もうひとつのエピローグ
竜が住まい、竜と歩む国。そこは領土は小さいながらもかなりの歴史を誇り、今もなお建国時に初代と盟約を交わした竜が暮らしているという。
またその国は、数々の伝説や奇妙な噂を生み出しており、それが周囲から人を呼び込むこともあった。
有名なのはもちろん、世界で最も名の知れた初代国王レックス・コンコルディア=マグナの兄であったファルサ=ドラコと竜にまつわる物語だ。兄弟の強い絆の話も人気がある。
市井においての噂でいくと、城よりも街に居た方が竜と出会える可能性があるというのが、ツアーまで組まれ観光の目玉の一つとなっていたり。諸外国の王侯貴族の間では、謁見の間には中央奥の玉座に加え、壁際にもひっそりともう一つ玉座があるということが知られている。
訪れた人々は口々にここを自由の国と呼んだ。
「あれから長い歳月が流れた……。だというのにお前の命日を覚えているなど、我ながらすごいと思うぞ」
そして、すがすがしく晴れ渡ったある日、この国の礎となった人々の名が彫られた慰霊碑の前で、女が一人静かに語っていた。
肩のあたりで切りそろえられた髪が柔らかな陽射しによって光の輪を作り、隠しきれない美しさと後ろ姿を飾る。体勢自体は胡坐をくんでおり淑女らしくはないが、その軽さがなぜだか彼女の魅力を上げていた。
「来月にはレックスの命日も控えている。とはいえ今を生きる者達にとっては、感謝とは名ばかりの祭りだがな」
そよぐ風で乱れる黒髪を耳にかけ、その女は穏やかに声を揺らした。
彼女の言う祭りとは、この国で最大の祭事である竜魂祭のことだ。レックス・コンコルディア=マグナを筆頭に、平和を勝ち取るために戦い慰霊碑に刻まれた者達や祖先への感謝を伝えるためのもの。第二代国王の発案により、長きに渡り引き継がれてきた。
「今年は久し振りに竜の姿を拝ませてやろうと思っている。だがこれを言えば周りが狂喜乱舞するからな、ぎりぎりまで秘密だ。でなければ、百年前か? あの時のように、花火やらなんやらひどい騒ぎになるからな」
女はなおも慰霊碑に向け呟き、しきりに笑う。
背後では、彼女の姿を見止めた者が何度も恭しく頭を下げているが、誰一人として声だけは掛けなかった。
ここはホワイトパレスという名の城の裏手にある国立の公園で、目的によっていくつか区切られている中で最も静かな祈りの広場。その敷地内にある慰霊碑は、王妃によって常に管理されている。だからこそ、今なお一人の名も掠れることなく建設当時と変わらぬ姿を保てていた。
その中でも女は、中心にある竜の象がある碑の正面、最も目立つ大きさで刻まれた名を眺め続けていた。
「一体何人の王を見送ってきたことか。まあお前もレックスも、この身に溶けたから分かっているだろうが……」
二人分の文字を映す瞳は、太陽よりも鮮やかな輝きを誇る。微笑む顔も、身に纏う動きやすそうな質素なドレスも、どんなものもその眼差しには劣るだろう。穏やかで温かく、全てを包みこむであろう落ち着きは、長き時の中で彼女のものとなった。
もちろん神にも勝る美貌は健在で、むしろさらに磨かれたほどだ。たとえボロ布を纏っていたとしても、誰もがそろって見惚れるだろう。
けれど、冷たさばかり帯びていた瞳を知る者にとっては、その変化が最も目立つはず。
常闇を宿す髪と、何者にも屈しない強さの中に愛情を秘めたガーネットの瞳を持つ女の名は、メンシス・ネムス・ディーバ。月森の歌姫という意味を持つ、この国と共に歩み続ける生ける伝説そのもの――竜である。
もはや御伽話の中でさえ消えてしまった常闇の魔女として人の生を終え、竜へと返りファルサと出会い、レックスの願いを受け入れた世界で唯一確認されている竜は、この国では竜王の地位を持ち、国政には一切関わらないながらも王と対等な立場である王家の母であり姉であり、永遠に家族として見守り続ける国の守護者だ。城下を歩けば、途端に多くの民から敬愛のこもった声をかけられる存在。
そんな彼女だが、この場に居る限りはけして誰も邪魔をしない。
『竜に愛されし英雄 ファルサ=ドラコ
竜と歩みし王 レックス・コンコルディア=マグナ』
白字で刻まれた他とは違い金字で目立つ彼らと過ごした日々は、何度代が替わろうとも時が過ぎようとも、ディーバの中で色褪せることなく残っている。
ここで彼女が浮かべる表情は本当に繊細で、だから人々は見守りはしても遮ったりはしないのだ。
「なあレックス……。子孫たちはしっかりと、ファルサやレックス、ゾルダン、ワカナ、ロキ。皆の魂を継いでいるぞ」
ディーバの背中で咲き乱れる花々が揺れ、花粉を一斉に舞わせたかと思えば、風が名を呼ばれた者たちを映し出した気がした。
左右の肩へ最も大切な二人が手を置き、天寿を全うしたレックスは爽やかな笑みを浮かべる。ファルサはどことなく照れくさそうだ。
その二人に続き、ゾルダンが皆で戦った頃の姿で意地悪げに口角を上げ、忠義を尽くしたワカナは、一生において直らなかった無表情さの中に僅かな微笑みを映す。最終的に軍の最高指揮官にまで出世したロキは、少年の姿で不機嫌そうにしながらも、まんざらではない様子で立っていた。
「それでも数人は食ってしまったがな。だが、後悔はしていない」
五人の姿はあっという間で消えていき、幻と呼ぶにも短すぎた。
それでも、子孫でさえ遠い人となってしまったとしても、ディーバにとってはかわした言葉、共有した時間、なにもかもが永遠に傍らにある。生きている限り、霞むことなく。
わざわざ慰霊碑の前で語るのは、報告というよりも自分自身が噛み締めたいからなのだろう。変わらない想いと、変わっていった景色。今では頼まれずとも、この国と共に歩みたいと強く感じている。
「ディーバは人が好きだ。……常闇もそうだったのかもしれないな。腹が立ち、理解し得ないことも溢れているが、今はもうお前たちが命を投げ打ってまで守ろうとした心がこの身にもある気がする」
そしてディーバは、慰霊碑を背もたれに目を閉じた。後は風に身を任せ、花の香りを楽しみ、彼女が居ないことに気付いた王や子供たちの誰かが来るまで、しばしの昼寝を楽しもうとする。
別に体力が落ちたなど、疲れているわけではない。建国時から彼女の容姿はほぼ同じだ。雰囲気の変化によって多少歳を取ったように感じるだろうが、それでもニ、三歳。ただ今日は、昔の思い出に浸りたい気分だった。
毎日が目まぐるしく人よりよっぽど賑やかなのだから、たまには構わないだろう。竜王などという大層な称号は、ほとんど子守りと変わらないけれど。
いつの時代が蘇っているのか薄っすらと微笑むディーバを、まるで気遣うように温もりを含んだ風が包む。彼女の胸では、同じ形をした二つのペンダントが静かな寝息に合わせ揺れていた。
どことなく急いだ足音が聞こえてきたのは、しばらくしてのこと。それは一直線にディーバの元へと向かい、花畑の先でその姿を認めると次第にスピードを落としていく。
喜びや興奮、愛しさ。様々な感情を込め、一歩一歩近付いて行き、そして――
そして、ディーバの身体に影が落ちる。大きく、頼もしい気配だった。
彼女が目覚める前に影の持ち主は跪くと、そっと滑らかな頬へ手を伸ばした。
通りすがりのお節介な市民が制止しようとし、慌てて口を噤む。どうしてか敬いし竜と謎の人物が作る景色を尊く感じ、邪魔をしては駄目だと言うように向かい風が吹く。
ディーバに近づいてきたのは、とても徒人に見えない男だった。
くすんだ金の髪は赤混じりで、漆のような黒い瞳はかすかな隙もなく強い力を放っている。だというのにディーバを見る時の視線は、愛しさだけでは片付けられない深く切ない想いが篭っているのだから、それがたたでさえ精悍な容姿に特別な魅力を付け加えていた。
一言でいえば、美女と美男子の絵画にしなくてはもっていない光景だ。
ただし、片方は竜王として国にとっても人々にとってもかけがえのない存在。いつしか思わず足を止めた人々の輪が出来つつある。
そんな中で、まどろんでいたディーバがゆっくりと目を開けた。警戒心しかなかったような彼女が人の気配ですぐにそうならないだけ、この国の平和さが表れているというもの。
しかも今日は、昔の思い出に浸っていた分、飛び込んできた顔を余計に現実だと思えなかったらしい。
彼女は驚くことなく笑みを強くし囁いた。
「なあ、ファルサ。ディーバは上手くやれていると思うか? 中々に褒められても良い気がするが」
今の自分を見て嬉しそうに笑ってくれたら、それだけで頑張った甲斐があるというもの。「変わったなあ、お前も」そう呟きながら、自分の事のように喜んでくれ。あの短くも濃い日々の中でそうしてくれたように――
すると、思いがけずそこに答えが返された。
「当たり前だ。ずっと、ずっと見ていたからな」
「ふふ、夢の中のファルサは、男前で気味が悪いぞ」
「お前の中で俺は一体何だろうな、……まったく」
「革靴以下に決まっているだろう」
そしてディーバは、楽しそうにしつつも再び瞼を落とそうとする。
男が苦笑した。その認識はどうやっても変わらないらしい。
ただ、このまま夢で終わらせるのだけは勘弁して欲しく、控えめながら頬を叩いた。
「お前の鉄壁の守護が、俺を例外にしてくれるのは嬉しいけどな。今は起きろ。立つ瀬がないから」
竜王にそのような態度だ、当然ながら唖然と困惑が広がるが、当事者は外野をまったく無視していて、かけがえのない至宝が覚醒するのだけをじっと待つ。
まずは眉間に皺が寄り、不機嫌そうに無意識ながら手を払いのけようとし、ぶつかったところでやっとディーバの意識が浮上した。
「悪いな、昼寝の邪魔して」
さきほどのように寝ぼけた虚ろな視線ではなく、しっかりとした眼差しが正面をとらえれば、そこにあったのは野生的で無邪気な笑顔だ。忘れはしない、疾うに二度と拝めなくなったと諦めたもの。
ディーバの瞳が我が目を疑い大きく揺れる。常に自信が溢れ、容赦のない唇も震えていた。
「…………ファルサ、か?」
「俺以外にディーバの寝こみを襲える奴がいるなら違うかもしれないな」
「それもそうか」
けれどそれはほんの一瞬で、ディーバは軽く同意するとファルサを押しのけ立ち上がる。
感動の再開であるはずが、寝ぼけていた時の方がよっぽど甘く、そんな彼女の様子に周囲が期待するものは起こりそうにないと解散していった。
ファルサは思わず項垂れたくなった。魔術込みで詰られるか、熱烈に抱き占めてくるか。色々と考えていたが、これは予想外だ。だというのに、これが最もディーバらしいと思ってしまい悔しさが込みあがる。
そんな彼を、背中を向けたディーバが盗み見ていた。
なぜファルサがいるのか、生き返ったのか、誰の仕業なのか。そんなものは聞く必要はない。どうせ碌なものではないだろうし、どうでも良い。見た目は死別した頃と同様、変化した気配が答えとなる。
けれど、油断すれば綻んでしまいそうな頬に腹が立ち、ディーバはただでさえ落ち込んでいるファルサへ言った。
「大方、レックスの小言が嫌で逃げ出してきたのだろう。死んでも情けない奴だな」
「もっと言うべきことがあると思うんだがな……」
「さすが大馬鹿者だ。神にも匙を投げられたか」
照れ隠しも含まれるが、半分以上は本気でそう思っているのだろう。しっかりと振り返ったディーバは、顎でぞんざいに立つよう促し鼻で笑った。
そして、首の後ろへ両手を回しながらファルサの前へと来る。
逞しい胸にそっと耳を当てれば、生きている証が確かに鼓動していた。
「ファルサが今ここにいる。それ以外に何が必要だ?」
「そうだな……。すま――――」
「まさか返せるとは思っていなかった。片割れだ、二度と置いていってやるな」
謝罪は聞きたくない。ファルサの唇を指で押さえ言葉を遮り、今し方外したものを太い首へと誘う。
蔓の巻かれた杖のペンダント。血の繋がらない兄弟が最期まで大切にしていた物だ。
それは二つとも、長い間ディーバの胸で並んでいた。持ち主はどちらもが死してから彼女の糧となり、共にあり続けている。兄はディーバが望み、弟は本人がそう願い。
それが再び別たれた。
「こっちは返してやらん。ディーバの片割れだからな」
「そういう殺し文句を平然と言うな」
二人の表情は、かつてから種類を変え、はっきりと想いがあった。
けれど、一度としてそれが言葉となって告げられることはない。これまでも、これからも。
なぜならファルサが必死に走ることも、ディーバが歩みを合わせてやる必要ももうないのだから。
そろって空を見上げれば、今後は並んで羽ばたける場所となる。
「変わらないんだな。お前が見ていた景色は、人と全然違わない」
「ああ、ディーバも最近になってやっと気付いた。人も竜も生きているのだから当然だというのに」
どこからか雲が生まれ流れていく様子を目で追いながら、ファルサが呟いた。
「……レックスは幸せだったか?」
「聞かずとも、これから自分の目で見て回れば良いだろうが。ディーバも、竜の王として色々と仕込む義務があるしな」
「やめてくれ。今日までしこたま遊ばれたっていうのに……」
心底嫌そうに額を覆う仕草をまた見られる日々の訪れ。朗らかな笑い声が木霊した。
しばらくの間は、暇つぶしに付き合ってやっても良いだろう。ディーバはこの再会を仕組んだ者へひそかに思った。面と向かってわざわざ口にする義理はないけれど、己の運命を捻じ曲げたことについては、そろそろ白紙に返してやってもいいのかもしれない。
ディーバが歩き出せば、当たり前にファルサが隣に並び、皮が厚く傷痕の目立つ手を差し出した。素直に繋ぐと温もりが伝わってくる。
彼の剣は、レックスの墓にある。遺体の代わりに棺桶へ収められた、戦友たちの遺品の一つとして。
そして二人は、戦いを必要としない時の中で新たに出会い直す。
レックスの国が納得のいく形で消えてからも離れることなく、生き続ける限りずっと――
ディーバは静かに言った。
「おかえり、ファルサ」
「ああ、ただいま」
レックスがそうして迎えてくれた時のように、今度はディーバが。
まるで祝福するかのごとく、咲き乱れる花々が一斉に揺れた。




