#3 彼について
オズヴァルドさまの部屋で本の雪崩が起こった後、私はオズヴァルドさまに聞いてみた。
「……ああいう本の山の崩壊は、魔術で止めることは出来ないんですか?」
例えば時間を止めるとか。あ、でも時間を止めてしまったら結局魔術が解けたときに崩れるのは免れないか。私の問いに、オズヴァルドさまは首を振った。
「魔術は万能ではない。魔術には呪文が重要なんだ。主と俺たち魔術師をつなぐものだからな」
「主、って呪文を唱えたときにもおっしゃっていましたよね」
初めて聞いた言葉だ。私が理解できていないのに気が付いて、オズヴァルドさまは教えてくれた。
「主とはこの世界を創った創造主のことだ。魔術師は主の力を借りて魔術を行使する」
「創造主……?と、いうと始祖さまのことですか?」
始祖さまとは、国王さまの祖先であり、三百年ほど前にこの国を作った方だ。
しかし、オズヴァルドさまは否定した。
「創造主とは、この世界そのものをつくった方を差す。例えば――俺たちの頭の上には空が広がっていて、夜になると月や星が出るだろう?」
オズヴァルドさまが人差し指で上を差したのにつられて、私も上を見た。室内だから当たり前だが、クリーム色の天井だった。ちなみに私たちはまだオズヴァルドさまの店兼お家の廊下に居る。私はそこまで厳しいしつけをされたわけではないから廊下に座り込むのに特に抵抗は無いけれど、恐らく高貴なお育ちであろうオズヴァルドさまは平気なのかな。
「そのほかにも、草木や大地、人間を含むすべての生き物などこの世界の一切合切を創った存在を創造主という」
へええ、すごい方だ。そんな方なら、魔術を使うのもお茶の子さいさいだろう。
「と、話が逸れてしまったな。呪文は主に魔術を使う許可を得る際の呼びかけのようなものだ。そして、その後に主は魔術師に答える」
「どうやって答えるんですか?」
彼の話から察するに、この世界をつくったという創造主は私たちよりはるかに大きい――と、いうか概念体のようなものだろう。そんな人が、「いいよー」とか「りょうかーい」とか返すのは間抜けな気がする。
「沈黙をもって返事とするんだ。俺が呪文を唱えたあと、少しの間があっただろう?」
確かにあった。あの、時が止まったような不可思議な感覚がする時間のことだ。
「じゃあ、魔術には呪文とその間が不可欠だから緊急のときに使うのには向かないってことですね」
私がそう言うと、オズヴァルドさまは出来の悪い生徒がやっと理解したときの教師のように緩く笑った。
「その通り。それと、魔術に必要なものはもうひとつある。イメージだ」
「イメージ?」
「例えば、ミーツを見ていてくれ」
私がオズヴァルドさまに抱かれた白猫をじっと注視すると、彼は目を瞑って呪文を唱えた。
「主と魔術師オズヴァルド・ブランドルの名の下に。この猫の毛を赤に染めよ」
そう言ったあとには、一瞬の沈黙。そうして、瞬く間にミーツは白色から赤色に変わった。ミーツも突然自分の色が変わったことに驚いて、にゃあと鳴き声を上げた。
「……少し、残念な気がしますね。雪みたいに綺麗な白だったのに」
「心配しなくても良いぞ。すぐに戻るからな」
その言葉通り、数分も立てばミーツの毛の根元から白が戻ってきた。
「今も俺は毛の内部の構造をイメージしながら魔術を掛けたんだ。そもそも生き物の内部の構造と言うのは、小さな箱のようなものがびっしりと集まっているものなんだ。その中に栄養を吸収する部分、酸素を取り込む部分……」
オズヴァルドさまは生き物の体の構造から、猫の毛を如何にして染めるのかを説明した。私は「はい」「なるほど」「そうなんですねえ」という相槌をローテーションしていた。
「……そんなわけで、イメージが重要なんだ。ところが、料理はそうもいかない」
「そうなんですねえ。……あっ、それが私に仕事を依頼なさったことと関係しているんですか?」
ようやく私にもわかりそうなことに話が戻ってきたことに気が付いて、難しい顔をなさっているオズヴァルドさまに聞いてみた。彼は「そうだ」と頷く。
「人の体の構造なんかは本を読めば理解できたんだが、料理はいくら料理本を読んでもうまく想像が出来ない。そこで、あなたに料理の手順を教えてほしいと」
そういうことか。何故私にはさっぱりな人の体の構造が理解できて料理は理解できないのだろうということは置いておいて、料理の結果よりも過程が重要なのなら確かに専門の料理人じゃなくても事足りる。
「けれど、どうして料理の魔術を使う必要があるんですか?」
お金持ちなら専属の料理人が家に居る。オズヴァルドさまのお家もきっとそうだろう。わざわざ魔術を使う必要なんてないのだ。
「俺が完璧な料理を作れるようになる必要はない。家庭料理の手順さえ知ることが出来れば良いんだ。料理人を雇ったり、毎日外に食べに行く金銭的な余裕が無い家は奥方が家で料理をするだろう?その時に俺の魔道具が助けになれないかと思ってあなたに依頼したんだからな」
「と、言うとオズヴァルドさまの魔道具は庶民が使うためのものなんですか?」
「ああ。俺の目標は魔道具や魔術が今よりもっと多くの人に広がることだからな。この国で一番多いのはそういった層だ」
そう言うオズヴァルドさまのブルーの瞳は、とても真剣な色を湛えていた。腕の中のミーツが「にゃあ」と甘えるように鳴くと、彼は猫の頭を撫でて立ち上がった。
「あなたに仕事をしてもらうのは店と、こちらのキッチンになる。どうぞ」
その言葉とともに、オズヴァルドさまは手前の扉を開ける。私が内心戦々恐々としながら扉の奥を覗いてみると、予想に反して奥の部屋よりは大分ましだった。こちらにもそこここに本が置いてはあるけれど、足の踏み場はある。四人掛けの木の机の奥には、こじんまりとした使いやすそうなキッチンがあった。オズヴァルドさまに許可を得て、傍らの棚なんかも覗いてみる。
「食材はもう買ってあるんですか?」
「いや、まだだな。何がいるのか分からなくて」
……この人、二十代後半のように見えるけれどさっきの部屋の様相しかり、あまり生活能力は無いのかな。無理もないか。宮廷魔術師さまならば、家に生活すべての面倒を見る使用人がいたんだろうし。
「そうですか。じゃあ料理をお教えするのはまずそこから、――わっ」
棚を閉めるために一歩下がった途端、積まれていた本に躓いて私の視線が一段下がった。倒れる、と思った瞬間後ろから私の腰を捉えたのはオズヴァルドさまの腕だった。すらりとしていると思っていた腕は意外にも筋肉がしっかりついていて、私のものとはまったく違う。首元に彼の吐息が掛かって、思わず肩が跳ねた。
「大丈夫か?」
耳元で話さないでください!転びそうになったところをまたもや助けてもらったことも忘れてそう思ってしまうほどには、私は動揺していた。アンの言葉が頭にフラッシュバックして、頬の熱が高まる。しかし私の腰に回っていた腕にぐっと力がこもったその瞬間、遠慮のない重みが私にのしかかってきた。
「オズヴァルドさま⁉」
私が赤面していたことも忘れて、彼に声を掛けるとオズヴァルドさまはばっと体を起こした。
「悪い、少しぼんやりとしてしまった様だ」
「……あの、オズヴァルドさま。今朝ってなにを食べました?」
「今朝?えーと、角のパン屋のバケットだな」
「昨日の夜は?」
「角のパン屋のバケットだな」
「昨日の昼……いや、もう良いです」
私はその時はじめて、目の前の人の金色の髪がこの前会ったときと比べて艶を失っていることに気が付いた。
「少し失礼します」
声を掛けて、青の瞳に対面する。その頬を両手で包んで、目の下の膨らみをぐっと下げた。
「……ユリアさん?」
「多分、貧血だと思います。この数日間パンしか食べてないのならふらつくのも当たり前です」
オズヴァルドさまの場合、節約志向というよりはあまり食に興味をお持ちでないのだろう。
あの本の量と言い、さっきの立て板に水を流すような説明っぷりと言い、どうにも彼は研究者気質っぽい気がしてならない。それも、研究に没頭してしまうと寝食を忘れてしまうタイプの。
「このままの食生活を続けていたら本当に倒れてしまいますよ。睡眠はきちんととっていますか?」
「あー、昨日は新しく取り寄せた本を読んでいたんだ。でも、一昨日は昼の数時間ほど寝たぞ」
「それは睡眠というよりも午睡です」
訂正。この人は生活能力がないというよりは、研究第一の人なのだろう。人りで暮らす前には彼を気遣う人が居たのだろうが、ここに越してきてからはセーブしてくれる人が居なかったために寝食が疎かになってしまったのだろう。
「取り敢えず、今日はうちの宿屋で夕食を摂った方が良いと思います。けれど、あそこは無駄に高いから毎日通うとなるといくら宮廷魔術師さまでも厳しいでしょうし……」
うちの宿屋に併設しているレストランは、味はもちろん良いのだが高級志向なだけあってサービス料なんかも取るのだ。そのためそこらの定食屋の二倍三倍値が張る。それだからこそ価値があるのだと父さんは言っていたけれど。しかしそうは言っても、オズヴァルドさまは宮廷魔術師さまだったのだから定食屋なんかの庶民の味には慣れていらっしゃらないだろう。
あれこれ考えながらふとオズヴァルドさまの方を見ると、彼は何とも言えない妙な顔で私を見下ろしていた。これまで常に彼の顔を彩っていた笑顔は跡形もなく抜け落ちていて、けれども私は何故だかその顔の方が彼らしいような気がした。
その時ふいにミーツが「みゃあ」と足元に擦り寄ってきたことで、私は物思いから浮き上がった。そして、先ほどまでとは違った理由で赤面した。彼らしいってなんだ。数日前に会ったばかりのくせに。それよりも自分が突然お顔を触ってしまったりずけずけとものを言ってしまったことに気が付いて、私は慌てて頭を下げた。
「すみません、失礼なことを申し上げてしまって。私はただお仕事のお手伝いに来ただけなのに差し出がましかったですね」
「ああ、いや。少し……その、何ていうか。そう、不思議に思ったんだ。俺を心配してくれる人なんて久しくいなかったからな」
「だが、ありがとう」と言った彼の目じりの皺が深くなると同時に私の胸の鼓動が高まった。それを知らないふりをして、私は視線を床に落とした。
「ええと、食事だな。どうすれば良いだろうか……」
オズヴァルドさまが腕を組む。さらり、と金の髪が目にかかった。
……どうしよう。これを言ってしまっては図々しいだろうか。けれど、オズヴァルドさまはありがとうとおっしゃってくれたし。ええい、迷惑そうな顔をされたら一瞬で撤回すれば良い。
「良ければ、料理をする際にオズヴァルドさまの食事を用意しましょうか?もちろん慣れてきたら街の定食屋なんかもお教えします」
さあ言い切った。何となく彼の顔を見るのが怖かったけれど、瞬間的に撤回するためにも顔色を窺わなければ。そう思ってオズヴァルドさまの顔を見上げた。
「本当か?」
――ぱああっと、暗かった彼の顔が明るくなっていた。一気に肩の力が抜けた。何だ、初めて会ったときは胡散臭い人だと思ったけれどそうでもないのかもしれない。今の印象は、存外に分かりやすい人だ。
「とても助かる。ああでも、何か対価を支払わなければならないな。これ以上金、……は必要ないか」
私はこくりと頷いた。料理を教えたり商品の感想を言うことに対しては私の身を守る魔道具を作っていただくことが給与の代わりとなっているが、これでも大きな商家の娘だ。自分で言うのも何だけれどお金には不自由していないから渡されても使い道がない。と、考えてふと閃いた。
「じゃあ、あの。勉強を教えてくださいませんか?」
「勉強を?」
首を傾げたオズヴァルドさまに、私は鞄の中からあるレポートを取り出した。
「これなんですが」
「どれ……。ああ、歴史のレポートか?」
昨日カロリーネやアンと一緒に図書館に行ってから入れっぱなしにしていたものである。結局三人で数時間粘っても仕上げられなかったそれは、百年ほど前に起こった横領事件についてまとめよという内容だ。
その事件は当時の宰相から大臣、果ては王都の孤児院まで関わっていてとても羊皮紙数枚にまとめられそうもない。かといって長々とまとめることも出来ず手を焼いている。商家の夫人にも社交は必須だ。その時に国の歴史も知らないでは淑女として恥ずかしい、とのことで私の通っている学校では歴史教育を重視している。けれど百年も前の横領事件について話すお茶会なんて、そもそも私は参加したくない。
「これは、確か分かりやすい本があったはずだ。だが、勉強を教えるだけで良いのか?」
「はい!」
私たちにとっては死活問題だ。大きく頷くと、オズヴァルドさまはくすりと笑って奥の部屋へと戻って行った。
ばたんばたん、どんっ、わっ!と、大きな音がしてオズヴァルドさまは一冊の本を携えて戻ってきた。ちなみに最後のわっ、は本の倒れる音に驚いた私の声である。関係なかったか。
「大丈夫ですか……?」
「ああ」
埃を被っていても、彼はきらきらしい笑みである。いっそ感心してしまうぐらいに。
「十年ほど前に書かれた本ではあるが、学生向けでとても分かりやすい。今は出版されなくなってしまったから書店や図書館には無かったかもしれないが」
「はい、初めて見ました」
「非常に残念なことに、これを書いた教授が学会に異分子とみなされて排斥されてしまったからな」
……何したんだろう、この教授。ともかく、私はオズヴァルドさまにお礼を言って本に目を通した。おお、図式が載っている。
「もし分からないことがあれば俺に聞いてくれれば良い。こう見えても、学生時代には歴史で優を取ったから少しは力になれると思う」
「ありがとうございます!」
「こちらこそ、だな。それじゃあ、今日はこんなところにしよう。随分と遅くなってしまった。あなたの家の方が心配しているはずだ」
「えっ。まだ何もしていないのに、良いんですか?」
「ああ。料理や商品のことはまた次にしよう。何より今日は俺の可愛いお医者さまにちゃんと食事を摂っ
た方が良いと診断されたからな。あなたを送るついでにレストランに寄ることにするよ」
オズヴァルドさまは、そう言うと悪戯っぽくぱちりと片目を瞑った。俺の可愛いお医者さま。それは、もしかしなくても私のことか。
固まってしまった私の背中を優しく押して、オズヴァルドさまは外へと続く扉を開けた。
オズヴァルド・ブランドルという人は、不思議な人だ。初めて会った時の胡散臭い笑顔も時々顔を覗かせるが、私にお礼を言った時の笑みは心からのもののように感じた。宮廷魔術師さまで、王都でも滅多に見ないような美形で、研究者気質で、そして生活能力が皆無の人。どれが本当の彼なのかは……これから知っていけると思って、良いのかな。