出会い
白銀の月が煌々と輝く深夜、くたびれた風貌の男が一人、頭上の明かりを頼りに獣道を歩いていた。
疲労を映す隈は濃く、髭も手入れされておらず、それだけを挙げれば浮浪者としか言えないが、しかし前を見据える瞳は生気に満ちて爛々としている。なにより腰に下げた二本の剣と太ももの銃が、徒人ではないことを示していた。
進路を塞ぐ自然のままに生える草木を鬱陶しげに払いながら、男は時折周囲を警戒し、どこかで獣の遠吠えが聞こえれば手が腰へと移動する。
旅人ならいざ知らず、否、そうであってもよほどの事がない限り、人の住めないこんな場所を夜に動く酔狂な輩はいないだろう。それでも彼は闇に紛れてひた進んだ。
しばらくして、方角を確認するため星を見上げる。
荒い息が整えばあたりは静まり返り、男は気を奮い立たせるかのように非常にゆっくりとまばたきをした。
「戦場の方がまだマシだな」
ポツリと零れた呟きを、空へ星を散らす三日月だけが拾う。
偉大なる魔術師から始まったとされ平和が続いていた導きの国が一転、裏切りにより軍事国家となってから約四年。その間で、緑溢れた大地では多くの血が流れてきた。
そしていつしか、他国でまでしきりに囁かれる名が幾つか存在するようになった。
一人はもちろん、温かな国を混乱に貶め、今や国の頂点に君臨する独裁者レグルス=レギオだ。彼は、凡庸ではあったが民に親しまれていた主君たる国王に反旗を翻し、長きに渡り受け継がれてきた尊き血を、幼かった姫に至るまで容赦なく絶やさんとした。
レグルスは、まるで何かに憑かれているかのように周辺諸国へ次々と戦を仕掛けた。その手腕たるや、欲に塗れてさえいなければ、さぞ声望をほしいままにしただろう。残念ながらだからこそ、その有能さが裏切りを生んだとも言えるのだが。
民はただただ、望まぬ戦火に身を焼かれるしかなかった。他国に期待を寄せようにも、今ではアデュイオン出身というだけで非難の対象となり、難民を受け入れてすらくれない。侵略先での冷酷非道な行いの数々がそうさせていた。
そんな中、二年前からレグルスを追って這い上がってきた名がある。レックス・コンコルディア=マグナ。アデュイオンに残されたただ一人の王族だった。
彼は王弟の落胤であり、国王の慈悲を受け出生を伏せた形で、とある貴族の家で使用人として働いていたため生き残ることができたのだ。
レグルスがその存在を知った時にはすでに、敵として立ち塞がっていた。
唐突に現れた反乱軍は、他国への侵攻を難しくさせるほどの実力を兼ね備えており、勢力をまたたく間に広げていく。
しかしながらその攻防は一進一退で、中々決着はつかない。
そして気付けば、両者の臣下もまた実力と共に名が知られるようになった。
中でもレックスの腹心で二人に負けず劣らず有名な者としてファルサがいる。彼こそが現在単身で闇夜を掛ける男だ。反乱軍にて、ファルサが立つ場所に勝利ありと言われるほど、レックスに引けを取らない信頼を集めている。
そんな人物がなぜ、このような場所にいるのか。幸いにして敗走しているわけではない。彼は不思議な特技を持っているが為、特別な任務を担っていた。
奪還できれば今後の戦況を左右するであろう、元々は塩で有名な街への潜伏。必要な情報を入手しそこから帰還する最中だった。
本来ならば、見つかれば死に直結するであろう危険な任務を、易々と重要なポストの者が請け負ったりはしない。しかしながら、今回ばかりは街の周囲が海か身を隠せない平原ということで、ファルサの特技に頼ることが最も成功率が高いと判断されたのだ。
想定通りそれは正しかった。侵入は月に一度の物資補給に紛れることで成功したが、かといって次回を待っての脱出はまず間違いなく出来ない。ファルサだからではなく、反乱軍といってもその構成のほとんどが元はただの民である。残念ながら忠義をまっとうしてレックス側についた軍人は少なく、隠密に長ける者に至ってはほぼ居ない状態だった。貴重な数人は、全員が別の場所で常に動いている。
なので一ヶ月もの潜伏はほぼ不可能で、この任務で重視されたのが逃げ足の早さ。そこでファルサが選ばれるというのも可笑しな話だが、なにせ彼はウィリデヴィアを扱うことができた。
翼を持たない竜とも呼ばれるその生き物は、陸上での最速を見事ものにしている。細長い顔が空気を裂き、緑色をした肌は滑らかで風を避け、太い二本の足で大地を蹴って素早く駆ける姿は、まるで見えない羽根で飛ぶように軽やか。足音を一切たてない。そして、短い前足と円らな瞳がとても愛嬌がある。運搬には不向きだが、こと足の早さに関してはどんな名馬であっても勝負にすらならないだろう。
だが、如何せん臆病で気難しく、背に何かを乗せるのをえらく嫌う。緊急時にはとても重宝できるというのに、主人と認めてもらえ乗りこなせる人間は各国で片手で足りるか足りないか程度。温暖な平地であればどこにでも生息しているので発見することは簡単だが、捕獲が難しいため乱用も出来ない。
そんなウィリデヴィアを扱えるだけでも十分才能と言えるだろう。しかしファルサの特技は、それに限らず多くの動物に、異常なほど好かれるということだった。
故に彼は野生のウィリデヴィアすら乗りこなせる。そうして平原を突っ走り、追っ手を撹乱させた後に振り切ったのが昼間のこと。足場の悪い森に入るところで一時の相棒とは別れた。
それから休まず夜通し歩いている。街を脱出したとはいえ周辺には村々が点在しているので、どこに敵が潜んでいるか分からない。なにより仲間の元へ、一刻も早く手に入れた情報を持ち帰りたかった。
「さすがに疲れたな。帰ったら二、三日休ませてもらうか」
ファルサはそう言って、再び進みだした。
このまま順調に行けば、あと二日もあれば本拠地へと戻れるはずだ。身形が身形なので、それまでは温かな寝床は我慢するしかない。もう少しだけ進んでから、どこか木の上で仮眠を取るか。
そんなことをつらつらと思案していたのだが、直ぐにまたしても足が止まった。
(遠吠えが消えている?)
獣道へと入り、陽が落ちてから度々聞こえていた野太い声が、さきほど方角を確認した少し前のを最後に響いていない。
それに気付いた次の瞬間、ファルサの身体を動かしたのは長年培ってきた勘だった。
「しまっ――!」
まったくなかった気配と攻撃の後に遅れて感じた殺気は、人間はもちろん野生の動物でもよほどのハンターでなければ出来ない芸当だ。
今回の獲物相手ならなおさら。にも関わらず、近くの茂みから飛び出してきた影はそれを見事にやってのけ、しかし狙いは外れた。頚動脈へと迫った牙は、咄嗟に出された腕に刺さり血を滲ませる。そのまま首を振られれば、簡単に肘から下が持っていかれるだろう。
ファルサは鞘ごと剣を抜くと、口と腕の間に素早く差し込んで敵側に押し込んだ。
すると強制的に顎が開き、貫通していた牙が肉を引き裂きながらもズルリと抜けた。
「どけ!」
「――ギャンッ!」
一瞬だけ交差した両者の視線。なぜだかファルサには、相手の方が驚いているように見えた。
いくら動物に好かれるといっても、それは敵意がないことを前提に成り立っている。向こうが餌と認識していれば通用はしないことは重々理解していた。
だからファルサも容赦なく腹に蹴りをお見舞いし、悲鳴を上げながら地面を滑った影は月明かりによってその正体を晒した。
薄汚れた茶色の毛に細い四肢、口の中に収まりきらない犬歯は、人里に降りては家畜を食い荒らして困らせるプルスの特徴そのものだ。
しかし、獲物の反撃をものともせず平気そうに起き上がった目の前のそれは、なぜかファルサそっちのけでいきなりえずくと、牙に着いた彼の血をふき取ろうとしてかなにやら前足を必死に上下させ始める。
幸い利き腕は無事だったので、すぐさま手持ちの布で止血して抜刀したが、奇妙な様子に思わずプルスを観察してしまった。
(こいつ、目の色がおかしくないか……?)
そして気付く。本来毛と同じ色であるべき瞳が、このプルスに限り鮮やかなガーネットだった。それに、さきほどの素晴らしいハンターらしさはどこへやら、子供のような鳴き声を発しながらも、その輝きには知性が感じられる。
そもそもプルスは本来群れで行動するはずだ。だというのに、周囲から仲間が出てくる様子は微塵もない。
ファルサは警戒を弱めず剣もそのまま、一歩だけプルスに近付いた。
「おい」
明らかな呼びかけ。アデュイオンでは、動物の中には人語を解するものが居ると伝えられている。まさかではあるが、笑い半分でもしやと思ったのだ。
するとプルスは、ファルサの存在を忘れていたのかハッと顔を上げ、吊りあがった細い目で彼を見た。
さらにはゆっくりとおぞましい大きな口を開く。
「お前、本当にプルスか?」
「オ前、本当ニ人間カ?」
そして、二種類の声が重なった。
その瞬間、一人と一匹は同時にその場を飛び退いて相手と距離を取る。
ファルサはまさか読みが当たっていたとは思わなかったせいでの驚きだったのだが、プルスの方は言葉を発してしまった自分が予想外だったようだ。口を両足で押さえている。やけに人間染みた動きをする。
しまった、と目が泳いでいた。その動作も含め後の祭りだ。ファルサがいくら疲れていようとも、幻聴とは思えない。
本人もそう考えたのか、それとも開き直ったのか、腰を落として両足を下ろし滑舌は悪いがしっかりとした言語を再び発した。
「不味スギテ毒カト思ッタゾ」
「……は?」
「セッカク久シ振リニ若イ餌ニアリツケルト思ッタガ、トンダ期待外レダ」
そこには憤慨がありありと込められていた。
が、ぶつけられる側からすれば、どう反応するのが正しいのか分からず困惑してしまう。まさか人生で、自分が毒と思われることがあろうとは。それを不名誉とするべきかすら判断がつきかねた。
「あー……、それでお前は一体何なんだ?」
受けた痛みはかなりのもので、抵抗した際に骨も折れてしまっている。かといって道中で安易に治療を受けるわけにもいかず、最悪片腕は諦めるしかないのならばと、ファルサはこのプルスのようでそうではない生き物に正体を尋ねてみることにした。
襲った当初はファルサを喰う気が満々だったようだが、その心配はしなくてよさそうだ。それどころかまだ口の中を気にしている。危うく自分の血を舐めて確かめたくなりながら凝視していれば、ガーネットが不自然に逸れていく。
答えを待たずして嘘は見抜けた。
「決マッテイル」
「言っておくが、そんな瞳の色をしたプルスはいないからな」
「…………ジャア、新種ノプルスッポイヤツデ良イ」
「じゃあってなんだ、じゃあって」
あまりの適当さで力が抜ける。油断して頭を抱えそうになって、ファルサは全身を走った強烈な痛みに蹲ってしまった。二つの穴が開いていて、さらに骨も折れているのだからあたり前だ。
むしろよく平然としていられたものである。謎のプルスも自分が負わせた傷を忘れていたのか、微かに零れる呻き声にギョッとして視線を戻した。
「ソウイエバ、蹴ラレタンダッタナ」
「う、っ――! こっちは、腕を、千切られかけたん……だが?」
今襲われれば太刀打ちできないが、さすがのファルサも剣を離さないのが精一杯だ。そこでの些かズレた発言には、秀麗な顔も険しくなった。
それすら意に介さず、プルスは苦しむ姿を思案顔――おそらくではあるが――で眺める。
そして諦めたかのように深いため息を吐いた。
しかもだ。ファルサもその奔放さに大して零していたので、またしても二人の行動は一致し、両者共が嫌そうな表情で無言を貫いた。似た者同士なのかもしれない。
「マア良イ。食事以外デ殺シハシナイ主義ダガ、カトイッテオ前ハ絶対食ベタクナイカラナ」
あわや再戦かと思われた空気は、より面倒くささを増した声で壊れた。そしてプルスは徐に、意識をファルサの腕の傷へと集中させる。
印象的なガーネットは月光により美しさを際立たせ、ファルサから警戒の二文字を奪った。その隙を突いてか、プルスの瞳が淡い光を帯びたように思えた瞬間、傷を囲む形で上下左右に四つの魔法陣が展開され始める。
「何を――!」
「怪我ヲ治スダケダ」
本人はあっさりと言っているが、される方は堪ったものではない。傷を治す魔術など聞いたことがなかった。
だが、四つ全てが完成すると、ファルサの常識を他所に陣はゆっくりとバラバラの方向で回転しだし、幻想的な光を発していった。
術が発動したということだ。こうなれば、後はもうされるがままになる他ない。魔術への対抗は、必要不可欠な陣が完成する前に壊すことであり、完成後の破壊はむしろ暴走に繋がることをファルサは身を持って知っている。
だから魔術師は日夜、構成力に磨きをかけるのだが、このプルスの技巧は仲間や今まで戦場で相対してきた敵と比べても常軌を逸していた。
いくら大きさが手のひら大とはいえ、四つをほぼ同じ速度で同時に展開し、しかもその陣たるや本職ではないファルサでさえまるで芸術と言ってしまいたくなる繊細さだった。
円の中で線を組み合わせて条件設定となる古代文字が数単語散らばるものが基本だが、目の前のものは全てが文字で形成されている。形もまた精巧で、まるで時計の中身に思える程。事実、その場には歯車が回るような音が響いていた。
「痛ミハ己デ耐エロ」
食い入るように見つめているところで掛かった声を合図として、ファルサの身に激痛が襲った。
呻き声すら漏らせない。傷口に指を突っ込まれてかき回され、そこからさらに骨を抜き取られるような感覚にドッと脂汗が滲み出る。
それでも患部を観察していると、驚くことに陣の回転速度が上がれば上がるほど傷が小さくなっていった。
「根性ハアルミタイダナ。クソ不味イガ」
「まだっ、言う、か」
餌にされるのも真っ平ごめんだが、かといって下手物扱いされるのも嬉しくはない。その不満をぶつければ、プルスははっきりと分かる形で笑みを浮かべた。
ただでさえ大きな口を引き上げ、くぐもった響きの声を出す。印象的な瞳は三日月の形となって怪しく光っていた。
「変ナ奴ダナ。匂イハ極上ナクセシテ」
そしてあろうことか近付いてくる。
鼻をひくつかせる姿は獣そのものだというのにどこかしこにも人間臭さがあり、ファルサは思わず後ずさった。
それは染み付いた反射的行動だった。ずっと離さずにいた右手の剣を、牽制として構える。――もちろん本来どおり両手でだ。
「な……」
絶句した。動かしてすぐ痛みを思い出し後悔したのだが、襲ってくるはずのものはなにもなかった。
慌てて確認すれば陣はいつの間にか消えていて、痕もなく完治している。残っているのは、これが現実だと示す裂けた服だけ。普通ならばあれだけの傷だ、本人は潔かったが治せたとしても以前のように動かせる可能性はとても低かった。
それをまたたく間に、激痛を代償としても〝なかったこと〟にするなど、どんな魔術師にも不可能な奇跡だ。
「おいおい、冗談だろ」
「失礼ダナ。オ前ハ軍人ダロウ?」
「戦いに身をおく者ではあるな」
「ナラ腕ガソノママ命デハナイカ。素直ニ感謝シテオケ。メンドクサイ奴ダナ」
プルスの明け透けな態度が、今のファルサにとって冷静さを与えてくれているのかもしれない。苦笑して、彼は素直に頭を下げた。
獣相手に素直に謝罪するのは、誠実だからかそれとも少し変わっているからか。本人からすれば、このプルスだからだといった理由だが、される側は変人として認識するに充分だった。
それどころかわずかに慄いている。こちらもまた感性が独特なのだろう。
ファルサは返事がこないことを気にせず剣を納める。助けてくれた相手への誠意だった。
「それで、お前は腹が空いているのか?」
「藪カラ棒ニ何ダ」
「いや、そうならさっき、良い感じに熟した果実を見つけたから」
しかし、気遣ったつもりの言葉は盛大な笑いで返される。か弱い相手ならそれだけで気絶してしまうほどの迫力だった。
なにがそんなにもおかしいのだろう。ファルサが首を傾げる前で、プルスは大袈裟に身体を地面に倒して転げながらしばらく笑い続けた。
そしておもむろに飛び起き、綺麗な姿勢で座ってファルサを見上げた。
挑戦的な目だった。
「オ前ヨリ何倍モ、アタシノ方ガ森ヲ知ッテイルノダガ?」
「それもそうか、すまん」
言われてみればそうだった。ファルサはそうしてまたしても頭を下げるのだが、プルスは対して「ヤリニクイ男ダナ」といった反応だ。
それでもファルサへ興味を持ったのか、どことなく悪戯を思いついた子供のように口元をほころばせる。
そしてなんてことないように言った。
「ソレニアタシハ果実ヲ食ベナイ」
「は? プルスは雑食だろ」
「アタシミタイナノハ居ナイッテ言ッタノハ誰ダ」
「あー……、俺だな」
ファルサが暢気に頭を掻いていられたのはここまでだ。
「じゃあ何を食うんだ?」その質問に一呼吸置いてプルスが返した言葉により、彼は反乱軍の副将たる顔へと変わる。
「――――人間」
ファルサの視線が一瞬だけ左腕へと落ちた。
プルスは家畜を襲う害獣ではあるが、人間に牙を向けることはほとんどない。元来臆病で賢く、それが身を滅ぼすことに繋がると知っているからだ。例外としては、親や仲間が傷付けられているのを助ける場合だったりと、まず自分達から攻撃をしかけたりしない。はぐれプルスであれば尚更だ。
けれどこのプルスは、確実にファルサを狙った。
しかしながら、肉だけではプルスは生きられない。
だから今度こそ、ファルサは明確な答えを求めて尋ねた。人語を解する不思議な存在へ、お前は何者かと。
「教エテヤル謂レハナイナ」
「そうだな。しかし、答えによってはお前にも利益のある話をしてやれる」
当然ながら簡単に答えを得られたりはしなかった。
とはいえ、ここであっさり引くような人間ならば、単独で敵地へ赴いたりはしない。ファルサは暗に取引を持ちかけた。プルスはそれを鼻で笑う。
「人間ノオ前ガ、人間ヲ喰ウアタシニ?」
「いけないか? 俺を軍人だと言ったお前だ、少なからず人間の暮らしを知っているはずだ」
「ソレハソウダガナ」
「お前は最初に、久し振りに若い餌にありつけると言っていたな。お前次第で、俺はそれを大量に狩る機会を与えてやれる」
ファルサの交渉によって、プルスの表情が変わった。
初めは面白そうに付き合っていた態度だったのが、怪訝のそれに変わっていく。
人間が人間をくれてやるなど、一体どんな生き方をしているのか。静かに周囲へ警戒を広げるのも当然だった。
けれど、プルスが危惧した気配は感じない。
その行動は、この生き物がこの森で人間を狩るのが初めてではないことをファルサに気付かせた。
「名ハ?」
「俺か? 俺はファルサだ」
「家名ナシカ」
「捨て子だからな」
プルスは何度もファルサの名を呟きながら彼の周囲をぐるぐると回る。全身を観察し、その体付きから纏う気配、佇まいを品定めするかのようだ。
そして唐突にハッとして、楽しそうに声を上げた。
「ソウカ! オ前ガアノ戦神ノ申シ子ト噂サレル反乱軍ノ副将カ!」
これには当のファルサが驚いた。
人間ならばまだしも、獣にまで自分の名が知られていたのだから無理はない。しかも本人としてはあまり好きではない称号だったので、余計に居心地が悪くなる。
その彼を前にして、プルスは心底おかしそうに尻尾を振っていた。
「ナルホドナァ。ケッタイナ名ダト思ッテイタガ、コウイウコトカ」
「おい…………」
「ファルサ、ファルサ……ネェ。イイ得テ妙トハ正ニコノ事」
「おい!」
知らないところで自分のことが語られているのにはとっくに慣れたファルサだったが、さすがにこうも堂々と目の前で勝手に納得されれば気分が悪い。
しかも呼びかけを無視するときた。おもわず声を荒げてしまうと、プルスはうるさいとにべもなく一蹴する。
そのくせ居住まいを正し、よりいっそう試すような視線を投げてきた。
「お前は俺の何を知っている」
「反乱軍ノ副将デ、ツイサッキ捨テ子ダト知ッタナ。ソレダケダ」
「堂々と嘘をつくな。今の態度はどう見てもそれだけじゃなかった」
「ナニ、アタシハ少シ長生キデ、ソノ分物ヲ知ッテイルダケサ」
もちろんファルサは誤魔化されてやるつもりはなかった。
だから追及しようとしたのだが、その前にプルスが口を開く。
わずかに首を傾げた姿だけは可愛らしかった。
「ソレデ、アタシノ正体ダッタナ」
「教えてくれるのか?」
「聞イテキタノハソッチダロウニ。マアソノ前ニ、取引ノ内容ヲ教エテモラオウカ」
「内容によるってわけか」
どうやら交渉の場には立ってくれるらしい。それが分かり、ファルサは改めて頭を使う。
環境のせいもありお世辞にも教養があるとはいえないが、補ってあまりある対応能力が経験によって培われ、それが数々の武勇となっている。今のファルサはプルスにとっても、ただの人間だと軽く見れるような顔つきはしていなかった。
だが、さっきまでのどこか抜けていた様子とのギャップがおかしいのか、雰囲気は暢気さを維持していた。それは格上が持つ余裕ともいえる。
「俺と共に来てくれたならば、お前の腹を常に満たしてやれる」
「ホウ……。ツマリハ内乱ニ参加シロト?」
「そうだ。指示に従えとは言わない。敵だけを喰うという約束を守ってくれるなら、だがな」
「シカシ表向キハ、オ前ヲ主人ニ振舞ワナケレバナラナイダロウ」
「そこは納得してもらうしかない」
ファルサが思っている以上に、このプルスは人間社会に精通しているらしかった。反乱という言葉も意味をしっかりと理解した上で使っている。むしろ自分以上に知性を持っている気さえした。
この取引は戯れてのものではない。こと反乱軍が関わるのだから当然なのだが、ファルサはこのプルスに言い表せない何かを感じている。それこそ運命的なものを。
反応を待っていれば、プルスはニタリと意地悪げな表情を浮かべはじめ、腰を上げると今度はからかうようにファルサの周りを回りだす。
試されているとすぐに分かった。
しかし、せっかくの構えは内容があまりに予想外で無意味と化す。
「ファルサ。ソノ名ハ己デ付ケタノカ?」
「あ、ああ……」
「ソウカ。デハ、名ヲ正シク呼ンデモラエテイルカ?」
背後にいる時にその質問をされ、ファルサは驚きで振り返った。
プルスの言う通りだった。だというのに相手があまりにも異質だったせいで、失念してしまっていた。
ファルサの名は昔から、どうしてか正しく言える者がいないのだ。例外は、弟でもあり親友でもあり、そして必ず王にすると己に誓ったレックスただ一人。レックスもまた、ファルサ以外で名を呼べる者はいない。
なのでそれぞれで仲間から、ファルサはルース、レックスはリュークと呼ばれている。
しかし今日、例外が新たに加わった。得体の知れない獣が一匹。試しにレックスを言えるかと尋ねると、当然だとプルスは笑った。
「ソイツニ名ヲ授ケタノモオ前ダロウ?」
「そうだ。俺が捨てられていたレックスを拾ったからな」
背中から血を流し臥した母親が抱いていた赤ん坊を見つけたのは、ファルサが六歳の時だ。それから二人は、レックスが王弟の落胤だと発覚するまでの間、共にスラム街で必死に生きてきた。
自分一人を生かすだけでも難しい状況でありながら、それでも見捨てることが出来ないのがファルサという男だった。
「オ前ハ本当ニ面白イナ」
プルスはそう言って前方へ移動すると、前足をファルサの腹あたりに置いて立ち上がる。
おぞましい口が迫るも、不思議とそこから不快な息は感じられなかった。それだけではなく、森で暮らしているにしては毛並みも臭いも気にならない。肉食動物らしい鋭さや迫力はあるものの、改めて全身を観察すると美しい獣だと思う。
ファルサがおもわず尖った耳のある頭を撫でると、プルスは抵抗せず目を細めた。
「良イダロウ。コウイウノモマタ一興ダ。シカシ、オ前ハアタシノ正体ヲ知ッテ尚、コレマデノ態度デ居ラレルカナ」
「それは聞いてからでないと分からない」
それもそうだとプルスが笑う。
愛嬌があるなとファルサも頬を緩ませた。
けれど次の瞬間、毛の全てが逆立ちガーネットの瞳が眩い光を発する。
おもわず目を閉じ、騙されたかと急ぎ剣を抜こうとしたが、それは腕を掴まれたせいで叶わない。そう――何者かに掴まれたのだ。
耳元で軽やかな笑い声が響いている。悪戯が成功して喜ぶ子供のそれと似ていた。
そうして声は言ったのだ。これまでの時間の全てが些細ものになってしまうほどの驚愕な言葉を。
「あたしは竜だ」
さっきまでのどこかくぐもった滑舌の悪いものではなく、それだけで人を虜にしてしまいそうなほどの極上な声色。どんなに素晴らしい音楽も、ただの雑音にしてしまうだろう響き。
ファルサがその声に酔いしれそうになりながらも目を開くと、至近距離に人の顔があった。掴んだ腕を這い上り、首に手を絡めてくる。
腰でなびく艶やかな黒髪に月光を反射させ、真っ赤な唇を怪しく歪めたその女はガーネットの鮮やかな瞳をしていた。




