#10 恋
「やっぱりむくんでる……」
洗面所の鏡に映るのは、いつもの平凡顔とくすんだ髪色。朝の光が燦々と入ってくる部屋の中で、私の顔だけが暗い。昨日、オズヴァルドさまへの恋心を自覚したあとに自分でも訳が分からず泣きどおしてしまったからだ。
以前アンが貸してくれた恋愛小説のなかでは、恋とは楽しいもののように描かれていたのに。相手のことを思うだけで心が浮き立って、話すだけで笑顔になって、最終的には思いが通じ合って。しかし十六にして初めて知った恋は、私にとって苦しいものになりそうだ。
行きたくないなあ。ふと、そんな呟きが頭を過った。オズヴァルドさまのお店に行って彼に会えば、この気持ちを自覚する前よりも苦しくなるに決まっている。例えば、彼がただの王都の商家の息子で。私と身分や法の隔たりが無い人ならばただただ彼の顔が見たくて、喜び勇んで会いに行っていただろう。けれど、現実は違う。万が一、いや億が一。天変地異が起こったか何かで、オズヴァルドさまが私をす、……好きになってくださっても、身分が違う私たちに明るい未来はない。そもそも私は宮廷魔術師のオズヴァルドさまを好きになったのだから、そんな『もしも』を考えても栓のないことだが。
「よしっ」
頬をぺちんと叩いて、気持ちを入れ換える。とにかく、今日もお店は開いている。オズヴァルドさまひとりだと大変かもしれないし、早く行かなければならない。足を無理やり動かせて、拒否する体を連れて行った。
「はあ……」
行きたくない。護衛のダフネルさんにオズヴァルドさまの店がある通りまで送ってもらって「ここからは大丈夫です」と笑顔で言ったものの、私の足は店の前ですっかり竦んでしまった。よく考えると昨日オズヴァルドさまに声を上げちゃったし、というか顔を見てどんな話をすれば良いのか分からない。あれ、私いつもこの扉をどうやって開けていたっけ?
「どうして閉店中になっているんだろう」
扉を眺めていたら、気が付いた。もうお店が開いてる時間のはずなのに開店中の札が掛かっていない。血の気が引いた。もしかしたら、オズヴァルドさまに何かあったのかもしれない。例えば本の山の雪崩に巻き込まれたとか。十分有り得る。
自分の考えに頷いたところで決心が着いて、私は扉に手を掛け――
「オズ、だからね」
「はい、とにかく……」
――ようとはした。したものの、店の中から人が出てきたために動転して店と店の間の隙間に逃げ込んでしまった。ばくばくとうるさい心臓が口から出ない様に抑えて、そっと遠ざかっていく人影を確認する。
ひとりは当然オズヴァルドさまだ。そして、もうひとりは私の知らない女の人だ。父の商売柄人の顔を覚えるのは得意だが、あんな女性はお客さんの中にも見たことがない。逃げ込む一瞬で目に入ったのは、オズヴァルドさまとは似ても似つかない黒檀のように艶めく髪に琥珀色の瞳。「オズ」と親し気に呼んでいた。そして対するオズヴァルドさまの綺麗な顔もいつものように柔らかく微笑していたのだ。
……恋人、かなあ。貴族のお嬢さまが王都に出てきた愛おしい人に会いにきて、彼は彼女のために店を閉めてデートに出かけた。年恰好もぴったりなあのふたりにはそんな筋書きが良く似合った。
恋を自覚した翌日に失恋したと言うのに、何故だか私の頭はすっきりしていた。だって、時期が早まっただけ。むしろこんなにすっぱり諦められて良かったのかもしれない。今はこんなにも私の胸を痛くするオズヴァルドさまとの日々を思い出に変え大切に大切に心の奥深くにしまって、誰か知らない人のお嫁さんに行くのだ。もちろん宮廷魔術師さまでもなく、家を本で溢れさせてしまう人でもなく、びっくりするほどお綺麗な顔を私に向けて優しく微笑まない人に。
「……帰ろ」
きらりと目の隅で何かが光って目を細めると同時に、青い石が見えた。オズヴァルドさまの瞳の色。彼から貰ったそれを腕から外すことはまだ出来ない自分自身がおかしくて、私は口元を歪ませた。
それから家に帰って、私はある決意をしていた。
オズヴァルドさまのお手伝いをやめる。良く考えたら、私が彼に料理を教えたり商品の感想を言う代わりに護身の魔道具を作っていただくというはじめの約束はもう果たされている。彼の食事の世話をするというのも、今ではもうオズヴァルドさまは何種類かの料理を作れるようになったしレストランにも何度か行ったから何とかなるだろう。お店はオズヴァルドさまおひとりでは少々心もとないが、あの女性が手伝ったり別の人を雇ったりどうにでもなる。何より、いつまでも私がオズヴァルドさまとふたりで働いていたらあの女性が良い顔をしないと思う。
そうつらつらと考えて、私は棚の奥にしまっていた黄色の羽を取り出した。短い手紙を送れると言うその魔道具は、いつかオズヴァルドさまが連絡を取りたい時のためにと私にくれたものだ。その時は話したいことがあれば会いに行きますよと言ったものの、こうして役に立っている。やっぱり魔術師さまは何か勘の鋭いところがあるのだなあ。
「諸事情によりお手伝いを辞めさせていただきたく思います。突然で本当に申し訳ありませんが、今までありがとうございました」
書いた内容を読み上げて、確認する。うん、良いと思う。顔を見て言わないのは失礼に当たるが、あの濃い青の瞳に会えば折角の決心が鈍ってしまいそうだ。
窓際に近寄って、以前彼がしていたように羽に息を吹きかける。途端に私の手の中からふわふわと飛び去っていたそれは、まるで舞うようにオズヴァルドさまが居る方向へと風に乗って運ばれていく。
あの羽みたいに、私のこの恋心もどこかへ飛んでいけば良いのに。そうすれば、今も何も考えず笑顔で彼の隣にいられたのかな。そんな恋する乙女のような考えを振り切るために、私はわざと乱暴に窓を閉めた。
――暇だ。どうしようもなく、暇だ。
オズヴァルドさまのお手伝いをやめるという羽を送った翌日。私は早速何もやることがなくなっていた。彼と会う前の生活なんてもう思い出せなくて、この時間をどうやって潰せば良いのか分からない。けれどひとり部屋に居ても思い浮かぶのはあの人のことばかり。何の生産性も無く、ただ時間だけが浪費されていく。
このままじゃ駄目だ。時は金なり。以前父さんも言っていた。よし、この時間なら宿屋の隣のレストランも暇な時間だろうし久しぶりに料理を教えてもらおう。料理長は私を孫のように可愛がってくれているから、突然行っても快く迎えてくれるはずだ。
そう思って、宿屋の方に向かう廊下を歩いていると、ばったりと兄さんに出会った。
「あれ、ユリアだ。この時間に家に居るのは珍しいね」
宿屋の跡取りである兄さんは、今は父さんの仕事を手伝っている。たかが宿屋の経営だが、複雑な帳簿の管理をしなくてはいけないし、それにお得意さまがお貴族さまだったりするので色々と大変らしい。ついでに最近父さんはこの王都にある宿屋以外にも商売を拡張しようとしているのだ。それだから父さんもそうだが、兄さんも常に忙しそうだった。
この廊下を渡ってくるということは束の間の休憩時間ということだろう。
「……ユリア、何かあった?」
「何かって?」
「うーん。例えば、誰かに振られたとか」
「はあっ⁉」
どうして分かるの!と、目を見開いたところで思い出した。そうだ、兄さんは昔から妙に勘が鋭い。私が兄さんの隠していたお菓子をこっそり食べた時なんかもすぐに言い当てられた。だから、ただ単に私の顔が分かりやすいのだとかは考えたくない。
「この頃は毎日宮廷魔術師さまのところに出かけていたユリアが家に居て、それに誰かに振られたってことはその魔術師さまに振られた?仕方ないね、青年会の噂でもまるで貴族のような美形だとかっていう話だったし、ああ貴族よりもずっと高貴なお方なのか。じゃあ女性なんて選り取り見取りなんじゃ――ああごめんユリア、泣かないで!」
「泣いてっ、ないし……っ」
それに、兄さんはお喋りだ。悪気無く私の心をぐさぐさと刺してくる。
私の意志にまったく反して流れてくる涙をごしごしと拭っているうちと、兄さんはその口を噤んで昔私によくそうしたように背中をさすってくれた。
「はい、ユリア」
「……ありがとう」
結局、兄さんの前にも関わらずぐずぐずと泣いてしまった。昨日から私は泣き過ぎだ。すっかり腫れた顔に、兄さんが渡してくれた冷たい瓶が心地良い。
「食堂から拝借してきたんだ。母さんに怒られたらユリアも共犯にしようと思って」
「えっ」
兄さんが私が瓶の蓋を開けたタイミングを見計らって言った。母さんは怒ると長いし頬を抓って来るのであまり怒らせたくはない。けれど、兄さんと一緒に怒られるのならまあ良いか。
「兄さんとこうするのも久しぶりだね」
「ああ、そういえばそうかもしれないな」
今、私たちは家の勝手口の前にある階段に座っている。大通りにある表玄関とは違い、細い小道に面しているそこは子供の時からの私と兄さんのお気に入りの場所だった。人通りもほぼ無いので、親や宿屋の従業員の目を逃れたい時にこうしてふたりで段に座って話し込んでいた。
「それで、もう手伝いはやめたの?この数か月間ユリアは宮廷魔術師さまのお店に行っていたんだろう?なんだっけ、魔道具店だったか」
「うん。もう私は必要なくなったから」
「そっか。……あー、それでその魔術師さまはどんな奴だった?」
「どんな、って。うーん、想像していた宮廷魔術師さまとは違ったかな。部屋に本があふれていたし、食事や睡眠をとるのも億劫がる人だったし。あ、でも何度も私を助けて下さったんだ。優しくて、いつも笑顔だった。たまに寂しそうな顔をなさる時もあったけれど」
自覚してからずっと苦しかったはずなのに、オズヴァルドさまのことを思い返せば不思議と笑みが零れた。もしかしたらこれが吹っ切るっていうことなのかもしれない。何だ、意外と簡単じゃない。
「でも、ユリアを振ったんだろう?」
「う……、そうだよ」
「じゃあ、見る目が無い奴なんだね」
「え?」
兄さんは、子供の時みたいにニカリと笑って言った。
「だって、僕の妹は宿屋の娘らしく料理もできるし掃除も裁縫も得意だ。気立ても良いから良い嫁になるに違いないのに」
「……そういうの、妹馬鹿っていうんじゃない。でも」
ありがとう、と続けようとしたところで、私たちの上に夕方特有の長い影が落ちた。
「ああ、俺もあなたは良い妻になると思う」
顔を上げるまでもなく誰か分かってしまうその声は、私が今一番会いたくなくて、一番会いたい人のものだ。
はじめに沈黙を破ったのは、兄さんだった。
「もしかして、例の宮廷魔術師さまですか」
「そうです。あなたは……」
オズヴァルドさまの言葉はそこで途切れた。のろのろと顔を上げるといつもの濃い色の瞳にぶつかった。その金色の髪はさらさらだったはずなのに、今はくしゃくしゃと走った後の様に乱れている。
「僕がユリアの恋人だ、って言ったらどうします?」
「へっ?」
何を言っているんだ、兄さんは。全く以て意図が分からない質問に私は思わず声を上げてしまった。オズヴァルドさまは口を開けたまま兄さんを見て、また私の方を見て、最後に兄さんの方に顔を戻した。ほら彼もそんなこと言われて返答に困っているじゃないか。私に
恋人が居ようが居まいが彼の人生に何ら関係は無いのだから。
「兄さん、一体何言ってるの。オズヴァルドさまはそんな事言われても――」
「兄さん?」
オズヴァルドさまが私の言葉を遮った。問いかけに頷くと、彼は長い溜息を吐いた。
「ユリアさん、話をしないか」
「えっ、……あの、突然文書で辞めると言ってしまったことは本当に申し訳なく思ってます。でも」
ああ、仕事についてはなすためにわざわざ私の家まで来てくださったのか。けれど、私にあの羽の手紙を撤回するつもりはない。オズヴァルドさまと話すつもりも無かった。吹っ切れそうだと思ったばかりなのに、彼の顔を見ただけでまた泣き出してしまいそうなくらい嬉しいと叫んでいる心が、今にもぐらりと揺らいでしまいそうだったからだ。
「お願いだ」
私が彼の顔を見ないようにして首を振ると、オズヴァルドさまは深々と頭を下げた。……頭を、下げたのだ。宮廷魔術師さまがただの平民の娘に。
「えっ、あの、やめてください!頭を上げてください」
「あなたが俺と話してくれるのなら」
ちょっと待って。強引なのか、腰が低いのかよく分からないがこんなに我を通そうとするオズヴァルドさまは見たことがない。いつもは心配になるくらい私を気遣って下さる方なのに。混乱している私をよそに、兄さんが気楽に言った。
「良いじゃん、ユリア。行ってきなよ」
「兄さん⁉」
私の味方じゃなかったのか。驚いて私の隣を見ると、兄さんは何故だか不満そうな顔をしていた。
「だって、ユリアとこの人の顔を見ていれば分かるし。話してきな、ユリア。母さんには僕から言っておくから」
「……兄さんがそこまで言うなら」
私がそう言うと、オズヴァルドさまはやっと顔を上げてくれた。そんなにほっとした顔をしないで欲しい。男性に慣れていない私は、また勘違いをしてしまいそうになるから。
オズヴァルドさまが兄さんに短くお礼を言うと、兄さんはひらひらと手を振りながら言った。
「まだ外泊は許してませんから。暗くなるまでには帰してくださいね」
「ああ、もちろん」
オズヴァルドさまはそこでやっといつものように柔らかい口調で言って、私の手を引いた。外泊って、兄さんは何か誤解をしていないだろうか。少し仕事のことについて話し合えばそれで帰って来るのに。
歩き出してみても、繋いだ手が解かれることは無かった。こんなところを彼の恋人に見られてしまったら勘違いされてしまいやしないだろうか。そう言えば、あの黒髪の彼女さんは今どうしているんだろう。恋人を放っておいて、ただのお手伝いとはいえ他の女と居たら拙いだろう。
「オズヴァルドさま、恋人の方はどうされているんですか」
「恋人?」
私の手を引いて前を進んでいたオズヴァルドさまの端整なお顔が、ぐるりとこちらを向いた。
「俺に恋人は居ない。そして、あなたにも居ない。そうだな?」
「……?はい」
何の確認だろう。不思議に思いながらも肯定すると、彼は真剣な顔でひとつ頷いてまた前を向いた。そっか、あの人は恋人じゃなかったんだ。と、なると一体どなたなのだろう。あの親密な様子からして、まさか体の関係のお友達とか……いやいやオズヴァルドさまはそういう事をなさるお方ではない。ひとりで顔を赤くして、私は自分に関係のないことなのだと割り切ることにして考えるのをやめた。
その綺麗な横顔を後ろから眺めている内に、改めて自分の中で愛おしさが募っていくことが分かる。やっぱり、好きだなあ。どうして兄さんと居る時はこの気持ちが吹っ切れるなんて思ったんだろうか。会ってしまえば、こんなにも好きという気持ちが溢れてくるのに。
「羽の手紙は届きましたか?」
そうして、ふと思い浮かんだことを聞いてみた。オズヴァルドさまの魔道具に不具合なんて無いと思うけれど、もしあの手紙が届いていないのなら私は無断欠勤をしたことになる。それはいけない。彼が怒って、わざわざ話をしようと言いに来たのも頷ける。
「届いた」
オズヴァルドらしくない短い返事があった。届いていたのか。それじゃあ、何故?頭に広がる疑問を解消する機会はないまま、彼の店に着いてしまった。
いつもと同じにオズヴァルドさまが扉を開けて、道を譲ってくれる。会釈しながら扉をくぐると、また手を繋がれた。
「あの、手は」
「こうしておかないと、あなたはまた逃げるかもしれない」
「……逃げませんよ?」
猫のミーツじゃあるまいし。やっぱり彼の行動の理由がよく分からないまま、奥の部屋へと導かれる。部屋いっぱいのオズヴァルドさまの匂いにも、こうして本を足で避けながら進むことにももう慣れた。ふたりで数えきれないくらい食事をした机に座ると、彼も腰を下ろした。何故だか手は絡められたままだ。
「話って、なんですか」
オズヴァルドさまがなかなか切り出してくれないので、私から聞いた。彼の濃い青の瞳をみていると昨日のことを思い出して居たたまれない。ああでもあの女性は恋人ではないんだっけ。
私の鼓動が息苦しくなるくらい速まっていることにも、彼に握られた手が熱を持っていることにも、オズヴァルドさまは気が付いているのだろうか。気が付いてなければ良いのに。そんなことを思いながら彼の言葉を待っていると、オズヴァルドさまは焦らすようにゆっくりと口を開いた。
「俺は、あなたに恋をしているんだ」
「…………は?」
たっぷり数秒間沈黙が降りて、けれど私の口が発したのはそんな間抜けな声だけだった。こい。濃い。故意。まさか、魚の鯉ではないはずだ。――オズヴァルドさまが、私に恋をしている?
「恋と言うのは、厄介なものなんだな」
「あなたは知っていたか?」と言う彼は、いつもの微笑が嘘のように真面目な顔をしていた。私が固まっていると、手を繋いでいない方の彼の手の甲がそっと私の頬を滑った。
「自分ひとりでは完結できずに、相手にも同じものを求めてしまう。だから、ユリアさん」
大好きな青の瞳が私をとらえる。その目は間違いなく真剣で、冗談の含みなど一欠けらもなかった。
「俺に、恋をしてくれないか」
オズヴァルドさまは、返事をねだるように私の唇を指でなぞった。