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○○の事情

彼の事情

作者: 藍月 綾音

「彼女の事情」の誠バージョンです。広い心で楽しんで頂けると嬉しいです。

 兎澤 誠は恋をしていた。これまで幾人かの女性と付き合ってきたが、今まで感じたことのない情熱だった。思えば今までの恋人達に対して自分のしたいこと、思っていることを優先させ、彼女達の気持ちをよく考えたことはなかった。付き合ってほしいといわれれば付き合い、別れてほしいと言われれば別れた。特に執着というものはなかったし、そういえば嫉妬という言葉ともお友達になっていなかった。


 そんな誠が恋をした。二十五歳にもなってまさかと思ったが、ふと気づけば彼女の姿を追い求めていたし、彼女が男と話しているだけで胸が痛んだ。寝ても覚めても彼女のことが頭から離れなかった。


 そして、その恋は褒められたものではなかった。誠は高校の教師であり、彼女は教え子だった。よいとか悪いとか以前に絶対にあってはならない事だった。教師も人間、そんなこともある。なんて言い訳がまかり通る訳もなく、誠の想いは、何重にも鍵をかけて胸の奥底にしまいこみ彼女が卒業をするまで開けてはならないパンドラの箱にしてしまうしかなかった。


 彼女の名前はクリスティン・マイヤー。まるでおとぎ話の中から出てきたような可愛らしい容姿で、名前が示す通り日本人ではない。まるで光を凝縮したようなアッシュブロンドに、湖の湖畔を思い起こさせる淡い水色の瞳。肌はまるで陶器のようになめらかで白く瑞々しい。初対面の日本人ならば、八割の人間が『不思議の国のアリス』を思い起こすに違いないと誠は思う。そして、ほぼ全ての人が彼女の語学力に驚くだろうとも。マイヤー夫妻の話ではクリスは日本に来たことはないし、語学の勉強をさせたこともないそうだ。けれど、クリスは完璧な流暢な日本語を操る。しかも、ことわざ、四字熟語まで意味を理解して使っているのだ。十五年間英国で育ち、独学だという日本についての文化、言語、風習、すべてにおいて彼女は完璧だった。


 そして、目を引くのは容姿でだけではなく、彼女の持つ雰囲気が異質だった。それはきっと人種を超えたなにかだと誠は思う。大人しい訳ではないのだ。九月に編入してきたクリスはあっという間にその話術と人懐こさでクラスに馴染んでしまった。快活に笑い楽しそうに同級生と話すのだが、周囲から浮いて見えるのだ。同級生達とくらべとても落ち着いている事がそう見せるのだろう。彼女が諍いを起こすところも見た事がなかった。


 高校生の女子生徒の指導は難しいの一言につきる。理屈が通じない事が多々あるし、感情の起伏が激しく、自己主張が強い子供が多い。大人しい子供でも自分の価値観が正しく、なんでも白と黒に分けたがるのだ。世の中には白と黒ばかりではないし、むしろグレイゾーンのほうが多かったりするのだが、まだまだその曖昧さを許容できる下地ができていないのだろう。こればかりは、人生経験を積み重ねていくしかない。価値観ひとつをとっても、自分の価値観が正しくて・・・・、違う価値観の持ち主の相手は間違っている・・・・・とお互い主張してやまない。だから、誠から見れば微笑ましいとしかいいようがない事で大きな喧嘩に発展することもある。


クリスは上手く喧嘩に発展する前に片付けていた。喧嘩になる前にどちらの言い分も聞いてどちらも貶さず、かと言って肯定する訳でもなく、そういう考えもあるのねくらいに軽く受け止め、最後に両者の言い分のいいところを褒めてさりげなくダメだろうという部分を暗にダメだと匂わせる。しかも本人が考えるようにしむけていた。


 それに気づいた時の誠の感想は、「どこの母親だよ」だった。クリスは周りを観察し、その人となりをよく見極めていた。おかげで、誠が初めて担当したクラスは大きな揉め事もなく終了式を迎える事が出来たのだからおおいに助かったのだが。


 そんなクリスがクラスに転入して来て二ヶ月たった頃、校長室に上級生を連れてやってきたという。一年のクリスと二年と三年の女子と三人で校長室に入っていく所を見たと同僚がメールをよこしたのだ。他の教員から見てもクリスは目立っていたので、その行動も注目されていた。まさかいじめじゃなかろうかと同僚は心配したに違いない。慌てて職員室にもどれば、丁度校長が顔をだし誠に手招きをした。そして、生暖かい目で誠を見ると先程校長室に入っていったという三人に引き合せ「いやぁ、兎澤先生は人気あるんだねぇ。男前だから」と言う。訳も分からず戸惑う誠に、クリスが一歩前に出て話しかけた。


「私たち、兎澤先生にお弁当を作って来たいって校長先生にお願いしたんです。先生、毎日購買でパンばっかりでしょ?兎澤先生のファンの子達が心配してるんですよ。で、皆で持ち回りでお弁当を作ってきたらどうかって。それで先生と一緒にお弁当を食べたいなぁ。なんて思いまして。兎澤先生にとっても生徒とのコミュニケーションになるしどうかなと」


 今まで誠に個人的なお弁当を作ってきて差し出す生徒は何人もいた。当然教師として受け取るわけにいかなかった。好意を寄せてくれるのは嬉しかったが、お弁当などもらってしまっては後々トラブルになるのだ。誰々をえこひいきしただとか、お弁当をもらっているから点数を甘くしただとか、それはもう色々とあることないこと言われるのは目に見えていた。実際この学校に勤める時に釘をさされたのだ。比較的、年の近い男性教員に憧れる生徒は後がたたないこと、対応によっては勘違いからさらに面倒なことになる可能性がある事、高校生の恋愛に対してくれぐれも変な気を起こさない事。実際にあった男性教員と女生徒のトラブルあれこれな冊子まで渡された(文庫本一冊くらいの厚さがあった)。ついでに、先輩の女性教員から自分がモテるなどと勘違いしないように説教されたのはいい思い出だ。


 それが、である。

 今、誠は大勢の女生徒に囲まれ、手作りのお弁当を食べている。正直、許可を出した校長を恨みたかった。気分としては、「なに、このエセハーレムっぽいなにか」である。一つ年上の男性教員の先輩にはネチネチ嫌味を言われるわ、一部の生徒から非常に冷たい目で見られるわ、お昼休みに昼寝はできないわ、なにより……………………本人に言ってはいけないが、時々、非常に言いづらいのだが、そう、アレな…………ぶっちゃけ食べたら確実に中毒起こすやん!!的ななにかが弁当に混ざっているのだ。そうして、昼休みの時間にまで生徒に愛想笑いを振りまき、良い先生を演じ、無理矢理アレな弁当を笑顔で完食することになってしまった。お昼のお弁当を囲むのは教室だったり、中庭だったり日によって様々だったがどの道誠にとっては苦行だったしギャンブルをしている気分だった。それはもう、色々な意味で。


 その日差し出されたお弁当は、ドーンと擬音が聞こえて来そうなほど存在感を醸し出していた。今まで「女子用だろこれ」と内心ツッコミを入れながらも、アレな場合を考えれば小さくていいのかと思っていたお弁当箱を嘲笑うかのように重箱でしかも二段。兎柄の風呂敷に包まれている。ニコヤカに差し出している相手はクリスである。どう見ても日本人ではないクリスが二段の重箱を差し出している時点で「詰んだ」と誠は心の内で泣いた。おおよそ料理とは無縁そうなその可愛らしい小さな顔をちょっと傾げて、まるで小動物のようにきらきらした瞳で食べてと訴えかけている。万が一アレなお弁当だった場合この量を食べるのかと恐る恐る開けば、筑前煮や栗巾着、だし巻き玉子にお稲荷さんというかつて誠の好物だった料理が綺麗に詰められている。見た目はとても美味しそうだ。そしてなにか懐かしいようなちょっとした既視感を覚える。そう、どこかで昔食べたことがあるような、そんな気がした。しかし、ここで安心できないのが彼女達のお弁当なのである。心の底から、彼女達には「必ず火を通せ、そうすれば取り敢えずお腹を壊すことはない」と伝えたい誠である。絶対に火がとおていなければこの形にはならないはずだと、そっと栗巾着に箸を伸ばす。栗とミルク、それからバターの香が鼻を抜けていく。不覚にも泣きそうになってしまった。何故、彼女がこの味を知っているのか。他の料理にも手をつけたが一口ずつで限界だった。そうして思わず口をついて言葉が出てしまった。


「これ、どうして?」


 しかし、クリスから貰った返事は誠が求める答えではなかった。


「日本の食べ物の中で、お稲荷さんが一番好きなんです。先生お嫌いでした?ごめんなさい」


 がっがりしたように、下を向いてしまうクリスを気遣う余裕が誠にはなかった。取り繕うように自分でも良く分からない理由を並び立て、気づけばクリスの弁当を大事に抱えて数学準備室の自分の机に座っていた。クリスの料理は誠にとって懐かしいが、忘れてしまっていた味だった。いや、正しくはもう食べられないはずの味だった。いい年をして、職場で情けないと思いながらも涙が伝うのを抑えられなかった。舌が憶えていた、紛れもない母親の味だったのだ。重箱に詰められた料理はどれも誠の好物だったものだ。ただし、ある事件をさかいに食べられなくなってしまったものだった。正しくは美味しいと思えなくなってしまった料理達だった。


 それは、誠が十歳の時だった。ピアノの発表会の日だったと聞いている。誠は事故にあい、母は誠を守って亡くなったらしい。らしいというのは、事故の影響か、それともあまりに辛くて自分で記憶を閉じたのか誠は事故の前後と母親の記憶がないのだ。ぼんやりとおぼろげにはあるのだが、ハッキリした思い出が出てこない。けれど、体が拒絶するように栗巾着や、だし巻き玉子、筑前煮、ハンバーグやオムライス、当時大好物だったものが美味しく感じられなくなっていた。


 けれど、はっきりと今クリスのお弁当が母の味だと思う。素直に美味しいと思うし、胸から溢れ出す感情の名前を知りたくなかった。

 

 『どうして?』の問いは、なぜ誠のかつての好物ばかり詰められているのかと言う事と、母の味をどうして知っているのかと言う事だった。けれどクリスはキョトンとした顔しているだけだった。誠の問いの意味が本当に分かっていないようだった。改めて不思議な子だと思った日だった。


 学期末の三者面談の時期だった。クリスの父親から、担任である誠に相談があるから面談をしてはもらえないかという連絡を貰った。少し思いつめたような声色が気になりつつ了解すると、クリスには知られたくないというので休みである土曜日に学校で会う約束をした。

 面談当日、苦悩の表情を浮かべるクリスの父親に話を聞くと誠では手に負えないと正直に訴えたくなるような内容だった。


「先生、クリスは九月に来日するまで英国から出たことはありません。確かにインターネットという便利なものがありますが、それにしてもクリスは日本に詳しすぎるのです。私が日本に来る事になったのは偶然で、特に私が日本が好きで転勤を希望したわけではありません。ですから私の家に日本に関するものがあるわけではないのです。クリスは隠しているつもりのようですが、クリスが日本語を勉強していない事を私達は知っています。話す事ももちろんあんなに難しい漢字もクリスは読み書きできます。けれど先生、繰り返しになりますが勉強などしていないのです。幼い頃から日本が気になる、とても興味深い、行ってみたいと言っていました。4歳の頃にはもう漢字が読めているようでした。頭が良い子なのだと思ってきましたが、日本に来てからまるで別人のようなのです。包丁ひとつ持った事のなかったクリスが急に料理を始めたかたと思えば、妻以上の包丁捌きをみせるのです。先生は魚を三枚に卸せますか?綺麗に刺身にできますか?少なくとも我が国で魚を生のまま食す文化は日本食のレストランくらいなのです。けれどクリスはやってのけました。それも綺麗になんの迷いも見せずにです。勿論、クリスは私達の可愛い娘です。クリスになにがあろうとどんな事情があろうとクリスはクリスです。けれども同時に怖いのです。何故という疑問を打ち消しながらここまでやってきました。それでも限界が近い気がします。日本に来て、普通に授業を受けられるクリスは一体どこで日本語を学んだというのでしょうか。どこで、日本の風習を知ったというのでしょうか」


 クリスの父親は、重いため息をつき口を閉じる。少なくとも誠が見る限りクリスは普通の生徒だった。そう、普通であるはずがないのにである。現代国語の授業も、古文も問題なく授業を受けている。確かに授業を理解できている。寧ろ周りの生徒よりも頭が良くテストの点数も良かった。


 結局誠は月並みの事しか言えなかった。


「様子を見ましょう。幸いクリスは学校では楽しく過ごしているようです。友達も沢山います。言葉や料理の腕に関しては確かに不思議ですが、逆に考えれば知らない国に来て言葉が分からないストレスや不安を経験しなくて済むということです。ただでさえ、故郷が遠いのですからお父さんの気持ちはとても良く分かりますが、しばらくは暖かく見守ってあげるというのはいかがでしょうか?」


 必殺問題先送りである。なんの解決もしていないが、現状クリスに問い詰めて良い問題だとはどうしても思えなかった。何し完璧な和食を作るという事は誠も知っている。アレが勉強していないなどと言われたら、そりゃ天才だわで済ませたくなる。料理も経験が必要だと誠は思うからだ。


 クリスの父親がとても不安そうで、母親も少し参ってしまっていると聞かされたので、携帯番号とメールアドレスの交換をする。日々の様子を時々知らせる約束をした。クリスの両親は日本語ができないので、留学経験がある誠が対応することになった。英語の教師にお願いしたいところだったのだが、この教師は定年間際で教科書通りの英語しか操れない教員だったのである。


 他の生徒の様子も見て、ついでにクリスもさり気なく目をかけるつもりが、誠が意識しなくてもクリスは目の中に飛び込んできてくれた。どんなに遠くにいても、いつの間にか目で追っている。それが何を意味するのかに思い至るまでに時間はかからなかった。クリスの父親と連絡をとっている手前、間違ってもそんな感情を表に出す訳にはいかなかった。それにだ、間違いなくクリスが自分に好意を持ってくれている自信があった。誠に気づけば笑顔で駆け寄ってきてくれて、勉強を教えて欲しいとやってくる。持ち回りのお弁当作りも、何人も入れ替わっているというのに、クリスは続けてくれている。さり気なく誠の個人情報を聞いてきたりと可愛いのだ。クリスの作ってくれるお弁当は、とても美味しくやっぱり何を食べても懐かしい味がした。おかげで情けない醜態をさらしそうでクリスのお弁当だけは人前で食べられなくなった。クリスのお弁当はしっかり鍵をかけて数学準備室で一人で食べるようにしないと、ニヤけた顔を人前に晒すはめになるのだ。うっかり泣いてもマズイ。


 自分の気持ちに蓋をして、鍵をかけて誠は二年間良い先生として過ごせたはずだった。十も年上の教師である誠が生徒、または卒業してもかつて生徒であった女性に告白などできる訳がない。懲戒免職にでもなったりしたらこの道を認めてくれた祖母にも合わせる顔がなくなる。情けないが、誠にとって教師という職業は特別なのだ。きっと恋などという感情は忘れられるはずなのだからと自分に言い聞かせることが精一杯だった。ところがクリス達の卒業式の日、何かを決意したように唇を噛み締めたクリスが誠に無言で封筒を押し付け、なにも言わずに逃げていってしまったのである。手紙の内容は目を通さなくても告白なのだろうと確信があった。そして、クリスは可愛かった。それはもう、誠の忍耐力と抑制力を最大限に駆使しなければデレッデレのだらしないにやけ顔を同僚に見られてしまったであろうくらいに破壊力があった。職場で表情筋を崩壊させる訳にはいかなので、手紙は夜にこっそりと読もうと胸のポケットにそっとしまいこんだ。


 そして今、誠は就業時間を終え身支度を整えていた。仕事は終わらなかったが、家に持ち帰る事にする。昨日もらったクリスからの手紙には、話したい事があるから六時に学校近くのカフェで待っているという内容だった。どうやらクリスは手紙の告白よりも、面と向かって告白することを選んだらしい。つい、顔がにやけそうになり頬に力をいれる。自分から告白をするつもりなどなかったが、クリスから告白となれば話は別だ。まだ今は三月。四月にならなければクリスの想いに答えるわけにはいかないが、告白を聞いて四月になったら返事をすればよいのだ。困ったなぁと思いながらも、確信があったとはいえ想い人からの告白となれば浮かれる心は止めることができなかった。


「兎澤先生、今日はデート?とうとう彼女できたの?」


 年配の保健の養護教諭に、背中を叩かれる。やっぱり顔がにやけていたかと、誠は片手で頬をさすった。


「いやだなぁ、そんなじゃないですよ。生徒が聞いたら誤解するでしょう、やめてくださいよ」


 根掘り葉掘り聞かれてはたまらないので、わざとらしいかなと考えつつ営業スマイルで誤魔化すことにする。目を細めてニヤニヤと誠を見る養護教諭は騙されてはくれてないようだが、それ以上の追求はせずに「頑張んなさいよ」とひらひらと手を振って保健室に戻っていった。ホッと安堵の息をもらして腕時計を見ると五時四十五分、遅れては大変と足早に指定されたカフェに向った。

 カフェに着き、ざっと店内を見渡せば奥まった席にアッシュブロンドが見える。入口を気にしてこちらを不安そうに見ているクリスと目があった。途端にほっとしたように笑ってくれる。それだけで誠の胸がキュンと締め付けられた。制服じゃなく、私服のクリスは淡いグリーンの上品なワンピースを着ている。クラッシクなデザインが逆にクリスの容姿を引き立ててより一層清楚にみせている。人目につかないように配慮した席にもついニヤけた笑みが漏れそうで困ってしまった。誠にとってクリスの気遣いもなにもかも可愛く見えてしかたがなかった。


「おまたせ。本当はこういうのダメなんだぞ。四月になるまでクリスはうちの生徒なんだから」


 呼び出しに応じておいてよく言うよと内心自分にツッコミながら、クリスの前の席に腰を下ろす。近づいてきた店員にメニューも開かずにカフェオレをたのんだ。クリスの用件を早く聞きたいという欲求が先に立ってしまうらしい。


「それで?大事な話ってなぁに?」


 内容が分かっているだけに、クリスが言い出しやすいように促したつもりだった。しかし、クリスの可愛らしい唇が紡ぎ出した言葉は誠が思っていた内容よりブッ飛んでいた。


「はい、兎澤先生。お願いがあるんです。私まだ未成年なんですけど」


 未成年という音に思わず喉が鳴りそうになる。


 ―おい、ちょっと待てクリスは一体なにを言い出すつもりなんだ。

 

 頭の中に高速で私の初めて貰って下さいなどというピンクの妄想が走り抜けたのは健全な若い男なんだから許して欲しい。が、相手はクリスだ。そんな訳はないだろうと気をとりなおして動揺を押し隠しなんでもないように返事をした。


「うん知ってる。それで?」


 未成年なのは当たり前だ。知っている。知っているから自分の想いを持て余してるのだ。妄想なんてしてない。してないんだからなっ!と誰に言い訳をしているのかも分からなくなっている自分が相当動揺しているのだと思った。


「とってもお酒造りに興味があるんです」


 一瞬なにを言われたのか耳が受け付けなかった。


「は?お酒造り?って、え?」


 誠がクリスの言葉を理解する前に、クリスは言葉を重ねていく。


「兎澤先生のご実家は、歴史ある酒蔵だとお聞きしました。一度見学させていただけないでしょうか?」


「え?いきなり実家?」


 誠の実家は確かに酒蔵だ。大量生産はしていない。その分手をかけたこだわりの酒を代々造っている。知る人ぞ知る名酒で、影でプレミアがつきとんでもない値段で取引される事もあるらしいと聞いている。しかし、クリスの意図が全く分からない。思わず出てしまった言葉は、告白すっ飛ばして実家に挨拶?それって、プロポーズ?いや、俺にプロポーズしろって事?と誠の混乱を一部口に出してしまった結果である。


「はい、是非。ご迷惑でなければ春休み中にお訪ねしてもよろしいでしょうか?」


 罪のないエンジェルスマイル全開のクリスに誠は固まった。お訪ね→実家は新潟→お泊り→やっぱりプロポーズ?な図式が頭に浮かび上がる。これはもうきっと恥ずかしがりやのクリスが遠まわしに誠に告白しろと言っているに違いない。しかも実家に来たいとなれば若いながらも結婚も視野にいれての催促なのだろうと誠は納得してしまった。付き合うと結婚は別だ。けれど、誠はクリスの料理を毎日食べられるかもと考えただけで幸せな気持ちになる。この二年ですっかりクリスの料理の虜だ。クリスも可愛いが、クリスの料理も好きだ。クリス以上に誠の味覚にピッタリ合う料理を作れる女性がいるとも思えなかった。そうとなれば、誠の決断は早かった。


「あーいや、うん。いいよ」


「本当ですか?兎澤先生!!ありがとうございます!!」


 嬉しそうに手を合わせ喜ぶクリスに、胸が暖かくなる。やっぱり嫁にするならクリスがいい。


「ちょっと待って、今スケジュール確認するから」


 それから、親父に電話して………などと段取りを組立てながら、スマホのスケジュール機能を確認する。有給も溜まっているし、この際土日と合わせて連休にしてしまえ、そしてクリスといちゃいちゃしてやると誠は心に決める。


「え?いいえ、そんな。兎澤先生はお忙しいでしょう?私、一人でも大丈夫ですよ?」


 動揺したようなクリスに、誠はちょっと引っかかりを覚えながらも、なんて恥ずかしがりやなんだと感心する。実家に挨拶するのにクリス一人で行かせるわけにはいかない。当たり前だ。けれど、クリスは遠まわしに誠の告白を催促しながらも、実際、実家にいって告白される事になったら恥かしくなってしまったに違いない。だから、辻褄のあわない事を言いだしたのだ。


「そういう訳にはいかないでしょ。それに、俺もクリスに大事な話があるんだ。あぁ、来週末なら三日間の連休が貰えるからクリスがよければ一緒に行こう」


 安心させるように笑いかけたけれど、顔が自然に赤くなってしまう。それでも、キチンと告白するからねとの想いを込めて返事をする。すると満面の笑顔と勢いのよう返事が帰ってくる。自分の返事がちゃんと伝わったようだと、ホッと胸をなで下ろした。


「はいっ!大丈夫です。兎澤先生のご実家は新潟県でしたよね?とっても嬉しいです」


「クリスのご両親には俺が電話をしておくよ。酒蔵の見学をしたいって事でいいんだよね?」


 「はい」


 まだ、告白もしていないしされていない。クリスの両親には事後報告で良いだろう。今はまだ社会科見学の一環でと言う事にしておいた方がいいだろうと、クリスに確認をとれば同意してくれる。クリスと後少しで恋人になれると思えば頭の中が沸騰しそうだった。


「それじゃぁ、色々と知っていた方が便利だから、携帯の番号教えて?」


 さり気なく、クリスの携番とメアドを聞き出して自分の物も登録させる。


「それで?先生からの大事なお話って?」


と、恥ずかしそうに俯いてクリスに言われれば、動揺しすぎて不明瞭な言葉しか出てこなかった。誠は自分が情けないと自覚しながらも、その話は実家でするとなんとか伝えた。まさか、ここまで話がまとまった後で誠からの告白をこの場で催促されるとは思っていなかったのだ。クリスはすぐに対応できない誠にあきれることも失望することもなく、すんなり引いて新潟へ行くことを楽しみにしていると言ってくれた。そういう所が高校生とは思えない対応だと、改めて誠が惚れ直してしまった事をクリスは知らなかった。


 家に帰った誠は、クリスの願いを叶えるべく実家に電話し好きな子を連れて帰るからと伝えた。ついでに酒蔵の見学もと付け加える。建前とはいえ、クリスのご両親には社会科見学だと言って連れ出すのだ、しっかり見学もさせなければいけない。気合の入った誠の言葉に、父親はいつもと変わりのない態度で楽しみに待ってるいるからと言って承諾してくれた。実は卒業したばかりの生徒なんだと口早に説明してロクに返事を聞かずに電話を切ってしまう。万が一父親からの説教があるならば、直接実家で聞けばよいのだからと、それから実家に行く日まで、実家からかかってくる電話とメールは一切無視をしておいた。


 だから、親を無視したバチがあたったのだろうか。


 全く機能しなくなった、自分の脳を恨めしく思う。

 なにが起こっているのか、理解できない、したくない。

 あまりの仕打ちに打ちのめされていた。


 実家の居間の堀ごたつに足を入れ、うなだれる誠の目の前でまるでバカップルのようにピッタリくっついた二人が、いや、正確には誠の父親に腕に自分の腕を絡めて離れないクリスがとうとうと誠に説教をしていた。


「ほんっとに情けない。孫の顔を見るのをいまか今かと待ってるのに、まこちゃんの周りには全く女の影もないんだもの。もう二十八でしょ?私が二十八の時にはもうまこちゃん九歳だったのよ?まこちゃんに本当に彼女がいないと知った時の私の気持ちわかる?」


―分からないし、わかりたくもない。


 クリスの口から孫の一言が出る違和感と、よくわからない失恋のショックに誠は言い返す気力が湧かない。気の毒そうに、可哀想な目で見る父親を殴りたい。なんだかんだいいながらクリスの腕をとり払わない所がまたムカついていたりした。


 頭の整理を簡単にすれば、クリスは誠の母親、深雪の生まれ変わりで、深雪の記憶があるのだという。そして、前世で旦那だった誠の父親、進との約束を守るためにここまでやってきたらしい。どうも、死んで生まれ変わってもまた結婚しよう的ななにかだったらしい。


 クリスはもうデレッデレだ。進くん大好き愛してると体中で表している。それどころか隙さえあれば進にキスをし、ハグをする。そんな姿にうっすらとそういえば、深雪と進はスキンシップが多すぎて外国人並だったと失くしたはずの記憶が蘇る。小学校の友達にからかわれた事も思い出した。恥ずかしいから止めてくれと泣きながら訴えた誠に深雪はあっけらかんといったものだった。


『ばかね。両親の仲がいいってことは、誠にとっていい事じゃない。毎日パパと喧嘩してるよりずっといいでしょ?スキンシップは大事なのよ!!パパをいつまでもメロメロにさせておくんだから協力しなさい!』


 そんな事を言っていた。失くしたはずの思い出が、先程からちょろちょろと顔を出している事も驚きだった。今までどんなに母親の事を思い出そうとしても思い出せなかったのに、クリスに母親だったのだと言われてからこんな風に思い出す。


 心のどこかでしっくり来てしまう自分に本当に涙が出そうだ。好きな子に孫の顔見せろとか言われた上に、父親とのキスシーンを見せつけられて、心が折れまくっているのに、母親だと受け入れてしまいそうになるのだ。


 恨みがましく父親を見れば、クリスが誠の好きな子だと知っている父親はあらぬ方向に視線をそらす。

 あんな電話かけるんじゃなかったとさらに背中を丸くすると、バンバンと隣に座る祖母に背中を叩かれた。2年前に痴呆症と診断され誠の顔も声も分からなくなっていた祖母が、クリスを目に入れた途端に「深雪さんっ!!」と叫び、両手を擦り合わせた。そうして事情をクリスから聞いた後はまるで以前に戻ったかのようにしっかりと受け答えをするようになり、背筋をピンと伸ばしていた。


「深雪さんが戻って来てくれたのなら、もう跡継ぎの心配はないねぇ。進の馬鹿は再婚してもあんたの事を引き摺ってたもんだから、あっという間に離婚されちまってね。誠は折角あんたが助けてくれた命だ。好きにさせてやりたくて、教師になるっていうのを止められなかったんだよ」


少しは疑え、認めるなと言いたかったが何故か言えなかった。急にしっかりした祖母に、久しぶりに名前を呼んでもらえて嬉しかったということもある。


「安心してお義母さん。若返ったから何人でも産めるわよ。後四人も産めば誰かが継いでくれるわよ。ね?進くん」


 すかさず父親の首に両腕を回し、キスをする。


「いや、深雪ちょっと落ち着きなさい。あぁ、今はクリスだったか。君の言っていることは信じていいと思っている。いいや、間違いないと信じている。けれど少し考える時間をくれないか?君なら分かるだろう?とても混乱しているんだ。俺も誠も」

 

「嫌よ。考える時間なんて必要ないもの。私は過去に深雪だった。今はクリス。だけど私も深雪も進くんが大好きなんだもの。死んでも帰ってきたのよ?今現在、独り身の進くんに考える必要なんてないの。もう、一生私の物でしょう?プロポーズが嘘だったなんて言わないわよね?」


 ニッコリと微笑むクリスの後ろに黒い影を誠は見た。今まで見た事のない迫力のある笑顔だった。誠が聞いていても脅迫にしか聞こえない。けれど、父親は降参したというようかのようにクリスの腰を引き寄せ片手をクリスの頬にあて見つめ合う。


「もうすぐ五十になるよ。君は若い、昔の約束になんか縛られてはいけない」


 聞いたことがない、甘い声を父親が出している。


「年の差なんて気にしないわ。気にしていたらまこちゃんの事を見守るだけで貴方に会いになんかこなかったわよ。それとも、進くん深雪がおばさんになったら離婚するつもりだったの?私はどんな進くんも愛してるのに?」


 甘っ甘のピンクな雰囲気にいたたまれなくなる誠に、隣の祖母がずずっとお茶をすすりながら話かけた。


「懐かしいねぇ。昔っからこの二人はこうだったもんねぇ。昔は外国人の嫁をもらっちまったかと思ったけど、今度は本当に外国人になって帰ってきたから笑っちまうよ。誠、あんたもうちょっとしっかりおし。この分だと来年にはお兄ちゃんだよ」


 ―もう二十八歳ですが。そうですか、お兄ちゃんですか。


 さらに追い討ちをかけるように、クリスの両親の顔が頭をよぎっていく。


 クリスが日本に詳しいのは当たり前だったのだ。別の人格の夢をずっと見ていて記憶を自分のものにしていたのだから。そんな不思議な話を、誰が思いつくのだろう。記憶にある日本語ができて当たり前。馴染んで当たり前。謎は解けたけれど、クリス両親になんて言って謝ろう。クリスと進が本当に結婚すればクリスの両親は義理の祖父母になってしまう。とそこまで考えて、もう一度いちゃいちゃしている二人を見る。


―え?俺、クリスの事、お母さんとか呼ばなきゃいけないの?


思わずため息をついた所で、クリスがお茶淹れなおすわねとごくごく自然に台所へ消えた。


「あー。うん。アレだ。深雪だな。……………諦めろ。すまん」


目を合わせずに、父親がぼそりと言った。

 

「だね。俺も母さんの記憶がちょっとずつ戻ってきてる。よかったな、親父」


 手元にあるマグカップを見下ろす。焼いたマシュマロを浮かべたココアは特別な日に淹れくれる飲み物だった。多分、母親しか知らない事だ。誠の大好物だけど、粉から練ったココアは深雪にしか配分が分からない飲み物でこの絶妙な甘さを誠は自分では再現できなかった。


 進には緑茶、祖母には昆布茶、誠にココア。


 誰も言わなかったそれを、台所借りますねぇ~と言ったクリスは当然のように出してきた。二十年以上愛用している湯呑もしかり。


 台所からクリスの鼻歌と、ヤカンのお湯を沸かす音が聞こえる。家族が帰ってきたのだと、古い家が喜んでいるように感じる。なぜか誠にもいつもより家の中が明るく感じた。父も、祖母もそう感じているという確信があった。


 おかえりなさい。


 三人が同時にそう思ったことは、お互いの目を見てなんとなく分かった。

 久しぶりの家族が揃う団欒に、自分の恋心が消えて溶けていく。


 新しいなにかをこれから築くのだというかのようにヤカンがピーッとお知らせ音を鳴らすのだった。



読んで頂きありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 誠の切なさ、遣る瀬無さを大笑いできるところ 。 そして、28歳にして兄貴になりそうな悲哀。 [一言] クリスから始まる一連のシリーズが好きです。 笑いも涙も幸せもあってとても良い作品だと思…
[一言] ちょっとコーヒー飲んでくるわってくらい甘いな、おい。 いやはや、夫の後悔話がアレだったから、すっかり勘違いしていたよ。 息子に懇願されるほどいちゃつくとか、想像の斜め上でした。
2013/11/19 04:33 退会済み
管理
[一言] もう、うっかり手を出す前でよかったね、誠さん!としか言えません…(笑)年の差&生まれかわりという私のツボを的確についてて、読んでいてにやにやが止まりませんでした。 次回作も楽しみにしています…
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