1 プロローグ
――酷く薄暗い部屋だった。
物質的な暗さだけでなく、部屋に漂う怨念染みた気配が空気を重苦しく濁らせている。
人一人が暮らしていくには些か手狭と言わざるを得ないその部屋は、そこかしこに古い書物が積み上げられ雑多極まりない印象を受ける。
申し訳程度に点された灯りは薄暗く、これからこの場で行われる事の後ろ暗さを表しているかのようであった。
「ヒッ……ヒヒッ」
部屋の中央には複雑な紋様が刻み込まれた奇妙な形の台座が置かれ、ただでさえ手狭な部屋を更に狭くしてしまっている。
しかしこの部屋の主たる老人にとってはこの台座、そして台座の上に置かれたモノこそがなによりも重要なのである。
「いよいよ……いよいよじゃ。儂の宿願を今こそ……」
台座の上に置かれたモノ――生まれて間もないの赤子の頬を、老人は枯れ枝のような指で愛しげに撫でる。
しかし彼のその瞳に宿るものは決して愛情などはない。
憎悪・恐怖・後悔・絶望・嫉妬・情欲・執着・渇望……数多の澱んだ感情がドロドロと溶け合ったその瞳は、底なし沼のように暗く深く濁っていた。
「……あ……ぅ」
そんな老人の邪な情念を感じ取ったのか、薬で強制的に眠らされた赤子が身動ぎむずがる。
「カカッ、大人しくしておれ。そうすればすぐに済む……すぐに、な」
無力な赤子を嘲笑い、老人は己が我欲を満たすための最後の準備に入る。
余命幾ばくもない身体から魔力を絞り魔術式を描く――決して失敗は許されない。この魔術を成功させる為に彼は余生を擲ったのだから。
「グッ……ガッ!」
老人の長い人生で最も高度で複雑且つ大規模だと断言できる魔術の行使は、彼の想像以上に老いた肉体に負担を掛ける。
――だが彼は決して魔術式の構築を止めることはない。そこには意思以上に妄執染みた執念が感じられた。
老人は思い出す――彼を嘲り嗤った者たちを。偶然生まれに恵まれただけで、当然のように自分を見下した者たちを。
そんな者たちへの劣等感と反発心こそが彼の生きる原動力だった。だからこそ彼にこの魔術を止めるという選択肢はない――たとえ命を失ったとしても。
その執念を他の方向へと向けることができていれば彼は大成できただろう――たとえそれが彼の望む形とは違っていたとしても。
だが残念ながらその事実を彼に指摘する人物は、彼の前には現れなかった。
――否、現れていたとしても彼は聞く耳を持たなかった。
「カカッ……カカカカカカッッ」
どのみちこの魔術を諦めてしまえば詰みなのだ。宿願の代償が命一つであれば安い――狂った老人は狂った思考でもって狂った結論を下す。
――今度こそ、今度こそ全てを手に入れてみせる。
老人の狂気によって構築された魔術式は台座の文様へと繋がり、さらに魔術の規模を拡大させる。
長い人生の中で幾度となく構築し行使してきた魔術――その中でも緻密さ・規模、いずれも最上と断言できる出来栄えだった。
己が生涯を懸け組み上げた魔術に深い満足感を覚えながら、老人は魔術を世界に形作る最後の言葉を口にする。
「……【■■■■】ッ!」
その言葉と共に虚空に禍々しく悍ましい黒霧が現れ、勢いよく台座の上の赤子へと殺到する。
赤子は黒霧を拒絶するかのように小さな手足を身動ぎさせるが、そんな抵抗など一切無視して黒霧は赤子の身体へと染み込んでいく。
「ヒッ……ヒヒッ……」
自分が行使した魔術の結果を見届け、一切の不備がないことを確認した老人の口から引き攣った笑いが漏れる。
「カカカッ……ヒッヒヒッ……ヒヒャはハッハハ、ヒッ、ヒャヒャッヒャははっ、ははハハハハハッッ!!」
程なくその笑いは大爆笑へと転じた。心から喜ぶかのように、何もかもを嘲笑うかのように、己の所業を後悔するかのように。
いつまでもいつまでも――その嗤いは小さな部屋に響き続けた。
――この日、誰にも知られることなく狂った老人の魔術は成功してしまい――まだ何も知らないまま眠り続ける赤子の運命は静かに狂ったのだった。