4 背中
(……追い付けなかったか)
全速力でシャーネの後を追いかけたが、街を囲む防壁に辿り着くまでの道で姉に追い付くことは出来なかった。おそらく彼女はすでに街の外だろう。
高くそびえる目の前の防壁は、本来であれば化外の侵入を防ぎ街の住人の身を守るという代物だが、今は進む道を阻む邪魔物でしかない。
周囲を軽く見渡すが、クルトたちの話していた破損場所は見当たらない。当然と言えば当然である。
簡単に見つかるような場所ならば、街の住民によって発見され通報されているだろう。
彼らが見つけることができたのは実に運の悪い出来事だった言わざるを得ない。
ともあれ今は時間が惜しい。その場所を手間をかけて探す時間などない。
防壁には化外が本能的に嫌う素材が組み込まれているが、それでもやって来る個体に備えるために、予算の範囲内で高く頑強に造られている。
シャーネはその身体能力で強引に乗り越えたのであろうが、自分にはにはまだそんなことはできない。
――だからこそ覚悟を決めた。
意識を集中し己の中の力を認識する。その力――魔力でもって、求める現象を世界に現す魔術式を組み上げる。
構築した魔術式に必要な魔力を通し、発動のトリガーとなる魔術名を口にする。
「【縛呪】」
掌から出現した光の縄を防壁の上へと巻き付けると、一気に縄を縮め防壁の上に辿り着く。
「【奔空】」
続けざまに発動させた魔術で自重を抑え、落下による衝撃を軽くした上で飛び降りる。
――本当は魔術には頼りたくなかった。
これらの魔術に関する知識はルークが自ら学んだもの――ではない。
ある時、何の前触れもなく彼の脳裏へと浮かんできた知識の一つである。
正直言ってこんなものを使いたくはなかった。これの存在を認めることは自己を希薄化させてしまうような気がしてしまうからだ。
――だがシャーネとトルテの命はそんな自分の感情よりも優先される。
(だから今だけはこの『知識』に感謝するさ……!)
意識を切り替えたルークはクルトたちの言っていた森に向かって駆けだした。
◇ ◇ ◇
足を進める森は深く、森特有の湿った空気は酷く不快で、草木で覆われた道は険しい。
もともと街道から外れたこの森は人が滅多に立ち入ることのない土地である。
森の中で化外が増えすぎないように、冒険者や騎士団による定期的な駆除活動が行われるが、特に整備されているわけではないのだ。
しかしだからこそシャーネが通った痕跡を探すのも容易だった。
(姉さん、相当焦ってるみたいだな……)
姉の残した痕跡からは、力ずくで強引に突き進んだ様子が読み取れる。
クルトたちが森に入ったであろう時間を考えれば無理もないが、これではいざという時かなり体力を消耗している危険性がある。
森の樹木は空を見渡す事も出来ぬほどの密度で背を伸ばし、枝葉によって光は遮られ酷く見通しが悪い。
このまま夜になってしまえば最早歩くことさえ難しくなってしまうだろう。
(――そうなる前に姉さんと合流してトルテを探し出す)
困難なことであるのはわかっている。打算的に考えれば姉と合流でき次第速やかに引き返し、トルテの捜索は街の兵に任せるべきだろう。
しかしそれを決して姉が承諾しないであろうこともわかっている。ならば困難であってもやるしかないのだ。
――ギシャァアアアアッッ!
戻り道で迷うことのないように、目印を付けながら姉の痕跡を追っていたルークの耳に、不快感を刺激する鳴き声が届く。
周囲への警戒を一段階上げたルークは、慎重に鳴き声の聞こえた方向へと足を進める。
進んだ先で彼の目に入った影は三つ。二つはシャーネとトルテ、これはいい。
問題なのはもう一つの影。大まかな全体像は野犬のようにも見えるが……違う。
少なくとも野犬はあんな小型の牛のような体躯はしていない。あんな捻くれた角を持ってはいない。あんな耳まで裂けた口をしてはいない。あんな殺意を撒き散らさない
――化外。シャーネとトルテが無事だったことは喜ばしい、だが状況は決して良いとは言えないようだ。
(……このまま近づくのは不味いかな)
遠目ではあるが、トルテを庇いながらシャーネが化外に向き合っているのが見てとれる。
ここで下手な真似をすれば、姉は化外を前に致命的な隙を晒してしまうかもしれない。
そう判断したルークは、姉の気を引いてしまわないように気を付けながらトルテの後ろへと回り込む。
(んんっ……!?)
トルテが大声を出さないように片手で彼女の口を塞ぎ、パニックにならないうちに自分の顔を見せる。その際、もう片手の指を口許に当て声を出さないようにジェスチャーで示す。
こちらが何を言いたいのかすぐに理解出来たのか、トルテはコクコクと首を縦に振る。今まで余程の恐怖を感じていたのか涙目だ。
彼女を落ち着かせるために場違いとは思いつつも笑顔を浮かべ、口を塞いでいた手を離しゆっくりとシャーネに声をかける。
「姉さん、そのまま前を向いてて」
「ルークか!?」
シャーネは突然かけられた声に驚きつつも、ルークの言葉に従い目の前の化外からは目を離さない。
「大人たちにはきちんと知らせたのか?」
「そっちはクルトたちに頼んだ。何か僕に出来ることはある?」
「……こいつは私が引き受ける。トルテを街に連れ帰ってくれ」
そう言うシャーネの身体には、化外に付けられたと思しきいくつもの裂傷が見てとれる。
それでも護身用として持ち歩いていた小さなナイフを構え、背後に弟と友達を庇い不退転の覚悟で化外に向き合う。
(どうして……)
その背中を見つめながら一つの想いに囚われる。
どうしてそんなふうに在れるのだろう? どうしたらそんなに強くなれるのだろう?
自分自身にさえ向き合えないルークは、姉の背中に憧憬と疑問を感じずにはいられない。
だが、気付く――姉の身体に走る震えに。
怖くないわけではないのだ。ただ必死で強くあろうとしているのだ――背後にいる自分たちを守るために。
それを悟ったルークは、この期に及んで迷う自分がどうしようもなく情けなく思えた。
「なに、心配するな。お姉ちゃんは強いからな、こんな奴には負けないさ」
その姉の言葉を聞きルークもようやく決意を固める。
魔術式を組み上げ何時でも魔術を撃ち出せるよう準備する。
他者に魔術を使うところを見られることに躊躇はあった。他者からの認識によって自分の異質さが強固になるように思えた。
だが――馬鹿馬鹿しいし、情けない。
シャーネ・ラグリーズの弟であろうとするならば、そんな浅ましい自己保身は捨てるべきなのだ。
覚悟は決めた、後は行動するのみ――
「ヒッ、ヒィッ!?」
だが予期しない怯え声がその場に割り込む。
声を上げたのはこの場に辿り着いてしまったクルト、生まれて初めて見る化外の姿を前に思わず悲鳴を上げ、体を強張らせる。
こちらを嘲笑うかのように化外が嗤った――そんな気がした。
「くっ!?」
ターゲットをクルトへと切り替えた化外は、彼に向かって猛進する。シャーネがその背を追うが、初動で遅れ到底追い付けない。
「逃げろっ、クルトッ!!」
「あっ、……ああ……っ」
恐怖のあまり腰を抜かしてしまったのか、クルトは後退ることしかできない。
――躊躇はなかった。
「姉さん! 横に飛んで!!」
響いた声にシャーネは弟を信じ、即座に身体を捻り横に飛ぶ。
自分よりずっと頭の良い弟が、意味もなくこんなことを言うはずがない。
「【迅雷】ッ!」
――グギィイイイイッッ!?
ルークの放った雷撃はシャーネの脇を抜け化外に直撃し、その動きを止める。
「はぁああああああっっ!!」
――ギィアアアアアアアアアッッ!?
動きを止めた化外の背へと飛び乗ったシャーネは、躊躇うことなくナイフを化外の脳天へと振り下ろす。
「こっ、のおっ!!」
化外特有の生命力の高さ故に即死せずに、シャーネを振り落とそうと暴れまわるが、必死にしがみ付いた彼女はさらに深くナイフを抉り込む。
――ギィイイイ……。
唐突に化外の全身から力が抜け、ズシンッと音を立ててその身が大地へ沈む。
四人の子供の目の前で、一匹の化外は息絶えたのだった。
その後、四人はルークの付けた目印に沿って森の外へと向かい、途中で彼らの捜索に来た街の衛士に発見される。
衛士の護衛の下で無事に街へと辿り着いた四人と、彼らを待っていたアイクとケルン共々こっぴどく怒られることとなった。
もちろん聴取を終え解放された彼らを待ち受けるのは、それぞれの親による更なるお叱りである。




