#19 最終話
朝に店を (強制的に)出てから数時間も立っていないのに、何だか随分と長い時間が経った気がする。店の空気を吸い込むと、ようやくほっと一息吐くことが出来た。オズヴァルドさまも私に続いて店の中に入ってくる。
ああ、いつもの店にいつもの通り彼が居る。彼の姿を見失い、そして再び彼が私の隣に立ってくれた今では当たり前だったことがどうしようもなく嬉しいことなのだと気が付いてまた安堵で力が抜けそうになった。
「ユリアさん、巻き込んでしまって本当に済まなかった。俺はあなたに迷惑ばかり掛けているな」
「そんな事ありませんよ」
「いや、そうだ。その度にあなたに助けてもらってばかり居て、本当に申し訳ない」
済まなそうな顔をする彼は、やはり私の様な平民に対して腰が低すぎると思う。だから、私は彼に近付いて言った。
「オズヴァルドさま、少し失礼します」
「なんだ?」
不思議そうな顔をする彼の言葉を無視して、私はその体にぎゅっと抱き着いた。オズヴァルドさまはお優しいから、たとえこんな行為が失礼に当たるとしても許してくださるはずだ。
「ユリアさん⁉」
オズヴァルドさまのびっくりした声が降ってきた。しかし振りほどかれる気配はない。私はそれに甘えて募る愛おしさのままにぎゅうぎゅうとその体を抱きしめた。
「オズヴァルドさま、好きな人に危機が迫っていたら助けに行くのは当たり前です。だから、そんなに謝らなくても良いんです」
ゆっくりと私の体に彼の腕が回ってきた。私の耳元でどくどくと音をたてる鼓動はオズヴァルドさまのものか、私のものか。ううん、どちらでも良いや。いっそ混じってしまえば良い。そうすれば、私の拙い言葉なんて無くてもこの気持ちが伝わるのに。
「良かった、オズヴァルドさま。あなたが傷付かなくて良かった。あなたが、死ななくて良かった」
「うん」
「何度でも私を巻き込んで下さい。もっと私に迷惑を掛けて下さい。……だから、私をあなたの人生に関わらせて」
「うん」
「好きです。私が知らない過去も、痛みも、全部含めて今のオズヴァルドさまのことが好きです。大好き――っ、ふっ⁉」
言葉を重ねようとしたところで、唇を塞がれた。この前の優しいキスとは違う。奪ってしまうような、性急で息も吐けないキス。窒息しそうな寸前で、オズヴァルドさまは私の唇を解放してくれた。私が新鮮な酸素を求めていると、
「悪い、我慢が出来なかった」
とオズヴァルドさまは私を抱きしめたまま言った。
「……今度は私が酸素不足になる前に放してくださいね」
「鼻で息をすれば良いのに」
何と!鼻で息をするとか、そんな裏技があったのか!頭のメモに刻んでおこう。と、オズヴァルドさまが例の甘やかな笑みを浮かべて悪戯っぽい顔で私の目を覗き込んだ。
「一度練習しておくか?」
「遠慮しておきます……」
いやあの、別にキスが嫌だとかそういう訳ではないのだけれど慣れないことはそう何度もするものじゃないと思います。っていうと、オズヴァルドさまは「じゃあ慣れれば良い」とか言ってきそうだから口に出しては言わない。
「とにかく、私の希望としてはオズヴァルドさまにもっと心を許してもらいたいんです。わざわざ謝らなくても私が好きでやってることなんですから」
「ああ。分かった」
「本当に分かってます?」
ニコニコとしたまま受け答えするオズヴァルドさまに、猜疑の目を向けると彼はもちろんと頷いた。
「しかし、俺もユリアさんが好きだから出来るだけあなたの手を煩わせたくはないんだ。俺と居て幸せだと感じてもらいたいからな」
「……私はその言葉だけで十分幸せです」
「そうか。じゃあこれから毎日言おうかな」
「毎日だと、言葉の意味が薄れちゃうじゃないですか」
「そうなのか?」
「そうですよ」
顔を上げると、彼は本当にきょとんとしていたから思わず吹き出してしまった。今の様に自然な彼の表情を見る度に、じんわりとした甘さが体を浸していくのが分かる。ああ、またオズヴァルドさまが私に幸せな気持ちをくれた。
「あなたはいつ学校を出るんだ?」
「えっ?ええっと、来年だったと思います」
唐突な質問だ。私が答えると、オズヴァルドさまは当たり前のことを言うみたいにさらりと言った。
「じゃあ式はそれからだな」
「式?」
「結婚式だ。殿下もああ仰っていたからな。なるべく早く挙げた方が良いだろうが」
結婚!そうだ、私には確認しなければならないことがある。
「……ちなみに、私以外に奥さまを迎えられるご予定はありますか?」
「は?」
返事を聞かなくても、その表情で分かる。どうやら私はずっと勘違いをしていたらしい、と。
「あなた以外に妻を娶るなんて有り得ない。どうしてそんなことを?」
「私とオズヴァルドさまの間には身分の差があるでしょう?それに、いつか魔術師さまは複数の妻を持つものだと仰っていましたし……」
何となく後ろめたくて、我知らず声が小さくなっていく。オズヴァルドさまはひとつため息を吐いて言った。
「貴族とは違い、魔術師は法に縛られない存在だ。俺とあなたの結婚を阻むものは何もない。フレッドに説明したときにあなたにも言っておけば良かったな。それに、ハール殿下は魔術師の特権をほぼ無くしてしまわれるだろう。これからは平民の中にも魔術を使える者が出てくるし、俺は貴い血を引く者でも何でも無くなる。あなたが引け目を感じる必要なんて無いんだ」
バルデュールさまがオズヴァルドさまのお母さまについて仰った時に、もしかしてと思ったけれどやっぱりそうなんだ。彼はそのまま言葉を重ねた。
「それに、俺自身が妾の子だからな。自分が不幸だという意識を持ったことは無かったが、あなたに俺の母のような思いはして欲しいとは全く思わない。あなたとの子を俺の様な境遇に置きたくもない」
「はい」
強張った表情をしていたオズヴァルドさまは、私が頷くと目じりを緩めた。
「俺の人生をかけて、あなたを幸せにする許可をくれるか?」
「……そんなの、私が断るわけないじゃないですか」
照れ隠しに再びぎゅっとその体に抱き着くと、オズヴァルドさまは軽い笑い声を上げながら抱きしめ返してくれた。
***
それから、魔術師さまを取り巻く状況は一変した。いや、もう魔術師に敬称をつけて呼ぶ人は誰も居ない。それくらい、身近な存在になったからだ。
ハール王子殿下――今ではもうハール国王陛下だが――は即位と同時に魔術を国民に開放することを発表した。オズヴァルドさまの魔道具が王都でかなりの評判になっていたこともあり、それは予想より容易く受け入れられ今では広く魔道具が使われている。
魔術師はと言えば、バルデュールさまの指導のもとで順調にその数を増やしている。貴族だけではなく平民でも希望する者は男女の別なく誰でも魔術師の素質があるか否か試すことが出来るようになり、この仕事を宮廷魔術師の任を解かれた魔術師たちが渋々ながらも請け負っている。王宮から給与が出なくなった魔術師たちに対して、現実はシビアだったらしい。
そうしてバルデュールさまの下で魔術を学んだ者が多く出ていることで、この頃では至るところに魔術師が居るようになった。宮廷魔術師のようにパーティで華やかな魔術を披露する者も居れば、魔術を使って季節に拘りのない色鮮やかな花の咲く庭を造った庭師も居るし、人の体を癒す魔術で大評判になっている医者も居るとか。今では魔術師はお伽噺のなかの存在などではなく、将来なりたいものとして子供たちに憧れられる職業となった。
そして、オズヴァルドさまの魔道具店は。
「ユリアさん、店を手伝ってもらって良いか?」
「はーい、今行きます!ごめんね、ビアンカ。お母さんはお父さんのお手伝いをしてくるからエドを見ておいてくれる?」
「良いよ。ビアンカはお姉ちゃんだもん!」
「ふふっ。良い子ね。後でお父さんに魔術を教えてもらうよう頼んでおいてあげる」
「ほんとにっ?」
目を輝かせた娘に約束をして、私は急いで店の方に駆けて行った。途中、最近は廊下の日の当たる場所で寝てばかりいる白猫のミーツを避けることも忘れない。
オズヴァルドさまは、対立する勢力がなくなった後も王都で魔道具店を続けている。ハール陛下に研究は続けて欲しいが城に戻っても良いと言われたそうだが、丁重に断って元のままの店で魔道具の販売をしている。
父さんから宿屋を継いで王都一の高級宿屋の経営者となった兄さんとも妙に仲が良く、商工会に加入する際にも色々と相談に乗ってもらっていた。いつの間にか私の子ども時代の恥ずかしい思い出をお披露目する会になっていて慌てて止めたりもしたけれど。
そんなこんなで、商売は順調である。研究熱心なのも変わらないようで、今でも奥の部屋は度々本で溢れてしまう。魔術師が増えたことにより他にも魔道具店はあるのだが、それでも元祖というのは魅力があるようで、今も多くのお客さんが訪れる。……年を重ねても変わらないというか、むしろ年を重ねたことでますます格好良さが増したこの人目当ての女性客が多いことも今でも変わらないが。
「悪いな。……俺の顔に何か付いているか?」
「いいえ?」
「まあ良いか。ビアンカとエドワードは?」
「エドワードは寝ていたので、ビアンカに任せておきました。後であの子に魔術を教えてやって下さいね」
ビアンカとエドワードというのは、七歳と三歳になる私たちの子どもだ。ビアンカは誰かさんに似て本の虫なので、新居を構えたことでいよいよ本格的に書庫と化しているこの店の奥へ行くことをせがまれて今日も店の奥に居たのだ。
「ビアンカは誰かさんに似て魔術への憧れが強いからな」
「誰ですか?」
「さあ、知らないな」
わざと聞き返すと、オズヴァルドさまはふわりと微笑んで私の頭を撫でた。もう結婚して何年も経つのに、今でもその笑みを見る度に胸が高鳴ってしまう。
「すみませーん」
「はい、今行きます」
お客さんに呼ばれてそちらへ行くオズヴァルドさまの姿を見て、私もいつものようにお客さんの応対を始めた。今までの数年と同様に、これから先の何十年もこんな風な何でもない日常の中で何度も何度も自分が幸せであることを噛みしめるのだろうと思いながら。