託された想い、託した心
別れは時として、残酷なほどあっけなく訪れる。
当日の明け方、ディーバがファルサたちの元へ戻った時、決戦の数時間前にも関わらず場は静まり返っていた。
だというのに向けられる視線は殺伐としており、明らかな違和感を覚えながら足は迷うことなく一つの天幕へと向かう。
嫌な予感がしなかったわけではない。しかし、それが不安だと気付けないまま、ディーバは鼻を使って入口の布をずらし奥へ入ろうとした。
「……神獣じゃなかったのかよ」
「なんで今頃!」
「平然としやがって……!」
その背中へ怒りが吐き捨てられた。
それは天幕の中でも同じで、一斉に向けられたいくつもの視線が先制した。
「どこ行ってやがった!」
出迎えの一声は、顔を真っ赤に目には涙をため、普段の倍以上険しい顔をしたロキから放たれた。
彼は今にも喰らいつきそうな気迫で、大柄な仲間に押さえ込まれて身体を浮かす。
ディーバは一瞬だけ不快感を表し、すぐに視線を外すと周囲を見回した。
人が密集しており狭かったが、高さがあったおかげでなんとか入口近くで腰を落とせた。
中心メンバー全員が集っていた。それだけでそういうことかと理解してしまう。
ただ、この状況で最も冷静でいられないはずの人物が不気味なほど静かだった。一番奥の簡易ベッドが置かれている前で、彼は膝をついて背中を丸め呼吸だけを繰り返している。
他の連中は、ロキを止めこそすれ、外と同じで視線は怒りで満ちていた。ほんの微か、独り言として非難の言葉が部屋を満たす。
それでもディーバが見つめる背中は反応することなく、ベッドに横たわる者の手を握っていた。
「何で! 何でもっと早く戻って来なかったんだよ……!」
幼さが抜けない声だけは誰も止めない。
ロキは尚も暴れながら続け様に叫んだ。
「お前がどこかに行ってさえいなけりゃ、こんなことにはならなかったのに! 神獣のくせになにやってんだよ!」
けれど、それがディーバに突き刺さることはない。ガーネットの瞳は相も変わらず耀かしさを保ち微塵も揺らがず、呼吸も動悸も何一つとして乱れなかった。
その一方で、これまでとは違う行動をみせる。
ディーバはゆっくりと口を開き、それによって周囲が警戒を見せた中で平然と喉を震わせた。
「何ガあっタ?」
陣を使わず発語したことを驚かずにいられたのは、中心メンバーではゾルダンのみ。この状況では反発を助長するだけだった。
とうとうロキ以外でもあからさまに武器を抜き、ディーバへ狙いを定める者が出た。冷静で無表情が常であるワカナでさえ、この時ばかりは唇から血を滲ませながら鋭い睨みを放っている。
「何があっただと!? てめぇが殺したようなもんだろうが!」
両手剣を構えた大柄な者が怒鳴った。それでも切りかかりまではせず、激情に呑まれたわけではないらしい。
それはどこか悲しみをぶつけたいだけにも見えた。そのような醜態をさらしても、目の前に自身への言い訳が可能な相手がいるが故に。
ディーバは彼へ常と変わらず無関心な目を向けた。
「貴様にハ聞いてイない」
「ふざけんな!」
もはやその怒声が誰から発せられたのか分からない。周囲がそれぞれで口汚い台詞を、神獣として頼りにしていた者へと浴びせる。
そんな中でも、弱々しくなってしまった背中だけは微動だにしないままで、ディーバは小さなため息を吐いて、その視線をゆっくりとこの場を収める適任者へ移動させた。
「ゾルダン」
「分かってる」
いつものへらへらとしたまぬけ面は鳴りを潜め、名を呼ばれたゾルダンは渋い表情で頷いた。
そして、とりあえず最も騒がしいロキの襟首を掴むと、全体に対して厳しく告げる。
「出るぞ」
「な――!? ふざけんなよ、くそじじい! 二人っきりにさせられるわけがないだろ!」
当然ながらそれを甘んじて受け入れる者はいなかった。
しかしゾルダンは、容赦のない拳骨をロキの頭に落とし、静かなる怒りを携えて仲間全員を睨みつける。抑えきれなかった力が奔流して、彼の身体からは光の粉が舞っていた。
「一番悲しい奴がやるべきことをやったんだ。んで、それに対して俺たちはディーをただ責めるだけってか。違うだろうが!」
痛みで呻いていたロキだけでなく、全員が息を呑む。
たった一度の怒鳴りが、仲間の目に冷静さを呼び戻した。
ゾルダンは懐から煙草を取り出すと、火がないことに気付き舌打ちをして、指に挟んだままで再び口を開いた。
「別れは済んだ。いくぞ」
そして、顎で外を示す。
すると、腕を乱暴に払いながらもロキが渋々頷き、一番最初に足を踏み出した。去り際、ディーバを睨み付けるのだけは忘れなかったが。
それに続き次々と居なくなっていく中、非を認め謝罪したのはワカナのみ。ディーバはその謝罪を聞かなかったことにした。
「悪かったな、ディー。ここは頼んだぞ」
「やルべきことヲさっさとヤれ」
ゾルダンからのものも然り。
けれどディーバは、彼の顔の前へ小さな炎を作り出し笑っていた。
「……ありがとな」
「行ケ」
ゾルダンは一瞬驚いた様子を見せ、次には大人気なくも泣きそうに顔を歪ませながら煙草に火を点ける。
絞り出した謝意の中身は問わない。ディーバが追い出した時にはもう、彼は普段通りの腑抜けた顔へと戻っていた。
そして、天幕の中は静まり返った。
ディーバは、依然として動かない背中を数秒眺めてから、太く逞しい足を前へと出す。
一歩、二歩――増えるごとに姿が変わる。
すぐ後ろに辿り着いたのは、ベッドに横たわる者へ無表情で目を向ける美女だった。
血の通った唇が、繰り返すことは嫌いにもかかわらずもう一度だけ同じ言葉を吐く。
「何があった? ――レックス」
やはり感情は込められていない。
けれど、常になく女性的なやんわりとした口振りで、足元の者の肩を跳ねさせることに成功する。
「ディーバ……?」
「ああ、ディーバだ」
のろのろと顔が上がっていくのを、ディーバは黙って待った。振り返る際に揺れた髪の束を無意識に追う。
やっと己を認識した水色の瞳を見返せば、レックスが無様な笑みを浮かべて頷く姿が映る。
そのせいで、腕を組んで首を傾げていたところに、上がった片眉が加わった。
「良かったね、ファルサ。ディーバが来たよ」
レックスはやおら立ち上がると、ずっと繋いでいた手はそのまま、二度と目覚めることのなくなった家族へ囁いた。
血を浴びたせいでそうなったのではとからかっていた赤混じりの金髪がくすんで見える。陽に焼けて健康的だった肌も、弓にも剣にもなる重い武器を自由に振り回していた腕も、数日前よりどこか萎びてしまったかのようだ。
敵へは威圧感を与えていた生気に満ち溢れていた瞳はもうない。
ディーバが気に入り、戦神の申し子とまで称されていた男は、そうして静かに死んでいた。彼女をこの場に引き込んだ元凶でありながら、こんな予想外なタイミングで。
それなりに時間が経っているのか身形が整えられているため、どんな死に様だったのかも分からなかった。
レックスは胸の上に冷たくなってしまった手を戻し、ディーバへと場所を譲る。
けれど、彼女は説明を求め彼を見た。
仕方がないなあ。常日頃ならそんな心情を映しているであろう顔は、さすがに今回ばかりは弱々しい。
レックスは視線を落としながら告げた。
「……昨日の朝から姿が見えなくなって、昼過ぎだった。王都で潜伏している仲間がね、ファルサが裏切ったなんて馬鹿げた報告を命掛けで持ってきたんだ」
「馬鹿者が」
それだけでディーバは全てを察したのだろう。乱暴な足取りでレックスの隣に立つと、とてつもなく冷たい瞳でファルサを見下ろす。
レックスには防御の加護を与えていた。それを道しるべとして、ファルサには万が一に備え転移と、丸腰であってもそれを使えるだけの時間が作れるよう、簡単な攻撃手段となる加護があった。
どれも一度きりであり、ファルサに至っては彼がスペルマスターだからこそ用いれたもの。
与えた張本人だからこそ、それを利用したということが容易に推測できた。
「それで?」
動いたことで話を中断したレックスを促せば、複雑な表情で再び説明を始める。
彼は、隣で組まれた腕がわずかながら震えていることに気付いていた。
「もちろん俺は、そんなこと信じなかった。他ならともかくファルサだからね。それに、報せが届いて二十分後ぐらいしてから、目の前に血塗れのファルサが現れたし」
「大方、例の兵器を理由に寝返りを持ちかけられたのだろう? これまでも散々、接触を図られていたからな」
「うん。意識がある内に話してもらった。身動きが取れない状態でレグルスと対面して、ディーバの加護を使ったそうだよ」
ディーバが重いため息を吐いた。
そんなことの為に与えていたわけではないと、そう言っているかのようだ。
けれど、いくら望まぬ使い方だったとしてもそれを決めるのは本人であり、だからディーバもこの時はまだ怒りを抱いていなかった。
それどころか、やはり面白い奴だとさえ思っていた。
「刺し違えたのだな」
「それが……」
けれど、レックスが言葉を濁したことで、一気に表情が変わった。
細く流れる眉が中心に寄り、ただでさえきつい目が最大限つり上がる。
組まれていた腕がゆっくりと解かれた。
「貴様は竜の加護を利用しておきながら失態を演じたのか!」
そして、空気を震わせる怒鳴り声が響いた。
なまじ綺麗な声をしているせいで、それは外までしっかりと届き、誰かが慌てて中へ入ってこようとする。
それをディーバが振り返らないまま片手を翳し、魔術によって防いだ。
人の姿を取る時はいつだって注意深かったというのに、今日は防音も何もされていなかったのだ。そんな抜かりはあり得ないと言っても良い。
だからレックスは、亡骸の胸倉を掴んで揺さぶる行いを、どうしようもなく嬉しく思ってしまった。
誰がどう言おうとその言葉には哀惜が込められている。自分と同じようにファルサという男の強さを信じ、こんなところで終わるような者ではないと認めていた。
(ファルサはやっぱり凄いなあ)
レックスの頬を、看取ってから一度たりとも気配のなかった涙が伝う。それは慟哭とは程遠かったけれど、まるでせせらぎのように音もなく流れていく。
悲しかった。それでいて誇らしい。ディーバが来てくれたことで、あるいは受け入れられなかったかもしれない兄の死が現実なのだと、自分の中へゆるやかに落ちていった気がした。
これまでに培った矜持が、まずなによりも反乱軍のための指示をさせてくれたとはいえ、正直その後から今までの記憶はほとんど無い。
しかし、それも落ち着いた。
「レックスは責めないのか?」
泣きながらも不思議と笑っていたレックスへ、縮むように怒りを治めたディーバが問う。
彼女は、流れる涙に気付きファルサを揺さぶっていた手を離すと、どうしたら良いか分からないのかそのまま彷徨わせ、結局からだの横に力なく垂らした。
その姿は迷子のようで、溢れる悲しみを少しだけ癒してくれる。
「なぜ笑う」
「なんでだろう」
答えないまま、乱れてしまったファルサの身形を直す。
いたるところに涙が落ちていった。ほんの少し流れているだけのくせして、小さな雫は止まらない。
「笑うな」
「そう言われても、悲しいけど嬉しくもあるから。でも……、だったらさ」
相変わらずふてぶてしい物言いは、どこか困惑しているようでもある。
もしかすればこんな――誰かの死を悼む経験をしたことがないのかもしれないと、そう思ったレックスの予想は正しかった。
それでも精一杯、ディーバは気遣ってくれているのだろう。だから、態勢を戻して頼んでみる。
「背中、借りてもいいかな」
「そこは胸ではないのか?」
「だってディーバのは凶器だから」
「誰がそんなことを言ったんだ……」
「ファルサに決まってるでしょ」
どちらともなく不完全な苦笑を披露し、ディーバが仕方ないといった様子で後ろを向いた。
レックスは、艶やかな黒髪の中に顔を埋め、抱きしめるように肩へと腕を回す。華奢で小さかったけれど、それがこの世の誰よりも信頼し、目指していた大切な家族の隣を立っていた背中だった。
「もっと背が高いと思ってた。同じくらいだったんだね」
ディーバからは、木々から漂う澄んだ香りをもっと神聖にしたような匂いがし、だからではないが涙が堰を切ることはなかった。
声だけが弱々しく震えている。
「レックスからの責めならば受け入れよう。ディーバは約束を守れなかった」
けれど、ディーバは慰めの言葉を持っていない。その行為自体を知らない。
それでも、悲しい痛みのせいで熱の生じた息を首元に感じながら、かろうじて聞き取れる大きさで彼女は囁いた。
戦えない自分の代わりに頼むと言われ、頷いたことで紡がれた約束が破れたことを理解した時、本当は面倒だと思いたかった。なのにどうしてか悔しさを感じ、自分でもらしくない台詞が口を出る。
「そんなことはしないよ。ディーバを責めたら、俺は自分を殺したくなる」
「ならするな。そのかわり、今回だけはレックスの後悔もこの背中で負ってやる」
そして、否定してくれたことにも、少なからず安堵した。
ファルサを抜きにレックスもそれなりに気に入っているのは確かだが、彼に対してはまさしく情が移っていたのだと今さら気がつく。
やはりこの一年は濃密で濃厚で、新鮮だ。ディーバはひっそりと口元をゆるめた。
「…………気付けなかった」
「何をだ?」
「ファルサがこんな勝手をするのを。演技なんてできないはずなのに、俺、決戦のことで一杯一杯で」
「当たり前だ。悔やむことは何もない」
「でも――――――!」
レックスが震えを強めながら絞りだすように語り、気持ちの表れか腕にも力がこもる。
ディーバは、彼をそのままファルサの方向へ身体を動かし、溺れかけのただの青年に不可視の手を差し伸べた。
とはいえ、本人はそうしているつもりがない。自分が分かっていて、相手が本当に気付くべき事実を教えただけだ。
「たとえディーバがその夜居たとしても、気付けやしなかったはずだ。こいつには、そんなつもりがなかったのだろうからな」
「そんなつもり?」
「死ぬつもりが毛頭なかったから、微塵も懸念しなかったから、誰にも言わず悟られず、しでかすことができたのだ」
一歩間違えばただの自惚れにしかならないであろう心意気。考えなしな無鉄砲さ。なのにどうしてか、それをファルサは強さに変えていた。
「馬鹿だなあ」レックスは泣き笑う。
悲しみだけが心にあれば良かった。けれど、ディーバの言葉の一つ一つに、喜びがあり悔しさがあり――立ち止まれない。
「レックスとてそうだったのだろう? ディーバと出会うきっかけとなったあの作戦も、ファルサならば無茶でも必ず帰って来ると疑わなかった。だから実行したのではないのか?」
「ほんと、馬鹿だよ……」
「ああ、お前たち兄弟は大馬鹿者だ。でなければ反乱などしでかせやしない。だが――」
レックスの手にディーバが手を重ねた。顎が引いた感覚がし、甲を吐息が撫でる。
ディーバが俯くなど、本当ならして欲しくない。
しかし、本人はきっと無意識にやっているのだろう。少しの間を置いて絞りだされた声がどれだけもろかったかも、きっと気付いていまい。
「忘れていた。どんなに馬鹿でも、死ぬ時は死ぬのだな……」
「っ――――――!」
「まったく。ファルサは竜を驚かす天才だ」
「ほんと、だね……」
「それでいて、戦神の申し子と周囲には恐れられながら、その実は大地の神の申し子らしい死に方だったのやもしれん。それも結局、名に負けてしまったが」
思わず力を強めてしまったレックスの腕の中で、ディーバは諦めたように眉を下げていた。
膝をゆっくりと折り二人一緒に跪くと、片手はレックスの手に置いたまま、ファルサの頬に指を這わす。
そこには先ほどの水滴がまだ残されていて、抓りたい気分で少し乱暴に拭ってやった。
その間でレックスが、聞き捨てならない言葉をなんとか把握していた。
背中でそれを感じたのか、ディーバが尋ねられる前に白状するも、したり顔はファルサに向けられている。
「大地の神は、献身と自己犠牲をこよなく愛する。ファルサの動物に好かれる体質は、レックスを拾って以降得たものではないか?」
「そういえば、そんなこと言ってたかも」
「逆に戦神は単一の力のみを重視するが、ファルサの真価はレックスありきのものだ。それにディーバは、あの悪神を知っているからな。まあ、申し子と言っても何かを与えられるわけではないから、どの神であろうがどうでも良いと今まで言っていなかった」
驚く気力のなかった代わりに、涙が引っ込んでしまう。髪から顔を離せば、触れていた部分は広く浅く濡れていた。
まだ離れなくとも、許してくれるだろうか。レックスは尋ねず、置かれたままな手を勝手に答えとした。
「名に負けたってのは?」
「そうだな、こうなってしまっては教えても構わないだろう。ファルサとは偽りを意味する」
「……そっか。じゃあ俺が、この後を引き継いでちゃんと成し遂げたら、それを調和できるね」
「言うではないか。せいぜい不甲斐ない兄の尻拭いをしてやれ」
目の前に現実が眠っているというのに、二人共が渋面を作って居心地悪そうに立っているファルサを傍らに感じた。
――悪かったって。お前ら二人が結託したら、俺が太刀打ちできるわけないって分かってるだろ。
そう言っている気がする。
だからもう大丈夫。レックスはやっと腕を緩められそうだった。
力を抜き、そっと動かす。
「なあ、レックス」
それをディーバが止めた。
添えられていただけの手が力強く引き止めてきて、小刻みに震えている。
「どうしたの?」
問いかけても、しばらく無言が続いた。
心配になりレックスが顔を覗きこもうとした時、ディーバが振り返り、何かを言いかけて唇をきつく結んだ。
ガーネットが戸惑いを映していた。気遣いと望みの狭間で揺れている。
なにが言いたいのか、なんとなくだが分かった。
だからレックスは心から笑い、頷く。あからさまに言葉で大丈夫だと伝えれば、きっとこの竜はなんでもないと言うだろうから。
彼はもう、ディーバに止められるような曖昧な表情は浮かべていなかった。
「……………………か?」
「ん?」
最初はあまりに小さすぎて聞き取れなかったが、そのくせ他者を魅了する瞳だけは真っ直ぐにレックスを射抜く。
ディーバは意を決した様子をあまり垣間見せずに言った。
「ファルサをくれ」
「いいよ」
しかし、躊躇なく即答されたことで瞠目することになる。
気高さが一転、幼ささえ感じる可愛らしさを見せられ、レックスはさらに笑みを強くした。
もちろん彼は意味を分かって頷いている。この竜が欲するとは即ち、食うことに直結する。それが分からないほど浅い付き合いはしてこなかったつもりだ。
ファルサだけは食べたくないと何度も口にしていたディーバ。いつかは死体が好きではないとも言っていた。白黒はっきりしているそんな彼女が、それを超えて欲するということは、相当の何かがなくてはならない。
(それだけファルサが好きだったんだよね)
ならば、ただ土の下で朽ちていくより何倍も、ファルサにとってもそれは喜ばしいことだとレックスは思う。
「いい、のか? しかし……」
「ディーバの中で生きていけるのなら本人もきっと喜ぶよ」
「死は死でしかないぞ」
「そうだね。でも、消えることではないんだよきっと。俺の中でもファルサは生き続けるんだ」
ディーバは、常闇の魔女として生きていた時代から、とても孤独に歩んでいた。だから余計にレックスの言葉が理解できないといった様子で、眉間に皺を寄せている。
残念でならない。もっともっと、ファルサと過ごせていたならば、彼女もそういったものを学べただろう。
たったの一年。不老に近い竜からすれば、瞬きのようにあっという間だ。
それならばレックスが教えてやれば良いはずだが、彼は自身の未熟さでは無理だと分かっていた。魂で竜の心を掴んだファルサとは違い、情を移されたただけの差は大きい。
「今は分からなくても、いつかきっと。とにかく、もっと沢山ファルサと一緒にいて欲しいと思うから、だからいいよ」
「この一年はけして短くなかったぞ?」
「それは嬉しいね。それで、俺はこの場に居ない方がいいかな?」
「できれば。見ていてあまり気持ちの良いものではない」
「分かった」
レックスは今度こそ、ディーバから腕を離した。
そして、ファルサと最後の別れを済ませる。
そろそろ開戦間近だ。指示だけはしっかりしていたので手筈は整っている頃合ではあるが、下がりきった士気をどうにか持ち直させなければならない。
「絶対に無駄にはしない。ただ俺、相当頭きてるから、どうせなら成仏なんかせずに全部を見届けてよね。んで、俺が寿命を迎えるのを待って怒られて」
「…………ディーバでさえ、本気のレックスに叱られたくないと思う」
「だってさ。せいぜい震えてればいいよ」
軽く額を叩いてやれば、どことなく無念そうだった表情が固く強張ったように見え、レックスは声をあげて笑いながら外へと出た。
死体を眺め続けるよりも、記憶の中で生きるファルサを思い返す方が、よっぽど勇気と力をもらえる。
そんな彼の背中へ、どこかの竜が不釣合いな言葉を小さく呟いた気がしたけれど、振り返ったり問い返すことはなかった。
天幕の外では、多くの仲間が悲壮感を漂わせながら心配そうに整列しており、レックスが無事な姿を現したことで安堵している。
「レグルスは瀕死の重傷を負っている。ファルサが作ったこの好機、無駄にすることは許さない!」
張り上げた声は、青天の下で不思議なほどよく響いた。
「今日という日を、必ずや新たな歴史の始まりにすると誓え!」
そうして、天幕の中での音は全て雄叫びによってかき消された。
レックスが身支度を整える為に戻った際も、食事の痕跡は血の一滴に至るまで残されておらず、ファルサの身に纏っていた服だけが、地面に腰を下ろすディーバの周囲にまるで抜け殻のように散らばってた。
レックスは、その時の光景を一生忘れないだろう。醸し出された空気も、美しい声も、何一つ霞むことなく死ぬまで持ち続けようと思った。
布に遮られながらも顔を上げて空を見上げる竜の背中は、一人の不器用な女となんら変わらない。
気配に気付くことなくファルサのペンダントを握り締め、彼女は静々と呟いていた。
「なあ、ファルサ……。お前があまりに不味すぎるせいで、ディーバの胸は焼けるどころか張り裂けそうだ」
慌てて口元を押さえ、一気に襲いかかってきた感情の激流を耐える。
横から僅かに垣間見えた淡く儚い口元のほころび。それがディーバの涙なのだとレックスは思う。
もし自分が女であれば、ファルサの弟だけでいられたなら、彼女の分まで泣けたのかもしれない。
苦しすぎてレックスも胸が痛かった。ディーバが気付き、いつもの表情に一瞬で戻ったことでなおさら増した。
彼女は、服を集め空となった寝台の上に置くと、先ほどの憂いは微塵も見せずレックスの前に立つ。
「レックスはディーバの我侭を受け入れてくれたな。だから止める権利をやろう」
声だって傲慢で尊大に戻っている。
急ぎ用意を済ませなければならないレックスは、深呼吸をして心を静め、頷いて先を促す。
ディーバの纏う空気が鋭くなったことに違和感がする。これまでにない特大な発言が出る予感がして身構えた。
「これからディーバは口直しをするつもりだ」
「それって、まさか…………!」
「しかし、どんな極上の味でさえ、この後味の悪さは消せないだろう。だから量で誤魔化そうと思っている」
そうであっても、組もうとしていたディーバの腕を咄嗟に掴んでしまった。
本気なのか目で訴えれば、愚問だと馬鹿にされてしまう。
「それに、ディーバも怒っているのだ。だというのに、それをぶつける相手はもういない。ならば別の形で発散せざるを得ないだろう?」
「でもレグルスは、死んではいないけど重傷だ」
「お前が思っている以上に、ファルサは本当に不味かった。ただでさえ腹立たしい上にそれだ。この鬱憤を晴らすには、あのような小さき王一人では到底足りん」
察したつもりだったが、どうやら何かが違うらしい。
どういうことかと問うレックスに、ぎりぎりまで顔を近づけてきたディーバは、これまでにない威圧感があり、本能的に怯んで息を呑んだ。
目の前で牙が光る。ファルサの身に刺さったであろう、鋭い牙が。
(なんて置き土産を……、ファルサの馬鹿)
自分が腕を掴んでいるはずが、掴まれていると錯覚するほどだった。
ただ、猟奇的になった竜の一言が、王な自分を呼び戻す。
「――――王都をもらうぞ」
「なんだって?」
お互いの低くなった声が混ざり、釣り合いを求めて飛散する。
ディーバが軽く肩を竦めた。
「だから言ったであろう? 止める権利をやると。レックスが是と言ったなら、念願はまず間違いなく達成されるだろう。約束しても構わん。だが、ディーバとて、今まで反乱軍と行動してきたからな。そんなことをすれば、今日を迎えるまでの努力や覚悟、犠牲、様々なものが中途半端に残ってしまう可能性があることも理解しているつもりだ」
「ねえ、ディーバ……」
「それにだ。今ここでディーバが派手に動けば、何故もっと早くにと非難が集中するかもしれん」
「待って! ディーバはまさか竜になるつもり!?」
矢継ぎ早に告げられる言葉をなんとか止め、レックスが詰め寄った。
今現在、王都に居る者のほとんどは、女であっても軍人ばかり。非戦闘員のほとんどは、後方支援を抜いて戦闘の邪魔になるからと避難がされている。
だとしても、その数は最終決戦ともあって少なくはない。それだけを食べるとなれば、大狼であっても無理な量だということぐらい、誰にだって分かることだ。おのずとディーバがやろうとしていることを悟った。
彼女は頷きはしなかったが、否定もしない。ただただ不敵な面構えでレックスを見つめる。
本気なのだと認める以外を許されなかった。
ファルサの死が、そこまでディーバを突き動かしたのだ。
レックスは掴んでいた腕を離し、寝台に寂しく残されたペンダントを手に取る。
そして、それをディーバの首に飾りながら覚悟を決め、選択をした。
「反乱軍の連中で、一体どれだけが最初から武器の持ち方を知っていたか。俺がどれだけの回数、使い捨てで構わないって言われたと思う? みんな、その代わり家族が安心して過ごせるようにしてくれって笑顔で頼むんだ。そして、死んでいく」
「それが目指した場所へと通ずる道だろう」
「分かってるつもりだよ。だけどね、それなのに俺はまだ戦えないんだ。ファルサどころか、大して銃も剣も使えない者の背中に隠れてる。勝たなければ何も始まらない」
魂を太陽として透き通る空色の瞳が、多くの感情を携え細まった。
ディーバは、胸元で重さを感じさせるペンダントを手に、レックスと対峙する。
次に続く言葉を待った。
「だから止めない。一人でも多く生きてもらえる選択があるのなら、俺はディーバが食べたくなるほど美味くなっても良い」
「そうか」
「うん。あの王都はアデュイオンのものだ。だから君にあげるよ」
それを聞き、ディーバはレックスの肩を軽く叩くと、颯爽と外へ歩み出した。
迷いや躊躇は微塵もない。姿も変えようとしなかった。
彼女が布を払って太陽の下へ姿を晒せば案の定、見覚えのない女がレックスの天幕から現れたことで場が騒然とする。牽制と安否を気遣う怒鳴り声が響いた。
「ディーバ!」
その背を追いレックスが現れる。彼がその名口にすれば、誰もが唖然として固まった。
呼び声に振り返ったディーバを光が飾る。
「ファルサはうわ言で、ずっとディーバを呼んでた。俺じゃなくてディーバを……!」
「それは悪いことをしたな」
「違う、そんなことを言いたいんじゃない!」
本当は内容が内容なので、伝えたくはなかった遺言。でも、この美しくも儚い竜をまた一人にしてしまわない為なら、恥ずかしさや不甲斐なさはどうでもいい。
レックスは激しく首を振り、徐々に身体が変化していく様を見つめながら叫ぶ。
「頼んだ、って! それが君に宛てられたファルサの最後の言葉だから!」
「……そうか」
「だから、…………忘れないで」
ディーバのことだ。これから先しばらくは、レックスの前に姿を見せないだろう。時間の感覚が違うせいで、それがどれだけ長くなってしまうか分からない。
鳥の足に変わったそれで、ディーバはレックスに近寄ると、彼の手に何やら一枚の紙切れを渡した。
「いくらか落ち着いたら、信用できる者を記された場所に遣わせ」
「え……?」
「調和の王よ、お前は兄以外でも得がたき仲間を手にしている。だから絶対に離すなよ。特にゾルダンとワカナ、ロキを逃すな」
近くに居た三人が、本気で驚いた様子を見せていた。
ロキなど名が挙がるとは思っていなかったのだろう。いつもの仏頂面はどこへやら、ポカンと呆けている。
「この際だ、しっかりディーバのことを説明してやれ」
そしてディーバは、ファルサと似た仕草でレックスの頭を撫でた。その腕は、茶色の大きい羽根を生やし、五本の指ではないものになっていた。
すぐに頭も変化し、狼にも引けを取らない巨大な鷲となる。
彼女はニ、三度その場で羽ばたき、空へと舞った。
「さア、しっかリと見テおけヨ。お前たチは、歴史の証人となルのだからな」
甲高い鳴き声が響き渡り、余韻を残しながらガーネットの瞳をした大鷲が滑るように空を飛ぶ。
その姿は王都の上で忽然と姿を消し、しばらくは何事もないまま時間が過ぎた。
説明を求める無数の視線にレックスは苛まれたが、彼は見ていれば分かると一言だけ口にし、王都だけを見続ける。
そして、焼きつけた。とうとう現れたその雄姿を。
ただでさえ静まり返っていた場は、王都に突然影を作り出した物を目撃し絶句した。
それなりに距離があるにも関わらずはっきりと確認ができたソレは、巨大な全身を鮮やかなガーネットで輝かせており、羽ばたくごとに建物が崩れているのか砂埃が舞い始める。
少し遅れて悲鳴のような音が聞こえ始めた。人もそうだが、まるで王都そのものが上げているような絶叫が空気を震わせる。
ソレが持つ鉤爪が掴むだけで、権力の象徴でもある城があっけなく崩れ落ちていった。
「竜…………? 竜だよなあれ!」
「嘘だろ」
「まじかよ…………」
王都を取り囲む反乱軍たちは、初めは驚愕を、そして徐々に歓声を起こしながら全てを見届ける。
そんな中でレックスは、ただただ拳を握り、このような形で得ることになった勝利を噛み締めた。
新王が全ての元凶と対面することになるのはそれから数時間後。レグルスの死体はどこかが欠けているどころか潰れてもおらず、それでいてファルサと全く同じ傷を負って息絶えていたという。
勝利と引き換えに家族を失った青年の呟きは、鳴り止まない歓声に埋もれ誰にも届くことはなかった――
導きの国アデュイオンにて、五年もの歳月をもって繰り広げられた反乱が幕を下ろした記念すべき日、そうして一匹の竜が神々の地から再臨した。
この事実は瞬く間に世界全体へと広がり、数多の歴史書に刻まれた。
日を同じくして、二人の人物もまた名を残す。
母国を滅ぼし、新たな国を築いた最初の王の名はレックス・コンコルディア=マグナ。彼は竜と盟約を結び、後に誰よりも有名な王となる。
そしてもう一人は、志半ばで戦場に散った英雄。名をファルサ。竜を神の世から呼び戻す偉業を成しえた彼は、多くの少年の憧れを一心に注がれいつまでも讃えられたそうだ。




