#16 私の気持ち
どんっ、と大きな音がして私は床に尻をついた。思わぬ衝撃に瞑っていた目を開けると、目の前には大きな体があった。言うまでもなく、オズヴァルドさまだ。その腕は私を庇う様に床に手をついている。
……ええと、状況を整理すると。私が声に驚いてのけぞり体勢を崩したことでオズヴァルドさまも一緒に床になだれ込んでしまい、咄嗟に彼が床に手をついたことで中途半端に押し倒されているようなかたちになっている。先ほど顔が近づいたときは雰囲気に吞まれていたからあまり意識していなかったけれど、今は彼の匂いも体が締まっていることもよく分かってしまってとんでもなく恥ずかしい。彼の顔を見ると、私の緑を映すその目は甘やかに緩んでいた。何故!
「……あの、出直した方が良いかな」
声が言った。慌てて体を起こそうとすると、オズヴァルドさまが背中に手をまわして支えてくれた。今日はお客さんがほぼ来ない上に殿下のご来店で頭から飛んでしまっていたけれど、今は開店中だ。当然お客さんが来たら対応しなければならない。しかし私が声を掛ける前に、オズヴァルドさまがさっきの甘い笑みとは違ういつもの完璧な笑顔で言った。
「いらっしゃい」
「……カトリーヌ、とアン⁉」
驚いた。扉の傍に立っていたのは学校でいつも一緒に過ごしている友達だった。カトリーヌは呆気にとられた顔で固まっているし、アンは顔を真っ赤にして何か言いたそうにぱくぱくと口を動かしていた。その時ぎゅっと肩に力を感じて、そこで初めてオズヴァルドさまの手が肩にまわったままだということに気が付く。意図が分からず彼の顔を窺ってみると、その視線は蕩けた蜂蜜の様に甘く私を捉えていた。私まで赤くなってしまって、勢いで視線を外した。
「ユリアさんのお友達?」
誰も声を発せられない中で、オズヴァルドさまがのんびりと言った。
「えっと、はい。アンナは前に会ったことがありますよね。その横はカトリーヌです」
「私はオズヴァルド・ブランドルだ、よろしく。店はあなたに任せてしまって良いか?」
「はい、ありがとうございます」
オズヴァルドさまが気を遣ってくれて、奥に足を向けた。扉が閉まって完全に彼の姿が見えなくなったところで、やっとアンが声を上げた。
「ユリア!今の、今の何⁉ふたりはどういう関係なの⁉」
すっかり興奮したアンが、がくがくと私を揺さぶる。私はまだ彼女たちにオズヴァルドさまと恋人になったことを伝えていない。言う機会が無かったのと、何となく気恥ずかしかったのがその理由だ。私とオズヴァルドさまが密着している丁度その時にふたりが来たのは良かったのか、悪かったのか。でも殿下がいらっしゃっている時に来るよりは良かったとは確実に言える。
「……今のが例の魔術師さま?」
しかし私が答える前に、カトリーヌが言葉を落とした。アンはオズヴァルドさまを見たことがあるけれどカトリーヌは無いからね。
「そう。本当の宮廷魔術師さまだよ」
「そんな事より、私の質問に答えてよ!いつの間に恋人になっていたの?」
「恋人なの⁉」
アンが声を上げると、カトリーヌがびっくりして私に聞いた。まだ何も言っていないのにアンはどうして分かったのだろう。
「あの体勢は事故にしても、いやあの体勢にもとても驚いたけど、魔術師さまがユリアを見る視線が何ていうか……そう、『好き』って目が言っているような、そんな優しい目だったもん。私たちに向ける笑顔とは全然違った」
「……アンは恋愛小説の読み過ぎだと思う」
『好き』って目が言ってる、って流石にそれは言い過ぎだと思う。私とカトリーヌの微妙な反応に、うっとりしていたアンがはっとして重ねて問うた。
「でも、合っているでしょ?ユリアと魔術師さまは相想いだって」
「まあ、それはそうなんだけど」
「やっぱり!ねえ、いつから⁉言ってくれないなんて水臭いよ、ユリア!」
……こうやってアンが興奮するから言いにくいっていうのもちょっとあったんだよね。とにかく、私は十数日前にオズヴァルドさまが私を好きだと言って下さってそれに頷いたのだという内容の話を簡潔にさらっと話した。アンはもっと詳しくと不満そうにしていたけれど寝る前にひとりで思い返して悶えているくらいなのだから友人に話せるわけないでしょう。
「ふたりには何でもないって言っていたのにごめんなさい。カトリーヌが言ったように身分の差があるから気付かないふりをしていたけれど、思い返してみればずっと前からオズヴァルドさまが好きだったんだ」
「……でも、その身分の差はどうするつもりなの?一時だけ恋人になってから別れるとなれば悪い噂が立ってしまうわよ。結婚するときに不利になってしまうでしょう」
ずっと黙っていたカトリーヌが眉を曇らせて言った。
「うん、でもオズヴァルドさまはずっと一緒にいたいと言ってくださったの。さっきも妻にするとでん……、上司の様な方に報告されていたし」
「妻とするって言っても、ユリアは魔術師さまとは結婚できないでしょ?」
アンの悪気無い一言が私を刺した。ぴりっとした痛みは走るけれど、それは仕方のないことだ。選んだのは私なのだから。
「うん。だから妻のひとり……妾として、オズヴァルドさまの傍にいたいと思ってる」
「妾?」
予想もしていなかったのだろう、カトリーヌとアンの呆けた声が揃った。それはそうだと思う。しかし商家の娘が貴族の妾となることは多いわけではないが珍しくもない。商家は貴族の持つ権力や縁を求め、貴族は商家の持つ富を求めて、政略結婚のひとつとして昔から度々行われてきたことだ。貴族議会の承認が必要となるのは正式な妻だけだから、正式でない妾を何人持とうが問題にはならないし。
「妾って、それ魔術師さまにも確認したの?」
「……そう言えば確認はしていなかったかもしれなかったけれど、平民の私を妻とするにはそうするしかないでしょ?」
「それはそうだけど。うーん、でもあんな目でユリアのことを見ていた人がそんなことするかなあ……」
アンが何かブツブツと呟く隣で、カトリーヌが真剣な目をして私を見た。
「ねえユリアさん。好きな人の傍にいたいと言う気持ちは分かるけれど、妾になっても幸せになれるとは限らないわよ。いいえ、むしろ幸せになれない可能性の方が高いわ。魔術師さまが愛してくださっても、常に日蔭の存在になるし正妻に虐げられても文句は言えないもの。子どもが生まれても後継問題で揉めることは必至よ。暗いことばかり言ってしまってごめんなさい。けれど、今ならまだ噂も立っていないし別れを切り出すことも出来るでしょう?」
「カトリーヌが私のことを思って言ってくれているのは分かってる。でも、もう決めてしまったの」
「ユリアさん……」
「オズヴァルドさまが私のことを好きだと言ってくださった時に、すごく幸せな気持ちになったんだ。オズヴァルドさまが望んでくださっているのはもちろん、私自身が彼の居ない将来に耐えられそうにないから」
明るいばかりの未来ではないことにもちろん不安はあるけれど、私はあの優しい笑みをもう知ってしまった。きっと私は大好きなオズヴァルドさまが名前を呼んで下さる限り幸せで居られると思うんだ。
「わざわざ店に来てくれたってことは、ただ私と話しにきたわけではないでしょ?折角だし魔道具を見て行ってよ」
「……ええ、そうね」
私が明るい声を作って手を叩くと、カトリーヌは意を汲んで頷いた。アンはまだ不服そうだけれどその背を無理やり押して棚の前に連れて行った。
「アン、フェルディナンドさんは?」
「外で待ってる。今日はカトリーヌが居るから話し相手に困ることは無いし」
そう言えば姿が見えなかったので聞いてみた。話し相手、ねえ。
「ユリアさん。これはなに?」
「それは遊びで使う魔道具だよ。手で温めると、数秒で芽が出てあっと言う間に花が咲くの。どんな花が咲くかはその時まで分からないようになってるんだ」
「へえ、フィルが好きそうかも」
カトリーヌが指で指した小指の爪くらいの茶色い種について解説しているとアンが食いついた。お堅そうに見えるフェルディナンドさんが花を好きなのは意外だなあ。
「よく売れるのはどれ?」
「女の子に人気なのはこっちだよ」
はじめはさっきの話題が尾を引いてどこか淀んでいた雰囲気も、きゃあきゃあとはしゃぎながら商品を見ているうちにいつものように楽しい会話に変わって三人とも笑顔になっていた。
カトリーヌとアンがごっそり魔道具を買っていき帰ったあと、ふたりになった店の中でオズヴァルドさまは「今日はもう店を閉める」と言った。
「祭りの影響でもう客は来ないだろうからな。ユリアさんも殿下に会ったりして疲れてはいないか?」
「疲れてはいないですよ。すごく緊張しましたけど」
あの威圧感を思い出しながら答えると、オズヴァルドさまも頷いた。取り留めのない会話をしながら扉の札を掛け替えたり商品を点検していると、彼は棚に見たことのない小瓶を並べていた。瓶の中では可愛らしい桃色の液体がとろりと揺れている。
「それは何の瓶ですか?」
「惚れ薬だ。対象に匂いを嗅がせて使う」
「惚れ薬⁉」
本当に少女小説に出てくる魔術のようだ。オズヴァルドさまは匂いを嗅がせることで脳に作用させるのだと説明してくれた。
「どのくらい効果があるんですか?」
「そこまで強力ではないな。精々目の前にいる人間の良い点に常より気が付きやすくなるくらいだ」
確かに、物語の様に相手に付き纏うようになったり無理やり自分のものにしようとする程の効き目があれば危険だもんね。それくらいが現実的か。
「じゃあ、例えば私がオズヴァルドさまにこれを嗅がせたら効くんですか?」
興味が出て聞いてみると、オズヴァルドは少し考え込んだ後に首を横に振った。
「いや、効果は出ないだろうな」
「あれ、そうなんですか?オズヴァルドさまが術者だからですか?」
聞いてはみたものの、これまでに自分が魔術を掛けた対人用の魔道具は効かないなんて話は聞いたことがない。案の定オズヴァルドさまはもう一度首を振った。
「そういうわけではないが。例を挙げてみると、熱を保つ効果がある鍋を火にかけたままにしていても効果が見えないだろう?」
「そうですね」
「そういうことだ」
「……?」
どういうことだろう。いや、オズヴァルドさまが挙げた例の意味は分かったんだ。熱を保つための鍋は火から下したあとにその効果を発するものだから、ずっと火にかけていてはただの鍋と変わらない。それは分かるけれど、この例を挙げた意図が分からない。頭の良い人の考えることは凡人には理解できないということか。
よく分からないという顔をしている私に、オズヴァルドさまは何故だかひどく甘やかな顔をして微笑んだ。オズヴァルドさまと私が恋人になって以来、彼は私にこの笑みを見せることが多くなった。初めて会った頃から彼は笑顔でいることが多いけれど、その完璧に整った笑い方とはまた違う。お陽さまの熱で溶ろけてしまったバターの様に、ゆるやかに頬や目じりが和んでいるとびっきりに甘い笑みは、しかしとても綺麗だった。私はいつものきらきらしい完璧な笑顔よりこちらの笑顔の方が好きだ。……好きだ。好きなのだけれど、何故だか落ち着かなくなる。更にアンが『好きだと伝えているような』視線だと言っていたのを思い出して人りで照れてしまって、その拍子に一歩下がった。すると、オズヴァルドさまは三歩距離を詰めてきた。どういうことだ。
「簡潔に言うと、俺はもうあなたに惚れているから惚れ薬なんて意味をなさないんだ」
「……なるほど」
首筋にまで熱が集まっていることが分かる。そんなに恥ずかしいことを綺麗なお顔で言わないで欲しい。うう、うまくオズヴァルドさまに目が合わせられなくなってしまっている。
「本当に分かっているか?つまり俺はユリアさんのことが好、」
「わーっ!」
これ以上甘い言葉を重ねられると、耐性の無い私は熱でどうにかなってしまいます!慌ててオズヴァルドさまの口を塞ぐと彼は珍しく眉を寄せて、私の手の平に唇をつけた。ちゅっと短い音がした。
「きゃあっ」
驚いて声を上げると、オズヴァルドさまは瞬く間に私の手首を掴んでしまう。その視線はどこまでも優しいはずなのに、どうしてだか熱がこもっている様な気がした。
「あなたは意外と恥ずかしがり屋だったんだな」
「そう、みたいです」
それはきっと、オズヴァルドさまだからだ。好きと言われるたびに逃げ出したくなるほど恥ずかしくなって、それと同時にじんわりとした幸せが体中に満ち満ちて砂糖菓子を口に含んだ時のような甘さが胸にまで広がる。
ふと私の顔に影が落ちてきて、今度こそキスが落ちてきた。まるで世界が私たちふたりとそれ以外に切り取られたような時間が続いて、やがてオズヴァルドさまがくしゃりと目じりを緩めたのが目に入った。
「……顔が真っ赤だぞ」
「どう考えてもオズヴァルドさまのせいじゃないですか……」
手首を取られているから顔を隠すことも奥に逃げ込むことも出来ない。というか、にこにこ笑ったままそんなに見つめないで欲しい。茹でたタコの様になっている私の顔なんて見続けていても面白くもないでしょうに。
「まだキスには慣れないか?」
「まだ、っていうか慣れることが無いと思います。される度に心臓が壊れてしまいそうな程どきどきしているのに」
私が真面目に言ったにもかかわらず、至近距離にいる彼は声を上げて笑った。
「それは困るな。俺はこれからの人生であなたに何千回も何万回もキスするつもりなのに、その度にあなたの心臓が壊れていては治せるかどうか分からない」
私はもうオズヴァルドさまの言葉に頷くことしかできない。熱を冷まそうと下を向いていると掬うような短いキスをされて、彼は柔らかく微笑した。
「早く慣れてくれよ」
……善処はしてみます。
その日、私が店に来るとオズヴァルドさまは魔術師さま御用達の真っ黒なローブを着ていた。余談だけれど、この黒いローブにはこれと言った意味はないらしい。ただ魔術を掛ける時にいかにも魔術師然とした衣装を身に纏っていることで、これから魔術を行使するのだという意識を高めるとか。要は想像をするための小道具だということらしい。
それは良いのだけれど、その黒いローブを今なぜオズヴァルドさまは着込んでいるのだろうか。
「ユリアさん。済まないが、今日は用事があるんだ。店を任せても良いか?」
「用事、ですか?」
こんなことを言ってしまってはまるでオズヴァルドさまが引きこもりの様に聞こえるけれど、私と出掛ける時以外に彼が外に出掛けているところをほとんど見たことがない。市に行ったときなんかはそれなりに楽しそうにしていらっしゃるし、外に行くのが嫌いと言うわけではなくただただ億劫なのだろう。
「ああ、父に呼ばれたんだ。今日の昼に王宮に来いとの事だから少し出掛けてくる。何回も伝達の魔術を送って来るから迷惑で仕方がないが、きっと魔道具の研究を止めろという内容を伝えたいのだろうな。一度行って来て断って来るよ」
父、と言ったところでオズヴァルドさまは苦い顔をした。魔術師さまに会うから正装であるローブを着ているのか。しかし数日前にハール王子殿下が忠告に来てくださったばかりの今、外出するのはあまりにも危険だと思う。たとえお父さまと言っても、魔術師さまは皆敵だと言うことをいつかオズヴァルドさまは言っていなかったか。
「安心してくれ。流石に息子を殺すような父親では無いからな」
「はい……」
不安が顔に出ていたようで、彼は私を安心させる言葉をくれて柔らかく頭を撫でてくれた。けれどオズヴァルドさま、殺す殺さないの話だと聞いて更に不安になりました。
「そう言えば、あなたにこうやって見送られるのは初めてだな。いつもは逆なのに」
「どうして嬉しそうなんですか?」
「あなたが出て行くときには背しか見えないだろう?しかし、俺が出て行くときは最後まであなたの顔が見える」
「はあ……」
それが一体どうしたって言うんだろう。その時はそう思ったが、上機嫌のままオズヴァルドさまが扉を開けて出掛けて行ったときにその意味が分かった。無表情な背が扉の奥に消えて行ってしまうその瞬間、どうしようもなく不安になったからだ。オズヴァルドさまがもう戻って来なかったらどうしよう。そんな、根拠も理由も無い漠然とした不安だ。彼が抱く感情は私と同じだとは限らないけれど、少しでも寂しさのようなものを彼が感じているのなら申し訳ない。
私がそわそわとする気持ちを静めるために、いつものように棚の埃を払っていると静かに扉が開いて人が入ってきた。
「いらっしゃい――って、あれ?」
私はそれまで魔術師さまという存在はオズヴァルドさましか知らなかった。だから気が緩んでしまっていたのだろう。黒いローブを羽織ったその人を忘れ物かなにかして帰ってきたオズヴァルドさまだと思った私は何の警戒心もなくその人に近付いて、しかしフードの下には金色の髪ではなく黒檀のように艶やかな黒い髪が隠れていることに違和を感じた瞬間にはもう遅かった。ぷっつりと意識を刈り取られるもはや懐かしいあの感覚がして、私の目の前は真っ暗になったのだった。