閑話 姉として
シャーネ視点です。
「シャーネはお姉ちゃんになるのよ」――そう母に言われたときに私の胸を占めた感情は喜びよりも戸惑いの方が強かった。
父と母そして私、この三人に新しい家族が加わるという未来を、この時は上手く想像することができなかったのだ。
しかし戸惑う私をよそに‶その日″は少しずつ迫ってくる。日を追って大きくなっていく母のお腹。
この中に私の弟か妹がいると言われ、おっかなびっくりと母のお腹に触れたのも今となっては懐かしい思い出だ。
――そして弟が生まれた日、その日を今でも覚えている。
私の前で辛そうな顔など滅多に見せない母が苦しげな声を上げ、父がそんな母を必死に励まし、助産婦の老婆が怒鳴る。
当時の私にはなにが起こっているのか想像もつかず、恐怖に震えていることしかできなかった。
そんな私の耳に突然響いた大きな泣き声。恐る恐る部屋へと入り込むと、老婆が産湯に生まれたばかりの赤子を入れているところだった。
特に何かしたわけでもないというのに、全身から力が抜けへたり込む私に、母が優しく微笑んでくれたことを覚えている。
それからは目まぐるしい日々だった。生まれてきた赤子――弟はまだ目も見えず口も利けない。
だからこそなにかあれば全力で泣く、存分に泣く。これでもかと泣く。
しかし私にはどうすることもできず、できた事と言えば父か母を呼ぶことくらいだ。
両親が手際良く対応すると弟はぴたりと泣き止み嬉しそうに笑う。そんなときの弟は世界一可愛いと思った。
聞けば私が赤子の頃も似たような感じで、当時は随分と苦労したらしい。なぜだか少し恥ずかしかった。
母から母乳をもらいお腹が一杯になった弟はぐっすりと眠る。
興味本位で頬を突くととても柔らかい。人形のような小さな手に指を近づけるとギュッと握りしめる。とても弱いけれど赤子なりに力強く。
「お姉ちゃん」になったのだという自覚がようやく湧いてきて、嬉しさで飛び跳ねて母に軽く怒られてしまった。
――そしてある日、弟がいなくなってしまった。
本当に唐突な出来事だった。弟はお昼寝中で、家族が目を離したほんの一瞬のうちに姿を消してしまった。
その頃の弟はまだ自力で移動することはできなかったから、自分で姿を消すなど考えられない。
何者かによる誘拐と考えるのが妥当だった。
しかしそんな真似をされる心当たりは両親にはなく、目撃者もいなかった。
あり得ないことだが、治安兵は両親のことも疑っているようだった。
私も必死で探したが見つからない。犯人からの要求もない。
三日が過ぎ四日が過ぎ五日が過ぎる。少しずつ絶望に心が支配される。
どうか……どうか無事でいてくれ、と生まれて初めて心からの祈りを捧げた。
そして弟が姿を消してから七日後、いつものように弟を探しにいこうと家を出た私の目に、地面に置かれ産着に包まれた弟の姿が飛び込んできた。
――犯人は見つからなかった。目的も不明。だが弟が戻ってきた以上そんなことはどうでもよかった。
強くなりたいと思った。両親が聞かせてくれた物語の騎士のように強く。弟を、大切な人々を守れるくらいに強く強く。
成長した弟は大人しく本をよく読む子だった。人見知りが激しく同世代の子とも上手くやれないようだった。
だけど決して人間嫌いというわけではない。どこか寂しげに子供たちを羨ましそうに見ている姿を何度も見かけた。
――そしてなにかに怯えているような姿も。まだまだ弟を守れていないのだと感じた。
挙句の果てにあの日、私は弟を守るどころか逆に弟に守られてしまった。ただ願うだけではなく、強くならなければならないと決意した。
そんな私の愛する弟――ルーク・ラグリーズは、今年から王立学院へと入学する。
「――だから休暇をいただきたいのです。セラフィム団長」
「……なにが『だから』ですか」
そういって私の目の前で頭を抱えるのは、私の所属する第四騎士団の団長。ジークリンデ・ヘル・セラフィム団長、二十七歳独身恋人なしだ。
女性にしては長身で豊かな銀髪を一纏めにし、素質持ち特有の年齢に似合わない若さの美貌を誇るが独身である。
「つまり弟の入学式だから休暇をとって駆け付けたいというわけですか? シャーネ・ラグリーズ団員」
「はいっ!!」
騎士としての実力だけでなく、女性としての柔らかさを併せ持つ団長は私の目標の一人でもある。
同僚の騎士にも彼女に憧れている者は多い。
そんな団長の人柄を表すかのような手入れが行き届き、整理整頓された団長室に私の声が響く。
人見知りの激しいルークのことだ。きっと友達作りにも難儀しているに違いない。
お姉ちゃんとしてきちんとフォローして、アドバイスもしてあげなければ。
それに最近仕事が忙しく休暇が取れなくて実家にも帰れていなかった。
久しぶりにルークと話したいし、抱きしめたいし、一緒に寝たりもしたい。
「……シャーネ、私たちはもうすぐ銭ゲバ……もといグラハム卿の護衛任務に就かなければなりません。任務と弟の入学式、いったいどちらが大切だと思っているんですか?」
書類の置かれた机の向こう側から厳しい顔をした団長に問われる。
ふむ、――この質問、ひょっとして私は団長に試されているのだろうか?
フッ、あまり侮ってもらっては困る。こう見えても私は、王立学院の騎士適正を特待生として卒業した身。
このような質問、悩むまでもない。考えるまでもなく答えは一つだ。
「勿論ルークの入学式です!」
「おバカッ!!」
「ガフッ!?」
迷うことなく返事をした瞬間、目の前から団長の姿が掻き消えた。
気がついた時には凄まじい衝撃を食らい私の身体は宙を舞っていた。なにをされたのかまるでわからない。
馬鹿な……これが、『十の賢将』の一人の実力だというのか……っ!?
「まったく……普段は真面目で優秀なのに、どうして時折馬鹿なことを言い出すのでしょう?」
そんな団長の呆れたような声を聞きながら私の意識は闇へと堕ちていく。
――すまないルーク、どうやら私はここまでのようだ。不甲斐ないお姉ちゃんをどうか……許して……くれ。
……ガクッ。