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タブラ・ラサ - 涙を捨てた僕ら -

作者: 藤夏燦

 泣かない赤ちゃんが生まれるようになったのは、まだほんの少し、50年くらい前のことらしい。

僕を含めた10代の少年少女たちは、霞のような瞳をもって口をぼんやりと開いたまま、真顔でこの世界に生まれてきた。

「負の感情の親玉」である「涙」をすべて捨てて。


「タブラ・ラサ」

 桜のみえる教室で、保健体育の先生が言った。今日は中学生になって初めての保健体育の授業だった。

「難しい言葉ですが、誰か意味の分かる人はいますか? 小学校で少し習ったかな」

 すると一番前の席の女子が手を挙げた。

可惜あたらさん」

「はい。人間は生まれつき、感情が白紙の状態で生まれてくるという意味の言葉です。昔の人々は泣きながら生まれてきました。しかしそれは『泣くという感情』を初めから持っていることになります。

 そこで現代では遺伝子操作によって涙腺を取り除き、『負の感情の親玉』である涙を封印することができるようになり、タブラ・ラサの状態で生まれてくることが可能になりました」

「さすが可惜さん、教科書よりも分かりやすい解説でしたね」

 先生が可惜さんを褒めると、教室のみんなが拍手をした。

「では涙を封印すると、どんな良いことがあるでしょうか?」

 小学校からよく聞かれる質問に、教室のみんなが一斉に手を挙げた。

「悲しいという感情の広がりを抑えることができるので、気持ちの切り替えが早くなります」

「悔しいという感情をそのままやる気に変換できます」

「痛い思いをしても泣くことがないので恥ずかしくありません」

 先生はみんなの意見を聞きながら、「うん、うん」と頷く。

「どの意見もまさにその通りですね。『負の感情の親玉』である涙を封印することで、私たちはもっと感情豊かになれます。

 昔の人は泣きながら生まれてきたために、はじめから感情のキャンバスに負の感情が塗られた状態でした。しかし今の私たちはまっさらなキャンバスを好きな感情で埋めることができます。科学の進歩は素晴らしいですね」


 この学校には笑顔があふれている。いや、少なくとも涙の封印をした50年前以降に生まれた人たちが集まる場所はどこも笑顔であふれている。

 部活の試合に負けても、失恋しても、お葬式のときだって誰も泣かない。だって涙は「負の感情の親玉」だから。悲しみ。痛み。悔しみ。憎しみ。妬み。喪失感。それら全部が涙によって大きくなる。

 でも泣かなければ、その感情を引きずることも大きくすることもない。涙を封印した人の心はみんな前向きだ。


「可惜さんのお祖母ちゃんが亡くなったみたいなので、今日、可惜さんは欠席です」

 梅雨の始まりのころ、担任の先生が朝のホームルームでそう言った。

するとみんなが拍手をした。「死」は人生のゴール、お葬式はエンドロール。盛大に祝わなくてはならない。

 僕は可惜さんがいないのかと思って、少し寂しくなった。利発的で勉強もできて、ショートカットで可愛いので、少し気になっている。

 遠くにみえる都心のビル群まで静けさをまとった雨の日の学校。僕はぼんやりと可惜さんのことを考えながら、一日の授業を終えて部活に向かった。

 僕はバスケ部だ。まだ一年生なので試合に出ることは基本的にない。今は夏にある大会にむけて、先輩たちのサポートをしている。

「おつかれさまです!」

「おう、おつかれ」

 まだ誰もいない体育館で早くから自主練をしている先輩がいた。時丸先輩だ。

 時丸先輩は3年で、身長も低く体も小さい。それでも誰よりも試合中に走るし、部活前と後の自主練も怠らない。努力でレギュラーの座をつかみとった、僕の憧れの先輩だった。

「大会、がんばってください」

「うん、ありがとう。がんばるよ」

 時丸先輩のシューズが床に擦れる「キュッ、キュッ」という音が、ロッカールームにまで聞こえてくる。

(先輩、練習がんばってるなあ。僕も先輩みたいに練習したらレギュラーになれるかな)

「でも矢知やちがいるからなあ……」

 矢知というのは同じ1年生の生徒で、身長が180cm近くあり、バスケの経験もある。将来のエース候補だ。

「ううん、あきらめるにはまだ早いな」

 僕は首を大きく横にふって、靴ひもを結んだ。


 部員が全員揃い、練習前のミーティングが始まった。コーチが座り込む部員たちの前に立ち、大会への意気込みを話し始める。

「いいか、大会までもう2か月を切っている。特に3年生は最後の大会だ。悔いが残らないように、一日一日を大切にしていこう」

 僕はこっそり時丸先輩を見た。真剣な眼差しでコーチの話を聞いている。

「最後にこの大会のレギュラーだが、時丸を外して矢知に変更する。矢知の能力はすでに3年レベルだ。勝つためにこのメンバーでいく」

 その瞬間、時丸先輩の顔が変わった。驚きと悲しみに襲われたように唇をかみしめていた。

「以上だ。それでは練習をはじめよう」


「おつかれさまでした!」

 部活が終わったあと、いつもなら残って練習をしている時丸先輩の姿がない。

 心配になってロッカールームへ向かうと、すでに制服に着替えて帰ろうとしていた。

「あの、時丸先輩。もう帰っちゃうんですか?」

「うん。もう練習をしても意味ないし、時間がもったいないから」

「でもレギュラーじゃなくなっても、控え選手だって試合に出られるチャンスはあるじゃないですか。時丸先輩ならスーパーサブ的な役割だって活躍できます」

「うちのメンバーにスーパーサブはもういるんだ。僕にコートの上で求められてきた役割はもう無くなった。大丈夫、部活をやめたりはしないから」

「でも……、あんなに練習してたのに」

「そうだね、もったいないね。でもどうすることもできない。切り替えて前を向くしかない」

 時丸先輩は霞のような瞳で、遠いところを見るように言った。涙を封印した人間は時々みんなこんな顔になる。

「じゃあ僕は行くよ。一緒にレギュラー陣のサポート頑張ろう」

 手を振ってロッカールームを出ていく時丸先輩の背中は、特にいつもと変わらなかった。僕はその姿に胸の奥に引っかかるような、もやもやした気持ちを感じていた。


 泣くことって、涙を流すことって、本当に悪いこと何だろうか。

そんなことを考えていたら、眠れなくなって体に悪いような気がしてきたので、やっぱり忘れることにした。

 涙は「負の感情の親玉」。タブラ・ラサ……。


 可惜さんが忌引き明けで学校に戻ってきた。彼女もまた恐ろしいくらい、いつも通りだった。難しい質問には真っ先に手を挙げている。

(可惜さんはやっぱりすごいなあ)

 僕が可惜さんに見とれていると、担任の先生から休み時間に呼び出された。

 生物の小島先生が授業で人体模型を使いたいというので、生物係の僕とそのお手伝いに名乗りをあげた可惜さんの二人で、昼休みに実験室から人体模型を教室に運んでほしいとのことだった。

「人体模型ですか」

「うん。私はタブレットにデータがあるからって言ったんだけど、小島先生がどうしても古い人体模型を使いたいみたいで」

「わかりました」

 小島先生は涙が封印される50年前より前に生まれた先生で、定年近くの変わった男の先生だった。

 僕はそんなことはどうでもよくて、可惜さんと二人きりになれるのが嬉しかった。


 そして昼休み、僕と可惜さんは実験室の前で待ち合わせをしていた。可惜さんが職員室へ行って、実験室の鍵を借りてきてくれた。

「おまたせ」

「ありがとう、可惜さん」

 僕らは暗い実験室へ入ると、小島先生が使う人体模型を探した。もう何年も使われていない教材も多く、高価な人型アンドロイドのような学校には似合わないものも置いてある。

「この実験室は昔、小島先生が研究のために使っていたらしいの」

 学校の事情にも詳しい可惜さんが言った。

「なるほど、だから古い機材が多いんだ」

「うん。今日使う人体模型も、確か小島先生が作ったんじゃないかな」

「へえー、小島先生ってすごいんだね」

 世間の研究の主軸が機械工学からバイオサイエンスに移ってから、アンドロイドなどの研究は注目されなくなっている。

 人間のような機械ではなく、機械のような人間を目指して研究が進んでいるのだ。

「あった。これだね」

 可惜さんが小島先生が用意をしてほしいと言っていた人体模型を見つけた。髪の長い女の人を模した、人体模型というよりアンドロイドだった。

「すごい。まるで人間みたいだ」

「ほんと」

 僕らは彼女の精巧さに驚いた。立ったまま目を瞑り、眠っているようにしか見えない。今にも動き出しそうだ。

 すると突然、「ガタン」と大きな音がした。

「え?!」

 僕らは驚いてあたりを見回した。普段冷静な可惜さんも少し顔が緊張している。

「ごめん、ごめん。驚かせてしまったようだね」

「小島先生!」

 アンドロイドの陰から顔を出したのは、生物の小島先生だった。白い髪と髭、丸い眼鏡をかけている。

「おつかいを頼んでおいて申し訳ないのだが、君たちが無事に人体模型を見つけられるか少し不安でね、見に来てしまったよ」

 僕らは小島先生の顔を見て、ホッと胸をなでおろした。

「これですよね。無事に見つけられましたよ」

 僕がそういうと、小島先生は安心したようにうなずいた。

「これって先生が作ったんですか?」

 可惜さんが気になっていたことを尋ねる。

「うん、そうだよ。昔はよくできているって評判でね。私の助手として一緒に子供たちに勉強を教えていたよ」

「えー!?」

 アンドロイドが学校で活躍していたってのは教科書では読んだことがあったけど、まさかうちの学校でもアンドロイドの先生がいたなんて。僕と可惜さんは驚いた。

「なんて名前なんですか? この人」

 また可惜さんが尋ねる。

「クレミアだよ。優秀だった」

「クレミアさんはどうして、動かなくなったんですか?」

 僕の質問に小島先生は首を振った。

「おそらくまだ動くよ。ただ彼女には涙が搭載されていた。もともとは人間を模した機構だったが、実際の人間が涙を流さなくなると、時代遅れのアンドロイドになってしまったんだ」

 僕はクレミアの顔をみた。うっすらと涙のあとが頬をつたっていたように見えた。

「私は人間みたいな機械を目指していた。だがいつの間にか人間が機械みたいになってしまった」

(泣かない人間は機械みたい……?)

 僕は小島先生の言葉が引っ掛かった。涙を封印することで人間はタブラ・ラサとして白紙の感情のまま生まれ、より豊かな感情を会得することができる。そう教えられてきたからだ。

 するとまた可惜さんが尋ねた。

「先生は涙がいらない機能だと思いますか?」

「ほう。可惜さんはどうしてそう思ったのかな」

「昨日、お祖母ちゃんのお葬式だったんです。それで私やお母さんはずっと笑っているのに、お祖父ちゃんだけが泣いていました。

 私はお祖父ちゃんに泣くのは体に悪いよ、悲しみは体に悪いよって教えてあげました。そうしたらお祖父ちゃんは『もちろん悲しいけれど、悲しみだけで涙を流しているわけじゃないのさ』って言われたんです。お祖母ちゃんに『ありがとう』って伝えるために泣いているって」

「なるほど……、クレミアは今の話を聞いてどう思う?」

 小島先生は眠ったように見えるクレミアに声をかけた。するとクレミアは優しく滑らかな古い合成音声の声で答えた。

「私は涙を流すことができませんが、涙は人間の最も美しい特徴の一つだと思います」

 僕と可惜さんはクレミアの方を向いた。彼女は目をつぶったまま、動きも止めている。

「そうだね。私も涙は必要な機能だと思っていたよ。だからいろんな学会を追放されて、今こうしてこの学校で生物の先生をしているわけだが……」

 小島先生はクレミアを見つめながら続けた。

「タブラ・ラサで言われている白紙の意味は何も感じない知らないということではなく、すべての感情を知ったうえで生まれてくることだと思っている。楽しいことも悲しいことも、すべての感情を理解することで、自分だけではなく他の人の気持ちもわかるようになるんじゃないかな。

 可惜さんのお祖父さんもきっと、お祖母さんと心が通じ合っていたからこそ、悲しみだけじゃない涙をお葬式で流したんだと思うな」

 僕も可惜さんも涙を流すことはできないが、先生の言葉を立ち止まって考えてみた。ネガティブでもポジティブでもない、不思議な感情が湧いてくる。

クレミアがまた声を出した。

「人は生まれたときに涙を流すことで、自分の存在を宣言するのかもしれません。自分の感情や思考を持つ生き物として、この世界に参加するのです。そして大切な人たちと出会うのです」

 僕は時丸先輩のことを思い出していた。可惜さんはきっとお祖母さんのことを考えているのだろう。

 僕らの目からは涙は出てこないが、霞のような瞳の奥に少し光がさしていた。


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