなたを吸血鬼にしたところで何か私にメリットがあるのかしら。あなたに私の血を飲ませるだなんて勿体ないにも程があるわ」
「…………へーそうですか。なら安心したよ」
皮肉げにそう言い残すと、永徒は起立してキッチンへと向かう。その途中、ロリアの方を気付かれないようにちらっと目をやると、そこには赤面のままのロリアが見えた。永徒はそれを見なかったことにして、朝食の支度にとりかかった。