とある平凡な子爵の日常②
「それじゃあちょっと行ってくるわね。」
「あぁ、たまにはゆっくり行っておいで。」
「やぁぁあぁぁあぁあああ!!」
生け捕りした巨大魚のようにビッチビッチと暴れながら大泣きする娘を抱えながら、努めて穏やかに妻を送り出す。今日はご婦人方の集まりがある日。そろそろ出ないと遅れてしまう。
可愛くて賢くて優しい最愛の妻は、数日前から娘に今日の予定を伝えていた。
「いい?お母様はご用事があるの。お父様といい子にお留守番出来る?」
「あい!いいこできゆ!」
そんなやり取りを何度か見てほのぼのしていたが、いざ出掛けるとなったらこの通りだ。持っていくものを準備し、化粧をして服を着替えて───そんないつもと違う、を肌で感じた娘のベティは早々にぐずり出してしまった。
その度に手を止め抱っこであやしてと時間を取られ、結局ギリギリの時間になってしまった。乳母はいないのか、って?しがない子爵家の使用人は、ほとんどが仕事を兼任していて忙しい。今日一番時間があるのは間違いなく僕だ。ちなみに僕が抱っこしようとすると「おかーたまがいい!おとーたまきやい(きらい)!あちいって!」とかえって妻に引っ付いてしまう。無力だ。そして胸が痛い。
正直妻が出かけた後が心配だが、そこはなけなしのプライドで余裕のフリをする。最愛の妻は大泣きする娘の額にキスをして出掛けていった。
妻が扉の向こうに消える瞬間、一番の大声で「おかたま!かーたま!」とわんわん泣く。人攫いにでもなった気分だ。背中をポンポンとしながらも、このまま帰ってくるまで泣き続けるかもしれないと白目になる。僕も泣きたい。
が、扉が閉まり直ぐにスンスンと鼻を啜りながらも泣き止んだ。涙に濡れた大きな瞳が愛らしく目元にキスをしようとするが、小さな手で「ヤ」と阻まれる。
そのまま抱っこから降りると何事もなかったようにお人形遊びを始めた。切り替えが早過ぎてちょっと怖い。
そのまますっかり自分の世界に入ってしまった。僕の存在などいないかのようでちょっと寂しいけれど、この時間に書類を読もう。そう思って立ち上がると───
「おとーたま、こども、やって。あたち、おかーたまね。」
娘の要求はいつだって突然だ。そのまま彼女に渡された人形を受け取って隣に座る。
「はいはい。お父様はベティ役でいいのかな?」
「おててあやった(洗った)の?」
説明もなく始まってしまった。
「ごはんれすよー。」
「はーい、もぐもぐ。美味しいなぁ」
「こや!おやちゃいもたべなしゃい!げんきもりもりなえないわよ。」
言い方が妻そっくりだ。よく見てるなぁと関心してしまう。ほっこりして聞いていると、ベティは熊のぬいぐるみを取り出した。
「こや!あなた!」
これはもしかして僕だろうか?そう思っていたら、怒涛の口撃が開始された。
「たべゆのはやしゅぎ!のみものじゃないんだかや、ちゃんとあじわってたべて!」
「…ごめんなさい。」
「おやちゃいも!まったく、おとなになってまですききやい(好き嫌い)だなんて。ベティがまねしたらどーすゆの!おにくばっかりたべてゆからふとゆのよ。」
「太っ…」
「えらいひとはふとってもかんごく(貫禄)があゆからいいけど、あなたはただのぶたしゃん。」
「豚さん…」
「たべものってじゅみょーにかんけいすゆのよ?いろいろかんがえてゆのに…。じぇんじぇんわかってない!」
聞いた事がある台詞から、ない台詞まで。これはアレか?愛する妻の口癖か?僕は愛する妻から愛想をつかされているのだろうか?
思いも掛けないダメージを負う。他でもない、娘の口から発せられるのもダメージに上乗せしてくる。ちょっと泣きそうだ。
そんな僕に構わず、妻の話はまだまだ続く。そろそろ灰も残らない、と思った頃、ベティは怒ったフリをしながらこう言った。
「ずっといっちょにいたいのに、じぇんじぇんわかってないわ!」
その一言で世界が輝き始める。どこがファンファーレが鳴らなかったか?怒っていても最強に可愛い妻の幻影が、天使のような娘に重なった。
「ベティ~!」
「おとうたま、すわってて!」
抱きつこうとする僕を再び小さな手が阻んでくる。その肉球すら愛おしい。構わず抱きついて頬擦りすると、イヤイヤ言いながらも嬉しそうだ。全くそんなところまでそっくりだ。
その後帰ってきた妻に一番に抱き着き娘を泣かせてしまうのも、僕を突き飛ばし娘を抱き上げる妻から冷たい視線を送られるのも、そう遅くない時間になりそうだ。
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