好きな食べ物:一枚10円しない食パン
ある日を境に、食事が喉を通らなくなった。
当時の私は、自分に「理想の人物像」を押し付け——というよりも純粋に、求めていて。成果であったり、普段の振る舞いであったり、自分はこうあるべきという姿を思い描き、その通りに過ごせたらいいと、過ごしたいと思っていた。
その理想の姿は決して、周囲の人間や環境に負けて描き上げたものでもなかった。見たもの聞いたものに加えて、それまでの憧れや経験則から、これくらいなら自分でも出来るという確固たる自信をもって積極的に据え置いた、程々の目標だった。だからこそのモチベーションもあった。そういう意味では当時の私は、向上心の塊だったと思う。周囲に褒められたくて頑張っていたのではない、「これこそが私らしいのだ」という目標意識を持って、達成するべく計画的に行動しようとしていた。
計画的に行動していた。
そのせいで、食事がとれなくなった。
当時のことを思い出すと、沢山のストレスが頭の中を飛び交う。
言われて嫌だったことや苦しかったプレッシャー、上げれば月並みにきりがない。
だから食事が喉を通らなくなったり、そうでなくとも喉が締まって苦しくなったりしたことも、そのストレスのせいだと思えば、納得もしやすく説明も楽だった。
事実傷ついていたのだし、事実、今でも思い出すだけで苦しくなる。
しかし、その実私は「私には食べる権利が無い」とも考えていた。
「今の私には食事をとる権利が無いのだから、食べるべきではない」——こう言葉にまとめると何故かしっくりくるのだけれど、それと受け続けていたストレスとの間にはいまいち脈絡を見いだせず、当時の私は気分を考えようにも、ずっと座りが悪い印象があった。
結局、「食べる権利が無いから、食べるのが好きじゃない」というロジック未満の何かが私の中に根付き、食事をとるのが楽しくなくなった。
食事が苦痛になってからは久しい。もう十年にもなる。
いつからか「食べる権利が無いから、」という部分は有耶無耶になってただ「食べるのが好きじゃない」になった。そう思っていると本当に食欲がなくなってしまうので、人間は不思議な生き物だと思う。美味しいかおいしくないかで言ったら勿論美味しい。でも、好きじゃない。何故かと聞かれると分からないけれど、一つ確かなのは「私に食べる権利はない」…という、ハチャメチャな順路をとって、私の食事は毎度、幕を閉じる。
最近、仕事から一旦距離を置き、毎日をただ休むことに時間を費やしている。職を休む以上に、家事にせよ入浴にせよ、日常生活における全てを休んでいるような時間の使い方だ。大抵のことは毎日やらないでもなんとかなってしまう。ただトイレと食事はどうにもならない……が、それでも食事は意外とサボれる。それに気づいたのは休職してすぐのことだった。
「今の私は何もしていないのだから、食事をとる必要もない」という考えが出てくるのにそう時間はかからなかった。横になっていれば時間は過ぎる。寝れば一日なんて意外にあっという間だ。食べなければなんと、トイレにも行かないで良い。ただ休んでいるだけで良い。ならば汗はもともとそんなにかかない体質だし、横になって休むことが今の私に求められている必要なことなのだから、それに集中してただただ寝よう。ここに来て、食事が好きじゃない性格が功を奏した。お腹が減らない…というより空腹が酷ではなかった。寝れば忘れられる程度だった。正直なところ、わざわざ嫌な思いをして食事をとるくらいなら、ひたすら寝ているほうが気持ち的にも楽だった。どうせ嫌な思いをする食事は、死なないようにするための最低限の量と頻度で申し分なかった。
ふと考えを巡らせていると、当時のことを思い出した。食事をとるのが楽しくなくなった始まりの時期のこと。ある特定のエピソードやスイッチがあったわけではない。ぼんやりと、「食事をとる権利が無い」と思うようになった時期のことを、することもなしにグルグル思い出していると、それが自分なりの計画と同時並行に起こった閃きだったと思い出した。とはいえ、食事をとらないことを計画に盛り込んでいた訳では決してない。食事の没収を、計画遅延や失敗のペナルティだとみなしていたのかとも思ったが、どうやらそれも違う。私にとって、計画と食事は別の話だった。目標と食事は別の話だった。
別の話だったからこそ、食事の優先順位を限りなく下へ落とすようになった。
なんにせよ物事は、計画通りに上手くいくことなんて滅多にない。そもそも計画は状況に応じての見直しや調整を繰り返しブラッシュアップしていくものだ。最初に立てた計画通りに一貫した振る舞いをとれるわけではない。でも、当時の私はそこが——分かってはいたが、「私は遅延や失敗の都度に計画の調整や見直しが出来るほど優秀じゃない」と考えていた。だからある程度の遅延や失敗はそのままに放置して、慣性の法則的に、惰性で遅れて計画通りの道を辿るようになっていた。
というのも計画に遅れや齟齬が生じて、その分の調整や見直しが間に合わない場合は、一旦の延命措置が必要になる。計画を丸ごと止めてしまうわけにはいかない。これが何かのプロジェクトやタスクならまだしも、私にとって私の計画は「私という存在の在り方」だったから、それを止めてしまうのは自分のスタンスを丸ごと投げてしまうことも同然だった。それは、自分が描く自分がどこかに行ってしまいそうで、自分を投げてしまうようで怖かった。だから私は遅れたりずれたりした計画の中で、なんとしてでも止まりすぎないように速度を遅めて、その場しのぎの自分なりの姿を振る舞うようにした。どこかで調整しよう、どこかで計画を見直そう、と頭の中をぐるぐる回転させながら、毎日を過ごすようになった。
そのうちに余裕を無くして、食事をとるだけの気持ちの余白部分のようなものを失った。感覚的には、いわば、気持ちを切り詰めていたのだと思う。食事をする分の、食事を楽しむ分の気持ちを切り詰めて、計画をどうにかしようと、自分なりに振る舞おうとするためのエネルギーや脳内メモリにして、余力をセーブしているつもりだった。発想自体は、仕事や勉強が忙しい時、朝寝坊して電車に間に合わない時に食事を抜くのと大して変わらない。事実当時の私はそういう場面と同じニュアンスで捉えて、さして深刻とも思っていなかった。「食事を楽しむ暇があれば計画を見直さなくては」言い換えれば——「食事を楽しむ暇があればもっと私は私らしく振る舞わなければ」——と、そう考えていた。
その発想が「食べる権利が無い」の実情だった。
——食事を楽しめるほどに、計画が遅れている今の私には余裕がない。だから食事を楽しまない。そもそも楽しくないのならば、食べる必要が無い。食べないで計画のことを考えよう。その方が、理想の私に近づける気がして嬉しい。計画を立てて動くのは楽しいから——。
こんな根拠も理屈もないたわ言を、本気で十数年考えていたように思う。言葉にすればしょうもないことが分かる。でも言葉にしなかった。食べることをサボっていたから、頭が働いていなかったんだと思う。私が私のために楽しく立てた計画の力で、それが何段にも文脈をずらし論点をぼやかし、私自身を騙して私を食卓から遠ざけていった。
考えているうちに、とうとう何もすることがなくなった。それ以上寝るのにも、横になったままでいるのにすら体力が必要だった。背中の筋力は落ちたし、布が擦れて体のあちこちが嫌な感じがした。計画通りもなにも休むことに計画なんて持ち続けられなかった。「計画:休む」しかない。かといって窓を開けようにも手を伸ばす必要がある。トイレに行こうにも立ち上がる必要がある。どうせ立ち上がったんだ、いい加減に背中と腹が引っ付きそう、なにかなんでもいいからお腹に入れよう。手を伸ばしたのは一枚10円もしない八枚切りの食パン、冷凍庫の奥から引っ張り出した。カチコチに凍って食べられたものじゃないので、ガスコンロに入れて焼いてみた。皿洗いが面倒くさいのでキッチンペーパーを皿にした。つけたり塗ったり合わせたりするものは何も持ち合わせていなかったのでそのまま齧りついた。
そしたら、美味しいと感じたことはこれまでも何度も数えきれないほどあったが、にしてもそのパンが美味しかった。これが企業努力で急においしくなったとか、私がその時よっぽど食事に飢えていたとか、そういう理由でなければいいなと思う。これが私の気持ちの問題だったらいいなと思う。
計画があってもなくても、食事は食事だけで充分おいしくて楽しいものだと感じた。それくらい美味しいと思った。理屈では知っていたし、感覚では気づいていたことだったが、得心したのは初めてだった。これくらい些細な食事でも、身が震えるほどに美味しいんだ。「美味しい」や「御馳走様」は、その食事を用意してくれた人々への感謝を一旦置いておいてでも、純粋に楽しくておいしくて幸せだと言う、そんな食べた瞬間の私のために出てくる言葉でもあるんだ。そう感じた。
食事は、義務や権利で語られるものじゃなかった。生物として、切り詰めようにも切り詰められるものではなかった。生きている以上、絶対に無視できない快適の具象。
生物として、息をしないよりは、した方が快いように。
生物として、睡眠をとらないよりは、とったほうが気分がいいように。
生物として、食べないよりは食べた方が幸せだった。
食事単体で幸福を表すのだと、今になってやっと初めて理解した。
ただ今後、すぐすぐにでも全ての食事が幸せになるかと思うと、そうはいかないようにも思う。調整をしたい、見直したい計画の全てが頓挫して、生活の全てを一旦停止して、することを限りなくなくした今だからこそ気付いた、限りなく手近な幸せと言えばそうだ。また何かの計画を立て始めたりすると、馬鹿の一つ覚えで身体に刻まれてしまった悪習慣はきっと何処かでぶり返す。十年以上かけて馴染ませてきた手癖なのだ。そう簡単に治せるとも思えない。
ただまずは、面倒だからとしばらく抜いていた毎朝の朝食を、一枚10円しない食パン(焼いただけ)から初めてみようと思う。
それだけでも、きっと幸せになれるはず。




