89 婚約、お受けいたしますわ。
グレゴリー殿下たちが帰り、セイヤとアキ様が出ていってしまうと、サガワ家は一気に静かになりましたわ。
サキはお兄様と談笑しておりますし、ルイス殿下は何か言いたげにワタクシを見つめてくるばかり。正直申しまして居心地が悪いことこの上ないですわ。
今頃、セイヤがアキ様とお楽しみなのだろうと考えると胸が痛くて。とうとう耐え切れなくなり、ワタクシは口を開きました。
「……ルイス殿下、何かおっしゃりたいことがあるならどうぞ。それがないならワタクシ、帰らせていただきますわ」
本当はすぐにでも帰りたかったのですけれど、ルイス殿下にはあの夜借りを作ってしまったので仕方がありませんでしたの。
「じゃ、じゃあ。言わせてもらおうか」
「はい」
「――ダニエラ嬢。貴女と僕も、デートに行かないかい?」
デート。
ワタクシはその一言に、表情を固くしました。
「デートとは、婚約者あるいは恋人同士が行うものだったはずですけれど。
ワタクシとルイス殿下、いつ婚約者になったのかしら?」
「いいんだ、細かいことは」
「……。理由をお聞かせ願えますか」
「貴女に僕から伝えたいことがあるからだよ」
ルイス殿下の優しげな微笑みは、有無を言わせぬもので。
彼の意図がわかっていながらワタクシは、首を縦に振ってしまっていました。
この場所にいてもただ仲の良いお兄様とサキの様子を見せつけられるだけ。
そのくらいなら、この場を去った方がマシと考えたのもあります。
「そこまでおっしゃるなら、付き合って差し上げますわ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
異界の街並みには、何度見ても驚かされるばかりです。
ジテンシャやバス、クルマといった謎の装置が駆け抜ける中、それらに轢き殺されないように気をつけながら、ルイス殿下と共に歩きます。
「デートとおっしゃいますが、どこへ行くつもりですの?」
「ダニエラ嬢の望むところならどこまでも……と言いたいところだけど、絶好のデート場所があるらしくてね。そこへ行こうと思っている」
もったいぶって言うルイス殿下に少し腹を立てつつも、淑女たるワタクシはそのようなことで表情を崩したりはいたしません。
「ワタクシ、異界のお食事が好きですの。できれば何か食したいですわ」
「わかった。なら、途中の店でいいところがあれば寄って行こうか」
「もちろん支払いはルイス殿下にお任せしますわね」
たくさん食べてルイス殿下のお財布を痛めつけてやろうと密かに決めました。
食べ歩きし続けること数時間。
一時的な力はあれど持久力の足りないワタクシの足が悲鳴を上げ始める頃、やっと目的地に到着したようでした。
「ほら、ここだよ。展望台っていうんだ。景色が一望できるだろう?」
「……まあ」
眼下に広がるは、美しい青。
海、というやつですわ。
「ダニエラ嬢は海を見るのは初めてだろうと思って、どうしても一緒に来たかったんだ」
――故郷メロンディックにも海はございました。
が、セデカンテ侯爵領は海から程遠い場所。加えて王太子妃になるはずだったワタクシは常に大勢の護衛を従えねばならず、そう簡単に遠出できるような身分ではございませんでしたから、海など一度も見たことがございませんでしたの。
この異界に来てからも全く目にする機会がなかったのですが、まさかルイス殿下と一緒にやって来ることになるだなんて。
――ルイス殿下もなかなか捨てた殿方ではございませんわね。
「さて、ここで殿下はワタクシに何をお話しくださるのかしら」
展望台の柵の前に立ち、海を眺めながらワタクシはルイス殿下に問いました。
もちろん彼が何をおっしゃりたいかなんてとっくのとうにわかっていましたけれど。
「僕と婚約してほしいんだ、ダニエラ嬢」
「――――」
「僕なら貴女を幸せにできる。してみせる。そして、貴女がとろけてしまうくらいに愛するよ」
ルイス殿下がワタクシの体をそっと背後から抱きしめます。
今までならば頑として抵抗していたことでしょう。しかし現在のワタクシはその気が起きませんでした。
「そして僕を支えてほしい。王太子妃としての器を持つのは貴女だけだ。僕が有能王子と呼ばれるようになったのは、貴女への恋心があったからこそ。それが失われれば、僕は国を取り仕切れない。そうなればメロンディックがどうなるか……貴女にならわかるね」
「メロンディックに戻るおつもりですか」
「最初からそうさ。もうすぐ、セデカンテ令息が手筈を整えてくれるはずだよ」
……やはり。
そんな気はしておりましたけれど、本当に用意周到ですこと。どうやってあの曲者のお兄様を言いくるめたのでしょう。憎たらしいほど有能ですわね。
「グレゴリー殿下は王太子に向いていらっしゃいませんものね。ですがワタクシは一度捨てられた身ですわよ? 異界追放までされた傷物令嬢を娶ったとなれば、ルイス殿下の評判を落とすことになりますわ」
「そんなのは百も承知さ。でも僕はその程度のこと、どうだっていい。求めるのはただ、貴女の愛だけなのだから――」
ああ。
ワタクシとルイス殿下の距離が近くなり、今、口付けられようとしている。
なのにワタクシは逃げない。逃げる気さえ起こらない。ということはつまり、ルイス殿下を受け入れる気になってしまったということ。
「お好きになさいませ。
どうせワタクシは恋破れた身。嫁ぎ先もございません。婚約でも何でもお受けいたしますわ!」
ヤケクソのように叫んだその直後、ルイス殿下の唇がワタクシの頬へ吸い付きました。
……てっきり唇同士でするものだと思っていたワタクシが驚いて顔を上げると、そこには少し茶目っ気のあるルイス殿下の笑みがあります。
「きちんとしたキスは婚姻の時にしよう。……婚約、受けてくれて嬉しいよ」
日が暮れるまで、ワタクシはルイス殿下に抱かれていました。
夕焼けに染まる海はとても美しく輝き、とても幻想的でしたわ。
「心から愛しているよ、ダニエラ嬢」
この景色をセイヤと一緒に見られたら……と考えてしまうワタクシは、なんて愚かなのでしょうか。
勢いで婚約をお受けしてしまったものの、どうやらルイス殿下をお慕いできるようになるのはもっと先の話のようですわ。
もちろん、こうなった以上王太子妃としての務めは果たしますけれど。
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