#5 ふたりの時間
頭の上のキャンバスに、紫色の絵具とオレンジ色の絵具が混じり合う頃。私とオズヴァルドさまは王都の三番街を歩いていた。三番街と言えば、国中から食料品が集まってくる最も勢いの盛んな市がある。そう、私たちは夕食の買い出しに来たのだった。
「オズヴァルドさまはなにがお好きですか?」
彼の部屋はもう掃き掃除も済んで、お姑さんに窓枠をなぞられても大丈夫なくらいピカピカだ。ついでにオズヴァルドさまが埃やゴミを払う魔術もかけて下さったので、衛生的にもバッチリだ。これは余談だが魔術で部屋を整理できなかったのかと聞いたら、その発想は無かったが一度に複数の物を浮遊させてそれぞれ別々の目的の場所まで移動させることはひどく難しいだろうと彼は言った。けれど、次の機会には試してみると。そんな機会は彼の人生の中で訪れないことを願う。
そんなこともあって、私はついにオズヴァルドさまに温かい料理を食べていただけると思い心が浮かれている。ここ何日かレストランの余りを配達していたが、それらは冷えてしまったものだったからだ。
私の問いに、彼は夕方になってもなお喧噪の失せることのない市を物珍しげに眺めながら言った。
「好きなもの、か。そうだな……」
春の終わりの風が、彼の金色の髪をさらりと撫でて夕焼けの空へと向かう。言葉を切ってしまった彼の瞳は私の知らない遠くを見つめていて、その心はここに無かった。道行く人が皆振り返る美貌は、今はどこか色のない無機質なものに見えた。
「好きの定義とは何だ?」
と、思えばオズヴァルドさまは真面目な顔をしてそんなことを聞いてきた。
「定義……と、おっしゃられても。ええと、そうやって考え込むものというよりは気が付けば手にしていて離せなくなっている感情というか。目の前にあれば嬉しくて、なくなってしまえば寂しくてどうしようもない気持ちになるもの……でしょうか?」
何を言っているんだろうか私は。けれど彼は「なるほど」と頷いて、再び考え込んだ。
「昔は、オムレツが好きだった」
たっぷりの間を置いて、オズヴァルドさまが出した答えはそれだった。
「昔は、ということは今はもう好きではないのですか?」
「いや、そうでは無い……と思う。好きな料理についてなど考えたことも無かったからな」
好きな料理について、考えたことがなかった?彼の横顔に、疑問が顔を覗かせる。とはいえ、オズヴァルドさまの見せてくれた色を失いたくなくて、私は声を弾ませた。
「じゃあ、オムレツにしましょうか。そこに新鮮な良い卵を扱っている店があるんですよ」
「ああ、良いな」
彼の口元が綻んだことにほっとして、私は養鶏場のおばさんが出しているテントへと向かった。
良い卵がまだ残っていたうえに、ひとつおまけをしてもらえた。ホクホクしながら夕食のメニューを話し合う。
「メインがオムレツなら、他は野菜のスープとパンにしましょうか。スープは多めに作れば明日も飲めますし」
「そうしてくれ」
「……本当に、それで良いですか?オズヴァルドさまは私の雇い主なのですから、要望があれば言ってくださいね」
「分かった」
そこで何故だか、彼は楽し気に笑い声を上げた。オズヴァルドさまはいつもにこにこしていらっしゃるけれど、笑い声と言うのは聞いたことがなかったかもしれない。驚いてその顔を見つめてみると、彼は私の視線に気が付いて笑みを深めた。
「失礼。あなたの顔があまりにも真剣だったから、つい」
「し……っ、真剣にもなりますよ。お仕事なんですから」
「ああ、そうだな」
何だか、その濃い青の瞳が私を捉えていると思うと落ち着かない。胸のざわめきを吹っ切るために、私は少しだけ足を速めて野菜の市を目指したのだった。
そうして私が青物市のテントに入ろうとした時、ふわりと独特の感覚がした。この感覚は覚えがある。オズヴァルドさまが魔術を使うときのものだ。けれど、どうして今?
不思議に思って振り返ると、いつの間にかオズヴァルドさまの体がぼんやりとした膜に覆われていた。大きな四角い箱のようなそれは、彼にとっても予想外のことであったらしい。さっきまでの笑みは鳴りを潜め真剣に何事かを唱えているようだった。しかし、素人目に見ても上手くいっていないことは明らかだ。
私が何も出来ず呆然としていると、不意にオズヴァルドさまが入ったその箱が徐々に半透明になっていることに気が付いた。もしかして転移しようとしているのだろうか。魔術でそんなお伽噺のようなことが出来るかは分からないけれど、彼にとって良くない状況であることは何となく分かった。消える際には先にその旨を話してくれるだろうと思うくらいには、私はこの金の髪の宮廷魔術師さまを信頼していた。
「オズヴァルドさま!」
だから、彼に向かって叫んだ。するとオズヴァルドさまは私の存在を思い出したようで、口をパクパクと動かして私に何か伝えようとしてきた。……い、お?そうか、さっきの箱の紐だ!鞄に入れていたそれを急いで取り出して勢いのままに紐を引く。
すると、先ほど聞いたばかりのけたたましい警報音が鳴り響く。それと同時に、ぱちんとオズヴァルドさまを覆っていた膜が弾けた。私はさっき彼がやっていたように紐をもとの位置に差し込み音を止めて駆け寄った。
「大丈夫ですか⁉」
「ああ。……もう逃げてしまったか」
彼は私に答えると、辺りを見回してため息を吐いた。
「今の、何だったんですか?魔術ですよね?」
「……取り敢えず、ここから離れようか。目立ちすぎている」
その言葉に周りを見てみると、何の前触れもなく大きな音を出した私に迷惑そうな視線やら好奇の視線やらがたくさん突き刺さっていた。慌てて店の前で目立つことをしてしまったことを野菜売りのおじさんに詫びて、少し多めに料金を渡してその場を立ち去った。
「あなたに迷惑をかけて申し訳なかった」
「いいえっ、そんな、謝らないでください!」
少し離れた所で、開口一番に私に謝ったオズヴァルドさまを慌てて留めた。
「あれは一体何だったんですか?」
「俺にも詳しくは分からない。……しかし、恐らくは対立している魔術師の仕業だろうな。どこに転移しようとしたかは知らないが」
転移。やっぱりそうだったんだ。
「対立、しているんですか?魔術師が?」
「ああ」
オズヴァルドさまは短く頷いた。頭の中に、ぐるぐると疑問符が浮かび上がる。いつか、カロリーネが魔術師はもはや十人ほどしか居ないと言っていたのに対立?こんな王都の街中で彼を襲おうとしたのか?そもそものことを考えると、宮廷魔術師だったオズヴァルドさまはどうして城下で店を開こうとしているのだろう?彼は魔術を広めたいと言っていたが、それはなぜ?
私は、魔術師のこともオズヴァルドさまのことも何も知らない。少し前まではそれが当たり前だった。私にはあまりにも遠い世界だったからだ。けれど、今は違う。ひょんなことから手伝うことになったこの人のことを、自分とは違うからと割り切ることはひどく難しくなっていた。
「魔術を封じる呪文もかけられていたようだったからな。ああいう大掛かりな魔術の場合、術が完遂されるまで集中力を保たなければならない。だからあの音で術者が驚いて術は破られたんだ。あなたが居て、助かったよ」
そう言うと、オズヴァルドさまは真剣な目で私をみつめた。
「今日のことは本当に済まなかった。これからは、あなたは俺が守るから」
風が攫ってしまった髪を優しく私の耳にかけて、彼は私の真正面で微笑んだ。
「さて、では料理を始めましょうか」
「よろしく頼む」
市で目的のものを手に入れて、私たちは再びオズヴァルドさまのお家に戻ってきた。キッチンに買ってきた食材を並べて、気合を入れる。
「まずはスープから作りましょうか。具は豚肉の燻製とキャベツ、ニンジン、玉ねぎですね」
好きなものも思い当たらない代わりに嫌いなものもないとのことだったので、思うものを買ってきた。私が家から持ってきた鍋に、まず細かく切った豚肉と玉ねぎを入れて炒める。いきなり水から煮るのではなくて、この人手間が重要だ。この工程を経るか経ないかでは、コクが違う。と、いうのはレストランの料理人の受け売りだが。
「素材の味を生かすということだな」
「そういうことです」
熱心にメモをとる生徒の傍らで、私もうんうんと頷いておいた。いきなり包丁を使うのは危ないということで、ここでの彼の役割は精々野菜を洗う事ぐらいだ。彼が自分で料理をすることが出来たら私が来なくてもひとりで生活が出来るようになるし、早くその段階に行けたら良い。胸に過った寂しさなんて、気のせいだ。
「いつになれば水を入れるんだ?」
「こんがりと良い焼き目ができたら、ですね。もう良いでしょう」
言って、私は三人前ほどの水と切っておいたニンジンとキャベツを鍋に投入した。
「野菜に火が通ったら塩と胡椒で味付けをして完成です」
「意外と簡単なんだな」
「そうですよ。難しいことなんて何もありません」
ふつふつと鍋に火をかける横で、オムレツを焼く支度をする。新鮮な卵をボールに割入れて、そこに少量の牛乳と塩を入れてチャカチャカとかき混ぜる。今日のオムレツは中に何も入れないプレーンのものだ。ジャガイモとかチーズを入れたのも私は大好きだけど。
熱しておいたフライパンにバターを滑らせると、じゅわりと溶けて部屋中に美味しい香りが広がる。うう、お腹すいてきた。
「オムレツは速さが命なんです」
オズヴァルドさまが真面目くさった顔で頷いたのに笑みを漏らして、私はそのフライパンに卵液を一気に流し込む。十秒ほど待って、ぷくぷくと卵が泡を作ったらそれをつぶすように全体をかき混ぜる。半分に寄せて形を作ったら固まり切ってしまう前に火からおろして、手首を使って皿に載せた。
「……良かった」
思わずそう呟いたのは、私のオムレツの成功率は半分ほどだからだ。二回に一回は、焦げ付いたり皿に載せる拍子に形が崩れてしまう。
オズヴァルドさまは、オムレツを見て「おお」と言った。
「これはすごいな。王宮の食堂のものと見比べても分からないんじゃないか?」
「それはほめ過ぎですよ」
でも、嬉しい。私はその笑みのまま彼にボールを渡した。
「じゃあ、次はオズヴァルドさまの番ですよ」
「えっ、俺も作るのか?」
「もちろんです。料理は実践あるのみですから」
渋る彼に卵を渡す。卵一つ分のオムレツふたつくらい、男の人ならぺろりと平らげるだろう。
「あっ、卵の殻はボールの端で割るより平らなところで割った方が破片が入りにくいです」
「ああ、なるほど。確かにその方が卵の接触部分が広い。あなたは賢いな」
良く分からなかったが、褒められたので微笑み返しておいた。見よう見まねで卵液の入ったボールをかき混ぜるその手つきはぎこちない。大方混ざったところで、いよいよ焼くところだ。
「行くぞ」
私はごくりと息を飲んだ。人が料理をするのを見るのって、自分でするより緊張するんだ。知らなかった。
じゅわっと音を立てて小さめのフライパンに卵液が広がる。オズヴァルドさまの手によって完成したそれは……、美味しそうなスクランブルエッグだ!
「……難しいな、料理」
オズヴァルドさまはぽつりと呟いた。家庭料理で重要なのは過程じゃなくて結果ですから!だから、そんなに肩を落とさず。次は薄焼き卵あたりを狙いましょうか。
何はともあれ、料理は教えられた。自分に与えられた役割をしっかり果たせたことにほっとして、私はオズヴァルドさまに声を掛けた。
「パンは、さっきパン屋で温めてもらいましたからまだ冷めていないと思います。ここに残った豚肉の燻製を置いておきますから、明日の朝にでもパンに挟んで食べてください。ミーツのご飯も、ここに置いていくからね」
キッチンの机の上に並ぶのは、オムレツに豚の燻製入り野菜スープ、そして柔らかい白パンだ。栄養が偏っているわけでもないし、そこそこ良いメニューと言えるのではないだろうか。しかし平民にしては量が多いけれど、貴族にしては少ない。魔術師のオズヴァルドさまにはきっと少ないだろう。時間が満足にあるわけではなかったから料理数が足りないのは今後の課題だ。今日の所は足りなければ多めに買った豚の燻製やパンで我慢してもらおう。
いつの間にか帰ってきていた猫にも話しかけると、ミーツは「にゃお」と短く返事した。やっぱり賢い。
「じゃあ、私はここで失礼します。また何かあれば」
「ユリアさん」
私の話を遮ったのは、オズヴァルドさまの落ち着いた声だ。
「もう帰らないといけない時間なのか?ご家族があなたの帰りを待っている?」
「いえ、この時間は宿屋が忙しいので私の帰りなんて気にしていないと思いますが。ああ、でもダフネルさんは気を揉むかも」
私の護衛のダフネルさんは、オズヴァルドさまの家に居る時は危険が無いと判断して家で待っているか、帰る際に迎えに来てくれるかしている。どちらにしても私が家へ帰らないと彼も帰れない。
「ダフネルさん?」
そう聞いたオズヴァルドさまは、突然気を抜かれたような顔をしていた。初めて見る表情だ。
「はい。お話したことはなかったですか?私の護衛をしてくれている人です」
「ああ、そうなのか。では、あなたの家には使いを送る。だから」
そこで、彼は私の左手を取った。まるで手に口づけでもするかのように、私の指を彼の口元に近付けて
言う。
「良ければ俺と一緒に食事を摂ってくれないか」
「……っ、はい!もちろん!」
顔が赤く染まっているのが分かる。どうしてこう、気障な仕草が似あうのだろうかこの人は。顔を隠そうにも、手を取られているので身動きが取れない。オズヴァルドさまは動揺する私の顔を見てくすりと笑って、手を離してくれた。触れられていたところが、痛みを孕むかのようにじんじんと熱を持つ。けれどそれは、痛みなどではなくむしろ。
そこでわざと思考を放棄して、私は二人分にするためにテーブルを整えた。その間、オズヴァルドさまは何事か唱えて銀色の粒のようなものを窓から送っていた。あれが、私の家への使いだろうか。
「じゃあ、頂こうか」
「はいっ」
オズヴァルドさまの言葉に合わせて、食事の前のお祈りをする。それが終われば、いよいよ実食だ。
「――美味しい、な」
私の作ったオムレツを口に運んで、彼はぽつりと言葉を落とした。
「良かったです」
私は、心の底からそう言った。自分のつくったものを美味しいと言ってもらえるのは、本当に嬉しい。
「オズヴァルドさまのオムレツも美味しいですよ」
「それはオムレツじゃなくてスクランブルエッグだろう」
ぷい、と彼は拗ねてそっぽを向いた。私よりずっと大人であるはずなのに、こどもっぽいその仕草がおかしい。思わず笑ってしまうと、オズヴァルドさまは視線をこちらに戻して語り始めた。その深い青の瞳は、ひどく凪いでいた。
「今まで俺は『料理を美味しくする魔道具』を作ろうとして、うまく行かなかったんだ。それも当たり前だな。食事を上手いと感じない人間に、そんなものが作れるはずもない」
「……ずっと、美味しいと感じていなかったんですか?」
「ああいや、そんな顔をしないでくれ。母が生きていたこどもの頃は違った。けれど、そうだな。母が死んで、ひとりきりになってからはただ命を繋ぐために必要なものとしか思っていなかった」
それらは決して良い思い出ではないだろうに、あなたはどうしてそんなに穏やかな目をしているのだろう。けれど、今の私にはそれを聞くことなど当然出来そうも無かった。
「あなたと料理をして、こうして向かい合って座って食べる食事は、とても美味しい。ありがとう、ユリアさん」
「……っ。どういたしまして」
私が絞り出せたのは、そんなありきたりな言葉ひとつだけだった。
その時の私は、ただただ彼の微笑みの裏にある何かを知りたかった。