幻蝶
網目の細い格子状のゲージの中で、赤と黒のまだら模様の羽を持った蝶が、群れを成して優雅に空中を舞っている。蝶の体は小さく、羽をはためかせるたびに鱗粉が散り、一瞬のきらめきを放つやいなや霧散していった。ゲージに右手をあて、男は食い入るように蝶の群れを観察した。金属製のゲージのひんやりとした冷たさが、右手を介して伝わってくる。
「珍しい蝶だろう。マダガスカル島の深い密林に生息している蝶でね、滅多に手に入らない貴重な蝶なのさ。コレクターなら喉から手が出るほど欲しい代物でね、こうして十匹も手に入ることなんてそうそうない。どうだい? まだら模様の毒々しい色合いが他の種に見られない美しさをしているだろう?」
その通りだ、と男は思った。
一匹の蝶がそんな男の考えを見透かしたように、男の鼻先の格子にふわりと止まった。
胴体は深い漆色をしており、頭部の両端にくっついている灰色の複眼の中に、無数の点が無秩序に並んでいる。男がまじまじと見入ると、その一つ一つに自分の姿が映し出されているような気がした。蝶は男の熱いまなざしに応えるように、鮮やかな二枚の羽を煽情的に動かした。
「この美しい蝶は現地では悪魔の使いとして恐れられているんだ。この蝶はね、暗くて狭いところへ向かっていく習性がある。蝶は夜更け頃、寝室でぐっすりと寝ている人間の耳のそばに飛んできて、その小さな羽をうまい具合に折りたたんで、ゆっくりと耳道へと潜り込んでいく。そして、鼓膜を突き破って、どんどん奥の方へ入っていき、もうこれ以上進めないといったところでようやく動きを止め、そこに住みつくんだ。そうやって蝶に住みつかれた人間はどうなってしまうと思う?」
目の前の蝶がふわりと舞い上がり、再び蝶の群れの中に飛んでいった。赤と黒のまだら模様が混じり合いながら各々に舞い踊る光景は、静脈の中を流れる血潮を想起させた。
「蝶が時折身をよじらせたり、あるいは羽を小刻みに動かすたびに幻聴が聞こえるようになるんだ。本当に誰かがしゃべっているかのように宿主はあたりを見渡すんだけれど、周りには誰もいない。そして、その時になってようやく、自分の耳の中に蝶が住み着いた事実を知る。しかし、そうなった時はもう遅い。耳のずっとずっと奥に蝶が住み着いている以上、取り出すことはできない。蝶は耳垢やリンパ液でどんどん大きくなって、次第に幻聴の症状もひどくなっていく。最終的には、聞こえ続ける幻聴で宿主は発狂してしまう。まあ発狂すれば、もうなんともないね。ただ、発狂に至るまでがまさに地獄だけれどね」
「何か治療方法はないんですか?」
男が尋ねる。
「ないね。とにかく蝶に耳の中に侵入されないようにすることが一番大事なんだ。だから、現地では寝るときには必ず、バオバブの葉っぱをちぎって耳の中に入れるようにしてるらしい。それでも、毎年何人かの人間がうっかり耳に詰め物をすることを忘れ、蝶の犠牲になる。蝶に寄生されてしまえば、もう助かる見込みはない。なるべく苦しみが続かないように、できるだけ早く発狂するように願うしかなくなる。」
男は蝶が人間の耳元にとまり、ゆっくりと耳の中に侵入していく姿を想像した。羽を器用に折り畳み、一歩ずつ耳の奥へと進み、鼓膜を食い破り、さらに三半規管へと侵入していく。男はぞっと身体を震わせる。
それでも何か対策はあるはずじゃないのか。男は振り返った。
しかし、そこには誰もいない。周囲を見渡しても、窓一つない直方体の部屋にはゲージを置くための机や革製の黒いソファ、ゆらゆらと光を放つランタンがあるだけ。男以外に、部屋には誰もおらず、また、音源となるようなスピーカーも見当たらなかった。
男はゲージに目を戻し、恐る恐る蝶の数を数える。ゲージの中には九匹の蝶しかいなかった。