#2 魔術師さまの本当の姿
翌朝。着替えをしてから居間に降りて行くと、父さんが忙しなく朝食を取っていた。
「おはよう、ユリア。ブランドルさまの手伝いはいつからだい?」
「明日から。ねえ父さん、もうブランドルさまはお泊りではないの?」
「ああそうだ。家が見つかるまでというお話だったからね」
そう言えば昨日もそのようなことをおっしゃっていたな。でも宮廷魔術師は宮廷、もしくはその周りに広がる貴族屋敷のなかに家があるはずなのにどうして市井で家を探す必要があるのだろう。
「ユリア、あんたももう時間でしょう!早くしないと学校に遅れるよ」
「今出る!」
母さんの言葉にはっとして、鞄を引っ掴んでそのまま部屋を出た。玄関に向かうと、いつもの通り護衛のダフネルさんが居たので挨拶して共に家を出る。
私が通っている学校は、主に裕福な商家の娘が通う女学校だ。学校と言えば昔は貴族のお坊ちゃまの通うものであったが、昨今では嫁入りの際に箔をつける必要があるらしく私も通っている。授業の内容は算術や政治より、淑女としての教養や裁縫なんかが多い。教養はともかく実際に私が生活の中で裁縫をする必要なんてないのだが、使用人に指示をする際そのやり方が分かっていないと具合が悪いということらしい。私は手先を使う作業が得意なので裁縫や料理は好きだ。
と、考えているとうしろから声を掛けられた。
「おはよう、ユリアさん」
「カロリーネ!おはよう」
「ダフネルさんも、おはようございます」
カロリーネがスカートの端をつまんで淑女の礼をした。ゆっくりと顔を上げたその目はうっとりとハート形になっている。どう見ても友人の私より護衛のダフネルさんへの挨拶の方が丁寧なのは、国中に商品を流通させている材木商の娘であるカロリーネがダフネルさんに惚れているからだ。いや正確に言えばダフネルさんの筋肉に、だ。毎日のことであるから彼も小さく頷き返した。ダフネルさんはとても良い人ではあるけれど話し相手には向かない寡黙な人なのだ。カロリーネに言わせれば、『そこがまた良いの!』だそうだが。
「カロリーネ、昨日のミシュエル夫人の課題もうやった?」
「手だけは付けたわ。でも繋がりが煩雑でまとめるのには苦労しそう」
「そうだよね。締め切りが近くなればあの子が泣きついてきそう」
「今のうちに三人でまとめてやっつけてしまうのも手だわね。……っと、噂をすれば」
「おはよう!ユリア、カロリーネ」
赤銅色の髪をなびかせた少女――アンナは、課題のことを聞くときょとんとした顔をして首を振った。
「やってない!」
「どうしてそんなに自信満々なのか分からないんだけど」
「だってあのレポートの締め切りは来週だよ?課題は一日前に手を付けるのが私のポリシーだもん」
「……カロリーネ、今日の放課後は図書館に変更ね」
「分かったわ」
「えっ、今日は最近出来た喫茶店に行く予定だったでしょう⁉」
「あなたのためよ」
きっぱりと言い切ったカロリーネに、アンは泣きそうな顔をした。あとで困るのはアンなのだから、仕方がない。
「あ、そう言えば。前に話していた五番街の菓子店のこと覚えてる?あそこの紹介券を頂いたんだ。その課題が終われば一緒に行かない?」
「えっ、あそこの⁉どうして手に入れたの?ユリアのお父さんの伝手?」
「さすが、ディールス家は違うわね」
「ううん、父さんの伝手じゃないよ。ある人から貰ったの」
「ある人?」
首を傾げたカロリーネとアンに、私は昨日の出来事を説明した。話し終えると、カロリーネは怪訝そうな顔をした。
「……その人、本当に宮廷魔術師?魔術師なんて本当に王宮にしか居ないものよ。城下に居るなんて信じられないわ。それも、ユリアさんに仕事を頼むなんて」
「どういう意味よ」
「けれど、あそこの菓子店の招待券を持っていたとなると本物なのかしら。ねえ、お名前はなんていうの?」
「ええと、オズヴァルド・ブランドルさまと」
「オズヴァルド・ブランドル⁉」
きいん、とカロリーネの声が学校前の道に響いた。歩いている生徒や教師の視線が集まるのにも注意を払わず、彼女は呆然としている。
「カロリーネ?どうかした?」
アンが目の前で手を振ってみると、カロリーネはかっと目を見開いた。
「ブランドルと言えば魔術師の御三家筆頭だわ。なかでも長男のオズヴァルドさまは王子の覚えめでたく、魔術の腕も一流だって……。ユリアさん、オズヴァルドさまにお会いしたの⁉」
「だから、そうだって言ったじゃない」
私とアンはこっそりと目くばせを交わした。出た、カロリーネのミーハー。彼女は大層な王室フリークで、建国祭の王家の方々のお目見えには毎年足を運ぶほどだ。そんな彼女の将来の目標は王宮で侍女として働くことであり、いまお家のコネを使って色々と画策している。
と、興奮しているカロリーネをよそにアンが心持ち声を抑えて聞いてきた。
「お仕事ってふたりきりなんだよね?」
「ええと、多分そうだと思うけど。大々的な手伝いの募集が出来ないっておっしゃってたし」
「きゃあ、どうしよう!健康な若い男女が密室でふたりきり!料理を教えているうちにふとオズヴァルドさまの手がユリアの手に当たったりなんかして、重なる視線!伝わる熱!きゃああユリア、気を付けてね⁉」
「…………」
そうだ、カロリーネだけではなくこちらも相当に面倒なのだった。人りで真っ赤になっているアンは恋に夢見る女子、というか拗らせているというか。私と同じく若い男性と関わりの少ない彼女はそういった類の小説を読むことが趣味であり、恋愛の話になるとこういう状態になってしまう。
ぽーっとしてしまったふたりを置いて、私はダフネルさんに別れを告げて学校に入っていったのだった。
***
「ユリアさん?」
きょとり、とブランドルさまの濃青がわたしを見つめていた。
「あ……っ、ごめんなさい。ブランドルさま」
「ブランドルじゃなくてオズヴァルドで良いぞ」
はい、と頷いて私は意識を彼の方に戻した。いけない、ぼーっとしてしまっていた。
私とオズヴァルドさまは、いま街の大通りを歩いている。オズヴァルドさまのお手伝いをするためにお店に伺う今日、オズヴァルドさまは家まで迎えに来て下さったのだ。魔術師である彼も一緒だということで、護衛のダフネルさんは休憩中である。
今日のオズヴァルドさまは、はじめて会った時の様ないかにも魔術師然とした黒いローブ姿ではなく、庶民のようなラフなシャツにズボンと言う格好だ。それでも、美形と言うのは何を着ても絵になるというのを証明するように街行く女の子たちの視線を一身に集めている。ああ茶髪のお姉さん、私を睨まないでください。彼の隣には私なんて似つかわしくないことは十分に分かっていますとも。
「あの、オズヴァルドさま。私に料理を教えて欲しいとおっしゃってましたがどうして料理を?」
視線を紛らわすために、ずっと気になっていたことを聞いてみた。オズヴァルドさまはうちの宿屋に一週間も泊まっていたのだから、相応にお金持ちであるはずだ。自炊で節約する必要はないし、もし家で食事を取りたいということならば私ではなく専属のコックを雇えば良い。私は料理が出来ると言っても空いた時間に宿に併設されているレストランで習った程度で、専門家には敵うはずもない。
「中に入って説明しよう。ほら、ここが俺の店だ」
「わあ……!」
「まだ開店前なんだがな」
扉を開けたオズヴァルドさまの隣で、私は感嘆の声を上げた。
店中に棚が並べられ、その上には小瓶や紙や箱なんかが無造作に載せられていた。統一感はなくどちらかというと雑然とした印象だが、それが逆に味のある雰囲気を感じさせている。ひとつの棚の前に行くと、オズヴァルドさまは立ち止まった。
「ユリアさんは魔術を見たことはあるな?」
「え?……いいえ。ありません」
「俺が誘拐犯に追われているあなたを助けた時に見たはずだ」
誘拐犯に追われているとき……。ああ、オズヴァルドさまが何かを唱えた後に男が倒れたアレのことか。確認してみると、彼は神妙な顔をして頷いた。
「その時のことだ。あれは昏睡の呪文だったんだが、つい効きすぎてしまってあなたにも魔術が掛かってしまった。申し訳ないことをした」
「いいえそんな!オズヴァルドさまが謝る必要なんてないです!オズヴァルドさまがいらっしゃらなければ私は誘拐されていましたし」
「そうか?」
彼は困り眉のままふわりと微笑んだ。うわあ格好良い……じゃなくて。
「あれが魔術だったんですね。じゃあもっとよく見ておけば良かった」
「もう一度見せようか?」
「良いんですか⁉ぜひ!」
私が頷くと、オズヴァルドさまは店の奥からローブを持ってきてシャツの上にそれを羽織った。そう言えば私を助けてくださった時も真っ黒なローブを着てらっしゃったし、魔術を使う時には必要なものなのか。お伽噺の魔術師も大抵杖とローブが標準装備だし。
そう思って聞いてみると、「雰囲気づくりだ」だ、そうだ。雰囲気……?
「行くぞ」
オズヴァルドさまは、棚の上にあった万年筆に触れると力を込めるように目を瞑った。
「主と魔術師オズヴァルド・ブランドルの名の下に。我の意のままに動き、筆記するように。この万年筆に主の力を宿せ」
そう唱えると、この前と同じように時が止まったような不思議な沈黙があった。それも一瞬のことで、彼が目を開けて手を放すとスイスイと万年筆が動き始めた。まるで、見えない誰かが動かしているように滑らかだ。
「すごい!」
「書いている内容は大したことないものだが」
何でもないことの様にオズヴァルドさまは言うけれど、私ははじめて見る魔術に釘付けだった。
「この魔術は数日しか持続しない。半永久的に持続させようとするともっと大変になる」
「数日も持続するんですか⁉」
魔術ってすごい!これで書いてもらったら、課題のレポートなんてすぐ終わりそうだ。
「私も魔術が使えたら良いのになあ……」
「そこで、俺が研究している魔道具の出番なんだ」
オズヴァルドさまは得意気な顔をした。
「魔道具とは、魔術師でなくとも魔術を使えるようになる道具のことを言う」
「へえ、初めて聞きました」
「研究しているのは俺人りだからな、無理もない。それに……」
オズヴァルドさまの金色の髪がさらりと揺れ、その顔に翳を作った。きゅっと形の良い唇を結んだその表情は、何かを耐えているように見えた。
「オズヴァルドさま?」
「……あ、いや。何でもない。例えば、これだ」
ぱっと笑顔を作った彼は、棚の上からひとつの万年筆を取った。さっきのものと同じで、何の変哲もなさそうに見える。
「これには、俺の魔力が込められている。手に持ってみてくれないだろうか」
促されるままに、その万年筆を握る。
「なんでも良いから一文字書き付けてみてくれ」
言われた通りにしてみると、私の持った万年筆が急に手の中で暴れ始めた。慌てて手を放すと、棚に置かれた紙の上に何やら記し始めた。
「私でも魔術が使えるようになるんですね!」
「この万年筆にかけた魔術は数分で効果が切れるから、まだ余興の域を出ないが」
「それでもすごいですよ!うわあ、夢みたい!」
「そんなに喜んでもらえるのを見ると何だか照れるな。それで、さっきのあなたの質問の答えだが、」
「にゃあっ」
その鳴き声は、もちろんオズヴァルドさまのものではない。突然現れた白猫は、慣れたように彼の腕に収まった。
「可愛い。オズヴァルドさま、もしかしてこの猫って使い魔とかですか?」
ごろごろと喉を鳴らすその猫は、いかにも賢そうに見えた。絵本でも魔術師は黒猫やイモリなんかを使役していることが多いし。私がわくわくと答えを待っていると、
「期待させてしまって悪いが、この猫はただの同居人だ。いや同居猫か?」
と、オズヴァルドさまは本当に申し訳なさそうに答えた。こちらこそ気を遣わせてしまって申し訳ありません。子どものようなことを言ってしまったかと気恥ずかしくなっていると、白猫は短く鳴いて、顎に手を置いて同居猫か同居人かどちらが正しいのか考え込んでいたオズヴァルドさまの腕から逃げて行った。そのまま、奥へと続く戸をするりと入って行く。
「あっ、奥は……。申し訳ないがユリアさん、一緒に来てもらえるか」
「はいっ」
少し長めの黒いローブの裾を腕まくりして、オズヴァルドさまは猫の後を追う。慌てて私も彼の背についていった。
「こっちに入って行ってしまったのか。ミーツ!」
ミーツ、というのが猫の名だろうか。戸の先は廊下になっていて、右手には茶色の扉がふたつあった。
奥の方の扉が少し開いていて、オズヴァルドさまは躊躇わずにそちらへ入って行ったので私も着いていく。
すると、目に入ったのは本の山だった。見渡してみても本、本、本……。堆く積まれた本の量は、私とカロリーネとアン三人の一生の読書量を足してみてもその半分にも満たないのではないだろうか。宿屋の中ランクの部屋とそう変わらないほどの広さの部屋にどうやってこの量をというぐらい、たくさんの本があった。しかも棚がないために、ひたすら床に積まれている。
「まだ整理が出来てなくてな」
整理とかの次元の話じゃないと思う。照れくさそうに頭を掻くオズヴァルドさんに心の中でそう突っ込んで、ともかくさっきの白猫——ミーツを探そうとした。しかし、やっぱりと言うか、全く姿が見当たらない。私が途方に暮れそうになったところで、オズヴァルドさまが声を上げた。
「ああ居た、居た。こらミーツ——」
と、オズヴァルドさまが言い終わる前にどすんと音を立てて本の塔が倒れた。もくもくと埃が舞う。……引っ越して数日のはずなのに、どうして埃が。
慌てたオズヴァルドさまがミーツを抱えてその崩壊から避ける。しかし、避けた先にも堆く積まれた本があり、ドミノのように倒れてしまう。
「ユリアさん!とにかく、外に出よう!」
「はいっ」
私を先にして廊下に出て、やっと一息吐いた。ぐいと額の汗を拭った彼は、焦っても全く崩れることのないそのきらきらしいお顔で言った。
「ようこそ、俺の新居へ」
……次々と内部の塔が崩壊する新居は、私の知っている新居じゃありません!