2 ルーク・ラグリーズ
――昼下がりの午後の時間、街の中央近くに位置するとある家。
決して立派だとは言えないが、家族四人が暮らす分には十分だと言える家の一室にて、少年が一人座り込み本を読んでいた。
部屋の中はよく掃除をされているのか清潔で、家具も質素ながら品が良く居心地の良さを感じさせる。
少年の年の頃は六歳程度。茶髪に近い金髪を短く切り揃え、無表情ながらも母譲りの空色の瞳だけは知識欲と好奇心に輝き、手元の書物の世界へと没頭している。
彼が手にする本の内容は、彼の年頃からすると些か以上に難解で、少年の早熟さを端的に表していると言えるだろう。
「ルーク、どこだ!? ルーク!」
活発ながらも耳に心地良い声が家の中に響く。
ご近所にまで届きそうな大声で名前を呼ばれた少年――ルーク・ラグリーズは思わず顔を顰める。
別に自分の名を呼んでいる声の主が嫌いなわけではない。むしろ好きか嫌いかと問われれば、はっきりと好きだと断言できるほどに好意を持っている。
ただ――疲れるのだ、どうしようもなく。
猪突猛進且つ果断即決・有言実行を地で行く性格な上に、完全な善意で行動するので実に性質が悪いと言える。
何よりもルーク自身がそんな彼女を好ましく思ってしまうから厄介だ。
加えて己が抱える個人的事情を考えれば、ここは避けた方が無難だろう。
(――よし、逃げよう)
そう結論を出したルークは、部屋の窓に手をかけ予め用意しておいた外靴を片手に逃亡を開始する。
常に退路を意識しておくこと――今もルークを探しているであろう相手に学んだ彼なりの処世術である。
もっとも――
「見つけたぞ、ルーク!」
「うわっ!?」
そんな彼の小手先の対策は、少女の野生の獣染みた勘の前では無意味であったが。
「姉さん……家の中で探してたんじゃないの?」
「なんとなくルークが外に出ようとしている気配がしたからな! 大急ぎで回り込んだのだ!」
「……どんな気配さ?」
無い胸を張りつつドヤ顔で告げる少女に思わず呆れた声を零す。そんな理由では対策のしようがない。
ルークの目の前にいるのは、母親譲りの黄金色の髪を後ろで括りポニーテールにして、彼とお揃いの空色の瞳を持つ、幼いながらも整った容姿の少女だ。
しかし動きやすい簡素な服装と、身体のあちこちに見られるすり傷や土汚れは『わんぱく小僧』を彷彿とさせ、下手をすれば少年と間違われかねない印象を受ける。
当人としては髪もさっぱりと切ってしまいたいそうだが、母親に笑顔と共に駄目出しされたことによって断念したという経緯があった。
シャーネ・ラグリーズ――ルークの血を分けた三つ年上の姉である。
「さぁ、遊びに行くぞ! クルトたちも待ってるからな、急いで行こう!」
「……僕、本を読みたいんだけど」
「却下だ! 男が家の中に閉じ籠りきりなんて姉として認めんぞ。子供の頃から元気よく遊んでこそハルトムート様のような立派な男になれるんだ!」
お気に入りの物語の英雄まで持ち出す姉に、無駄を悟りつつも抗弁してみる。
「無茶したらまた母さんに怒られるんじゃないの?」
「うっ!? ……か、母さんが恐くて立派な騎士になれるものか!」
威勢の良い言葉とは裏腹に、母の怒りを想像したのか震えだす姉の様子に気持ちはわかると嘆息する。
母であるアリシャは普段は温厚且つ控えめな女性なのだが、『大人しい人ほど怒ると恐い』というのを体現したような人物なのだ。
以前、シャーネがアリシャの家庭菜園を台無しにした際の、無明の荒野のような無表情から放たれる静かなプレッシャーには、無関係であるはずのルークですら平伏しそうになったものだ。
「そ、それに今回はクルトたちと遊ぶだけだ。母さんも怒ることはない……はずだ?」
「……まあ、それなら大丈夫だと思うけど」
「だよな!」
言いながら自信が無くなってきたのか、最後が疑問形になった姉の姿に罪悪感を覚え、つい保証するような言葉を口にするとパアッと表情を明るくする。
そして満面の笑みを浮かべたまま手を差し出してくる姉に対して、思わず仔犬の姿を幻視した。
彼女の頭の後ろで揺れる金髪も何処と無く犬の尻尾のようにも見えてくる。
「わかった、一緒に行くよ。でも無茶は駄目だよ」
「ああっ、勿論だとも!」
ルークの言葉に弾けるように笑って頷き、嬉しそうに手を繋ぎ歩きだすシャーネの姿に思わず苦笑した。
彼女には本当に悪意は全くないのだ。純粋に同世代と馴染めない弟を心配し、弟である自分を心から愛しているからこそ強引な行動に出たりもする。
そんな真っ直ぐな姉だからルークも嫌いにはなれず、こういう様子を見れば嬉しくもなってしまうのだ。
――そして同時に姉に対し、劣等感と申し訳なさも感じてしまう。
結局のところ問題があるのは自分だというのに、人に好かれる姉に羨ましさを感じてしまうからだ。
(……これさえなければなぁ)
ルークは今よりもずっと幼い頃から奇妙な感覚に悩まされていた。
一つは『既視感』。初めて見たはずの光景、知ったはずの物事に対し以前から知っていたかのような感覚を覚えてしまう。
もう一つは覚えのない『知識』。齢を重ねるににつれ、学んだことのない知識が彼の頭の中にどこからか湧いてくる。
最後に――純粋な不快感。目に見えない蛭が背中にへばりついているかのような不快感をルークは常に感じ続けていた。
それらの感覚はルークの精神をささくれさせ、ともすれば周囲への攻撃性へと背中を押しかねないものだった。
幸いにも家族に恵まれたが故に、それが表面化することはなかったが、それでも感覚そのものが無くなった訳ではない。
だからこそルークは書物を好んだ。外界の情報を遮断し、本の世界に没頭している間は、周りに苛立ちをぶつける可能性はなく、己を悩ませる不快感のことも忘れることができたからだ。
「ルーク、逸れていないか? ちゃんと付いてきているか?」
「手を繋いでいるから大丈夫だよ姉さん」
ルークの手を引き、何度も後ろを振り返る姉のシャーネはとても真っ直ぐで眩しい。
いや、シャーネだけでなく家族の誰に対しても抱いてしまう羨望と劣等感、そして愛情。
放っておいてほしいとも思うし、嫌われたくないとも思う。心配をかけて申し訳ないとも思うし、心配してくれて嬉しいとも思う――矛盾したそれらの感情すべてが紛れもない本心だ。
そんな複雑な感情をを隠しながらルークは尊敬する姉に付いていく。
――とりあえずシャーネが無茶をしようとしたら頑張って止めようと思う。
母のアリシャは怒ると本当に恐いのだ。