月を描く男
数年前に初めて書いたオリジナル小説です。
拙い文ではございますが、ご閲覧のほどよろしくお願いいたします。
画家を志す青年と、彼の初恋の女性との、哀しい恋の物語。
深夜二時を回った頃、聞きなれたその電子音は、僕の耳元で大音量で鳴った。
十二月の末だと言うのに、暖房の入っていない部屋の冷たい空気が頬に突き刺さり、意識を眠りから完全に覚醒させる。
枕元に無造作に置いてあった携帯を慌てて確認すると、画面に大きく、彼女の名前が映っている。
『満月さん』
僕はその名前を目にするや否や、自分の心臓が瞬間、ものすごい音を立てるのと同時に、戦慄を覚えて震えるのを感じた。
「まさか・・・」
そんな筈は無いと十分理解しているだけに、通話ボタンを押す勇気が、なかなか持てなかった。
夢であってほしい。
いや、夢でなければならないのだと、自分に言い聞かせるように、口の中で小さく否定を繰り返す。
僕の願望と現実は、決して同じものであってはいけないのだから。
それでも不思議なことに、心の中でふつふと湧き上がる嬉々とした感情と、背筋を走る悪寒とは、アンバランスでありながら、同時に存在し得ると実感した。
言うまでもなく僕は、そのコールを無視することなど、出来なかった。
「もっ・・・、もしもしっ」
「ひかるくん?わたし、満月」
・・・一ヶ月ぶりに聴く、彼女の声だった。
あんなことになる前なら、きっと毎日でも、僕が望めば聞くことができた声。
そして、本来ならもう二度と、僕が聞くことは許されない声だ。
「・・・お願いがあるの」
「・・・何?」
満月さんの声は、いつ、どんな時でも僕の耳にすっとそよ風の様に入り込み、甘い蜜か、それとも劇薬か何かのようにユックリと脳内を浸食しながら、やがて僕全体を支配していく。
「今から来て」
「満月さん」
僕は、その誘いの返事をすることをせず、代わりに彼女の名を呼んだ。一ヶ月前、唐突に訪れた別れ以来、何度も心の中で繰り返し呟いていた、その名前を。
「わかってる。これで終わりにしたいの。だから、本当の最後の」
お願い。と続くであろう言葉を、彼女は言わなかった。
「・・・」
僕は押し黙った。以前のままの僕たちなら、会うことなど容易いことだった。
どちらかか都合のいいときに誘い合い、今日みたいに満月さんに、こうやって電話で呼び出されれば、たとえ深夜だろうと、いつ何処に居ようと、バイクを飛ばして駆けつけた。
僕たちに、倫理観も、罪の意識も、何もなく。
ただ、お互いがお互いを求め合う本能のままに、愛しあった。
純粋なまでの愛欲。それこそが大罪であるというのに。
「・・・会えないよ」
やっとの思いで、喉の奥から搾り出した声は、みっともなく震えてしまった。
まるで、心がその言葉を、拒絶していることを素直に伝えてしまっているようだ。
「・・・そうだよね」
彼女も、一言そう言った。そんなことは彼女自身、痛いほど分かっているうえで、僕に最後のお願いをしている。それも知っていた。
「もし、気が変わったら、来て。今夜一晩中、待ってるから」
「・・・」
「あのひと、いないから」
「・・・」
そして、僕が返す言葉を見つけられないでいるうちに、唐突に
通話が切れた。
満月さんと初めて出会ったのは、僕が小学校6年生のときだ。
満月さんは、その当時は確か、二十一か、二十二歳で、既に結婚していると話していたと思う。十個も年の離れた彼女と、なぜ僕が出会ったのかと言えば、何のことはない、近所で開かれている油絵教室に、お互い通っていたからだった。
僕は、小さいときから絵を描くことが好きで、どうしても絵を習いたいと必死に両親にお願いしたのをよく覚えている。
両親も、子供のくせにいつも家に引きこもって、ろくに外に出ず、ひとりで遊んでばかりいる僕のことを心配して、教室で友達でも作って、もう少し社交的になってくれればという考えから、承知したのだった。
教室には、さまざまな年齢の人たちがいた。
小さな町の、それも個人で開いている教室だから、生徒の人数もそんなに多くはなかったが、僕よりも年下の幼い子から、高齢のおじいちゃん、おばあちゃん。僕の母と同じくらいの中年の女性や、高校生の人もいた。
大体週に二回くらいのペースで、自分の来たい時間にきて、好きに絵を描いていいという方針だったが、時にはその場に居るもの同士ペアを組んで、お互いの似顔絵を描きあったり、先生の出すお題にあった絵を描いたりもした。
僕は、人見知りだったので、最初は一人で教室の隅の席に座り、ただ黙々と、窓の外に見える空に浮かぶ雲や、緑や、風景を描いているばかりだったが、教室に通いだして何回目かの水曜日、「今日は、誰かとペアを組んで、お互いの似顔絵を描いて見ましょう」という先生の発案で、初めて誰かと一緒に絵を描くことになった。
周りがそれぞれ声を掛け合い、ペアを作っていく中、一人恥ずかしそうにもじもじしていると、
「君、ひとり?」
突然、声を掛けられた。
うつむいた顔をおそるおそる持ち上げると、そこに、真っ白で小さな、女の人の顔があった。
瞳は大きく、全体的にはっきりとした目鼻立ちで、肩まで伸びた髪は、漆黒の真っ直ぐなストレートヘアだった。まるで祖父の家に飾ってあった日本人形そのものの容姿をした女性。彼女が、満月さんだった。
「わたしは、桜木満月、君は何ていうんだっけ?」
桜木満月なんて、なんだか、絵のタイトルみたいな名前だ。
僕は、普段なら口をきくことさえない、年上の綺麗な女の人に話しかけられて、どぎまぎしながらも、そんなことを考えたのを覚えている。
「・・・ひかるです。・・・井藤陽・・・」
「ひかるくん、一緒に絵を描こうよ」
そのときの満月さんの笑顔は、夕陽の光にきらきらと照らされて、輝いて見えた。あの笑顔を、今となっては見ることはおそらく出来ないだろうけれど、僕にとっての満月さんは、不思議と今でも、あの頃の印象のまま変わることはない。
まるで、永遠に色あせない絵の具で、僕の心にその笑顔を描き移したかのように。
「すごいねえ、ひかる君は。わたしなんかより、ずっと才能有るかも」
「そんなことない・・・よ」
初めてペアを組んだその日、出来上がった似顔絵をみて、彼女は、僕の頭を優しく撫でながら褒めてくれた。
「ほんとだって。きっとひかる君は、将来、立派な画家になるね」
それは、なんの根拠もない褒め言葉だったが、教室の先生に下手な慰めを言われるより、両親に苦笑いされながら、頭を撫でられるより、僕にとってはずっと嬉しい一言だった。たとえそれがお世辞でもおべっかでも、彼女の「きっと画家になれる」という言葉が僕の行く道を、どれだけ照らしたかしれなかった。
思えば、あの頃の彼女のこの一言が無かったら、僕は絵の道を、目指しては居なかったかもしれない。
それくらい、僕の人生においては大きな出来事だった。
「ひかる君の絵は、とても不思議で変わっていますね。目の付け所とか、このあざやかな色使いとか、個性的でよろしいと思います」
これが、教室の先生の決まり文句だった。
だから、僕はてっきり、自分の絵は他の人とは違っているのだ、先生にもあまりよく分からないものなのだと、子供心に思っていた。
たとえば、満月さんは、とても丁寧で繊細な印象の絵だと、周囲の人たちに言われていた。
確かにその通りで、満月さんの絵は、筆遣いも色使いも淡く、どこか透明感があり、僕の目から見ても、綺麗な女性らしい絵だと感じられた。
そんな風に、何かしらの特徴を褒められるならまだいい。
だが、僕の描いた絵は「個性的」と言う言葉でいつも片付けられるだけの、ツマラナイしろものだったのである。
先生は他の人たちにはこんなことを言ったりしなかったし、僕に直接的に、こう描きなさい、ここを直しなさいとも何も言わなかった。
「自由に描くのが、上達するいっぽです」と言うのが口癖のようで、確かに何を描こうと自由ではあった。だからこそ、僕はここで誰の目も気にすることなく、好き放題に描いてこれたのだけれど、先生は僕の絵を認めているわけでも、好いているわけでもないという事だけは、子供心に理解していた。
その証拠に、毎年町内のコンクールに出展される作品の候補に、僕の絵を選んでくれることも、結局最後まで無かったのだから。
心の片隅で、好きな絵を好きな風にかければいいや。
人の評価なんてどうでもいいや。
と、思いながら絵を描いていた僕は、満月さんと出会ってから、ようやく自分の絵に自信を持てるようになっていった。彼女が僕の絵を、好きだといってくれたからだ。
「このグラデーションとか、すごくカラフルで綺麗ね。あたしには、ここまで大胆に塗れないもの」
しかも満月さんは、具体的にどこが良いと思うのかを、教えてくれた。その言葉をヒントに新しい絵を描くと、不思議と今までとは違う作品が生まれてくるようになった。
このときの僕は所詮子供で、彼女の真意など深く考えていなかったのだけれど、今にして思えば、満月さんはこの時から、ずっと僕のミューズだった。
それからも、満月さんは、決まって同じ時間に教室で会うと、僕の隣の椅子にさり気なく座り、一緒に絵を描いてくれた。僕らは年は離れてはいたが、すっかり仲良くなり、絵のことや夢のことや、家族のことなんかを、よく話し合っては笑いあった。
毎週水曜日と、金曜日の油絵教室の時間が本当に楽しみで、早く絵を描きたくて、早く満月さんとおしゃべりがしたくて、学校が終わると息を切らせながら走って、町外れにある小さなレンガいろの建物に向かった。
古臭くてこじんまりした、何処にでもある風貌の一軒家。
家のすぐ傍に、木のベニヤ板で出来た「油絵教室」の看板がなければ、きっとここが絵の教室なんて、誰にも分からないだろうと思う。
そこが、当時の僕にとって、大好きな世界への入り口だった。
扉をあけるときは、初めての事でもないのに、毎回性懲りもなく胸がどきどきしていた。
それは時を経て大人になった僕が今でも、懐かしく思い出す、初恋の記憶である。
だが、そんな幸せに満ちた日々は、満月さんの唐突な一言で、たやすくぱらぱらと剥がれおちていくこととなる。
それは、油絵教室に通いだして、一年の時が流れた頃だったろうか。
「わたしね、引っ越そうと思うんだ」
「・・・え!?」
「ここからずっと遠いところ。ひとりで暮らそうと思ってる」
「・・・どうして・・・」
僕は、頭がガンガンして、ひどくめまいがした。
一日中集中して、キャンバスに向かっていたせいもあるが、それ以上に満月さんの一言に受けた衝撃が、大きかったせいだろう。
ちょうど教室が終わり、満月さんとふたりで、絵の具の片付けをしていたときだった。僕は、自分で言うのもなんだが要領が悪かったため、片づけが遅く、決まって教室を出るのが最後になるので、それを満月さんが毎回待っていてくれた。(先生もそのことを知ってたので、決まって僕たちに最後の戸締りを任せていた。)
「なんかね、いろいろなことがうまくいかなくて」
「・・・」
僕は、絵の具を順番に並べて、ケースにしまうことも忘れ、その場に突っ立ったまま、満月さんの顔を見つめていた。
「もう一度、一からやり直したいと思ってる」
「・・・なにを?」
僕は恐る恐る尋ねる。
この日の満月さんは、いつもの暖かい笑顔をたたえた、優しい満月さんではなかった。どこか近寄りがたくも見える思いつめた表情を浮かべており、全身からは、シンとした冷たい雰囲気を漂わせていた。
「わたしを」
「満月さんを・・・?」
「うん。だから、この町を出て行こうと決めたんだ。ひかる君は、友達だから、最後にどうしても話しておかなくちゃって」
わたしをやり直す。
その言葉の本当の「意味」はそのときの僕にはまったく分からなかった。いい年になった今の僕でも、正しい解釈をしたかは、分からないくらいなのだから。
「どうしても出て行かなきゃいけないの?出て行かなきゃ、やり直せないの?」
「ひかる君」
「せっかく友達になれたばかりなのに・・・!これからもっともっと、一緒に絵を描いていこうと思ったのにっ」
僕はまだ子供で、満月さんの事情なんて理解できるはずもなかった。
ただ、大好きな人に置き去りにされる寂しさと、憤り、悲しみで心がめまぐるしく色を変え、その度に顔をぐしゃぐしゃにしながら、泣き続けるばかりだった。
「ごめんね、ごめんね」
満月さんは、悲しげな瞳でぼくの顔を覗き込んだまま、謝罪を口にしては、僕の頭を撫でていてくれた。
そして、僕がようやく泣き止んだ頃に、こういった。
「ひかる君は、絶対に絵を辞めちゃ駄目よ・・・何があっても」
満月さんは、その日以来、教室に来ることは無かった。
先生に、一度だけどこに引っ越したのかを尋ねたことがあったが、誰にも詳しい事情は話していなかったと言う。
僕は、満月さんと会えなくなってから、一時期教室に通うのも億劫になり、筆を持つ気力を失っていたことがある。
あれほど好きだった絵に興味を持てなくなり、再び部屋に閉じこもるようになったのは、中学生に上がって間もなくのことだった。
この頃にはもう、僕は絵が好きなのか、ただ、満月さんのことが好きなだけで、彼女に絵を褒めてほしいから、絵を続けていただけだったのか、本当のところが分からなくなってしまっていた。
両親は、またも内向的になって、部屋に閉じこもっては悶々としている僕のことを大層心配して、絵の代わりにと、色々な習い事を勧めてくれたりもした。
ピアノ、ヴァイオリン、英会話や珠算など、あまり熱心に勧めてくるものだから、取りあえず、手当たりしだい手をつけてみたものの、どれも数ヶ月、長くても半年持たずに、すぐ辞めてしまった。興味を持てないのだ。
もう、二度と何事にも僕は心を動かすことは出来ないのではないかと、ひとり、怯えていることもあるくらいだった。
しかし、そんな僕の行き詰った思考の中には、ずうっと満月さんの一言が引っかかり続けた。「絵を辞めては駄目」だと。
なぜ満月さんは、あんなことを、最後に言い残したのか。
両親にも先生にも、他の誰にも賞賛を贈られたことのない僕の絵の中に、何を見てくれていたのだろう。
長いときが流れ、満月さんとは、それきりもう再会することはないだろうなと、すっかり確信を持ちながらも、結局僕は、絵を描くことをきっぱりと辞めることも出来ず、両親の反対を押し切って、都内にある美大に入った。
両親からの仕送りと、アルバイトで小遣いを稼ぎながら、貧乏ながらも、なんとか一人暮しもやりくりできるようになった。
とにかくぼろくて汚くて、風呂もトイレも共同のアパートに住んでいたが、その部屋で、僕は誰にも邪魔されず、アトリエで自分の作品作りに没頭する画家にでもなったような誇らしい気持ちで日々を送った。
毎日油絵の具臭くなりながら、爪を黒くしながらひたすらキャンバスに、思いつくままに何やら描き、腹が減ったら安いレトルト食品を温めて食べ、夜が更けたら床にそのまま倒れこむように眠る。
世の大学生たちが理想とするような華やかなキャンパスライフとは程遠い生活を過ごしながらも、僕の心は満ち足りていた。
自由と、創造と、度重なる苦悩とが織り交ざったこの感覚は、僕に生きる意味を与えてくれた。
そう、僕にとっては、絵を描くことは大げさではなく、生きていることを証明する手段になっていたのだ。
巧いとか下手とか、大学での評価とか、そんなものは問題にすらしなかった。
自分勝手な欲望と、思いつきだけで塗り固められる、素人目に見ても美的センスのない作品は、侮蔑の対象でこそあれ、賞賛に程遠い、これでもかというほどの自己満足を詰め込んだ、ある意味傑作だった。
おかげで講師の評判はすこぶる悪く、仲間内でも「変な奴」のレッテルを常に貼られていたが、僕の心は何一つ揺るがなかった。そう、絵に対する心は油絵教室に通っていた、あの頃のままだったのだ。
ただ、少年の日の夢を、いつまでも思い描くだけの。
そんな日々を送っていた、あるとき、僕は赤の絵の具の上に緑を、緑の上には紫を重ね、最後に真っ黒な絵の具をむちゃくちゃに塗ったくって、キャンバス全体をつぶし、中心にぽっかり明いた空白部分に、黄色でひとつの円を描いた。
それも、その円の黄色はただの黄色ではない。
目を凝らすと淡い桃色が滲み、ところどころ色が抜け落ち、表面にいびつな白い穴ぼこがあいたように見える。
この絵は構内に飾ってある僕の醜悪な絵の中で、もっともいい加減で、稚拙で、そのくせ得体の知れない情念がありありと滲み出ているようで、とにかく見たものを不快にさせ、強い嫌悪感を抱かせる、言葉では形容しきれないほどの、不気味な作品の代表作となった。
あんなに美しい夜空に浮かぶ月を見て、僕はなぜこのような絵を描くに至ったのか、自分でもこのときは、分からなかったのである。
だが、もしも人間に、この先の未来を見通すことの出来る潜在的な能力が備わっているのなら、僕はこの絵が予知した不気味な色に染め上げられた未来を、今すぐこの手で塗り替えてやったのにと、未だに考えてしまうことがある。
今度こそ、あの美しい満月を、正しい形で、ひとつも歪な部分の無いくらい完璧に、描いてやりたかった。
ピンポーン。
冷え切った指先で、ブザーを鳴らす。
高級高層マンションなんて、貧乏美大生の僕には一生縁のない建物だと思っていた。こうして満月さんに呼び出されでもしなければ、たぶん足を踏み入れることなどかなわなかったことだろう。
数秒待って、もう一度鳴らす。
以前だったら、この時点でかすかな足音が近づいてくる気配がして、すぐに重厚な金属のドアが、鈍い音を立てて開き、
「・・・いらっしゃい」
と一言、ささやくような淡い声音で、満月さんが出迎えてくれるはずだった。
だが、今夜は違った。
電話で満月さんに呼び出されてから、結局二時間の時が経っていたし、もう満月さんも諦めて、寝てしまったのかも知れないと思ったが「一晩中待っている」と言った彼女のあの真摯な言葉から、それは無いと考え直した。
なにしろ、電話口の彼女は、声だけでもわかるほどに思いつめていたのだから。「最後の」と言う言葉は、僕たちにとっては、これ以上に無いほどに重く、甘く、残酷な言葉だった。
その言葉を口にするまで、彼女もどれほど、思い悩んだか知れない。
僕も、あの悪夢のような夜を二度と繰り返したくは無かったし、次こそは本当に僕が狂ってしまうか、彼女が破滅してしまうかの、どちらかだとしか思えなかったから。
それにも関わらず、またこうして彼女のマンションの部屋の前に来てしまう僕は、甘美な記憶と言う餌に釣られた、恐怖を覚えることを知らない愚かな虫けらのようだった。
ちょうど、蛾が、何度も明かりに引き寄せられて近づいて、最後には熱で、焼かれ死んでしまうのと同じように。
数刻経っても、彼女が一向に出てくる気配はなく、僕の鼓動は早鐘をひたすらに打つだけだった。嫌な汗が、背中を濡らしているのが分かる。この真冬に、いくらなんでもここまでの汗をかく事は今までなかった。焦燥感と、一抹の不安で叫びだしそうになるのを何とかこらえながら、僕はジャンパーのポケットを探った。
それは、満月さんの部屋の、合鍵だった。
「もし、わたしがいくらブザーを押しても出てこないときは、この鍵を使って入って」
「え、でも、それは・・・さすがに」
「もしも、よ。大丈夫。そんなことなんてないから。ひかる君が着たら、必ず私が出迎えるでしょ。ただ、あなたに、持っていてほしいだけなの。」
彼女は笑ったが、僕はこの鍵を、決して使う日が来ないようにと思いながら、しかし、彼女の気持ちがうれしかったので、それを拒むことはしなかった。
「・・・」
小さく小刻みに震える右手で、鍵穴に合鍵を差し込んだ。
僕は、そこにきっと、いつもどおり微笑む彼女が居てくれるんだ、彼女と夢のようなひと時を過ごせるのだと、自分に言い聞かせるだけで、この扉の先に、どんな怪物が待ち構えていようとも打ち勝てるくらい、精悍な勇者になったかのような勘違いをしてしまうことが出来た。
この世でもっとも傲慢な、愛に身を委ねた者だけが持てる勇気を持っていたから。
あれは、僕が大学二年目のときだ。
もう二度と会うこともないだろうと思い込み、記憶から、その輪郭も薄れかかっていた、満月さんと再び出会ったのは。
その晩、僕は自分と同じような、大学で落ちこぼれ扱いされている仲間たちと一緒に、珍しく飲み歩いていた。
あれほど好き放題に、キャンバスに思念を打ち付けていたこの僕が、最近は思うとおりにまったく描くことが出来ない状態に陥ってしまった。
もともと大して巧くもない奴が、課題すら提出しないとなれば、講師も見捨てるに決まっている。
この憤りと、むしゃくしゃした鬱憤を、どこにぶつけることも出来ずに、ただ馬鹿みたいに騒いでは、飲み歩いた。
そんな中、仲間のある一人が、行きつけの店に可愛い女の子がたくさん居るから行こうと言い出した。
そいつは、いわゆる金持ちのぼんぼんで、貧乏な僕と違い、有り余るほどの小遣いを、毎月親から受け取っているような男だった。
こいつにとっては絵は道楽で、そこは絵を生きがいにしている僕とは対照的すぎて理解は出来ないが、才能がない点に置いては腹立たしいことに、共通していた。
「金、ないから、もう帰るよ」という僕の言葉を聞くと、「大丈夫だって。今晩は俺が出してやるってえ」と、赤ら顔で、誘ってくる。
無料ならば、と言うことで、結局僕も行くことになった。
僕には、一応そのときは彼女というべき存在もいたが(大学で知り合った人で、まだ交際は三ヶ月目だった)、そのときは罪悪感よりも酔いに任せて、どうとでもなってしまいたいという、感情のほうが勝っていた。
僕は、自慢ではないが、あちこちで女遊びをするような男ではなかったので、(貧乏なせいもあるが)こんな店には入ったこともなかったため、煌びやかなシャンデリアが飾られ、派手なライトでチカチカ照らされた店内と、たくさんの女性の嬌声に満ちた空間に、まるで落ち着かなかった。
他の仲間たちは、女性を次々と呼びつけ、笑いあったり、肩を抱いたりと、楽しげに騒いでいる。
そんな中僕は、派手な女性たちを避けるように、隅のほうに座り、もくもくと黙って酒を飲んだ。
何杯飲んだか分からなくなってきた頃、次第に頭は重くなり、数刻もしないうちにガンガンと痛みが増してきた。
いい加減飲みすぎたかもしれない。そう思い、外の空気でも吸いにいこうと席を立つと、一人の女性に声を掛けられた。
「はい、どうぞ」
グラスいっぱいの水を差し出される。
「顔色が悪いから・・・」
「ああ、どうも」
グラスを受け取りながら、僕は初めてその女性の姿をまじまじと見た。
真っ直ぐに僕を見つめ返してくる、そのおおきくて黒い瞳。
周りの女性たちが、茶髪や金髪など割と派手な髪色に、盛れるだけ盛り上げまくった今はやりの髪型をしている中、漆黒で、飾り気の無いストレートヘアの女性。薄化粧に、真紅の口紅をしたその人は、まるで昔ながらの、日本人形のような風貌だった。
僕は、彼女の醸し出すこの雰囲気を、良く知っていた。
「まさか・・・」
言いかけて、言葉を飲み込む。まさか、そんな筈はない。
彼女が、こんなところに居るわけはない。
でも、僕の思い出の中のその人と、今目の前にいる女性は同一人物であると、全身におびただしく走った鳥肌が、はっきりと告げていた。
僕は、躊躇いつつも、体が鳴らす警笛のまま、言葉を紡ぐ。
「満月さん、ですよね?」
「・・・ひかる、君?」
すると、しばらく僕をじっと見つめていた彼女は、慎重に、答えを確認するかのように、僕の名を恐る恐る呼んだ。
「はい」
「やっぱりそうなのね」
「どうして、分かったんですか?」
満月さんの姿は、十年経ったとはいえ、あのころと髪型も化粧もほとんど変わっていなかったから、僕にもそうだとすぐ気がついたのだが、僕自身はもちろん、ランドセルの小学生だったあの頃と違い、身長だってぐんと伸びたし、声も声変わりのために、少年の頃とは全く違っている。いくらなんでも、そんな簡単に、僕だと気がつけるものだろうか。
「お店に入ってきたときは、気づかなかったけど、こうして、正面から顔を合わせたら、急に、そうなんじゃないかって気がしたの。不思議ね。こんなに時間が立って、すっかりひかる君も、立派になっているのに、雰囲気は、全然変わってないの。あとは、そう。その顎のところのほくろ、かな。そこは、あの頃と変わっていないものね」
そういって、満月さんは懐かしそうに僕を見つめながら、ゆるりと微笑んだ。
それは、僕自身を見つめているようで、どこか遠い記憶の風景を、僕を通して、繋ぎ合わせてゆく作業のように感じた。
満月さんも、僕を覚えていてくれたのだ。
十年も前、たった一年足らずしか交流を持っていなかった、ちっぽけなただの子供だった、僕のことを。
そう実感すると、胸の奥がじんわりと暖かくなった。こうして、僕たちは実に十年ぶりに再会したのだ。それも、まさかこんな都会の、歓楽街で。そしてこの日から、僕たちの奇妙な関係は始まってしまったのだった。
結局、その日の夜、僕は彼女に誘われるまま、彼女のマンションに足を踏み入れた。整理整頓された、実に簡潔なリビング。
キッチンにも、余分なものは何一つ置かれておらず、銀色のシンクは曇りひとつなく、信じられないくらいぴかぴかしていた。そして、真新しいフローリングの床に、白くて飾り気の無い、シンプルな二人がけのソファ。ソファの前に置かれた、長方形のガラスのテーブル。広い室内に合わせて、かなり大型の、立派な液晶テレビがあった。目に付くものといったらそれくらいで、がらんとした室内は異様に広く、空虚な感じがした。
自分でもまったく予期していなかった、深夜の突然の誘いだというのに、僕は何一つ躊躇もせずに、こうして彼女の後に、のこのこと着いてきてしまった。
自分の最低さは理解しつつも、心には、何ひとつの罪悪感も持たなかった。
それどころか、強い高揚感に細胞中が沸き立ち、胸が躍るように弾んだ。
それは、油絵教室に通っていた少年の頃に、戻ったかのような気持ちだった。
「わたしね、あれからすぐ実家に帰ったの」
満月さんは、自分の過去を包み隠さず、僕に打ち明けた。
所詮、僕は彼女にとっては昔の知人に過ぎないと言うのに。
普通ならもっと警戒心をもっても、よさそうなものだ。だが、なぜだろう、そんなことを不審に思う気持ちなど、微塵も湧かなかった。あの頃からずっと僕らの中には、はたから見たら変な仲間意識のようなものがあって、それを共有しあうことで、お互いに絆が深まっていくような気がしていたのは、間違いなかった。今このとき、僕らは僕らを取り巻く時間が、十年前のあの頃に戻ったのを感じていた。
「両親が、すごく心配してた。わたしが元旦那との生活に悩んでたことは話していたし、離婚するって決まってから、すぐに実家に帰るようにって連絡が来たの。帰ってからは、家の手伝いをしたりして、静かに毎日を過ごしてた。ようやく、実家での生活にもなじんできた頃に、母からある人を紹介されたの。両親の仕事仲間で、特に母からの信頼が厚い、やり手の実業家の人だった。その人との、お見合い話を持ちかけられたの。それで三年前に、再婚したのよ」
「・・・」
僕は満月さんが再婚していたことには、驚かなかった。
もともと、派手な美人と言うわけではないが、華奢で、綺麗な人である。見た目も中身もごく普通で、人付き合いは下手くそで、大学二年まで、彼女が出来なかった僕とは違い、満月さんなら相手がすぐに見つかることは、むしろ当たり前かもしれないと思った。
「その人がね、東京で新しい事業を始めるって言うから、この街に来たのよ。それがまさか、ここでひかる君に再会するなんて、思わなかったけれど」
僕は、彼女の今の身の上を聞いたうえで、どうしても引っかかっていることがあった。それを、単刀直入に聞いて見る。
「お金に困ってるわけじゃないんですよね。結婚して、こんな立派なマンションに住んでるんだから」
「・・・ええ」
「なんで、あんな店で働いているんですか?」
それは、どうしても解せない点だった。
満月さんが、みずから望んで夜の仕事を始めるような人には見えなかった。
その証拠に、満月さんはあの店では、その風貌や持ち前のおっとりした雰囲気もあってか、若干浮いているように見えた。
「・・・」
彼女は押し黙る。唇は堅く結ばれ、しばし語るのをためらっている様子が窺えた。それでも僕は、彼女が話してくれるのを催促せずに、ただじっと待った。
「・・・怖くて」
「・・・え?」
数分経って、ようやく口を開いた満月さんからは、予想外の答えが返ってきた。
「こんな広い部屋に、毎日のようにひとりで閉じ込められているのが、とても怖かったの。だから、敢えて外に出た。人が集まるところなら、本当は、何処でもよかった。あの店を選んだのは、ああいった店なら、少なくともたくさんの人に囲まれた空間で、夜明けまで、ずっとすごせるでしょう。そうすれば孤独を感じずにすむから・・・」
「・・・旦那さんは?そういえば、もうこんなに遅いのに、僕を部屋に入れたりして、今日は、帰ってこないんですか?」
「・・・今日だけじゃないわ。もうずっと帰ってこないの」
満月さんの話を聞くと、旦那さんは、仕事で出張やら海外遠征やらなんやらで、この部屋にはほとんど戻らないと言う。メールや電話などで僅かなやり取りがあるものの、毎日ではなく、忙しいときは一週間に一回、あるか無いかだそうだ。彼女は、ほとんど一人で家に居て、いつ戻るかも分からない彼を待っているだけ。そんな生活が、もう丸三年にもなるというのだ。
「最初の頃は、それでも我慢していたわ。趣味の絵を描いたり、本を読んだりしながら。でも、夜がとても長く感じた。いつも一人でベッドに入るとき、ふと考えるのよ。いまここでわたしが死んでも、誰も気づいてくれないんじゃないかって。」
「満月さん」
そんなことはない、と言いそうになって、口を噤む。
一体、僕なんかが何を口走るつもりなのか。
僕は彼女の夫でもなければ、恋人でもない。
友達と言えるような関係かも分からない。いうなれば、顔見知りとは言え、赤の他人である。
「でも、僕は、満月さんに何かあったらいやなんです」
「ひかる君」
満月さんは、僕の発言に驚いているようだった。大きな瞳が、より真ん丸く見開いている。
「・・・才能も技術もなんもなくて、木偶の坊って周りに馬鹿にされながら、親にも半分、見捨てられながら、でもそれでも、いまでも僕が美大に通っているのは、満月さんがいたからなんです。僕に絵を続けさせたきっかけは、満月さんだ。僕が将来画家になるまで、責任とって見守ってください。それまで、勝手に居なくなられたら、困りますよ」
何を、訳が分からないことを言っているのか。
整理のつかない頭で、必死に彼女を繋ぎとめようとする僕は、滑稽だった。
でも、何でも良いから、彼女に伝えたかった。ひとりきり孤独に怯えて暮らしている、いつまでも小さな少女のような彼女に。
決して満月さんはひとりではないと。
僕があなたの言葉に支えられて、これまで絵を描き続けてこられた様に。
「絵を続けているのね」
すると、僕の言葉を聞いた彼女の声は、ぱっと明るくなった。
「よかった。わたし、信じてたもの。あなたはいつか、立派な画家になるって」
「どうしてですか」
僕は、十年前から不思議でたまらなかった、その疑問の答えを、ようやく彼女に求めることが出来た。
「だって、あなたの絵には、ちゃんとあなたが居るんだもの。誰の影響も受けない、心のままのあなたの姿が、はっきり見える。そういう自由な絵が描ける純粋さは、才能だってわたしは思ってた。わたしには描けない、素直な絵だったから。先生とか、周りの目とか、期待に応えなきゃって考えすぎて、在り来たりな絵しか描けなかった、わたしとは違うなって」
「・・・」
「強い個性とかって、他人からみれば批判されることも多いと思うけど、もしその能力を上手に扱うことができたら、ひかる君の絵は、きっといつか認められるって、わたしには思えるから」
確かに僕の絵は、僕そのままだ。他人のアドバイスも助言も、僕には何の影響も、もたらさない。気が向かなければ、もっている小手先の技術ですら酷使しない。
ただ、心が見たものを、そのままその色で描きつけるだけ。
それが気に食わない人も居ることは、重々分かっていたし、爪弾きにあうのが常だった。そして何より、この頃スランプ気味になっていた僕にとって、満月さんの純粋な気持ちは、僕にとっては希望の光のように暖かかく、あり難かった。
「よかった」
満月さんは、もう一度そういうと、瞳に涙を浮かべながら、優しく微笑んだ。
濡れた瞳には、今にも涙の粒が、零れ落ちそうに不安定に揺れていた。その姿は、胸を締め付けるほど、儚く美しかった。僕の渇いた体の一番奥に、透き通った彼女のしずくが落ちてゆく、そんなイメージがふと頭に浮かんで、知らずに体が震えた。
次の瞬間、僕は何も考えずに彼女を抱きしめていた。
「ひかる君」
彼女は、僕の突然の行動に驚き、僕の腕を振りほどこうとしたが、僕はそれを許さず、さらに力を込めてきつく彼女を抱いた。すると、何故か僕の頬にも、一筋の涙が伝っているのに気づいた。それを見た満月さんは、もう抵抗しようとせずに、手を伸ばし、僕の涙を小さな手で拭いながら、ささやくようにこう言った。
「ありがとう」
「・・・」
僕は、この夜、彼女に二度目の恋をしたのだった。
二兎追うものは、一兎をも得ず。
まさにその言葉は真理である。
僕は、自分のどうしようもない不器用さを、これまでの人生で十分学び取ってきた。僕は、三ヶ月付き合ってきた恋人に、満月さんと再会してすぐ、別れを告げた。
「なんで?あたし、なにかした?」
「ごめん。そういうわけじゃない。でも、もうこれ以上付き合えないんだ」
彼女の言葉に胸は痛んだが、他に何を告げるつもりはなかった。真実を告げることは、なんの落ち度も無い彼女に対してあまりに酷で、無礼だと理解していた。悪いのは僕で、すべての原因も僕にある。そして、初めから僕は、この人を愛してなど居なかった。
自分勝手に愛を貪って、「恋人」という都合のいい関係を築くだけに過ぎない存在。それが、この彼女だったのだ。
それは現在、真実の恋をした僕が確信してしまった現実だった。僕は自分の心に、正直なまま生きたいがために、何の罪も無い他人をこうして傷つけ、しかも、実ることなど決してない許されざる新しい恋へと、走り出してしまったのである。
僕と満月さんは、あの夜以来、たびたび逢瀬を重ねた。
満月さんの作ってくれた手料理を食べに行ったり、ふたりでソファでくつろぎながら、テレビを見てたわいないおしゃべりをしたり、時には、一緒に絵を描いた。お互いの作品を見せ合ったり、合作なんて良いながらひとつのキャンバスに向かい合ったり。
満月さんの絵のタッチは、あの頃とまるで変わらず、透明で繊細な筆使いだった。透き通るような色合いには、一種の気品がありありと見て取れ、僕は、僕なんかより満月さんのほうこそが、ずっと絵の才能に恵まれた人間なのだと見せ付けられたかのようで、絶望感すら感じたものだった。
「満月さん、本当に絵描きになるつもりはないんですか?」
僕はどうしても、そこが納得が出来なかった。だから、僕は絵を見せてもらうたびに、彼女と筆を重ねるたびに、何度もこの質問を繰り返した。
「ええ。わたしには、無理よ」
しかし、彼女に問いかけても、かたくなに首を振るだけで、決して理由を明かしてくれなかった。
僕が図らずも、その真意を知ることになるのは、ずっと先の未来のことだったのだから。
そうして、僕らは、ゆっくりと心の距離を縮めていくと同時に、ついには体の関係も持った。
僕は、二人の関係について、深く考えることもしなかった。
僕にとって、不倫とかそういったものは、まるで現実から遠くて、自分に縁の無いものであった。
なのに、いざ自分が陥ってみると、そこからもう一歩も抜け出せない自分が居ることに、気が付いた。気づいたときには、両足の付かないほどに深い、深い淵にまで落ちて、甘い蜜釜の中で、溺れてしまっていたのである。
今こうしていても、たた僕は、満月さんを、好きと言う感情のみで動いていた。こうやって傍にいられて、恋人のように愛を確かめ合えれば、それで満足だった。まさに甘い砂糖菓子のような、パステルのような、淡い色の夢だけに彩られた、幻想の日々。
そんな夜を、飽きることなく繰り返し続けたのだ。
それが悪いことのようには、微塵も思えなかった。
このときの僕は、二十歳そこらで、所詮ガキだったといまでは痛感している。だって、もし僕が本当の意味で一人前の大人の男だったら、満月さんをいくらだって、この強靭な孤独の檻から救い出せる術を持てる筈だったのだから。
満月さんは、僕と会うようになってから「もう必要ないから」といって、夜の仕事をすることも辞めてくれた。
デートを重ねて、半年あまりたったあるとき、常に微笑を絶やさなかった満月さんが僕の前で、突然泣き出したことが一度だけあった。
「どうしたの?」
動揺して、おどおどと慌てる僕に「大丈夫」とだけ言って、彼女は薄く微笑んだ。だが、その笑顔は不安定で、僕が彼女の手を取って、どんなに優しい言葉を投げかけても、瞳の奥の光は濁ったままだった。
「このまま、ずっと一緒にいられたらいいのにね」
「・・・」
僕もそうしたかった。
あるいは満月さんを、ここから連れ去ってしまいたかった。
そうすれば、彼女を、長い孤独から救うことができる。
彼女とずっと一緒に、暮らすことも出来る。
彼女の旦那が居ない夜にこっそりと、泥棒が忍び込むように、部屋に入って会う必要もなくなるのだ。だが、そんな事は叶う訳がなかった。第一、僕は親からの仕送りのおかげで、何とかあのボロアパートで生活している程の、貧乏で力ない学生なのだ。
満月さんを支えられる経済力など到底あるわけもなく、まして旦那から彼女を奪い取れるほどの気概も、権力も持ち合わせていない。
「今は、一緒にいる。ずっと一緒に居るから」
そういってきつく満月さんを抱いて、零れる涙を拭くことしか、僕には出来なかった。それしか出来ない自分が、憎かった。
「うん」
満月さんも、小さくそれだけ返事をすると、それ以上なにも言わず、僕の肩にもたれ掛かった。
そして、満月さんと密会するようになった、この頃の僕は不思議なことに、自分の絵が新たな境地にたどり着けるのではないかという確信を、強く持つようになっていった。
次々と、インスピレーションが湧き上がってくるのだ。
そのせいか、あんなに肩身の狭かった大学でも、にわかに僕の絵が、注目を浴びるようになっていったのだ。
今までにない表現、新しい色彩。それらが自然と筆に乗り、キャンバスを縦横無尽に駆け巡るようにして、ひとつの作品を作り上げて行く。そのイメージが、目を閉じていてもありありとまぶたの裏に浮かんでくる。僕は自分の絵が、自分の中の感覚が、大きく拓かれていくのが実感できた。このうえなく幸福だった。
愛する人が、僕の才能を呼び覚ましてくれるミューズでもある。これ以上ない喜びと、明けることの無い幸福な夜に、このままずっと、浸っていられると信じていた。
あの、悪夢の夜が訪れるまでは。
終焉の夜は、いつもと変わらず満月さんの電話で始まった。
二人の楽園とも言えるその部屋で、相も変わらず、二人でより沿い合い、ソファにもたれ掛かりながら、口づけを交わしていた。何度も何度も。破滅の鐘の音が、空間に鳴り響くまで。
ガンッ!!!
満月さんの肩を優しく抱いていた、そのときだった。
突如、頭を殴りつけるような騒音が聞こえ、反射的に、玄関の方角に振り向いた。満月さんは、恐怖におびえるような顔で、その一点を凝視している。
「どうして・・・」と、小さい声で言ったのが聞こえた。
僕は、そこに立つ人影を見た瞬間、ようやく事態を飲み込んで、ソファから立ち上がる。現れたのは、いかにも高級そうなブランド物のスーツを身にまとった、背の高い、やや白髪交じりの短髪の中年の男性だった。
「何をしているんだ」
その男は、乱雑に靴を脱ぎ落とすと、真っ直ぐに僕を見据えたまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。
僕は、蛇ににらまれた蛙みたいに、ピクリとも動けなかった。思考は真っ白だった。
ただ、男の強い殺気に気圧されて、背に満月さんを庇いながら、なんとかその場に立っているのがやっとだった。
「何をしていると聞いているんだ!」
次の瞬間、その言葉と同時に、突如放たれた男のこぶしが、僕の右頬に激しく命中した。
「っぐ・・・」
僕は、突然のことに、衝撃をこらえることも出来ず、派手に吹き飛ばされ、テーブルに激突して、その場に崩れ落ちる。
「やめて!」
満月さんは、悲鳴のような声をあげながら、倒れた僕の横に駆け寄ると、すかさず僕をかばうように、その男の前に立った。
「満月さん、・・・駄目だ」
僕は、痛みをこらえて、よろよろと立ち上がる。
口元から、一筋、血が流れて伝うのが感覚で分かった。
口の中を切ってしまったらしい。口内も、苦い鉄の味がして、胸焼けがした。
「お前、何をしたかわかってるのか、満月!」
男は、今度は、激しい怒りと蔑みを滲ませた声音で、満月さんににじり寄ると、乱暴にブラウスの胸ぐらを、掴み上げた。
「うっ・・・」
「満月さん!」
満月さんは、苦しそうに呻くと、悲しみと恐怖を必死に堪えている瞳で、僕をじっと見つめ、アイコンタクトを送ってくる。「今のうちに、逃げて」と。
「・・・っ」
僕は、逃げなかった。腹が立って仕方が無く、今まで感じたことの無い荒れ狂う怒りの感情に、自分自身もついていけていなかった。殴られたからじゃない。満月さんに手を出そうとしている、この男に対しての激しい憎悪が湧き立っていた。
そして、なんの勝算も無く、自分より身長も高く体格も良い、満月さんの夫でもある男に、無謀にも飛び掛った。
僕は男が、満月さんを押さえつけている腕に、思い切り牙を剥いて噛み付いた。引きこもりで、筆しか持ったことのない、ひょろっちいモヤシのような風体の僕は、腕力よりも、絵を一時的に辞めていた中学生のとき、半年弱習っていたヴァイオリンのおかげで、あごの力の方が、数段強いことを知っていた。
「貴様!」
男の顔がぐしゃりとゆがみ、刹那、激昂した。
男は、満月さんを突き飛ばすと、また僕を力いっぱいに殴りつける。
今度は、拳が左目の横に命中したのか、とたんに視界が白く濁り、何も見えなくなった僕は、ソファの足に躓いて、転んだ。殴られた痛みは、もはや感じられなかったが、頭は重く、ぐらぐらしてほとんど働かなかった。
その間も、薄れる意識の中、何度もギラギラした執念のみで、男に向かっていったが、その度に軽く、ごみでもつままれるかのように捕まれ、投げ飛ばされては、床に無残に叩きつけられた。
「ひかる君、やめて!もうやめて!逃げて・・・お願い」
満月さんの悲痛な叫びが聞こえなくなったころ、僕は全身のダメージで、床に横たわって動けなくなっていた。
頭上から、虫けらでも眺めているかのように、横たわる僕を見下している男の視線を感じる。
「二度とくるな、くそがきが」
はき捨てるように言うと、男は僕の腕をつかみ、部屋の外へ放り出した。
遠くで満月さんのすすり泣く声が聞こえてくる気がしたが、それも次第に遠くなり、僕の意識は暗いところへ沈んでいった。
それから数時間後、僕は、しんとした冷たい何かに、全身が突き刺されている感触で目を覚ました。
どうやら、大理石が敷き詰められた床の上に、倒れていたらしい。
そこは、見慣れたマンションの入り口付近だった。
どうやって、階段を下りて、ここまで来たのかは、覚えていない。
途中で、また気を失ってしまったのだろうか。
自分のことだというのに、あまりに記憶があちこち飛んでいて、現実感が湧いてこない。辛うじて現実だと僕に伝えるものは、この体中の痛みだけだ。
それから、重いからだを引きずるようにしながら、バイクを止めてある数メートル先の駐車場へ、おぼつかない足取りで歩き出した。
その間も、激しい痛みが襲ってきたが、それとは別の理由で、僕は涙が止まらなかった。満月さんは、あの後どうなってしまっただろう。あの男は、満月さんにまで手を上げているのではないかと思うと、自分の非力さに、無性に腹がって、泣けてきた。
確かに、世間には認められぬ恋ではあった。
しかしそれでも、生まれてはじめて、心から愛した人だったのに、その人を守ることすら出来ず、僕はただ、彼女の人生に汚点を残すことになってしまうのか。
頭では分かっているのだ。自分の犯した罪は。あの男の妻である、満月さんを奪おうとしたのはこの僕だ。男の怒りは最もだ。こんな目にあったのも、自業自得だ。
いや、実際は違う。ただ愛していただけだ。僕は、彼女を何者からも奪うつもりなんかない。同じときを過ごし、愛を確認しあい、夢を朝まで語り明かす、そんな時間を幾重にも塗り重ねて、この先もずっと、彼女を愛していたかった。
「はははは・・・」
そんな都合のいい話が、この世のどこにあるというのだろう。
ようやく思い至った、自分自身の浅はかすぎる考えに、口元から、引きつった笑いがこみ上げる。
嘲るような、笑い。自分を嘲笑いながら、泣いている僕の姿は、見た目も、中身も、擦り切れたぼろ雑巾のようにみっとも無くて、ぐちゃぐちゃだった。
後から後から、漆黒の涙が零れていく。
あの灰の雲は、夜道を照らす月明かりさえも覆い隠し、代わりに冷たい雨粒を叩きつけ、僕に追い討ちをかけるのか。暗い空が降らせる水滴は、まるで僕らの心のうちを表しているかのようで、凍える頬を止め処なく流れる僕の涙さえも、全てがその黒の中に、吸い込まれて消えていくだけだった。
あの夜からひと月。
この重たい扉をふたたび開けるとは、想像していなかった。それも、自らの手で、満月さんから貰った合鍵を使うことで。
あの夜の傷は、肉体に付いたものは薄れ落ちていたとしても、心にこびりついた記憶は、完全に消えては居ないのだ。
ただ、僕は今度こそ本当に、終わりだと自分に言い聞かせて、情けなく震える体を押さえつけここに来た。
今夜、最後に一目満月さんの姿を見ることが出来たら、僕たちの関係を、これきり終わりにしようと、それだけを胸に誓って。
鍵を回すと、ガチャっという音が聞こえ、すぐに扉は開いた。
「満月さん・・・?」
はやる気持ちを抑えられないまま、すぐさま玄関に入ると、静かに扉を閉めて、その広い室内を見渡しながら声を掛ける。電気のついたままの明るく、相変わらず簡潔で広いリビングには、出迎えてくれる満月さんの姿は無かった。
「ふう・・・」
僕が、息をひとつついて、目線をつと、下にやったときだった。
心臓がはじけ飛ぶような映像が、突如として視界に映ったのは。
「満月さん!」
ソファの下に、満月さんが仰向けで倒れている。僕は、一も二もなく、彼女に走りよって、抱き起こした。
「満月さん!満月さん!」
必死に名前を呼びながら、何度も体を揺する。彼女の眠りを、早く覚ましたいという一心で。こんなところで眠ったら風邪を引くから、早く目を覚ましてください。こうして、約束どおり僕がやってきたんだから。今すぐ暖かいベットまで、抱きかかえて、運んであげるからと、何度も呼びかけた。けれど、いくら僕が悲痛に叫び続けても、永遠の眠りについてしまった彼女を起こすことは、ついに出来なかった。
リビングのテーブルの上には、多量の睡眠薬の入った小瓶と、水の注がれたグラス。そして、彼女が書いたと思われる手紙が、二通あった。手紙のひとつは、「ひかるくんへ」と書かれていて、もうひとつには、知らない男の名前が書いてあった。おそらくそれは、あの旦那にあてたものだろう。
その夜の記憶は、自分でも驚くほどに曖昧で、思い出そうとすればするほど、吐き気を伴った激しい頭痛に襲われた。そのせいで、断片的にしか、僕自身分からないほどだ。
僕は、事情聴取された。
だが、彼女が夫に宛てた遺書に、僕のことも書かれていて、僕と満月さんは、十年前からの知り合いで、仲の良い友人であったことや、満月さんが、美大生である僕にときどき絵を教えてもらうために、僕をマンションに呼んでいたことなどを書いてくれていたおかげで、すぐに、警察からも解放された。
彼女の夫は、あんなことがあって、僕を眼の敵にしていたため、最後まで僕が満月さんを自殺に見せかけて殺したのではないかと疑っていたが、周囲の状況も含め、彼女の遺書の内容からしても、自殺であることは間違いないだろうという警察の見解を受けて、しぶしぶ納得した様子だった。
僕は呆然として、虚ろで、当時はどうやって日々を生きていたのかも覚えていない。泣いた記憶もない。自分の容量を遥かに超えた衝撃を受けると、人間とは何一つ感情が、湧き上がらないものなのか。唯一はっきりと覚えているのは、最後のときの、満月さんのまるで眠っているかのような美しい死に顔と、僕にあてられた彼女の手紙を、すぐさまジーンズのポケットにしまって、一目散に部屋を出た記憶だけだ。そんなことだけなのだ。情けないけれど。
満月さんの、手紙の内容は、こうだった。
ひかる君へ。
まずは、あの夜のこと、ごめんなさい。まさか、あの人があんな急に帰ってくるなんて思わなかった。予定では、帰国は一週間先のはずだったのです。ひかる君には、大怪我をさせてしまい、嫌な思いもさせてしまい、ほんとうに、ほんとうにごめんなさい。
わたしは、小さいときから自分の決断に自信が持てず、人に流されるばかりの人生を、歩んできました。自分の選ぶものを、信じることが出来なかったのです。最初の結婚も、元夫の言いなりでした。しかし、元夫の借金のせいで、夫婦関係が悪化し、離婚することになったとき、思いました。わたしは、このままではいけないのだと。きっと人生をやり直して、幸せを掴もうと思って故郷に帰りました。なのに、二度目の結婚では、両親が選んだ人だからと、またしても、同じ過ちを繰り返してしまったのです。それは、わたしが理想とする「幸福な結婚生活」とは程遠い、孤独の日々でした。
そんな生活に、生きる気力を失っていたとき、ひかる君と再会しました。
あなたは、わたしが心から信頼し、夢を語り合える人でした。十年前、初めて会ってから、ずっと。あなたを愛して、わたしは自分が求めていた「幸福」の断片を垣間見た気がしたのです。あなたに、また逢えてよかった。本心からそう思います。ありがとう。
しかし、だからこそ、この先の未来が、辛いのです。
おそらくひかる君とは、もう会うことはできないし、あの日以来、夫はわたしを必要以上に監視するようになり、外出先からしつこく確認メールや電話を何回もよこすようになり、家に帰ると暴力も増えました。
何度も離婚をしたいという話をしましたが、その度に感情的になり、手を上げられます。離婚調停まで持ち込んだものの、夫は、絶対に離婚はしないと言い張っています。決着はつかず、平行線のままです。
両親にも相談しましたが、夫は、両親の前では非常に素行も良く、特に母からの信頼が厚いため、わたしの言い分も、聞いてはもらえません。このまま夢も希望もなく、ひかる君と再び会うことも叶わず、ただ長い孤独と、この夫との生活が続くことは、そんな生き方を続けることは、それこそ私が望む未来から、遠ざかってゆくばかりです。そのことは、夫にあてた手紙にも書いてあります。
勝手にこんなことをして、ごめんね。
でも、ひかる君ならわたしの「最後のお願い」を、きっと叶えてくれると信じて、この手紙を書きました。
ひかる君の絵が、大好きでした。
どうか立派な画家に、なってください。多くの人に、感動を与えられるような、素敵な作品を、この先も生み出し続けて下さい。その様子を傍で、見ることが出来ないのは、すごく残念だけれど、約束どおり、遠くからずうっと、見守っています。
あなたが絵を描き続けてくれることは、わたしの希望であり、わたしの夢だから。
わたしは、ひかる君と過ごした幸福な日々を抱きしめて、この人生、最期の恋の記憶が消えてしまう前に、先にゆきます。さようなら。
満月。
その手紙を読んだときの、ショックは計り知れなかった。膝が、己の気持ちとは正反対にがくがくと笑い、その場に立って居られなくて、僕はぐしゃりと崩れ落ちた。
手紙の内容のことだけではない、勿論手紙の内容自体も、衝撃的なことに変わりは無い。だがそれ以上に、僕の身の毛がよだつ真実がその中に記されていることに気づいてしまったのだ。
なぜ、満月さんはあの時僕に合鍵を託したのか。僕に持っていてほしいといったその言葉の意味を、僕は正しく、理解できていたのか。僕は、彼女の僕への好意と、信頼の証として敢えて渡してくれたのだと、単純に捉え、深く考えることをしなかった。
だが、実際にはどうだったか。
普通に考えて、許されざる恋をしていた僕と満月さんが会えるのは、満月さんの旦那が居ない日だけだ。
そしてその夜は、必ず満月さんもマンションに居るはずだ。彼女も言っていた。「ひかる君が来たら、出迎える」と。
次に、気づいたのはあの呼び出しの電話。
「これで本当に最後」という、言葉の真実。
あれは、僕の中では、二人の関係をそれきり終わりにするという意味でしかなかった。だがもし、実際あの夜、満月さんに会ってしまったら、どうだったろう。きっと最後になんて、出来る筈はない。僕がどれ程、満月さんを求めているかは嫌気がさすほどに分かっていたのだから。一目お互いの姿を見てしまえば、「もう一度」を繰り返すことになってしまう。そして、会えない苦しみだけが、募っていく。満月さんは、この鍵を僕に渡したときから、既に覚悟をしていたのだろう。そして、僕が最後の願いを叶えてくれる日を、ずっと待っていた。自分の生命の最期を、僕に見届けて貰う日を。
僕は、大ばか者だった。僕は生きてさえ居れば、またいつか満月さんと、会える日が来ると、どこかで思っていた。十年ぶりに僕たちが再会できたみたいに。たとえ、今は大きな障害によって引き離されていても、別たれていても、生きてさえ居れば、姿を見ることだって出来る。声を聞くことだって出来る。恋が終わっても、永久の別れなんてこないのだと。だがしかし、彼女にとっての恋とは、その程度の覚悟ではなかったのだ。
彼女は、言っていた。自分は流されるばかりの人生を送ってきたと。それを、やり直したい、と。
彼女は死を持って、自分を貫き通したのだ。僕たちの恋を貫き通したまま、死んでいった。この僕は、恋のために死ぬことすら考えつかないような、愚かな男だったのに。
その夜こそ、悪夢だった。それも、永久に続いてゆく悪夢。僕の生涯が続いてゆく限り、覚めることはなく。そして、僕もひとつの覚悟を持って、彼女を喪失したまま、途方も無い茨の道を歩んでいくことを、彼女の遺した手紙に、この時、はっきりと決定付けられたのだ。
これが、僕の人生で、最初で最後の恋の、すべてである。
一組の男女のカップルが、その絵の前で立ち止まった。まだ、二十代前半だろうか。若い二人は、仲良く腕を組んだまま、寄り添うようにして、絵を眺めている。
「素敵ね、この絵。恋人って言うんだって」
彼女が濃いマスカラを縫った睫を瞬かせながら、隣の男に密やかにささやく。
すると男は、彼女の肩を抱きながら、食い入るようにその絵を眺め、やがて、さも感じ入ったように彼女の言葉に同調した。
この若い恋人たちの間には、この絵に込めたような、穏やかで、安らげる幸福な時間だけが流れていけばいいと、僕は願った。
なぜなら、僕は、そんな希望と祈りを、この絵の中に込めたのだから。
僕が決して、叶えられなかった、愛する人が、生きる未来の姿。
満点の星が浮かぶ、夜空の満月を見上げている、僕の心の中の恋人の姿を描いたこの作品は、こうして今、世に認められ、多くの人たちに日々見つめられている。
美しい金の彫刻が細部にまで丁寧に施された額縁の中で、微笑んでいる彼女は、今どこからか、この作品を見てくれているだろうか。
僕は、心の中で深い眠りについている彼女を思い描き、ひとつひとつ色を重ね合わせる。
それは、重い狂気に満ちた愛情だったり、安らぎだったり、止むことの無い懺悔だったり、底知れぬ悲哀だったり、とても一筆では、描き表せることの出来ないものだ。
失って尚、ミューズは僕の内に、今も確かに宿っていて、僕の心を揺さぶり、僕の体を通りぬけ、僕の感覚すべてを目覚めさせる。
それは、ひとつひとつの作品に生き生きとした命の流れを、生み出し続けるのだ。
思えば早いもので、あれからもう、数十年の年月が流れていた。
僕も既に若くもなく、頭髪には、白髪がポツリポツリと混じり、手には太いしわが刻まれ、体の衰えも目立つようになってきた。
これまでのそこそこ長い人生の中で、いくつかの恋愛もしてきたというのに、そのどれも結婚に繋がることはなく、未だに、この通りの独り身である。
そして幼少期からの夢を実現させ、絵描きとして、生計を立てている。
否、それは僕の夢だったのか、それとも「彼女」の夢だったのか、今となってはあいまいになってしまったけれど。
相手がいない訳でも無かったのに、どうして結婚しないのかと、周囲に尋ねられることが多々あっても、その度に「ひとりのほうが仕事に集中できる」とか、「恋愛には、のめり込めないんです」とか適当に言いくるめてきたが、つもるところ理由は、そうではない。
僕がどれ程の恋愛体質だったか、それは遠い昔、夜な夜な思い人のマンションに通いつめるほどだった僕自身が、重々知っているのだから。
今僕は、「鬼才」だの「天才」だのと、さまざまな賛辞を受けるまでの名の知られた画家にこそなったが、少年時代も、そして美大生の頃でさえも、それはそれは、下手くそな落書き程度の絵しか、描けなかった凡人だった。
周囲からは、どうやったらそのように素晴らしい作品が描けるのかなどと、よく質問されるものだが、僕にはその理由を答えようは無い。
今までも、これからもずっと。
どうせ本当のところを言っても、誰も信じることはないのだろうから。
もしくは、絵を描くことしか脳のない、いい年をした爺のくせに、いつまでたっても口が達者で気障なやつだと笑われるだろうから、この先も、真実は誰にも告げることはないだろうと思っている。
僕は、絵の女神の愛と祝福を受け取り、彼女の望む未来を、この手で実現させるために、こうして生きてきた。
そして、才を得たその代償に、僕自身の愛と人生さえも、すべて彼女に捧げてしまったのだ。
ただ、それだけのことなのだから。
最後までご閲覧、ありがとうございました。