#9 ゆっくりと、或いは不意に落ちていくそれは
夏の入りの頃。私は学校の廊下で教授に呼び止められた。
「最近、ディールスさんのレポートは評判になっているんだよ。良く勉強しているね」
「そうですか?ありがとうございます」
突然褒められたことに驚いたもののお礼を言うと、教授は機嫌よさげに「これからもこの調子で」と廊下を曲がって行った。
「確かに、ユリアさんは最近レポートを仕上げるのも早いしいつも優か可を取っているわよね」
「首席も狙えるんじゃない?」
「もう、やめてよ」
後ろから私の肩を叩いてきたのはカロリーネとアンだ。首席なんかとっても、どうせ結婚後の進路は結婚だし意味ないのに。
「それに、私の成績が良くなったのはオズヴァルドさまに勉強を見てもらっているおかげだしね。私の力じゃないよ」
何故か顔を見合わせたふたりをよそに、私は思わずあくびを漏らした。
「ふわあ……」
「ユリアさん、最近疲れているわね」
それを耳聡く聞き取ったカトリーヌが指摘してくる。
「私、噂を聞いたよ。件の宮廷魔術師さまのお店が繁盛しているんだって?」
「あら、もう開店していたの?」
「うん」
こくりと頷いた。そうなのだ。オズヴァルドさまが店の前で魔道具の実演をして以来、口伝いに評判は広まりお客さんが連日詰め寄せていた。女の子にして見せたような余興用の魔道具は若い人に人気があり、保温鍋や食材を長く保存しておける袋なんかは奥様世代の間で広まっている。
「ユリアさんの他に手伝っている人はいないの?」
「うん、だから今はオズヴァルドさまがひとりで店番をしてらっしゃるんだ。私も学校が終わったら行くつもりだけど」
「大変だねえ」
「そう?そこまで大変じゃないよ。とっても楽しい」
さっきは思わずあくびをしてしまったが、別にお手伝いをすることが辛いというわけではない。初めの数日間で実演販売はやめてしまったから今は店の中にオズヴァルドさまも居てくださるし、お店の休みもある。それに、私が商家の娘なこともあって別の業種を手伝えると言うのは興味深いと思う。忙しなく店を終えた後に、お店の改善点を話しながらオズヴァルドさまとふたりでお茶を飲んだりご飯を食べる時間は私にとって宝物のようになっていた。
「それよりアン、どういう噂になっているの?」
「まるで魔術みたいに不思議な商品を売っているとか、とても便利だとか。主に女性の間で噂になっているみたい。……ああそれに、とんでもなく格好良い店主が居るって」
そう言ってアンは私の方を見てにっこりと笑った。
「ねえ、ユリア。魔術師さまとはどうなってるの?」
「どうって。別にどうともしないってこの前言ったじゃない」
「ふーん」
アンが絶対に信じていない目をした。私がなおも言い募ろうとした時、横から声が飛んできた。
「ディールスさん、最近出来た魔道具店の話?」
そう言って話題に入ってきたのは、同じ授業を取っている女の子だ。彼女の隣にいた子も声を上げた。
「私この前行ったわよ。魔道具というものも不思議だったけれど、何より店主が格好良くてびっくりしちゃった」
茶色の髪のその子は、私がオズヴァルドさまの魔道具店を手伝っていることを知らないらしい。その時のことを思い返したのか、うっとりと言った。
「優しくて、初めて見るような美形で。まるで、本当の魔術師さまの様に綺麗だったわ」
「本当の魔術師さま?」
「ああいいえ、私ももちろん宮廷魔術師さまを見たことはないけれど。貴い方達なのだから、ああいう方なのかと思ったの」
そうか。店を訪れた人はオズヴァルドさまが実際に魔術を使ったところを見たわけではないから、あの母親のように魔術を騙っているだけの手品のようなものとか何かしら仕掛けがしてあると思っているのだろう。私だって、実際にこの目で魔術を見なければオズヴァルドさまが宮廷魔術師さまとは信じられなかっただろうし。彼が気さくだから時々忘れそうになるが、平民にとって宮廷魔術師さまとはそれくらい遠い方なのだ。
「もちろん魔道具もすごいものだけれど、あの店主に会いたくて通っている人も多いのではないかしら」
そこで、休み時間の終わりを告げる鐘が鳴ったために話はお開きとなった。その子たちが別れを言って
去っていくと、カトリーヌが言った。
「どうもしないって顔じゃないわよ、ユリアさん」
「……どういう意味?」
「あの魔術師さまに他の女の子が近づくのがご不満ですって顔」
その言葉にガラス窓に映る自分の顔を見てみると、確かに不機嫌顔だった。けれど、別にオズヴァルドさまに女の子が近づくのが嫌だとか、そんなことを言う資格なんてもちろん私には無い。これはきっと次の授業が憂鬱だから、とかそういうことだ。
「何でもないよ、うん。何でもない」
「ねえ、分かっているだろうけれど平民と貴族は結婚出来ないわよ。もしユリアさんとその魔術師さまに何かあるのだとしても……」
「だから、何でもないって!」
たまらず私が大声を上げると、カトリーヌとアンが驚いた顔でこちらを見ているのに気が付いてはっとした。
私、最低だ。カトリーヌは親切心で言ってくれたのにこんな風に怒るなんて。
「ごめんなさい。カトリーヌの言う通り少し苛々していたのかも」
「いいえ、私こそごめんなさい。偉そうなことを言ってしまったわ」
すぐに詫びを言うと、カトリーヌも私に謝った。その横でアンが話題を変えるために、明るい声で言った。
「私もその魔道具店に行ってみたいんだけど、フィルが許してくれないんだよね。カトリーヌも一緒なら許してくれるかもしれないし、一緒に行かない?」
「良いわね。ユリアさんが働いているところも見てみたいわ」
「冷やかしならやめてよ?」
そんなことを話しているうちに、本鈴が鳴ったので私たちは慌てて授業の準備を始めたのだった。
オズヴァルドさまの魔道具店は、近頃では初めのように客が押し寄せるということはなく、しかし常に数人ほどは店に居るという安定した状態になっている。それに女性だけではなく男性にも評判が広まってきているようで、物珍し気に商品を眺める男の人の姿も目立ってきた。
そうして今日店はお休みなのだが、昨日オズヴァルドさまに呼ばれたために私は店に来ていた。
「オズヴァルドさま?」
店の扉を開けて声を掛けてみても、姿は見えない。返事もないので奥に回ることにした。何だか懐かしいなあ、こういうの。最近は忙しくてばたばたとしていることも多いけれど、店を開く前は私が訪れても彼はいつもマイペースに本を読んだりしていた。
奥の部屋の扉を開くと、オズヴァルドさまは何かを弄っていた。
「おはようございます」
「ユリアさん。悪いな、休みなのに来てもらって」
「いいえ。家でやることもありませんし」
近寄ってみると、彼が見ていたのは華奢なアクセサリーだった。
「何をしているんですか?」
「大分時間が経ってしまったが、大きな音が出る魔道具の改良版だ。はじめは誤作動の恐れをなくすために、他のものと同じく音声認識が出来るようにすれば良いと思ったんだが音を発すると受け入れるという相反することを同時にするのはどうにも難しくてな」
だから、とオズヴァルドさまは続けた。
「料理の時のように考え方を変えてみたんだ。誤作動が起こるのは、鞄の中に入れて他のものと混じってしまうからだろう?では他のものと混じらない様にすれば良い」
「それで、アクセサリーにしたという事ですか?」
「いつかあなたと一緒にアクセサリーを見に行った時のことを思い出してな」
オズヴァルドさまは、私にそれを手に取ってみてくれと言った。
偶然にも私の腕に丁度いい大きさの細い腕輪には、小さな石が嵌めこまれている。新緑というよりは誰も訪れることのない森の奥にある湖の水面のような、深く落ち着いた緑の石だ。
「綺麗……」
魔道具だということも忘れて呟くと、傍らにいる彼は私を穏やかに見つめた。
「あなたの瞳の色だ」
「え?」
「はじめにどんな色の石を使おうかと考えた時、思い浮かんだのがこの色だった。石の色は術に関係がないから、他にも色々と作ってみたんだけどな」
「そう、なんですか」
何かが胸に押し迫ってきて、大した返事も出来なかった。
「普段は腕輪として使って、緊急時には石を傷つけることで魔術が発動するようになっている」
「試してみても良いですか?」
「ああ、ぜひそうして欲しい」
私がそう聞くと、彼は素早く口の中で呟いて防音の壁の魔術をかけた。
「可愛い腕輪なのに、傷付けちゃうんですね。何だか勿体ない気がします」
「俺が呪文を掛け直したら石の傷は元通りになるし、再び使えるようになる。――よし、試してみてくれ」
ちゃんと魔術が掛かったようで、オズヴァルドさまは私にそう声を掛けた。
しかし、石を傷つけようとしてみても上手く行かない。見兼ねた彼が、「出来そうか?」と聞いた。答えを返そうとしたその瞬間、ふわりとオズヴァルドさまの良い香りがした。次いで私の手に自分のものより大きい手が覆いかぶさってきて、ほのかな温もりが伝わってくる。背中から手をまわされていることで、まるで後ろから抱きすくめられているような体勢になっていた。
「爪で傷をつけるんだ」
私の耳元に彼の声がある。いつもよりずっと近くで聞くそれは、低くて柔らかかった
カリ、とオズヴァルドさまの手に覆われた私の爪が石を引っ搔いた瞬間だった。ビー―――――!という大音量の高音が耳中に鳴り響いた。オズヴァルドさまが急いで石の傷を私の指で塞いだことで、ぴたりとその音は鳴りやむ。
「こうやって石を傷つけた者がもう一度その傷に触れることで、音が止まる仕組みになっている」
「…………」
「ユリアさん?」
私の顔のすぐ横にあった金の髪がさらりと零れて、温もりが離れていった。
「ユリアさん、どうかしたか?」
もう一度名前を呼ばれたことで、漸く私は返事を返した。
「――ええと、良いと思います。持ち歩きやすいですし、その……」
ああどうしよう、頭の中が真っ白になってしまっている。オズヴァルドさまは私の意見を聞くためにわざわざ呼んでくれたのに。これじゃあ意味がない。
彼は、そんな私を訝しみつつ言った。
「一度で効果がなくなってしまうのが問題なんだけどな。ああ、その石に魔術を掛け直そうか」
「やっ……、駄目です!」
いきなり大きな声を出した私を、腕輪を持ち上げようとしていたオズヴァルドさまは目を丸くして見つめた。自分でもどうしてそんなことをしてしまったのか分からなくて、私は何故だか上手く働かない頭で必死に言葉を絞り出した。
「えっと、あの。……すみません、やっぱり魔術は掛け直してください」
「そうなのか?なら、別の腕輪を持っておいてくれるか」
私が緑色の石が嵌まった腕輪を取り外すと、オズヴァルドさまはいくつか腕輪の中のひとつを選んで私の腕に通した。私の手首にほんの一瞬だけ彼の指が触れて、びくりと肩が震えた。どうしてだか涙が溢れそうになって、自分が分からなくなる。何とか唇で言葉を紡いだ。
「今日は、もう帰ります」
「ああ、今日のあなたは何だか体調が悪そうだな。送って行く」
「いえっ、あの、……護衛の人に迎えに来てもらうので、大丈夫です」
オズヴァルドさまに嘘を吐いたのは初めての事だった。彼はいつものように優しく笑って、
「なら、気を付けて」
と、言った。その濃い青の瞳を見ていられそうに無くて、ひとつ頭を下げてそのまま立ちあがって外へと続く扉を開けた。
――ずっと我慢していたそれは、角を曲がったところで不意に腕輪の石が目に入ったことで弾けてしまった。
「……っ」
光を反射して輝く石は、オズヴァルドさまの瞳と同じ青色をしていた。
何が、「何でもない」だ。周囲の人にも、自分の気持ちにも嘘を吐いて。激しいのに凪いでいて、濁っているのに澄んだこの感情をいつまでも覆い隠せるはずもないのに。
「……好き」
気が付けば、その言葉は私の口をついていた。一度口に出してしまえば、箍が外れたように私の頭の中はそれで一杯になった。
私は、オズヴァルドさまのことが好きだ。
いつから?そんなこと分からない。彼が私にその瞳を向けるたびに、ペンだこのある大きな手が私に触れるたびに、目の傍の皺を深くして笑いかけてくれるたびに、私の中の何かは永遠に欠けてしまった。そして、欠けたところは彼の存在で埋められていたのだ。
好き。好き。もうどうしようもなく、好きだ。オズヴァルドさまの好きなところなんて、挙げればきりがない。好きにならずにいることなど、出来るわけもなかったのだ。ずっと遠い存在のはずなのにどこか抜けているその人は、いつの間にか私の心の大部分を占めてしまっていた。
――けれど、好きになってどうするの。私の中の冷静などこかが、そう問う。
オズヴァルドさまは宮廷魔術師さまで、私はただの宿屋の娘で。上手く行くわけもないのだ。初めから分かっていたはずだ。宿主の許可も得ずに生れ、育ってしまったその花が蕾を開くことなんてないのに。しかしそう理解はしていても、否定することなどもう出来そうに無かった。
胸がぎゅうっと締め付けられて息をすることさえ苦しいのに、心だけはふわふわと浮き立つその感情は、初恋以外の何物でもなかった。
その夜、私は子供の時以来はじめて目が腫れるほど泣いた。