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魔女の眠り、竜の目覚め 8




 それは常闇の魔女が、暖炉の隣でいつもの様に本を広げ、そこに記された世界を旅していた時のことだった。

 城に張り巡らされた守護の術が一斉に発動し、頭の中で耳障りな音が響いた。

 しかし、非常時においても彼女は冷静さを崩さず、のんびりと顔を上げると意識を遠くへと飛ばし、頷きを一つ。あくまで普段通りマイペースである。

 そして、ほとんど裸と言っても良い身形を整えるため寝室へと向かった。

 そこで選んだのは、他の色が一切入る隙のない全てを呑み込む漆黒のドレス。尾羽のように後ろは足首まで裾が伸び、対して前は太もものぎりぎりのラインまで足があらわになっている。かなり薄い同色のショールを羽織れば完成だ。

 それらは鮮やかな瞳を際立たせ、かつ魅惑的に仕上げていた。手を加えず背中で流したままな髪が、不思議とそれを強くしている。

 どんな相手も付け入ることの出来ない唯一にして孤高、美しさの完成形とさえ思えた。

 自身の姿に満足してやっと、常闇の魔女は招かざる客人の元へと向かう。

 この間も術は継続して発動しており、彼女の強固な力を示している。

 しかし、相手もまた凶暴なまでの力を発揮しており、すでに半分ほどが無効化されていた。

 そのようなことが出来る者を、常闇の魔女は一人しか知らない。

 命の輝きが溢れた色を宿し、立ち止まることをよしとしない力強い魂を持った男。けれども、真っ直ぐなようで盲目でしかない瞳で世界を見た気になっている愚かな魔術師。

 城が一体化している岩壁の前で、深緑の魔術師は腕を組んで空中に佇んでいた。


「よう、久し振りだな」


 同じように常闇の魔女も浮かび、挨拶を返さず出会いがしらに術を放つ。

 陣の構成と発動はほぼ同時で、前回の一戦でも超上級な技量だったにもかかわらず、さらに磨きあげられていることが分かる。

 だが、深緑の魔術師も負けてはいない。

 彼は驚くことなく、自身を襲った無数の光の縄を破壊した。


「えらい挨拶だな。せっかくたった二人ぽっちの友人の片方が、わざわざこんな場所まで会いに来てやったってのに」

「友人? 悪いがそんな者を持った覚えはない。当然ながら招いてもいない。残念な勘違いが分かったところで、早々に退去願おうか」


 そして、辛辣な言葉がさらに空気を悪化させていく。

 深緑の魔術師が軽薄な笑みを消し、鋭い視線で拒絶する。


「そうはいかない」


 彼が纏う絶対の自信に気付いた常闇の魔女はそれを不可解に思いつつ、再び陣を展開する。今度は彼女の足元に現れた。

 髪と裾、ショールがたなびき、足から順に光となって消えていく。

 それは魔女だけが行使できる転移術。深緑の魔術師が舌打ちをした。


「逃げきれると思っているのか!」

「さあ? だが、あたしはお前になど用はない。話を聞くつもりもな」

「アルトが言ってた通りだな。騙しやがって。よっぽど最高な女だよ、お前ってやつは!」


 全身が消える寸前、聞こえたのは執着した呪詛染みた台詞であった。

 次に常闇の魔女が立っていたのは、木々が鬱蒼と追い茂る森の中。そこは来慣れていたいたからこそ、最も素早く転移できる場所である。

 けれど、彼女に浮かんだ表情は安堵ではない。

 むしろ忌々しいといいたげに眉は歪み、視線は素早く周囲を走る。

 いつもは多くの動物の気配で溢れているはずのそこは、虫の鳴き声すら消えていた。空が赤から濃紺に移ろうとしているのが理由ではないだろう。

 だから、急ぎ別の場所へとまた飛んだ。景色としては変わらないが森ではなく山を選ぶ。

 しかしそこでも、不気味な静寂が待っていた。


「やり過ごすのは無理そうか」


 そしてそう呟くのと、守護が施されている銀のブレスレットが砕けるのは同時だった。

 直撃していれば確実に死んでいたであろう魔術が、対象を残してその周囲を深緑の炎で灰にする。陽がほとんど落ちたせいで暗く見えるが、燃え盛る炎と同じ色をした木々を焼く。

 その光景は常闇の魔女をかつてなく苛立たせた。


「あたしは貴様の道具ではないぞ!」


 振り向き様に散らばる髪は、まるで毛を逆立てた猫のようだ。それでも彼女は美しい。

 けれど、遠慮をしない怒りを向ける相手もまた整った姿をしていて、愚かな行為を神秘的に変えてしまう。

 ガーネットが射る先には、この山よりはるか彼方のあの世の入口へ置き去りにしたはずの深緑の魔術師がいた。

 彼に転移の術は使えない。それだけで答えは出る。

 二人の戦いには見物人がいるのだ。けして回避できないよう手まで貸してくる悪質な観客が。

 だが、常闇の魔女はそれに構っている暇がない。構ったところで無駄な努力だと諦めていたともいえるだろう。

 とにかく今は、深緑の魔術師を全力で相手取るしかない。


「なーにをそんなに怒ってるんだ? なんでそこまで俺を嫌うんだよ」

「あたしが何も知らないと思ったか。城を出て暢気に過ごしているだけだと、どうせ軽視していたのだろう」

「そういや文句言うの忘れてた! お前、あの後どれだけ大変だったか分かってんのか? アルトだって心配してたんだからな」


 しかし、二人の温度差はかなりのものだった。

 深緑の魔術師はあくまで余裕を崩さず、癇癪を起こす子供をなだめる様に常闇の魔女を扱う。それがさらに彼女の怒りを助長させた。

 怒りは魔力に変わり、膨大なそれは光となって可視できるようになる。あっという間に夜の帳が降りた世界でその光景は、彼女をさながら妖精のように彩っていた。


「ったく、お前は良いよな。自由気侭にやりたい事だけやって、俺の苦労なんて考えもせずにさ」


 それでも、魔術師の本性を顕に今すぐにでも襲ってきそうな姿を前にして、深緑の魔術師は暢気に頭をかいてため息を吐く。

 俯き影が落ちた表情がどういうものかは分からなかった。

 けれど、次に見せた顔は意外にも真剣であり、なおかつ常闇の魔女を咎めていた。

 彼は言う。まるで他人事のように、淡々と。


「国が落ちたぞ。王は死んだ。お前が守護の術を解除していたせいでな」


 しかしそれを聞いた途端、常闇の魔女は大きな笑声を響かせた。

 しとやかさの欠片もない仕草で、腹を抱えて腰を折り、全身で押し寄せた感情を表現する。

 その姿には、かつて能面姫とまで呼ばれ、どこか庇護欲をくすぐった少女の面影はどこにもない。居たのは妖艶で誇りに満ちた魔女だけだ。

 彼女が、呼吸を整えながら乱れた髪をかきあげた。その際のぞいたうなじには、同性でも吸い付きたくなるほどの抗い難い魅力があり、深緑の魔術師の瞳にも僅かながら欲望が混じる。

 それに目敏く気付き、敵意は最高潮となった。


「死んだ? 殺したの間違いだろうが。あたしは二度、同じ事は言わないぞ」


 国が消えたところで、元より哀愁の念などない。地位としての魔術師に未練もないのだから、当然責任は感じなかった。

 魔女にあるのは、己の存在を示す魔術師としての誇りと、やっと得られた自身だけ。

 たとえ何も知らなかったとしても、他者の言葉を信じる余地は最初から用意されていない。


「うぬぼれるな。きさまは神に唆され、暇つぶしのおもちゃにされただけだ」

「あいかわらずお前は面白いことを言うなあ」

「魔術師は人にあらず、魔は人の世に溶けず……。忘れたとは言わせないぞ!」


 怒声と共に、数え切れないほどの手のひら大の陣が踊り、一瞬で鋭利な氷柱となり狙いを定めて向かっていく。

 それは土を抉り、冷気を放った。全てが的へ到達して攻撃が止めば、巨大な氷塊が深緑の魔術師の姿を覆い隠す。一般的な魔術師ならば為す術なく倒れているだろう。

 しかし常闇の魔女は、さらなる術を行使しようとしていた。

 その動きが止まったのは、氷塊から蒸気が上がったからだ。

 そして、中心が溶かされたことで支えきれなくなった上部が、鈍い音をたてて崩れ落ちた。


「お前って、攻撃もやっぱ独特なのな。びっくりして思わず観察しちまった」


 やはり簡単にはいかないか。そう思いながらも、無傷なのが腹立たしい。

 常闇の魔女がそうであったように、深緑の魔術師もまたこれまで待機せざるを得なかった戦場に出たことで腕を上げ、もはや二人とも前回戦った時とは別人だ。

 正直言って、以前のように勝てるか分からないが負けはしないと宣言できそうになかった。魔術師の力の顕現が遅かった分、どうしても常闇の魔女にはハンデがある。


「これはお返しな」

「っ――――!」


 くわえて深緑の魔術師は武術も嗜んでおり、隙を付くのに長けていた。

 背後で術の気配がし慌てて防御するも、少しばかり反応が遅れたために口からはかすかに苦心が漏れる。

 だからといって、二度も遊ばれてやるつもりはない。常闇の魔女が新たに繰り出したのは、つい先日完成したばかりの新術だ。

 大きな一つの陣が分裂し術として陣の形を保つと、それぞれが彼女を取り囲む。それらはたえず動き回り、せまりくる危険から主を護ろうとしていた。


「やっぱりお前は最高だな。俺に匹敵する素晴らしさがある」

「勝手なことを」

「ほら、いい加減暴れて満足しただろ? 俺たちの国に帰るぞ」

「いい加減にするのはどちらだ――――――!」

「お前はアルトの妻となり、その力の全てを俺が築いた魔術師が支配する国のために費やすんだ。どれだけ駄々を捏ねようと、これは絶対だ」


 だが、規則正しかったリズムは、術者を原因に崩れていった。

 爆発した怒りは大気を振るわせ、常闇の魔女は周囲に無いとまで思わせていた理性の限界を迎える。

 それでも、怒髪天を衝いた姿もまた美しさを損なわない。

 舞うドレスの裾はまるで生きているかのようにうねり、薄いショールは魔力によって消滅した。至宝のガーネットは光り輝き、人ならざるなにか――魔術師へと変貌する。

 もはやそこに我慢は必要ない。制御も無意味だ。怒りの根源が跡形もなく消え去るまで止まらないだろう。


「ふざけるなよ、深緑」

「お前こそ往生際の悪いことを。全てを本当に把握しているのなら分かっているはずだ。俺が誰かをな」

「魔術師であることを放棄した人のなりそこないだ」

「違う。俺は導きの国アデュイオンの建国者にして、神に認められ全ての魔術師を統べる存在。魔術師の王だ」


 常闇の魔女は、これほど言葉がただの音にしかならないとは思いもしなかった。

 意見のぶつかり合いならば、まだ許容できたかもしれない。

 けれど、深緑の魔術師の自分を見る目は、神よりも濃くもの扱いしている。

 畏怖の方がよっぽどマシだ。それは認めた上での拒絶なのだから。利用価値をお互いに見出している間の方が対等だった。

 そしてこの男は、友人と言っておきながらあまりにも個をないがしろにする台詞を吐き出した。


「俺に下れ。俺とアルトだけがお前を使いこなせる」


 その瞬間、嘘と王と魔術師は常闇の魔女の中で意味を無くし、この世で最も罪深きものへと成り下がった。






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