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二話

『わたしは自らの罪を、ここに記したいと思います。

 わたしの罪は、決して許されるべきものではありません。

 しかし何人たりとも、わたしと、わたしの罪を裁くことはできないでしょう。

 もしいらっしゃるとするならば、それは天にまします我らが主、ただひとり。



 わたしが通っていたラファエル高等女学校は、フランス系カトリック修道会が運営するミッション・スクールで、とくに皇族や華族の令嬢などやんごとない方々が在籍する、いわゆるお嬢さま女学校でした。

 かくいうわたしもそのひとりだったのですけれど、父は実業家とは聞こえのよい、実際は先の世界大戦で時流を読んで強引にのし上がった戦争成金で、男爵位と札束を交換した新華族の出ですから、帯のごとき家系図を持つ級友たちとは今ひとつ馴染めずにいました。

 それでなくても当時のわたしは、窮屈な寄宿学校生活に辟易しておりました。もともと奔放な気質だったのでしょう、規則にうるさく良妻賢母を第一の旨とする学校は、牢獄にも等しく思えたのです。

 かといって家に帰りたかったかというと、そういうわけでもありません。

 家に帰っても、体裁を気にする父と貞節従順な母に囲まれ、おちおち羽を伸ばすことも出来ません。外出時はかならず運転手付きの車で送迎される身では、ほかの娘さんのように友達同士で三越へ行ったり、お茶をすることなどかないませんでした。ならばまだ監視の目が行き届かない、学校の方がいくぶんましというものです。

 そういうわけで、十七歳のわたしは学校内でこれといって親しい友人も持たず、勉学に励むでもなくただ無為に、残された一年間の学生生活を過ごしておりました。

 そんなある日のこと。

 あれは忘れもしない、桜の花が天をおおうほどに咲き乱れた、あたたかい春の日でした。

 腹痛と偽って体操の授業をサボタージュしていたわたしは、ベッドで横になっているのにも飽きて、保健室を抜け出しました。

 当然みなは授業中です。誰もいない廊下を歩くと、教室から源氏物語の朗読やら合唱の声やらが漏れ聞こえました。

 ふと窓の外に視線をやると、中庭のマリア像のところに人影らしき黒いものが見えました。わたしは好奇心にかられ、そちらの方に向かいました。

 やわらかな日差しが降りそそぐ中、大理石のマリアさまの足元で、ひとりの男性が祈りを捧げていました。春霞にけぶる中、漆黒のスータン(修道服)が目に染みるようです。

 視線に気付いた男性が、顔を上げてこちらを見ました。

 そのお顔に、わたしは既視感を覚えました。

 むろん、名も知らぬ方です。ですが、どこかでお会いしたような気がしました。

 目が合うと、先方から軽く会釈されたので、わたしもまたご挨拶しました。

「ごきげんよう、新しい神父さま」

 先任の老神父さまが定年を迎えられ、替わりに新しい神父さまが教団からいらっしゃるという話を全校ミサの際に聞いておりましたから、すぐにその方の素性は思い当たりました。

 わたしの挨拶を受け、神父さまはおだやかに微笑まれました。

「こんにちは、きょうから派遣された須賀です。よろしくお願いしますね」

 わたしは、その方の全身をじろじろと眺め回しました。

 歳の頃なら二十代後半といったところでしょうか。背は高いけれどほっそりとした、少々頼りなげな印象を与える方でした。柔和そうなお顔には、銀縁眼鏡がちょこんと載っていました。

 やはり、どこかで見たような気がしてなりません。

 なおもしつこく神父さまを観察していると、

「あの、なにか……」

と、少し困った顔をされました。その困り顔がなにやらお可愛らしくて、わたしは思わず吹き出してしまいました。対する神父さまは、なぜ笑われたのか理解できないらしく、ますます当惑をあらわにするのです。

 そのうち、きまりが悪くなったのか、

「すみませんが、学長室はどちらでしょう」

と、話を逸らしてしまいました。

 わたしはちょうど暇を持て余していたこともあり、自ら道案内を買って出ました。

「神父さま、よろしければご案内しますわ」

「あ、いや、場所だけ教えてもらえれば……」

「だってひと口では説明できませんもの。さっ、こちらです」

 遠慮する神父さまの腕を取り、さっさと歩き出しました。服の上から見ると細身ですが、存外しっかりした腕に、たしかに“男性”を感じました。

 生まれてこの方、父と使用人以外の異性を目にしなかった箱入り娘のわたしには、このように若い殿方と接触する機会ははほぼ皆無でした。本来なら嫁入り前の娘が取ってはならないはしたない行為ですし、もう少し警戒心を持たねばならないのでしょうが、この目の前にいる方に恐ろしい感じがしません。

 きっと、神父という俗世間から隔絶した清らかな職業と、彼自身の温雅な容姿とうぶな所作のせいでしょう。

 要するに、わたしは彼を無害だと認めたからこそ、こんな大胆な行動を取ることができたのです。

 そして同時に、男性に対して大胆な行動を取った自分に、なにか照れくさいような、誇らしいような、そんな奇妙な心持ちを抱いたのです。

 中庭から回廊に入ったとき、引きずられるままだった神父さまが消え入りそうな声で、

「あの、せめて腕は放してもらえませんか」

と、懇願してきました。お顔を仰ぎ見ると、それはもう紅葉を散らしたように真っ赤でした。

 わたしはくすりと笑い、わざとそっけなく手を振り払いました。急に放された神父さまは一瞬ぐらりと平衡を失いかけましたが、すぐに体勢をととのえました。

「この先の突き当たりを右に曲がったところが、学長室ですわ」

「あ、ありがとうございます」

 曲がった眼鏡を直しながら、神父さまは軽く頭を下げました。わたしは彼が面を上げるのとほぼ同時に懐に入り、下からのぞき込むようにして、

「わたくし、五年二組の橘摩乃と申します。お見知りおきを」

と、あらためて自己紹介しました。

 あまりに近い場所にわたしの顔があるのに驚いたのか、神父さまはぎょっと顎を引き、そしてようよう絞り出すような声で、はあとかなんとか答えました。

 鳩が豆鉄砲を食ったようなそのようすがおかしくて、わたしは無遠慮に笑いながら彼のそばから離れ、廊下を駆け出しました。少し行ったところで首だけ振り向くと、まだ彼は突っ立ったままこちらを見ています。わたしはふたたび前を向き、今度こそ保健室へと戻りました。

 そうっと扉を開けると、幸いなことにまだ保健の先生は不在でした。わずかに上がった息を抑えつつ、先ほどまで横になっていたベッドへもぐり込み、鼻先までシーツをかぶりました。

 目を閉じると、先ほど見た神父さまのお顔がまぶたの裏によみがえります。

 やはり、どこかで見たことがある。

 でも、どこだろう。

 そうしてしばらくその幻影を反芻しているうちに、わたしはいつしか心地よい春眠に引き込まれていきました。




 以後、わたしの学校生活は一変しました。

 それまでモノクロオムだった単調な世界が、南国の花々が咲き乱れるかのごとく色彩豊かになり、しんと静まっていた心が沸き立つのを感じます。そして逸る気持ちは、そっくり新しい神父さまへと向けられたのです。

 たとえば、毎週行われた学年ごとのミサの折に、わざとロザリオや聖書を忘れてゆきます。

 そうすると、たかだか五十人かそこいらのものですから、当然神父さまの目にもわたしの手ぶらなようすが映ります。

 お優しい神父さまは、みなの前でつるし上げたりはなさりません。

 しかし回数を重ねるごとにさすがに目に余るのか、ミサが終わってから呼び寄せて、こっそりと事情を聞いてきたりされるのです。対するわたしはと言うと、神父さまの困り顔を見るのが楽しくて、くすくす笑いながら不真面目な答えなんぞを返したりしておりました。

 またあるときは、神父さまが受け持ちの神学の授業中に、不謹慎極まれる質問を投げかけたりもしました。

「天地創造は、ダーウィンの進化論と矛盾しないでしょうか」「イエズスは一度死んだのに復活したとありますが、本当でしょうか」などなど。

 もちろん、級友たちはわたしを止めようとしました。しかし当の神父さまはお怒りもせず、それらの質問にいちいち丁寧にお答えくださるのです。

 ですが「聖母マリアは処女の身で懐胎したそうですが、それは医学的にあり得るのでしょうか」という質問を浴びせたときは、神父さまはたちまち顔を真っ赤にされてうつむいてしまいました。回答を促すと、へどもどしながらとってつけたような答えをされ、そのようすがいかにも純情そうで、わたしはますます楽しくなってしまいました。

 今から思うと、退屈な毎日から抜け出したいがために、たまたま目に付いた神父さまを、戯れごとを仕掛ける相手に決めたのでしょう。

 ちょうど遊び飽きた幼な子が、目新しいおもちゃを得て夢中になるのと同じく。

 そして同時に、年齢的にも成熟した男性であるはずの神父さまを困らせ振り回していることに、ある種の快感を覚えていたのかもしれません。

 右も左も女ばかりで自分の価値が見いだせない中、若い神父さまを翻弄することにより、自分が女として優れている、一個の男性を魅了している、などと自惚れを感じていたのでしょう。

 ああ、しかし、その子どもっぽい興味が、あの大罪への始まりだったのです。

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