授けられた名
竜は古来より、神からの使命を帯び全ての祖となり世界を作った原初の生物として語られている。
しかし今や神話の中でのみ存在し、多くの学者が役目を終えて神々の地へ戻ったのだと結論付けていた。
つまりは絶滅していて、大空を悠然と羽ばたく勇ましい姿はもはや太古の記録や化石から想像するほかなく、鱗や牙から作ったとされる武具や装飾品に至っては、神器として国に管理されている場合がほとんどだ。
「……………………は?」
首に回された腕を解きながら、さすがのファルサもひどく混乱していた。子供でも嘘だと分かるからこそ真意が見抜けない。
その姿を女が満足そうに眺めている。戦場にて姿のみで敵を慄かせるような男の呆ける様は、それはもうかなり見物だった。
と言うよりも、まずはその女だ。プルスの姿が消え、気が強そうで妖艶な美女が代わりに現れたという状況を呑み込むことができない。
それを分かっていながら、女はファルサの頬を細い指で撫でて遊んでいた。
「また……大層な嘘を」
「しかしお前は、正しく否定する根拠を持てていないだろう?」
ファルサが耐えかねて腕を払い、肩を強めに押して身体を離しながらなんとか否定の言葉を吐くも、それも余裕な態度で返されてしまう。
その通りなのだ。頭ごなしに世迷い事をと笑える理由はあれど、かといって女の正体は未知のまま。姿形を変えられる存在をファルサは知らない。魔術をもってしても不可能なことだった。
「それとも、さきほどのプルスと私が同一なことも認めないでいるか?」
女が今度は目を眩ませたりせずまた変貌する。問いながらそうはさせないのだから意地が悪い。
瞳と同じ色をしたショートラインのドレスが茶色に変わりながら毛となって全身を覆い、顔が鼻から伸びていって背が縮み、最終的に四速歩行のプルスとなる。
見ていてあまり気持ちの良いものではなかったが、そんなことを感じられる余裕がファルサにはもちろんなかった。
「本当ノ姿ニナッテモ良イノダガ、カナリノ巨体ダカラナ。森ノ外カラデモ十分カル。目立ツノハ、オ前モ困ルダロウ?」
そうして再び人の形をとった女は「美しくないのは好かん」と、遠まわしに変化の様子を見せるのは嫌いだと言った。
さしものファルサも乾いた笑いを発する。動物と波長が合うのは特技としていられても、それがまさかこんな存在との縁も繋いでしまうなど。
かといって、まだ竜と信じられたわけではない。
力が抜けてしまい地面にへたり込みつつ、ファルサは女を見上げた。
「だが、俺の知っている竜は、巨大な身体に何物も通さない鋼の鱗、天を切り裂かんばかりの鋭い爪に空を泳ぐ羽を持っている。プルスや人間になれるとはどこにも伝わっていないぞ」
なけなしの虚勢を、女は腕を組んで笑い飛ばす。
「当然だろうが」彼女の主張は最もなものだった。
「誰が自分の隣にいる者を、遭遇した獣を竜だと思うものか。だから我々は絶滅したとされ、伝説となったのだ」
しかし、だからといってなぜ竜がわざわざ他の生き物へ擬態する必要があるのか。
ファルサはなんとか嘘を見破ろうとするが、あいにくとそれはことごとく論破されていく。
「少しは頭を使え。竜は総じてお前達人間が見栄で築く王城よりでかいのだぞ。そんな生き物が腹を満たし続けみろ、あっという間で世界は滅ぶ。それは全ての祖である我々としても本末転倒だ」
「だとしても、化石や牙などは残ってるんだから、昔はありのまま暮らしていたはずだ」
「今度はマシな指摘だな。しかしそれは単純だ。神話も間違いではないのだから」
女がファルサに合わせ躊躇なく土の上で胡坐を組む。ただ、顔の前にあった美脚が消えたのはよかったが、今度は格好が際どくなってしまい内心で少しうろたえた。それを感じられるぐらいは混乱が落ち着いたと思って喜ぶべきなのだろうか。
ファルサは咳払いをして話に集中し直す。
ちなみにこの出会い、女が本当に竜なのだとしたら学者たちが卒倒するほど歴史的な大事件となるのだが、当の二人はまったく分かっていなかった。
「まあこれは、今を生きる我々にとっても推測混じりではあるが……。竜として死ねたのは本当の意味で全ての祖であった者たちだけだ」
「本当の意味?」
「そうだ。竜が生き物の祖であったとする神話は正しい。しかし役目を終えた後、竜もまたこの世界で生きる存在となったのだ。だから適応するため擬態の力を得た」
「いや、おかしいだろう。生き物として存在しているなら、子孫を残す必要があるはずだ」
ファルサからすれば当然な疑問だったのだが、女はまさかそこを突いてくるかとより会話が楽しくなった。力があるのなら、自分達が隠れるような形ではなく、周囲を合わせるように世界を作れば良かったのではとでも言うかと考えていたからだ。少なくとも女の知る人間はそういう種であった。
膝の上に肘をつき、向き合っている相手をまじまじと観察する。
赤混じりのくすんだ金髪に黒い瞳と色合いや配色にはいまいち地味さがあり、格好も随分とくたびれているが、顔の造形はなかなかに良い。美しさを重視する彼女の基準にも十分合格している。少しばかり抜けているのも、これなら個性として可愛く思えるだろう。
しかもだ、それで戦神の申し子として名を馳せているのだから、戦場では一体どういう顔を見せているのか。興味をひかれる。
「言っただろう、我々は巨体だ。それで他と同じであってみろ。あたしなら絶対に子など生みたくないね」
「は…………?」
「それともお前たちは、竜の契りを眺めながら酒でも飲む気か? 咆哮の度合いによっては、それだけで死ねるだろうから薦めはせんがな」
からかう様に答えてやれば、ファルサはそういうことかと曖昧に苦笑した。
美女から露骨にそんなことを言われるのも複雑で、おもわず想像しかけてしまいもっと微妙な気分になってしまった。竜の営みが原因での死亡などたまったものではない。
それにしても、気付けば嘘を見抜く以上に純粋な好奇心が女へ質問を浴びせていた。
ファルサは、だったらどうやって竜は生まれるのかと気になり聞いてみる。
「擬態した状態でならば子は作れるが、その場合は絶対に相手の種として生れ落ちる。竜はな――返るんだ」
「孵る? 卵生なのか?」
「違う。それだと結局はつがいが必要だろうが。そうではなく、生殖をする必要がないのだ。我々は他の種として存在していた命が死した瞬間、最初の祖である竜へと返る」
「まさか」
「信用できないか。まあそれもそうだろう。だが、神話では竜の生態について一切語られていないではないか。もちろん、食事についても」
つまり竜は、生まれた瞬間に完成していると女は言った。しかもきっかけが死という、人間が見つけた生き物としてのどんな法則にも当てはまらない形で。
さすがのこれにはファルサも、とんでもないことを知ってしまったと思った。とはいえ、教えたところで誰も信じないだろう。ファルサ自身、まだ信じたわけではない。
ただ、嘘ではないと言えるぐらいにはなっていた。
「そりゃあ自分達を食う存在は語れないだろ」
「最もな意見だな。しかしハズレだ。そこまで人間は特別ではないさ」
「ならお前の嗜好か?」
ここにきて答えが止まった。
それはまるで考えろと言っていて、丁度良いとばかりにファルサはこれまでの話を整理する。
その様子をニヤつきながら女が眺める。こんな人間は初めてだ。匂いはこれまででダントツにうまそうでありながら、今でも思い出すだけで口の中に違和感があるほどの最悪な味は衝撃的だった。自分に狙われ生きている、食えなかっただけで驚愕に値する。
名にもまた興味をかきたてられた。呼んでもらえない名など普通はあり得ない。
しかし女は知っている。だからこそ面白くてたまらないのだ。
さあどんな結論に達するのか。期待して待っていると、しばらくしてファルサがハッと顔を上げた。その表情だけで正解だと答えてやりたくなるほどの驚き具合だった。
「もしかして、返る前と関係するのか……?」
そうすれば全部が上手く繋がる。そう言うファルサに女はまだだんまりを続ける。
だからこそ確信した。
「お前は人間から返ったんだな」
「ご名答。頭もまあまあ良しとするか。柔軟性は申し分ない」
女は手を叩いてやっと口を開いた。しかも肯定を。
人間が人間を食うなどともすれば嫌悪にしかならないというのに、不思議と抱かなかったのは、人間くささはあれど人間らしさがあまり見られなかったからだろう。
となれば、やはり竜であるとした方が色々と納得がいく。むしろ今では、そうでないと説明がつかない気さえした。
ただ、敬意を払おうにもあいにくとファルサは無宗教だったので、最終的に態度はそのままで良いかと変えなかったが。
「竜は以前の自分を食う。まあ、種が限定されているのはあたしぐらいだろうがな。こんなにも自己が強いのもまた、おそらくあたしだけさ」
「じゃあ、お前以外に元人間なのはいないってことか」
しかし、軽い考えで発したその言葉で女が初めて不快感を映す。
そこには耀かしく強大な誇りが秘められているように感じられた。
「勘違いをするな。あたしは竜だ。たしかに人間から返ってはいるが、お前達を同族だと思ったことはない」
森がざわめいていた。女の気配へ恐れおののくように葉を震わせる。
ファルサもまた鮮やかなガーネットに射抜かれ、ゴクリとつばを飲み込む。
「話が通じるのは感覚が同じだけのこと。他の竜もまた以前の名残で、それぞれ似た生活を送っているだろう。数が少ないからはっきりとは言えんが」
「そうか……。すまない、侮辱したつもりはなかった」
失言だったということはそれだけで自覚できた。
だからこその謝罪を、女は再びやりにくい男だと認識し威圧感をしぶしぶ抑える。
森に静けさが戻った。
「あたし以外の竜は、会話自体がままならない。学び使うことはできても、それをしようとする意思が希薄だからな」
「ならお前は、普段どういう生活をしてるんだ?」
「気まぐれであれこれ変化して世界を周っている。情勢把握は趣味だ。森をただ駆けて餌を追い暮らすのは性に会わん。そこは人間の名残だろう」
「お前の噂は結構聞いている」茶化すように笑っときにはもう、元の自信家な女の顔になっていた。
何にも縛られず、自由に生きられる姿がそこにはあったが、ファルサは羨ましいとは思わない。かえって寂しくはないのだろうかと感じ、けれどそれは口にしないでいた。それこそ人間的な感覚で、本人がもしそう思っていたのだとしたら、我慢せず人の中に紛れていただろうから。
「して。お前はいい加減、あたしが竜だと信じたのか?」
「……ああ」
そうしてファルサは頷いた。明言しないのは残っている疑心の現れで、女にとってはむしろ好感を持てた。
足を崩して手を地面に置き、四つん這いとなって顔を寄せる。強調された胸元が情欲を誘う。
悲しいかな目線が行ってしまうのは男の性だったが、これには表情を崩さない。
開かれた真っ赤な唇から鋭い牙が覗いた。
「それでも恐れないか」
「俺が食われる心配はないからな」
「それはそうだろう。お前を食うぐらいなら、そこ等の動物の方がまだ下手物として扱える。お前達が革靴を食うのと同じだな」
「俺は革靴以下なのか……」
少し悔しくなってしまい、それでさらに落ち込んだ。
この女は人をおちょくるのが余程好きらしい。こうして話をしてくれるのも暇つぶしだと今になってやっと悟った。
それでもファルサの考えは変わらない。反乱に勝つためなら、悪魔にでさえ魂を差し出す――すでにそうしているつもりだ。
「態度も変えないか。あたしは伝説の存在だぞ。男ならば幼少に強い憧れを抱くと聞くが」
「神官でもないし、俺はそんな夢を見ている暇がなかった。その日を生きるので必死だったんだよ」
「つまらん奴だ。さらには取引を無しにするつもりもないときた。そうだろう?」
頷けば、胸元をわざとらしく掴んで「色仕掛けも効かないと……」など、そんな気がないくせに呟いていた。
ファルサとて男だ、明日とも知れない環境に身を置いているのだから、むしろ性欲は強い方である。なので誘われればそれなりに喜ぶだろう。
しかしこの女の魅力は、比類なきその美貌よりも孤を描く唇から零れる声だ。それこそ目論見や興味を言い訳に、質問を浴びせていたのかもしれないと思うほど。
だから女が下した評価には多くの意味で歓喜した。
「だが気に入った」
しかし、それはすぐに打ち消されることになる。
「なら、取引成立だな」その言葉にあろうことか早まるなと制止をかけたからだ。
渋る理由が分からず眉を寄せてもそれが覆ることはない。
すると女は予想外なことを口にした。
「自分が言っていることの意味を分かっているのか? お前はあたしに殺しを要求しているのだぞ」
「それは人を食う奴のセリフじゃないだろ」
それは戦場に立ちながら剣を振るなと言っているのと同じだ。
だからファルサは失笑したのだが、それを女が訂正する。たしかに自分は食事の為に人間を殺すが、今まではわざわざ遠慮をしていたのだと。
「最低限で満足はしていなかったが、かといって不満でもなかったのだぞ。それをお前は止めて良いと言う。そして同じ地に生きる者を生贄に差し出すのだ。王が民を無視して寵姫へ金銀宝石を送ることより、いっそ非道だとあたしは思うがな」
「レグルス側についている時点で、俺にとっては敵でしかない」
「しかしそいつ等も、お前たちが勝てば民となる」
「勝てばの話だ。勝たなければ何も始まらない」
何が言いたい。ファルサは意図が分からず女を見るが、彼女は一つ一つの反応を観察するように見つめ返してくるだけだった。
この時だけはニヤつく顔に苛立った。
「俺が非道など今さらなこと。噂を把握しているのならば知っているはずだ」
「ああ。命乞いする相手にも容赦しないそうだな」
「ならば戦場に立つなと俺は思っているだけだ」
「一理ある。しかしそれだと、この国の現状に憂いを抱く者は誰もが反乱軍の一員となって戦わなければならなくなるな。戦場で恐怖すれば背中を向け逃げても構わないと、お前は仲間に言っているのか?」
どうしたらそんな考えに至るのか。馬鹿馬鹿しいとねめつけてみるも女は引かない。
わざとらしく舌なめずりをしており、濡れた唇が淫らに光った。
しかし、そこから発せられたのは誘惑と呼ぶには物騒すぎるものだった。
「あたしが味を占め、この国そのものそ食い尽くすとは考えないのか?」
試されている。ファルサはそう感じた。
だから笑う。これについては、今までで一番答えるのが容易かったからだ。
武骨な指が艶やかな黒髪を撫で、突然の触れ合いに女の方が驚きたじろぐ。この反応は予想外なものだったらしい。
「お前はそんなことをしない」
その様子がおかしくて、ファルサは調子に乗って頬にまで指を伸ばす。
瑞々しくきめ細やかな肌は滑らかで、その柔らかさといったら。知らず目が色を帯び、女が内心焦りを感じて強めの力で叩き落とした。
「悪い、つい」何度目かの素直な謝罪だったが、これに限り悪びれた素振りが微塵もなかった。
「何を根拠に」
「だから、お前が言ってたんじゃないか。久し振りの若い餌だって。だがこの森は、人を襲うような動物はほとんどいないからな。中ほどまでなら女や子供がよく出入りしているはずだ」
今回の任務を遂行するにあたって、ファルサは逃走経路を入念に調べている。
だからわざわざ森の奥深くまで入り一目を避け、そうして襲われたのだ。ここまで来るのは大抵が狩人で、イレギュラーとしては迷った旅人ぐらいだろう。
けれど、どんな生き物にもなれるのであれば、本当なら狩りも相当簡単なはず。それでもこの人食いは、自らの欲を抑えている。自分が与える影響力をしっかりと理解しているが故に。
「選んでるんだろ? 女子供が減れば大掛かりに捜索される。そうなれば他の動物たちにも影響が及ぶとも分からないからな」
言い当てられてしまったことが悔しいからか、女が鼻を鳴らした。それが肯定になると気付いていない。
目まぐるしく変わる表情が見ていて飽きないとファルサは思うが、これ以上拗ねられても困るので黙っておいた。
「……あたしはグルメなだけだ。女はともかく、子供の肉は柔らかすぎる。歯ごたえがある程度ないと嫌なんだ」
「そういうことにしておいてやるさ」
言い分には同意してやれないが、その代わり追及するのは止めてやった。
(ああ、こいつは嘘が下手なんだな)
ファルサは心の中で微笑み、自然とそっぽを向いてしまった女の頭を軽く叩いた。
残念ながらその行動が子供扱いされたと思わせ、手痛い仕返しをくらうことになる。
「嘘ではない! お前と一緒にするな!」
言外に嘘吐き呼ばわりされたファルサは、初め宥めて軽く流そうとした。
けれど、美しい声が放った毒の針は油断していた身では弾ききれない威力を有していた。
女はファルサの胸に人差し指を突き付け言った。
「偽りを名に持つお前は、周りをたばかってばかりだ」
「は? からかったのが気に入らないからって急に適当なことを言うな」
「適当とは失礼な。あたしは言ったはずだぞ? けったいな名だと」
そういえばそんなことを言っていたと思い出しつつ、それでも嘘吐き呼ばわりされる謂れはない。
しかも周囲をだ。命を預け合う仲間に対してそんなことをするなど信念に反する。こればっかりは強く否定できた。
だが、ファルサの表情からそれを汲み取ったにも関わらず、女ははっきりと嘲笑う。
さすがに怒りを覚えた。
「俺は仲間を騙してなどいない」
「そうだろうよ。だが偽ってはいる」
「戯言を」
突っ撥ねたファルサの胸を、もう一度指が突く。まるで見えない何かを指し示しているかのように。
自然と目が行きすぐに顔を上げれば、思いのほか女の顔が近くにあった。
悪意ある唇の孤が気に入らない。ひどく心がざわつく。
そして、その予感は当たっていた。
「お前は言ったな。勝たなければ何も始まらないと。だから戦場に立ち敵を殲滅していると」
「そうだ」
「そして己が主君に王冠を授けようとしている」
「レックスにはその資格も素質もある」
女が傑作だと呟いた。
「言いたいことがあるならはっきりしろ」我慢ならず口にすると、待っていたのはなんとも滑稽な奇麗事だ。
「しかし本当は、仲間を率いながら誰もついてくるなと思っているのではないか? 剣を授けながら捨てろと呟き、敵を殺しながら殺したくないと叫び……。大切な者を王などにはさせたくないと本心が囁く」
「まさか。そんな気持ちで生き残れるほど、戦地は優しくない」
「知ってるさ。若増に言われるまでもない。それでもお前は奇麗事を抱えているのだ。それでいて戦地を駆けるのが楽しくて仕方がないのだろう? だから殺したくないと叫びながら、背中を向けて民へと戻った者も斬ってしまう」
「ふざけるな! それともなにか、竜は心を見透かす力があるとでも言うのか?」
侮辱以外のなにものでもなかった。
ファルサは自分の功績を誇ったことはなかったが、だからといって腑抜けと馬鹿にされて笑っていられるほど温厚でもない。
だからこそ女の誇りである竜を引き合いに出したというのに、彼女の口は減らずむしろ増した。
「あるわけないだろ。ただあたしは、古の言葉を知っている」
「古の言葉だと?」
「そう、古代語だな。それは本質を表し、力を秘めていた。今ではもう選ばれた者にしか使用できない。だからお前の名を誰も呼べないのだ」
女の明かした事実にファルサの顔が強張った。
古代語は魔術を行使する上で必要不可欠なものだが、それがどういった意味を持っているのかは魔術師ですらほとんど理解できていない。彼らは昔から伝わってきた技術を使っているに過ぎないからだ。それは常識として万人が知っていること。
しかし、女は意味を知っていると言う。それこそすなわち、彼女の異質を確実のものとした。
「ファルサ、偽りを背負う者よ。お前の心はお前ですら掴めない。しかもお前は、この国で同時に立ってしまった二人の王の片割れに名を授けた」
「つまり……は、どういう……」
思わぬ形でもたされた自らの才と情報によって、ファルサの混乱は最大を極めた。
自分の名もレックスの名も、ファルサからすれば頭に浮かんだだけで意味などないつもりだったというのに、もしそれが要らぬ影響を及ぼしていたとしたら。
同時に立ってしまったということは、レックスがレックスでなかったらこの内乱は起こらなかったのではないか。
愕然とした。だとすれば、今まで失ってきた仲間も、奪ってきた命も全て自分に責任がある。
(冗談だろ……)
知らなければ許されることではないだろう。けれど正直、知らないままでいたかった。
手のひらで顔を覆い俯いてしまったファルサに対し、女は静かに立ち上がってその姿を見下ろしている。彼女は表情を消していた。
それは見定める者の目だった。ガーネットが本物の宝石のように冷たい光を持っていた。
「どうもない。言葉を力とするのが魔術師ならば、意味を持たせるお前のような者をスペルマスターと呼ぶだけのこと。心眼者とも言われていたが、魔術師と比べればさほど影響力はないぞ。資格ある者に限定されるが、加護や祝福を与えるようなものだ」
「だがお前は……!」
「あたしが言いたかったのは、古代語を理解する者にはその力が及ばないということ。つまり取引が成立すれば、あたしの前でお前は偽れないことになる」
「俺は偽っているつもりなどない!」
ファルサは怒鳴った。
たしかに今まで数々の罪悪感を抱き、レックスが苦しむ姿も見てきている。
けれど、だからといって戦いを途中で諦めるつもりは毛頭ない。間違っていることだとも思っていない。
女の言葉こそ偽りなはずなのだ。
でも――思い返してみて、その感情を否定出来なかった。
内乱など今すぐにでもなくなってしまえと思いながら、戦場こそが自分の居場所な気がして仕方がない。本心がどこにあるのか分からない。
「お前は古代語を知らないまま使えてしまう。つまりは振り回されているのだ。だからといってあたしは、見て見ぬふりをして騙されてやる優しさなど持ち合わせていないぞ」
そして女は「気付かないままでいることはある意味幸福だと思うがな」と付け加えた。
ファルサもその通りだと思う。今まさに、こうして苦しんでいる。気付かなければ葛藤などせずにいられた。
女と取引を成立さてしまえば、今度も容赦ない指摘が待っていることだろう。嬉々として遊んでくるかもしれない。
だが、今さらな後悔にいくつも襲われながらそれでも考えた先にあったのは、だからこそ最も望む本心だった。
(そうだ……。反乱軍を結成すると最初に決めたのはレックスで、まして俺が王にしたいと望んだからじゃないんだよな)
レックスの出生を知ったのは、死んだ母親と知人であり王と近しい立場にあった男と出会ったことがきっかけだ。彼が母親の生き写しだったからこそ相手も気付けたのだが、そこから使用人としての生活を得た血の繋がらない家族は、遣えていた家の貴族によって王都から逃がされた。
そのままひっそりと生きることもできたというのに、今の道を選んだのは彼自身だ。ファルサは賛同して協力してきたにすぎない。
それを自分のせいだと言うのは、レックスの覚悟を踏みにじっているだけではないのだろうか。だとすれば、それこそ傲慢でおこがましい勘違いだ。
ファルサは深いため息を吐くことで心を静め顔を上げる。
すると頭上では、見事な笑みが広がっていた。
「それでもお前は、ぬるま湯の幸福を捨てるというのだな」
「俺は、俺が信じる道を進むだけだ」
「嘘吐きめが。お前の戦いには終わりがあるも、お前が作る道の先にある玉座へ腰を下ろせば、そいつは一生戦うことになるというのに」
容赦のないことを言いながら、女はとても嬉しそうだ。
こいつと付き合うのはかなり骨が折れそうだな。ファルサは苦笑しながら膝に力を込める。
立ち上がった彼の少し下で、美しい竜の目が輝いた。
「ならお前が、俺の代わりに本当の俺を知ってくれ」
「良いだろう。腹が膨れて暇つぶしも出来るなら、その役を担ってやらなくもない」
手を差し出せば、白魚のような傷一つない手が重なる。
小さな手だった。それでいて、今まで出会ってきたどんな仲間よりも頼もしいと思う。
ただ、敵以上に油断ならなくもあるのだが。
「だが、もう一つ条件がある」
そう言った時の女は、またしても悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべ、いぶかしむファルサを驚かせてくれた。
「今までは別段不便がなかったから良かったのだがな。これからはそうも行くまい。だからファルサ、お前があたしに名を授けろ」
「……お前! ついさっき、俺が名付けることの重大さを暴露してきたばかりだろうが!」
「何を馬鹿なことを。だからこそ言っているのだろうが。なによりスペルマスターなら外れがない」
「資格がなければ出来ないんじゃないのか」
悔し紛れに渋ってみれば、馬鹿にするなと一言。それでいて尤もなことばかり言うのだから、もはや口で勝つことは諦めるしかない。
「全ての種でもある竜になければ、誰も無理だろうが」
仕方なくファルサは、気乗りしないまま女の名を考えることにした。
一歩下がって全身を眺める。
相手は遠慮なく「どうせなら長いのが良い」など、勝手なことまで言ってくる始末だ。
いっそ変な名でもと考えるファルサの頭に、聞いたこともない言葉が浮かんだ。
「――ディーバ。メンシス・ネムス・ディーバ」
不思議な響きのそれは、口にした途端小さな光の粒を作り出し女の身体に纏わりついた。
まるで誕生を祝うかのように、風もないのに木々が揺れる。
「そうか……、ディーバか」
幻想的な光景に息を呑んでいると、女――ディーバが感慨深そうに呟いていた。
おもむろに月を見上げ、ガーネットを隠して深く息を吸い込む。
「月森の歌姫とな。なかなかに悪くない」
意味を知ったファルサもまた、このような力ならあっても悪くないとそう思った。それぐらい、ディーバがディーバとなった瞬間は美しかった。
「では、ファルサの王に会わせてもらおうか」
これこそが一匹の竜と一人の人間の出会い。
後に長く語られることになる英雄譚の、語られることのなかった真実であった。




