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魔女の眠り、竜の目覚め 6



 全ての音が息を殺す。部屋は静寂で満ちていた。

 しらばくは冷ややかなにらみ合いが続き、次第に落ち着いていく。


「殺す必要はない」

「そういうわけにはいかないのですよ」


 常闇の魔女が口を開いたとき、彼女の右手はアルトの腕を掴んでいた。彼の手には短剣が握られ、その切っ先は床に倒れ気絶している侍女へと向けられている。

 それぞれで非難を込めた視線が交差し、傍では役目を果たした魔力が静かに世界へと返っていった。

 相手が深緑の魔術師ならまだしも、二人の間には剣呑な雰囲気があまりにも似つかわしくない。

 しかし、優しげな藍色がまさしく沈黙し、頬の和らぎが消えれば、澆薄な為政者――本来の姿が現れる。

 魔術師に臆することなく付き合える者が、元よりただの善人であるわけがないのだ。最低限、屈強な精神を持っていなければ成り立ちはしない。

 立ち上がりなおも床に臥した侍女を手に掛けようとするアルトの腕を、常闇の魔女は離そうとしなかった。

 彼女もまた能面姫とまで囁かれていた顔を変え、雰囲気を違え、ガーネットの奥に確かな知性と個性を忍ばせている。


「記憶を書き換えた。アルトの目的はこの女を殺すのではなく、私と話しをすることにあるはずだが?」


 そう言って見上げてくる視線は、これまでならば心の奥底を見透かしてくるような不気味さがあった。

 けれど今は、誤魔化しも逃亡も許さない絶対的な強者の眼差し。

 そっくりだとアルトは呟く。彼がこれからの人生すべてを捧げた息吹の色を持つ男と似て、そこには常人では辿りつけない輝きが秘められている。


「そうですね、その通りです」

「ならば戻せ」


 普段と立場を逆転して諌められ、銀の刃は赤く染まることなく再び姿を隠した。

 常闇の魔女が疲れた様子で嘆息する。彼女は尋ねようとはしない。いつからアルトが気付いていたかなど、どうせ答えはきまっている。

 彼は言うだろう。始めからですよと、いつもの様な飄々とした態度で。

 魔術師になった当初ならまだしも、非常識であり続けるのは存外むずかしい。ましてや出生は深窓の令嬢などとは程遠く、かえって駆け足で大人にならなければならない環境だった。

 城へ来て五年。気が付けば歳も二十二だ。無知を装うのは限界を迎えていた。


「姫はどこまで察しているのでしょうか」

「さあな。私は静かに過ごせればそれで良い」

「それが出来ると本当にお思いで?」

「出来ないなら出来るようにするだけだ」


 常闇の魔女は離した手を傍らの本へと移動させ、他に質問がなければ出ていけと一切の本心を悟らせない。

 だからアルトも深く足を踏み込めなかった。腰を下ろし、そうはいかないと固持することしかできない。

 彼女は周囲が囁くほど人形ではなく、むしろ他の魔術師の方がよっぽどそうである。

 無表情を貫く奥では様々な判断が下されており、誰に請うでもなく自身の望みが叶うよう動いていた者こそが能面姫の正体だ。

 けれど、アルトが気付いたものは、考えれば当たり前な姿にすぎない。

 常闇の魔女は聡明であった。そして考え方も柔軟。だからこそ数多くの術を開発でき、なおかつその瞳と心が映す観点もまた多彩であろう。そしてそれは、なにも魔術に限られた話ではなかった。


「この国が今置かれている状況を分かっているはずです」

「どうでも良い」

「冗談を。このままだと姫の望む環境もままならなくなる。愚かな王のおかげでね」


 アルトがアプローチの仕方を変えた。

 顔の位置はそのまま俯いていたガーネットだけが動く。

 よくよく見れば、バランスの完璧な唇の口角が片方だけ上がっていた。

 そこに映るのは嘲笑であった。


「なぜ?」

「何故とはおかしなことを言いますね。すでに煩わしさで満ちているでしょう?」

「そうでもなかったがな」


 そして常闇の魔女は立ち上がると、なんとはなしといった動作で枷のはまった足首を引いた。

 大きくしなった鎖がまるで死際のヘビのようにのたうち、ベッドの上へ叩きつけられる。


「なっ――!」


 柔らかな寝具が勢いと音を吸収した。

 それでもアルトの吃驚が響き、強固であるはずの拘束は一瞬にして砕け散る。


「こんなもの、何の意味もない」


 鮮やかすぎる魔術は、一歩間違えば行使していたことさえ気付けないだろう。アルトはこれを油断をするなという威嚇と解釈する。

 しかし、それは半分しか当たっていないかった。

 そうとは気付かず、彼は開きかけた薔薇よりも濃く美しい色の唇を凝視し、放たれた言葉に息を呑む。


「周りくどいのは嫌いだ。アルトは……、いやお前と深緑は、謀反……これも違うか。国を乗っ取り作り変えるつもりだろう」


 この場合、沈黙は肯定として捉えられる。

 とはいっても、常闇の魔術師はさしてアルトの反応を観察していなかった。

 決まりきったことを、すでに起こった過去のもののように語る。


「今日は王の命に従うフリをし、忠告しにきたと思っていたが……。私があくまでとぼけているので不安にでもなったか? しかし案ずるな。私はお前たちが望む通りに大人しくしている」


 これまでならばけして聞くことのなかった長文をつらつらと述べ、あまつさえ常闇の魔女は微笑さえ浮かべた。


「一体どこで、どこまで姫は……」


 呆然と問われた言葉には、小首を傾げてみせる。

 彼女の色となって大分経つ髪が、蝶を誘う花のように揺れていた。


「今日のアルトは新鮮だな。さっき自分であたしが分かっているはずと言ったくせに」


 不思議なのは、主立っては堅苦しいどちらかといえば男のような言葉遣いが、ふとした拍子で砕けたものになることだ。

 それは丸々一文であったり、目立たずに紛れていたりと様々だが、これは特に著しい。

 たとえるならば――そう、内側に複数の別人がいるような違和感。作っているとしか思えないわざとらしさ。

 それが兆しだと気付ける者は、はたして居るのだろうか。常闇の魔女に流れる独特で緩やかな時間が、術の開発をきっかけにふくれあがる好奇心により、とうとう心すらを巻き込み始めていた。

 尽きることのない興味により、彼女は知ろうとしていたのだ。他者を、自身を、そして全てを――

 ただ、反応の乏しいアルトに対しきょとんと目を丸くする姿だけは、ありのままの自然体に思えた。


「あたし……、私? まあとにかく、私は周囲が思っているよりも考えるのは得意だったらしい。はっきりと確信したのは、王と謁見した時だがな」

「姫の考えたことをより詳しく教えていただけますか」

「いいだろう。深緑は常々、魔術師のあり様に疑問を持っていたのだろう。アルトは現王の危うさに早くから気付き、さらには自分の今の立場に不満があった」

「不満などないですよ?」

「そうは思えないがな。王太子よりもよっぽど国を安泰へ導ける才能をもちながら、王が気まぐれに手をつけた末に側室となった後ろ盾のない母親を持つ、厄介払いをされた王子?」


 アルトがぎくりと身体を強張らせた。

 何故それを知っているのか。そう訴える視線は、今までになく敵愾心にあふれている。

 常闇の魔女は平然とそ知らぬふりをし、思い出したかのように腰を落とした。

 近くなったはずのお互いの距離は、実際とは違い遠く離れている。

 警戒と余裕の相反する空気がそこにはあった。


「国に同胞が集まって来ているらしいじゃないか。都合の良い風が吹いたものだ。しかし、深緑も矛盾な行動を取る」

「矛盾?」

「同胞を救うつもりで積極的に争いを起こし、その結果迫害を受けて犠牲となった者がどれだけいるんだろうな」

「全ては未来へと繋ぐためです」

「分かっている。これはやむを得ない犠牲で、代償で、アルトも深緑と理念が通じているから手を組んだ。けれどこの場合、その他大勢に含まれる私から言わせれば、――誰も望んでなどいないよ」

 

 それも当然分かっているだろうと言った態度を、アルトが鼻で笑う。


「群集というものはいつだってそうですよ。少しでも不満が上回れば、やれ傲慢だそんなことは必要ないと文句ばかりを垂れ、恩恵を受ければすぐに手のひらを返す。何かを為す過程で、努力や苦労は避けられないものだというのに」

「いやいや、そんな平民への愚痴はどうでも良い。私が言いたいのは、アルトが分かっていないということだ」

「分かっていない……?」


 けれど、どうやら話はいささか食い違っていたようだ。

 それに気付いた常闇の魔女が宥めるように首を振り、言葉を探しあぐねながら頷いた。


「そう、根本的な勘違い。認識のな」

「自慢ではないですが、この国で私以上にあなた方を理解している者はいないと思います」


 納得出来ないと眉を顰めるのも無理からぬことだろう。

 アルトは誰よりも常闇の魔女や深緑の魔術師と付き合いがあり、なおかつ彼は幼馴染が魔術師だと分かったのをきっかけに存在そのものについての研究もしていた。

 それを常闇の魔女も知っているが、彼女はそれでも否定する。視線を窓の外へと飛ばしながら。


「これはまあ、忠告として受け取っておけばいい。魔術師の中に私や深緑を含めることは、後に大きな選択の過ちに繋がるぞ」

「まさか、あり得ない」

「アルトにとっては、最も身近な魔術師が深緑だったのだろうが、あいつが普通でないことをおまえはもっと認めるべきだ」

「なにを馬鹿なことを。たしかに彼の力は常識外れなのでしょうが、それ以外では他の魔術師であっても普通の人より偏っているというだけで、笑いもすれば涙も流す。そもそも非常識を姫が語れますか?」


 しかし、気まぐれが起こした言動が届くことはなく、むしろ倍返しとなって戻ってきた。

 そう言われてしまえば、常闇の魔女は苦笑するしかない。

 「語れないな」と言ったときの彼女には、コーヒーに溶けた僅かな砂糖のようなほのかさがあり、どこか寂しげに見える。


「……まあ、とにかく大人しくしているから。そろそろ戻らないと怪しまれるぞ。王にはいつもと同じでこれといった反応を見せなかったとでも言っておけ」

「それでは鎖の誤魔化しがききませんよ」

「これは後で術の開発に失敗した反動とでもしておく」


 だが、これ以上は言及するつもりがないのか、今度こそアルトを追い出しにかかり、彼も渋々ながら従った。

 しかし、今までこれといって問題なく関係が続いてこれたのは、ひとえに常闇の魔女がわずらわしさを感じなかったからである。

 去って行く背中を彼女は静かに見送り、ゆっくりとまぶたを落としながら指を鳴らした。


「…………あら?」


 その音を合図に気絶していた侍女が目を覚ますが、それでも瞳は閉じたままだ。

 侍女はどうやらアルトが来ている間、自分が立ったまま居眠りをしてしまっていたと思っているらしく、仕出かした失態に青ざめていた。

 慌てて常闇の魔女の様子に異変はないか確認し、枷が無くなっていることに気付く。


「ま、魔女様!」


 呼び声は悲鳴とたいして変わらなかった。

 だが、通常ならば命の危険があると分かっているにもかかわらず駆け寄る姿は、さすが魔女の侍女に宛がわれるだけのことがある。


「おみ足をどうなさいましたか!」

「……失敗した」

「は?」

「術。たった今だ、気付かなかった?」


 そして、めずらしくすんなりと返って来た答えで、慌てて衛兵を呼びにその場から居なくなる。

 さして効力のある枷ではないとはいえ、王による下命である限りは維持しなくてはならない。

 どれだけ焦ろうとも品を失わない足音を聞きつつ、一人きりとなったところでガーネットが光の中へと舞い戻った。

 頬には薄い笑みを携え、かすかな衣擦れの音を奏で、寝台で扇のように広がっていた髪を揺らし窓辺へ歩く。

 常闇の魔女はガラスに手を伸ばすと力を加えて押し、さわやかな風を室内が散らかるのもいとわず招き入れて言った。

 

「さて、色々と飽きてきた頃だし、大人しくあたしは去るとしよう」


 まるで近場へ買い物にでも行くかのように軽い声。

 だが、その内容は下手をしなくとも国を揺らすことだろう。

 容易に察していながら、それでも常闇の魔女は畏怖される魔女らしく気にも留めず、鳥籠からはるか下の地上を眺め、振り返って空を背に部屋を見渡す。


「ここでこれだけ広いのだ、世界はいったいどれだけなのか」


 楽しみでたまらないと翼を持たない鳥が囀り、そしてその夜、誰よりも美しく希代な魔女は忽然と姿を消した。

 本人は大人しくしたつもりでも、もちろんこれによりさらなる混乱が世を支配する。

 だが、すぐさま王の命令により多くの者が唯一無二な宝を探すも、羽の一枚すら見つけることはできなかった――







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