先生、僕の子供を産んでくれませんか?
人類の恋愛は、だいたい告白の瞬間から壊れる。
でも――。
もしその告白が、
「先生、僕の子供を産んでくれませんか?」
だったら?
これは、生物教師とその一番弟子が、校舎を35階建てにし、地殻変動と積乱雲の戦争を横断し、宇宙人の内戦を突破して、ようやく「好きです」を言うまでの物語。
たぶん純愛。
たぶんラブコメ。
でも間違いなく、生物学です。
市立鳴ヶ崎高校。
五限目、生物。
黒板には巨大な文字でこう書かれていた。
『霊長類の繁殖行動について』
「はい、ここ重要〜。霊長類はね〜、社会性と繁殖がめちゃくちゃ密接なんだよ〜……」
教師――生物担当の生駒イクミは、気怠そうにチョークを動かした。
ぼさぼさの金髪。
寝不足みたいな濃い隈。
乾燥した肌。
ノーメイク。
白衣には昨日のカップ焼きそばのソースが付着している。
なのに、妙にかわいかった。
彼女はネットでは有名人だった。
『ダルすぎる生物教師イクミちゃんねる』。
登録者数八十万人。
“終わってる見た目なのに説明だけ異常にわかりやすい女”として、若者からカルト的人気を誇っている。
コメント欄には毎回こう書かれる。
『今日も隈が深い』 『肌終わってるのに声かわいい』 『生活習慣を捨てた女神』 『でもDNAの説明だけ東大教授レベル』
そして。
その教室で、彼女の授業を誰より真剣に聞いている男子がいた。
広人。
生駒イクミが赴任して以来、唯一。
本当に、生物を愛している生徒。
「つまりね〜、生殖っていうのは単なる本能じゃなくて〜……」
イクミは言った。
「“この個体と遺伝子を残したい”っていう選択でもあるんだよ〜」
その瞬間だった。
広人の脳が、爆発した。
(今だ)
彼はずっと決めていた。
今日、告白する。
でも。
立ち上がった瞬間、言葉が全部消えた。
頭の中が宇宙みたいに静かになる。
時間が止まる。
彼は記憶を探した。
恋愛漫画。
ラブソング。
告白シーン。
文学。
哲学。
進化心理学。
だが。
秒針だけが進む。
教室が静まり返る。
イクミが首を傾げる。
「広人くん?」
焦った。
脳が焼けた。
そして彼は言った。
「先生、僕の子供を産んでくれませんか?」
沈黙。
世界が停止した。
クラスメイトの箸が落ちた。
窓の外の鳥も止まった。
広人自身も、自分が何を言ったのか理解できなかった。
「…………え?」
イクミの顔が真っ赤になる。
広人はそのまま血圧が限界を超え、後ろに倒れた。
「うわっ!?」
イクミが反射的に抱き止める。
だが。
数秒後。
彼女の脳がようやく“意味”を理解した。
「……え、え、え、えっ!?!?」
バッ。
「このスケベ男子ーーーーー!!!」
彼女は広人を床に落とした。
ゴッ!!
「ぎゃああああ!!」
「し、し、し、し、し、信じられないっ!! 授業中に!? 繁殖の授業の直後に!?!?」
イクミの脳内で。
広人は巨大なライオンになっていた。
牙。
黄金の鬣。
肉食獣の眼。
対する彼女は、草原のインパラ。
「食べられるーーーー!!!」
彼女は四つ足で教室を飛び出した。
「待ってください先生!!」
広人も追いかける。
しかし頭を強打していたので、平衡感覚が終わっていた。
結果。
彼も四つ足で追いかけ始めた。
「やっぱりライオンだーーーーー!!!」
イクミは絶叫した。
逃走劇は校舎を横断した。
イクミはプールサイドに辿り着く。
「ここなら……!」
彼女は女子水泳部の競泳水着を勝手に借り、そのまま飛び込んだ。
ザバーーーン!!
「先生!?!?」
だが広人は泳げなかった。
彼は辺りを見回す。
すると。
用務員室。
そこには、元船乗りだった用務員が残した古いボート。
広人はそれを担いだ。
「行くぞ……!」
彼の目は、もはや白鯨を追うエイハブ船長だった。
「先生ェェェェェ!!!!」
プールをボートで爆走する高校生。
校長が駆けつけた。
「何をしている広人ォォ!!!」
その時。
体育館では女子バレー部が練習中だった。
主将・岬がジャンプしている。
広人は閃いた。
「……これだ」
彼は自らを丸めた。
徹底的に丸めた。
人間としての尊厳を捨てて、完全な球体となった。
そして跳躍。
岬はそれに気付かない。
「ナイスボール!!」
ドゴォォォン!!!
広人ボールは校長の顔面に直撃した。
校長は三回転して沈黙した。
「逃げ場がない……!」
イクミは震えた。
すると彼女はスマホを取り出し、建設会社へ電話した。
「もしもし!? 今すぐ校舎に三十階増築してください!!」
『承知しました』
三分後。
校舎が35階建てになった。
「日本の建築技術どうなってんだよ!?」
広人は叫んだ。
イクミは最上階へ逃げる。
その時。
ゴゴゴゴゴ……!!
地震。
さらに。
バリバリバリッ!!
積乱雲から雷。
だが。
『おい地殻プレート』
雷雲が言った。
『お前、主人公みたいな顔してんじゃねぇぞ』
『そっちこそ』
地殻プレートが返す。
『天候イベントのくせに出しゃばるな』
そして。
地球規模の喧嘩が始まった。
稲妻。
断層。
津波。
マグマ。
広人はその間を走る。
だが二大災害にとって、彼は小さすぎた。
まるで蟻。
誰にも認識されない。
それでも彼は走った。
「先生に……伝えなきゃ……!」
最上階。
戦いの衝撃で天井が崩壊する。
イクミが立っていたコンクリート片だけが、空中へ浮かんだ。
そして。
空が割れた。
宇宙船。
「生駒イクミ様」
銀色の宇宙人が頭を下げる。
「あなたは地球に残されたかぐや姫の末裔です」
「……へ?」
「月へお戻りください」
「いや今それどころじゃ――」
しかし宇宙人たちは彼女を連行した。
広人が屋上へ辿り着いた時。
もう彼女はいなかった。
「……先生……」
彼は膝をつく。
あまりに走りすぎた。
カロリーを消費しすぎた。
結果。
彼の体はネズミサイズになっていた。
「なんで……?」
その時。
近くに無塩ピーナッツが落ちていた。
そして一羽のカラスが、それを開けられず困っていた。
広人は袋を破った。
「ほら」
カラスは感動した。
『恩に着る』
「喋った!?」
『背中に乗れ、人間』
こうして。
ネズミサイズの広人は、巨大なカラスに乗って宇宙へ向かった。
一方その頃。
宇宙船では内戦が始まっていた。
「王族制度は時代遅れだ!」
「税金で王家を養うな!」
「投資しろ! 配当で生きろ!」
「民主主義を導入しろ!」
宇宙人たちは政治議論で真っ二つに割れていた。
「いや今それ話す!?」
イクミは叫ぶ。
だが。
議論は戦争へ発展した。
レーザー。
爆発。
宇宙革命。
その衝撃で。
「きゃああああ!?」
イクミが落下した。
その瞬間。
大雨。
広人は大量の雨を飲み、元のサイズへ戻る。
カラスも巨大化した。
「先生ォォォォ!!!」
彼は空中で彼女を抱き止めた。
イクミの瞳が揺れる。
「……広人、くん……?」
巨大カラスの背へ着地。
ようやく。
静寂が訪れた。
雨だけが降っている。
広人は震えながら言った。
「ごめんなさい」
「……え?」
「あの時、言いたかったのは……そんな意味じゃなくて……」
彼は深呼吸した。
「先生のことが、好きです」
イクミは目を見開いた。
「僕は……先生と一緒にいたいって……そう言いたかったんです」
沈黙。
そして。
「……そっか」
彼女はぽつりと言った。
「わたし……勘違いしてたんだ……」
イクミはずっと思っていた。
広人は若い男子だ。
だから、自分の授業を熱心に聞いていたのも。
動画を見ていたのも。
全部、“そういう目的”なのだと。
でも違った。
彼は。
本当に、生物が好きだった。
「先生の配信、毎回見てます」
「……え?」
「“goodnight coffee”って名前でコメントしてるの、僕です」
イクミの呼吸が止まる。
『今日のDNA複製の話、最高でした』 『先生の授業で生物好きになりました』 『今日も配信ありがとう』 『先生が楽しそうに生き物の話してる時、なんか救われます』
毎回。
必ず来るコメント。
配信の最後まで残ってくれる人。
誰も聞かなかったマニアックな話題に、ちゃんと反応してくれる人。
深夜二時。
再生数が伸びなくて。
自分の顔を鏡で見て。
「こんなボロボロの女、誰が見るんだろ」って思った夜も。
そのコメントだけは来た。
『今日も面白かったです』
たったそれだけの言葉に。
イクミは何度も救われていた。
それが。
目の前の少年だった。
イクミの視界が滲む。
「……なんで」
声が震える。
「なんで、そんなにわたしのこと見てくれるの……?」
広人は少しだけ困ったように笑った。
「だって先生、生物の話してる時……すごく楽しそうだから」
雨音。
遠くでまだ宇宙人たちが政治論争している。
でも。
今のイクミには、その声がほとんど聞こえなかった。
「教室でみんなが寝てても、先生だけはずっと本気で」
「DNAの話してる時も、進化の話してる時も、先生、子供みたいな顔するんです」
「僕、その顔が好きです」
イクミの胸が、ぎゅっと痛くなる。
今まで。
見た目のことばかり言われてきた。
隈。
肌。
髪。
生活感。
だらしなさ。
でも。
この少年は違った。
自分が“好きなものを語っている瞬間”を見ていてくれた。
そこを好きだと言ってくれた。
「……わたし、生物の話ばっかりしてるし……見た目も終わってるし……」
「そんな先生が好きなんです」
「隈も?」
「好きです」
「肌ボロボロだよ?」
「そこも好きです」
「生活終わってるよ?」
「でも、先生が生物の話してる時だけは、世界で一番キラキラして見えます」
イクミの目から、ぽろっと涙が落ちた。
こんな風に。
自分の“好き”ごと抱きしめてくれる人が、この世界にいるなんて思わなかった。
彼女は唇を噛んで。
少しだけ笑って。
「……ずるいよ、広人くん」
「そんなこと言われたら……好きになるじゃん……」
雨の中。
彼女は震える手で、広人の制服を掴んだ。
「……じゃあ」
顔を真っ赤にしながら。
「まずは……彼女から、かな」
広人の目が見開かれる。
「……はい」
巨大なカラスが。
静かに夜空を飛んでいった。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
たぶん読者の皆さんも途中で一度はこう思ったはずです。
「なんでこうなった?」
作者もです。
でも、好きという感情って、生物学的にはめちゃくちゃ合理的なのに、行動としては驚くほど非合理なんですよね。
だからこの作品は、“恋愛の恥ずかしさ”を全力で宇宙規模にしてみました。
隈があって。
肌も荒れてて。
化粧もしてなくて。
でも、自分の好きなものを語る時だけ世界一輝いて見える人って、いると思うんです。
イクミ先生が、誰かの「好き」に刺さってくれたなら嬉しいです。
もし面白かったら、感想や評価をいただけると、イクミ先生が徹夜で配信します。
たぶんまた隈が深くなります。




