サスペンス系ラブファンタジー小説のヒロインに転生したけど、なんかおかしい。
王宮に隣接している国立図書館の一角で、一人の少女が頭を抱えていた。
陽の光のような輝きを放つ銀髪。光の加減で緑にも青にも見える瞳は凛々しく、あと十年も経てば絶世の美女に成長するだろう。
しかし、彼女は美しい髪を振り乱し、煌く瞳をどんよりと曇らせていた。
「お、おかしい……」
ミラ・アルケミス・エイラットは、小さく声を震わせる。
「……どうして小説通りに話が進んでいないの?」
ミラはいわゆる異世界転生者だった。前世で読んでいたウェブ小説『星宿のアルケミスト』の世界に生まれ落ちた。
『星宿のアルケミスト』は様々な困難に立ち向かい少年少女達の成長を描いたサスペンス系ラブファンタジーである。
ヒロインを中心に繰り広げられるヒューマンドラマが人気を博して、書籍化やコミカライズだけに留まらず、アニメ化もした作品だ。
ミラはその『星宿のアルケミスト』のヒロインに転生したのである。
物語はヒロインが王女アイリスともに宮廷に帰還するところから始まる。そこで幼馴染の少年二人と再会し、国の陰謀に巻き込まれていくのだ。
幼馴染の二人は、それぞれ心に深い傷を負っている。ヒロインは二人の心の支えになり、いずれ恋心が芽生えていくはずが……。
「ミラ~?」
不意に名前を呼ばれて顔を上げると、入口の方から二人の少年がやって来た。
「あ、いた! やっぱり図書館で正解だったな」
そう言ったのは金髪にアイスブルーの瞳をした少年。この国の第二王子、スヴェン。幼い頃に妹のアイリスが毒殺されかけるというトラウマを持つ。それ以来、他者に冷たい態度を示すようになり、氷の王子と呼ばれる。
「ミラ、いけないんだ~。時間はちゃんと守らないといけないんだよー」
そしてもう一人は黒髪に赤い瞳の少年。ギベオン公爵の嫡男、アルカス。
甘い笑みの裏に残忍な一面を隠し持つ美少年。幼少期に継母から虐待を受けて育ち、本編開始直前に自らの手で継母を粛清した。
その事実が周囲に広まり、悪魔に人間性を売り飛ばした悪魔公子と影で呼ばれている。
彼らの幼少期にトラウマとなる事件が訪れる……はずが、アイリスは毒を受けていないし、アルカスは継母のギベオン公爵夫人と良好である。
「スヴェン殿下、アルカス様……」
「教室に来ないから探したぞ?」
「そーだよ! さあ、行こう!」
スヴェンがミラの右手を、アルカスがミラの左手を握ると急にその場から駆け出した。
「「教室までかけっこだぁー!」」
「ちょ、ちょっと~~~~~~~~っ⁉」
スヴェンとアルカスの明るい笑い声と三人の足音が宮廷に響き渡るのだった。
◇
二人に引きずられるようにしてやってきたミラを待っていたのは、スヴェンの双子の妹、アイリスだ。
彼女はミラを見て表情を明るくしたが、すぐにふくれっ面へと変わる。
「もう、遅いわミラ!」
腰に手を当ててプリプリするアイリスに、ミラは苦笑した。
「すみません、アイリス様。ちょっと読書に夢中になってしまって……」
「またぁー? 一体何を読んでたの? 前は薬草の本とか拷問の本とか読んでたし」
「えーっと、それはぁ……」
前世の話をするわけにもいかず、ミラが言い淀んでしまう。
そんなミラにスヴェンが訝し気な目を向けた。
「ミラって時々変なことするよな。急に今日はご飯を食べても大丈夫だったかって聞いてきたり、部屋に薬箱があるかとか、解毒剤はあるかって聞いてきたり」
(だって、アイリス様が毒を食べちゃうのっていつだか分かんないし!)
特にスヴェンとアイリスは物語が始まる前から陰謀に巻き込まれている。
スヴェンの代わりに毒を飲んだアイリスは、療養を理由にミラの実家があるエイラット領に避難するのだ。
大事な友人が危険な目に遭う前にどうにかしたいと思うのは当然のことではないか。
「ご飯を食べてお腹が痛くなったら大変じゃないですか!」
「じゃあ、アルカスに絵本とかぬいぐるみばかりプレゼントするのは?」
アルカスは本編で、ミラを狙う悪党達を次々と拷問していく。
彼が嗜虐的嗜好に走らないように、ミラは夢と希望に満ち溢れたゆるふわ系男子に仕立てようとしていた。
「だって、アルカス様が好きだと思って……」
「うん。絵本もぬいぐるみ好きだよ」
今のアルカスは甘えん坊でおっとりした性格の少年だ。このまま優しい青年に成長して欲しい。
(それにアルカスって、お色気担当でもあるんだもん!)
アルカスは色香が漂う美青年に成長する。ヒロインに恋をした彼は、クール系のスヴェンとは違い、大人びたアプローチを掛けていく。
(小説を同じように私に迫るようなことがあってみろ! 恥ずかしさで爆発四散するわ!)
「ねぇ、ミラ?」
袖を引かれて、アルカスの方を見ると、彼はにっこりと笑った。
「そろそろ先生が来ちゃうから、座って待ってよう?」
「あ、うん」
長テーブルにアイリス、スヴェン、ミラ、アルカスの並びで席に着いた。
ミラが王族二人と公爵家の嫡男とこうして共に過ごせるのは、ミラの家が錬金術師の家系だからだ。
この世界の錬金術師は魔法使いに近い存在である。錬金術を用いて特殊な薬や魔装具と呼ばれる魔力を帯びた道具を作る。
特にミラの実家であるエイラット家は宮廷錬金術師を何人も輩出していた。
そしてミラの祖父は宮廷錬金術師の中でも筆頭であり、祖父の代で侯爵位まで昇りつめた。
スヴェンやアイリスにとって、ミラは未来の守り刀のような存在。
それに加えてアルカスは双子の従兄弟に当たる。
強力な後ろ盾がいるからこそ、スヴェンやアイリスは王位継承争いに巻き込まれ、命を狙われるわけである。
(うーん……でも、なんでこんなに平和なのかな……)
平和であることはいいことだ。しかし、このまま油断して事件を未然に防げなかったらと思うと不安で仕方ない。
サスペンスと銘打っているだけあって、よく人が死ぬ。モブはもちろん、人気のあるサブキャラも死ぬし、なんならメインキャラも生死の境を彷徨うこともある。
そのため、新刊が出る度にSNSは良くも悪くも盛り上がった。
ひりつかせる展開や推しの死に読者は阿鼻叫喚し、二次創作に走る者も少なくない。
その中でもファンの間で話題となるのは、ヒロイン達の恋の行方である。
ミラを巡るヒーロー達の争いは作者の手腕でどちらに転がってもおかしくない状況だった。
片や心を閉ざした王子様と片や人間性を悪魔に売り飛ばした公子。
前世のミラは、どちらかといえばアルカスを応援していた。ヒロインに対する愛が重いところがあるが、ちょっとずつ穏やかな感情を得て、人間性を取り戻していくところがツボだった。
もちろん、堅物のスヴェンがミラの行動にタジタジになるところも好きだったが……。
どちらか一方しか結ばれないのなら「ずっと平行線でいろ」と思っている。
(結局のところ、みんな幸せになって欲しいのよね……)
しっかり者で兄貴気質なスヴェン。ちょっとお転婆なアイリス。甘えん坊のアルカス。この三人をこのまま育て上げ、彼らをトラウマから守るのがミラの目標だ。
(みんなのトラウマを回避するために、錬金術の勉強をたくさんするわよ!)
◇
あれから月日は流れ、本編であったアイリスの毒殺未遂事件も、アルカスが継母に虐げられることもなかった。
「なぜ……?」
この数か月、ミラがずっと周囲の行動に目を光らせていたとはいえ、こんな平穏を甘受していていいのか。事件が起きて欲しくないと願っているのに、なぜ事件が起きないか不安を覚えている自分が複雑でならない。
「ミラ、今度は何をしてるの?」
隣に座っていたアルカスが、甘えるようにミラの肩に寄りかかってくる。
最近のアルカスはやけに距離が近い。元々甘えん坊な気質だったが、そろそろ女の子との距離感を覚えて欲しい。
「また賢者の石の研究? それともエリクサー?」
「それはもう作るのを諦めました」
ミラの言葉にアルカスはきょとんとする。
「え? 止めちゃうの? 先生も推奨してたのに」
「まあ、失敗してもちゃんと新薬が生まれましたからね……でも、無駄だって気付いたんです」
失敗は成功の母とはよく言ったもので、ミラは失敗を繰り返す度に新たな新薬を生み出していた。
魚の目を簡単に取る薬だったり、脱毛クリームだったり、肌シミを薄くする化粧水だったり。大人達には大層喜ばれたが、ミラが作りたいものはこれじゃない。
「全然無駄じゃないと思うんだけど……」
寄りかかっているアルカスがどんどん体重をかけてくる。どうやらこのままミラに身体を預けるつもりらしい。
(お、重い……でも、彼の甘えは受け止めてあげなくちゃ)
これもアルカスが未来で嗜虐的嗜好に走らないため。信頼できる人が傍にいると分かってもらうため。ミラは押し倒されないように耐える。
「ねぇ、ミラ~?」
アルカスの顔がぐっと近づいてきた時だった。
「こら、アルカス!」
「痛いっ」
アルカスがばっとミラから離れて振り向く。
そこにはスヴェンとアイリスが立っていた。丸めた紙で肩を叩きながら、スヴェンはアルカスを見下ろす。
「ミラとの距離が近すぎる。紳士たるもの、適切な距離を保たないとダメだろ? ミラ以外の女にそんなことしたら、あらぬ噂を流されるぞ?」
「ミラ以外にはしないからいいもん……」
アルカスは唇を尖らせて言うと、ミラの腕に抱き着く。いつもなら素直に従うのだが、ミラのことになるとアルカスは途端に頑なになる。
そんなアルカスの様子に、スヴェンが眉を吊り上げた。
「ア~ル~カ~ス~?」
「スヴェン殿下、私は構いませんから」
「お前らが良くても世間が許さん!」
「一番許せないのはお兄様じゃなくて?」
一緒に来ていたアイリスがそう茶化せば、スヴェンが睨みつける。
「ア~イ~リ~ス~!」
「きゃ~、こわ~い。紳士の顔ではございませんわ~」
「生意気な軽口を叩く口は、この口か~!」
「きゃー! 暴力反対~!」
双子のやり取りを横目に、ミラはアルカスを見つめた。
彼は今もミラに縋るように抱き着いており、その姿にぎゅっと胸を締め付けられた。
(やっぱり、アルカスがおかしいわよね)
ミラがアルカスを振りほどかないのは、彼の情緒が不安定な気がしたからだ。
アルカスは自分の推しである以前に、幼馴染である。もし、何かあるなら彼に寄り添ってあげたい。
(こっそりアルカスに話を聞いてあげよう)
自習の時間はいつも四人で図書館へ向かう。ミラは本を探すふりをしてアルカスを呼び出した。
「アルカス様、最近元気がないようですけど、どうしたんですか?」
彼は赤い瞳を見開いたあと、元気がないように笑う。
「ミラはお見通しなんだね」
「そりゃ、幼馴染ですから! 何か不安なことや心配なことがあったら言ってください。人に話すだけでも心が軽くなりますから!」
解決はできなくても、相談することでも心持ちが違う。それにアルカスのトラウマは将来、大きな影響を及ぼす。
(昨年までは継母のギベオン公爵夫人との仲が良好だったかもしれないけど、いつ不仲になるのか分からないわ。もし何かあれば、私がアルカスを助ける!)
本編のアイリスのようにアルカスを実家のエイラット領へ連れて行ってもいい。大事な推しは自分が守るのだ。
「…………ミラ、誰にも言わない?」
「絶対に言いません!」
ミラが力強く頷くと、アルカスは用心深く周囲を見渡して、そっとミラに耳打ちをする。
「最近、お父様とユミル様がおかしいんだ」
(なぬっ⁉)
ユミルとは、アルカスの継母の事だ。
二人の様子がおかしいということは、彼のトラウマが来ようとしているのか。もし、彼に何かあれば、ゆるふわ系男子化計画が水の泡になってしまう。
ミラはじんわりと湿った手を握った。
「お、おかしいって? どんな風にですか?」
「普段は仲が良いだけど、急によそよそしくなったり、食事の時間にユミル様だけが食堂に来ないことが増えたんだ」
「アルカス様への態度は?」
「変わらないよ。いつも通り優しいし、本当にお父様にだけなんだ」
アルカスはそう言うと、さらに続ける。
「それでね……一週間前の夜、お水が飲みたくなって厨房に行こうとした時に、お父様達のお部屋から声が聞こえたんだ」
「声、ですか?」
「うん、『嫌、助けて』って。あれは間違いなくユミル様の声だと思う。それでこっそり部屋を覗いたら、嫌がるユミル様の上にお父様が乗っかってたんだ」
(なんだって~~~~~~~~~~~~⁉)
それはアルカスもショックが大きかったのだろう。その時のことを思い出したのか、赤い瞳にはじんわりと涙が浮かんでいた。
「ぼく、怖くなっちゃってすぐに部屋に戻って。それで次の朝、食堂に行ったら、ユミル様の姿が無くて……お父様はちょっと具合が悪いだけって言ってたんだけど……どうしよう、ミラ! お父様はユミル様にひどいことをしてるかも!」
(そんな……まさかアルカスのお父様が、夫人に暴力を⁉)
確か『星宿のアルケミスト』では、アルカスが気に入らず虐待していたと書かれていたはず。もしかしたら、アルカスが知らない別の理由もあったのかもしれない。
「ぼく、お父様もユミル様も大好きなの……だから、誰に相談したらいいのか分からなくて……」
「アルカス様……」
彼がこんなにも思い悩んでいたなんて、もっと早く気付いてあげていれば。
ぽろぽろと涙をこぼすアルカスを、ミラはそっと抱きしめた。
「怖かったですね。辛かったですね……話してくれてありがとうございます」
「ミラぁ……」
夫人がアルカスを気に入らない理由。それがギベオン公爵にあるのなら、ある意味納得する。アルカスの顔立ちは父親そっくりなのだ。
暴力を振るう夫が憎くて、前妻の子どもを虐待。ありえない話ではない。
嗚咽を漏らすアルカスの背を撫でながら、ミラは決意する。
(なんとしてでも、この事態をどうにかせねば!)
◇
ぼくの名前はアルカス・ルーラ・ギベオン。七歳。公爵家の嫡男だ。
ぼくのお母様は、ぼくが四歳の時に病気で死んじゃって、新しいお母様としてユミル様がやって来た。
ちょっと怖そうな人だったんだけど、ぼくがお人形遊びをしてても叱らないし、寝る前に絵本を読んでくれる優しい人だ。
宮廷から屋敷に戻ってきたぼくは、執事にユミル様の様子を聞いた。
今朝は体調が悪くて寝込んでいたんだけど、今も調子がよくないみたい。
ぼくは自分の部屋に戻ってミラからもらったぬいぐるみ達をおもちゃ箱に入れていく。
そして、おもちゃ箱を持ってユミル様のお部屋へ向かった。ユミル様は青白い顔をしながらも、ぼくを部屋に迎えてくれる。
「あら、アルカス様。どうしたんですか?」
「ユミル様、大丈夫? まだ元気にならない?」
「心配をかけましたね。でも、大丈夫ですよ」
そう言って微笑んでくれるけど、その笑顔に元気がない。
もしかして、昨日もお父様にイジメられていたのかな?
「ユミル様、これ……」
ぼくはおもちゃ箱のぬいぐるみ達をユミル様に渡した。
「アルカス様、どうしたんですか? たしかこのぬいぐるみ達はお友達からもらった大事な子達でしょう?」
「うん……ユミル様に貸してあげる」
ミラに不安を打ち明けた時、ぼくにこう教えてくれた。
『アルカス様が不安のように、ユミル様も誰にも打ち明けられず不安に思っているかもしれません。自分はユミル様の味方であることを伝えてあげるんです。きっと、ユミル様は安心してくれるはずです』
ミラは大事な友達で、ぼくの味方だ。彼女に悩み事を話した後、ぼくは安心感に包まれ泣いてしまった。
きっとユミル様も不安でいっぱいだろう。
「ユミル様。例えユミル様が本当のお母様じゃなくても、ぼく、ユミル様のことが大好き。もし、ユミル様に何かあったらぼくはとても悲しいし、ユミル様を守ってあげたい。楽しいことを考えると元気が出るってミラが言ってたんだ。だからぼくの大事なぬいぐるみを貸してあげる。早く元気なってね」
ユミル様は目をぱちぱちと瞬きすると、いつものように明るく笑ってくれた。
「ありがとう、アルカス様。私もアルカス様のことが大好きですよ」
「うん!」
良かった。少しだけ元気になったみたいだ。
ぼくはユミル様に挨拶をすると、今度はお父様の部屋へ向かった。
ぼくは今、一番のお気に入り、人喰い熊ジャロを抱っこしている。これはミラが初めてプレゼントしてくれたぬいぐるみだ。頭の半分が血塗られていて、みんな怖がるんだけど、ボクは大好きだ。この子を抱っこしていると、なんとなく勇気をもらえる気がするから。
ぼくはお父様の部屋の前に着くと、ノックをして部屋のドアを開ける。
そこには仕事をしているお父様が、ずっと書類とにらめっこしていた。どうやら、ぼくのことは気付いていないみたい。
お父様の近くに控えていた側近の人がぼくの存在に気付いてくれた。
「あれ? アルカス様?」
「アルカス? ジャロも連れてどうしたんだ?」
いつものように笑顔で迎え入れてくれたが、お父様がユミル様にしていたことを思うと、ぼくは胸のあたりがもやもやする。
側近の人もいるけど。別に聞いてもらってもいいか。
「お父様、とても大事なお話があるんだけど……」
「大事な話? なんだい?」
ぼくは頭の中でミラの言葉を思い出す。
『夫人を安心させたら、今度はお父様を脅してやるんです。お父様が夫人にしていることをアルカス様が知っていると仄めかせば一発です! その時は無表情で言うんですよ! いつもニコニコのアルカス様が笑わなくなったら、お父様はきっと怖がります!』
ぼくはごくっと喉を鳴らし、ジャロで顔を隠すように抱きしめた。
頑張るんだ、ぼく! ユミル様を守るために!
ジャロから勇気をもらい、ジトッとお父様を見つめた。
「一週間の夜……」
「え? 夜?」
「お父様達のお部屋の方から『嫌、助けて』って声が聞こえたんだけど……?」
「んっ⁉」
お父様が大きく目を見開いた。少しだけ顔が赤い気がする。
もしかして、怒ってるのかな? ぼくはまだ怒られるようなことは言ってないけど……。
側近の人も驚いた様子でぼくとお父様を見守っている。
「ぼく、すごい怖かったんだけど……お父様は聞こえなかった?」
お父様をじーっと見つめると、しどろもどろになってぼくから目を逸らした。
「し、知らないなぁ? その夜、お父様はぐっすりだったし」
「本当? じゃあ、お外から聞こえたのかな? 物音もすごかったし……男の人が『ほら、もっと泣きなよ』って言ってるのが聞こえたんだけど?」
「ぶはっ!」
すぐそばに控えていた側近の人が噴き出すようにして笑った。
びっくりして顔を上げると、ぼくから慌てて顔を逸らして肩を震わせている。
なんか変なこと言ったかな? ぼくはお父様を脅しているつもりだったんだけどな。
お父様は真っ赤な顔をして側近の人を睨みつけていたけど、咳払いしてぼくに向き直った。
「そ、そっか……それを聞いたのは一度だけ?」
「うん……でもぼく、あの声がまた聞こえるんじゃないかって、夜が怖いの」
「そ……そっか~~~~~~~~~~……」
お父様が大きく頭を抱えて項垂れてしまう。
何を考えているのか分からないけど、ぼくが話したことに困っているのは確かだ。
「アルカス、怖かったね。次からは気を付け……じゃなかった。今度、家の周りをよく巡回するように警備に伝えておくよ。変な人がいたら、警備が捕まえてくれるからね! アルカスは安心して眠って」
「うん。ありがとう……」
ぼくは踵を返してお父様のお部屋を出ようとした時、ドアを閉めきる前にお父様に言った。
「お父様?」
「なんだい?」
「もう意地悪なことはしちゃダメだよ?」
ぱたん。
よし、もうこれで大丈夫だ。お父様はユミル様に悪いことはしないだろう。
でも、なんでだろう。お父様の部屋から側近の人の笑い声が聞こえるんだけど?
なんか面白いことでもあったのかな?
◇
ミラがアルカスの相談を受けてから数か月後。
ギベオン公爵夫人の体調不良が少なからず続いたものの、両親のよそよそしさも無くなったようだ。
(ふー、良かった。アルカスも落ち着いたみたいだし。これで夫人に虐待されることもなくなったわね!)
実はあの後、ギベオン公爵から我が家にリフォーム依頼が来た。
『機密性を高めるために、防音性能付けたいので錬金術師の手を借りたい』
それを聞いた時、まさか拷問部屋を作るのかと邪推したのだが、リフォーム先が夫婦の寝室だったので杞憂に終わった。
ミラは授業を受けるために宮廷へ向かうと、ちょうどアルカスも到着したようだった。
「アルカス様、ごきげんよう」
「あ、ミラ!」
ミラに気付いたアルカスは、ぱあっと表情を明るくさせて駆け寄ってくる。
「ねぇ、ミラ聞いて! ぼく、お兄様になるんだ!」
「え?」
予想外の報告にミラが面食らっていると、アルカスは兄になることが嬉しすぎて興奮しているのか、早口で語り出す。
「ユミル様のお腹に赤ちゃんがいるんだって! まだ男の子か女の子か分からないけど、ぼくすごい楽しみなんだ!」
「赤ちゃん……?」
「うん! 赤ちゃんはね、お父様達が仲良くないと授からないんだって! ミラに相談して良かった!」
つまりそれだけ夫婦仲が改善されたということだ。ミラは心の中でガッツポーズをとる。
(よかったぁー! それだけ夫婦関係が良好なら、もうアルカスが夫人に嫌がらせを受けることもなくなるわ!)
彼が人間性を捨てる未来は遠ざかったと言っていいだろう。
ミラはほっと胸を撫で下ろした時、アルカスがミラの手を取った。
「ぼくがお兄様になれるのは、ミラのおかげだよ! 本当にありがとう!」
輝かんばかりの推しの笑顔に、ミラは心臓が鷲掴みされた気分だ。
(これよ、私が見たかった推しの笑顔は! 前世の私は推しの幸せをどれだけ渇望したか!)
しかし、今回はミラのアドバイスだけでなく、アルカスの頑張りのおかげだ。
心優しいアルカスが実の父を脅すなんて、とても勇気がいることだっただろう。そして、父親と公爵夫人の仲を取り持つのも大変だったに違いない。
「いいえ。アルカス様が勇気を出して行動したからです。本当に良かったですね。おめでとうございます、アルカス様」
その後、ギベオン公爵家に女児が生まれた報告があったのは、これから数か月後。
思ったよりも早い出産に、ミラが逆算した結果、ギベオン公爵夫妻の不仲騒動の真実を察して悶絶することになる。
この時、ミラはまだ知らなかった。
厳密に言うと、ここは『星宿のアルケミスト』の世界ではない。
少年少女達のヒューマンドラマが小説の人気に火を点けたが、あまりのドシリアスな内容にお気に入りのキャラクターが死ぬことも少なくなかった。
多くのファンが「死んだキャラも含めて幸せになって欲しい」と声を上げた結果、ファンの願いと妄想が現実になった。
公式スピンオフ『休日のあるけみすと』
読者のトラウマも国の陰謀もない。メインキャラクター達の幼少期から本編までの成長をゆるーく描いた、休日のような物語がミラの転生した世界である。