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導かれたエンディング





 眼下に広がる景色は、本来の姿では大抵がちっぽけだ。雄大だと感じるのは、空や海、山や森などの限られた一色のみ。

 人間にいたっては、建物の影から唖然と見上げてくる姿も、小高い丘で悲願の時を待ち望む姿も、区別の付かない蟻の行列そっくりだ。

 そして、大狼の時とはまったく比較にならない大音量の咆哮が轟くのをもって、導きの国の王都は崩れていった。

 ガーネットの鮮やかな巨体を持つ竜が現れる少し前に死した王と共に――




 □□□


 レックスと別れ全てを終わらせることを決めたディーバは、口の中で未練のように残る味に耐えながら、大鷲から小さな猫へと変化し王都を駆けていた。

 すれ違う軍服を着て緊張した面持ちの人々は、誰も彼女に目を止めない。今すぐにでも始まっておかしくない最後の戦いを前に、それどころではないからだ。

 そうして戦前の独特の空気を感じながら、高くそびえる城まで辿り着くと、今度は小鳥になって敷地内へと侵入する。

 一度嗅げば忘れはしない熟成された旨味を秘めし香りは、その姿では探ることができず、簡単に景色に埋もれてしまう小さな影が何度も窓の奥を覗き見ては飛んでを繰り返した。

 わずかにでも気を抜けば、種によって大きく差があるはずの味覚に苦しめられる。

 ファルサの味はたった一口でも強烈で、こうなることは分かっていたにも関わらず、なぜあんなことをしてしまったのだろう。なぜ一向に消えないのだろう。なによりなぜ、これほどにも必死になっているのか。

 その理由が分からないままレグルス=レギオを求め、最も刺客が外からでは狙いを定め辛い位置にある部屋へ辿り着く。カーテンは締め切られ中を窺うことはできなかったが、ここだという根拠のない確信が術を使わせる。

 音もなく侵入したそこには死の臭いが充満していた。ただの肉塊が漂わせる腐ではなく、いまにも魂を刈り取ろうとしている気配。

 しかし、小さなランプだけが灯された薄暗い部屋には、それでも諦めない生への執念も強く存在している。

 王が横たわるにしては質素な寝台にそいつはいた。

 レグルスの姿を確認した途端、唾液が止まらなくなった。ファルサを喰らったばかりで余計に思う。喰いたい、と。血の一滴だけであっても、口当りがよく完璧なバランスで味が調和したワインより勝るだろう。

 ディーバは誘われるように、レグルスへと忍び寄っていた。


「…………何者だ」


 けれど、太くしわがれた声を聞き、閉じていた目蓋の奥を見た瞬間、心が叫んだ。

 喰いたくない、喰うわけにはいかない。本能を凌駕するほどの拒絶。

 それはもはや竜の行動ではなかったが、どうしようもなく自分の内側へと入りこんでしまった二人の姿が脳裏に浮かべば、そんなことは些細なものに感じる。ファルサの無念を、レックスの悲しみを、ただの食欲で終わらせるわけにはいかなかった。


「人を呼んでも無駄だぞ」


 レグルスが枕元で何かをしようとしているのを見咎めながら、それに――とディーバは思った。

 それにこの目は知っている。かつて何度も注がれた、人を人とも思わない眼差し。恐怖を押し隠しながらとっくに名も残っていない王が、見てくれだけを求め好き勝手蹂躙してくれたその息子が、人間であった頃の常闇の魔女へ向けていたものと同じだった。


「あの青二才め。兄以外にもまだ切り札を隠し持っておったか」


 白髪混じりの黒髪に、くすんだ金の瞳を持つレグルスはまるで獅子のような壮年の男だ。ファルサによって身体のどこかに大きな傷を負っているはずだが、ディーバの冷え冷えとしたガーネットと真っ向から対峙し、あまつさえ身体を起こす。

 けれど、さすがに侵入してきた相手の正体までは掴めず、ただの腕が立つ刺客として銃を向けた。

 黒光りする銃口はディーバの心臓へと狙いを定めていたが、彼女はそれを鼻で笑う。そんなものは、たとえ発砲されたとしても脅しにもならない。


「レグルス=レギオ。小さき王よ。貴様は勘違いをしているようだな」

「儂を小さき王とな。この身の半数も生きていないような小娘が大層な口をきく。だがまあ、気の強い女は嫌いではないぞ」

「とっくの昔に役立たずになっていそうな老いぼれが見栄を張るな」

「試してみるか? 必死に虚勢をはる女が屈していく様に飽きは来ぬ。しかもお前はこれまでのとは比べものにもならない美玉だ」


 所々掠れてはいるがはっきりした口調はその豪胆さを示し、レックスよりもよっぽど王らしい態度だが、それでもディーバはレグルスを小さき王と呼んだ。

 当然ながらレグルスは憤りを見せるも、ディーバは不快感を堂々たる笑みに変え、いかにも名案を思いついたといった様子で自身のドレスの裾を抓む。


「あいにくと、こちらも喘ぐより喘がせる方が好きだ。しかし、このままだと話が下世話になりそうだな」


 そして、唐突に眩い光を発してレグルスの視界を塞いだ。

 彼は冷静に手のひらで直撃を防ぎ、普通の刺客とはどこか違う独特に静かな気配を探る。

 けれど、締め切られたカーテンすら超えて外まで漏れるような閃光は、周囲へ異変を知らせることも命を奪うきっかけになることもなく弱まっていった。

 そうしてレグルスが視界を取り戻した時、美しすぎる女が居たはずのそこには驚くべき姿があった。

 月よりも淡く煌びやかな白銀の体毛は細く、鮮やかな瞳が際立つ玲瓏な大狼が座している。神の使者だと告げられれば、疑うことなど不可能だろう。

 そうでなくともレグルスには嫌になるほどこの大狼に覚えがあった。視線は自然と腹の辺りへ移動する。そこには残念ながら、大分以前に負わせた傷の名残はない。

 大狼となったディーバは、しばらく黙って獅子と視線を合わせていた。レグルスも驚きはしたがうろたえはせず、微塵もガーネットから逸らさない。

 だから余計に、ニィっと獣の口が歪んだのが分かった。

 そして今度は、光が弾けることなく大狼の身体が変化しだす。

 しかし、あまり気持ち良くはない過程をまざまざと見せつけられた後、レグルスの前に美女はいなかった。


「こっちなら変な気も起きないだろう? そういった趣味があったとしても、付き合う気はないがな」


 いつまでも眺めていられるガーネットの瞳や、腰に届く艶やかな黒髪。少し白すぎるが傷一つないきめ細やかな肌など、特徴や美貌に差異はない。

 けれど、大狼から人の姿へと戻ったディーバの声と性別が変わっていた。

 わざと完璧さを欠いたような声と、微笑むだけで全ての女性を虜にしてしまうであろうどこか妖しげな美丈夫さ。丈の長い黒のコートを身に纏い、嫌味を感じさせない上品な仕草で前髪をかきあげながらディーバは笑った。


「ちなみにレックスも無関係だ」

「……ならば、役目を果たせなかった神獣が何用だ」

「そんなもの決まっている」


 残酷で力が全てだと思われがちなレグルスであるが、意外にも信仰心が厚く、それは居場所を突き止めてもレックスを派手に討てないほどである。

 それでも神獣として扱われていたディーバを攻撃したのは、彼女が変化していた大狼がとうの昔に絶滅されたとされる古代種であると突き止めていたからに他ならない。専門家は大いに驚いたのだが、だとしてもあの世への入口など研究がまだな未開の地が少なからず存在し、神獣とするよりよっぽど現実的だった。

 それに、神獣と呼んで相応しい存在と正典に記されているのは竜だけだ。だからレグルスは躊躇なくディーバを攻撃できた。

 だが、さすがに目の前でこうも人知を超えるものを見せつけられれば、そうも言っていられない。

 それでも謙ることだけはせず、ディーバは大いに満足した。

 ファルサを殺した男はそうでなくては困る。神を信仰してるというのも、どうせ何もできない創造神かあの腐れ外道な戦神だろう、と。

 反面、苛立ちも生まれる。

 役目を果たせなかった。レグルスははっきりと言った。他でもない、ファルサを殺した者がだ。

 それによりディーバの顔から表情が消えたことで、さらに彼は追い討ちをかけていく。


「儂がせっかく目を掛けてやったというのにあの男、けして首を縦に振らなかった。全身を鎖で拘束し、(ぬし)を呼べぬよう口も封じ、丸腰の状態で剣を向けてもだ」

「当たり前だ。ファルサはそういう男。それでこそファルサだ」

「しかし、主はあの男の期待に応えなかった。哀れだな、最後まで主を信じていただろうに」


 そして、二人で使うには狭い寝台が激しく揺れた。

 激しい痛みに襲われながらも僅かな呻き声を漏らすに留めたレグルスの上に、人ではない美しすぎる男が馬乗りになっている。


「その気になったか?」

「黙れ。たかだか六十年ほど生きただけの小僧が」

「その小僧にまんまと動揺させられたのは主だろう?」


 さらには数回に渡って銃声が響く。

 頭と心臓、首に両肩。実戦からは退いてもさすが軍人といったところか。急所を狙い、ディーバの身体が大きく跳ねた。

 しかし、くゆる硝煙越しに映る長い髪で隠れた顔や身体からは、一滴の血も流れない。

 怪訝に眉を顰めていれば、手の中の銃がまるで飴細工のように脆く砕けた。


「……やはり、男の姿で死にかけの爺の上に乗ったところで、絵にすらならないな」


 さらには小さな呟きの後、広がったコートの裾が縮み始め、ガーネットの色をした靴紐がアクセントになっているブーツが消えて生足が現れる。

 女の姿に戻ると、ディーバは平然と顔を上げた。


「図星を突かれ憤ったと思ったか? 馬鹿め。貴様なんぞよりよほどファルサのことは知っている。あいつは死際でも、救いを求めたりはしない。これ以上の侮辱は許さんぞ」

「では惚れていたか。やはり神獣とは名ばかり。化けの皮が剥がれたな」

「元々周囲が勝手に騒いでいただけだ。勘違いを正す機会が今日だっただけのこと」

「詭弁を」

「それはどうだろうか。全てが嘘というわけでもないと言ったら、貴様は今さらひれ伏すか?」


 首を僅かに傾けしなを作り、人差し指がレグルスの喉仏からゆっくりと下がり心臓の真上で止まる。

 頭上のディーバがあまりにも妖艶で、レグルスは傷も返答も忘れ身体を浮かし押し倒そうとした。

 この極上の響きが奏でる嬌声を聞かずして死ぬわけにはいかない。そんなことすら思う。

 けれど、たったの指一本がそれを許さない。

 今度こそ驚愕で金の瞳が揺れた。


「死が近付いてボケでもしたか。もはや貴様の好き勝手が叶うはずがないだろう」

「主は一体……」

「神獣ではない。人を食う、神獣ならざる化け物。貴様はそれだけを知っていれば良い」


 そしてディーバは、ファルサが携帯していた短剣を取り出し、口に咥えて鞘から抜いた。

 銀よりも白に近い刃がきらめき、口から鞘を外し適当に放り投げれば、ただの動きが儀式の一端のようにゾルダンには映る。


「それにしても、惚れていた、か……。確かにそうだったのかもしれない。ああ、だからこんなにも苦いのか」

「まるで人のようだな。儂の部下をそうしたように、欲望のままさっさと喰い散らかせ」

「なるほどその通り。今のあたし(・・・)は、ファルサに名をもらった存在とは程遠い」


 ガーネットがどこか寂しげに細くなり、わずかに開いた唇からは小さな吐息が零れていく。

 深緑の魔術師と戦い、常闇の魔女が迎えた最期ともまた違う感情を表すとすれば、これがきっと悲しみだ。やりきれない悲しみが、けして晴れないであろう別の何かへと生まれ変わる。

 今の自分は竜ではない。かといって、多くが欠落していた常闇の魔女とも違う。では一体、こんなにもファルサの死で乱され、普段と比べればまともとは言い難い自分は誰なのか。

 そんな時、自嘲しつつも答えを探すディーバの脳裏に声が響いた。


 ――ディーバ。メンシス・ネムス・ディーバ。


 月夜の晩、深い森の中、出会った一人の人間の男。久し振りに餌にありつけると思っていれば最悪に不味く、しかし強く惹かれた。


 ――ならお前が、俺の代わりに本当の俺を知ってくれ。


 そう言いながら、この七百年で誰よりもディーバを知ってくれた。そのくせ、たまにデリカシーの欠けた質問をしてきつつも、過去よりも現在(いま)を望み。甘い言葉も贈り物もない殺伐とした生活で築かれた関係は、色恋とは繋がらなかった。

 それでもファルサとレックスに抱く感情を比べた時、そこには圧倒的な差がある。出会ったのがレックスであったなら反乱軍に手を貸しまでしなかったはずだ。

 そういえばファルサは言っていたな。ディーバは思い出す。あの時は照れくさかったのか、中途半端なしかめっ面をしていた。


 ――レックスは俺にとって、かけがえのない存在なんだ。それでいて、もう一人の自分でもある。俺には出来なかったこと、俺がしたかったことを経験したあいつは、俺の願いそのものなのかもな。


 さらにファルサは語ってくれた。

 レックスに命じられ、ディーバを繋ぎ止める目的での行為の最中で、抗い難い刺激と共に。


 ――ディーバ、お前はまるで羽のようだな。全てを預けるには軽いくせに、どこまでも連れて行ってくれそうな気がしてならない。延々と飛び続けてけして地に落ちることはない、風とも違う自由そのものだ。


 けれど、最後に見たファルサはディーバに何も語ってはくれなかった。

 冷たくなり、固くなり、一枚一枚衣服を脱がしていっても微動だにしなかった。

 その下にあったのは、最後まで戦いそして敗れた無残な証。痛々しい傷だけ。肩や脇腹には小さな風穴が開き、首から腹にかけては深い太刀傷が。おそらくそれが致命傷だったのだろう。なのに血はもう流れず、それが余計に惨さを増した。


「目を合わせるまでは、これまでと変わらず喰ってやろうと思っていたのにな。ましてや、これほどの馳走。そう会えるものではない」

「ならばそうしろ。儂は命乞いなどせん!」

「悪を悪と定めながらも自らの行いを取り繕わない純粋さは、心地良ささえ感じるぞ」


 レグルスが潔く叫ぶ。

 しかし、動きを封じる指はそのまま見下ろしてくるガーネットの光に、それ以上の言葉が出てこない。

 まるで魂が抜けたかのように、そこには混じり気がなかった。

 怒りとも違う。悲しみでもない。恨み――? いや、それは殺意だった。何の感情も混ざっていない、本当の殺意。

 軍人であれば少なからず知っているはずのその気配は、言うなれば炎のように揺らめく。目的のため、信念のため。欲望によって抱くものですら、そこには必ず恨みや快楽があり、様々な形で燃え盛る。

 けれど、ディーバが発する殺意には何もなかった。凍えるように寒く、闇に浮かぶ湖の水面のように静かで、だからこそ恐ろしい。魂の入っていない人形が剣を向けているようだった。


「しかし、ディーバは嫌いな輩は食わない主義だ」


 そして、まずはレグルスの肩に刃が沈んだ。


「皮肉なものだ。結局、幕を引くのもこの手になった。何の為に七百年も静観していたのか」

「ぐっ――――――! なな、ひゃ、くねん、だ、と?」

「そう、七百年。頭では分かっているんだがな、意味はないと。しかし、貴様と言葉をかわしながら浮かんでいたのは、どのように殺すかというものばかりだった」


 ゆっくりと、しかも刃を回され肉がかき乱される。骨が削られる。

 相当な痛みに襲われながら、それでもレグルスは叫び声だけはあげなかった。

 引き抜かれれば、短剣の刃は真っ赤に染まっていた。


「ファルサが負わせた傷を腐らせることも考えた。全身の血をゆっくりと抜くのも、死にたいと願いたくなるほどの拷問も。腹上死を思いついた時は、少し笑ってしまいそうになったぞ」


 えげつない事を淡々と告げながら、さらにもう一方の肩も同じことを繰り返され、そこでレグルスは気付いた。

 この女は、この化け物は、戦神の申し子とまで称され欲したあの男――主人(ファルサ)の傷をそのまま再現していると。

 仲間になるよう告げた時、ファルサは部下の手で床に押し付けられ、身動きどころか口すら聞けない状態だった。

 そこでレグルスは問い、首を縦に振るよう求めた結果、不意を突かれる。

 目を眩まされ、腹に突然の痛みを感じ、怒りのまま気配だけを頼りに剣を振り下ろす。控えさせていた魔術師も反撃していたようで、光が治まり舌打ち混じりにファルサの姿を確認すれば、かなりの量の血痕のみを残し消えていた。

 最後に見たファルサの表情をレグルスは覚えている。

 光が弾ける中、全ての拘束が無効化したことに誰よりも驚き、足元で陣が描かれていくのを眺めながら首元の何かを掴んで言葉を呟く。さすがに聞き取るのは不可能で、それどころでもなく。

 それでも、その時の眼差しにどのような感情が宿っているのかだけは分かった。

 全身を焦がす愛しさ。レグルスにも身に覚えがある想い。自分と違ったのは、そこに信頼があったことだ。

 男ならば相手の女に持って当たり前の護りたいという想いではなく、まるで背中を預ける戦友へ宛てるものと似た対等な繋がり。

 レグルスには結局築けず、奪われ失ったもの――


「だが、これが一番良い。咎はいつか必ずその身に返る。もちろん、貴様にも相応な理由があったのだろう。聞く気はないがな。懺悔も不要」


 真っ白であったはずの寝台は、大量の水気を含んで赤く染まっていた。

 脇腹も抉られた時には、気絶してもおかしくはなかった。けれど意地でそれを耐える。

 そして残す傷は一つとなった。


「しかし、人間であった頃からずっと、誰も殺したことがないのが密かな自慢だったというのに。ファルサの奴め、この憤りはどうすれば良いのだ」


 ディーバの言葉に問い掛けたくとも、ただでさえ衰弱していた身体では無理であった。

 心臓の真上にあった指が離れようと、もはや腕を上げるのが精一杯。その様をガーネットが無情に眺める。

 声に抑揚が残っている分、表情との差がありすぎて余計に冷酷だ。

 レグルスの瞳に、自身めがけ掲げられた真紅の刃が映った。真っ赤な手が握る、死の世界への導き。


「や……っと、あ…………い…………」


 ――やっとあなたにお会いできる。

 最期の言葉は、ほとんど空気であった。

 そして、ディーバの全身に室内でありながら雨が降り注いだ。すぐに冷える、生温かい雨が。

 艶やかな髪を、瑞々しい頬を、思わず手が伸びてしまいそうな細い二の腕や太もも、至るところを雫が叩く。

 力なく体の横に垂れた腕から剣が落ち、柔らかな絨毯の上で役目を終えた。

 ディーバはレグルスの亡骸の上に跨ったまま、薄暗い天井を仰いだ。そこに描かれていた幾何学模様を無言で眺める。

 ふと瞬きをした時、頬を何かが伝った。

 はたしてそれは返り血だったのか汗だったのか、それども未だに知らぬままな涙だったのか。たったの一滴は、唇の端を通ってそっと舌に辿り着く。


「しょっぱい……な」


 部屋中で陣が砕ける音が響き渡るのと同時に警備の者が駆け込んだ時、そこには血の海に沈むレグルスの姿しかなかった。

 そして、竜の咆哮が響き渡る。恐怖と歓喜を呼び込むそれが嘆きであったことを知る者は誰もいない。

 









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