「婚約破棄するぞ」が口癖の婚約者に見切りをつけ、素敵な旦那さまと幸せになります
「お前なんかに、何ができるというんだ。うるさいようなら、婚約破棄するぞ」
ミレーヌの婚約者である伯爵令息アベルは、整った顔を酷薄に歪めてそう吐き捨てた。
王立学園の教室の一室には他に誰もおらず、アベルの声だけが響き渡る。
この言葉を聞いたのは何度目だろうか。ミレーヌは、もはや数える気も起きない。
彼はミレーヌが少しでも己の意に反するようなら、婚約破棄を持ち出して脅してくるのだ。
家が格下の子爵家であり、彼の家から支援を受けている身分では、言い返すこともままならない。ミレーヌはじっと耐え、俯く。
「そもそも、お前程度の魔力では、うちで使ってやっている平民どもと変わらない。馬鹿なことは考えず、良い妻になる努力だけしていればいいんだ。もう、うんざりだ。僕は帰る」
ため息と共に言い捨てると、アベルは教室から出ていった。
残されたミレーヌは、諦めたような吐息を漏らすと、宙を見上げる。
今回の発端は、ミレーヌが選択科目に基礎魔術を選びたいと言ったことだった。
ミレーヌは本当は魔術を学びたく、王立学園に入学する際も魔術科を選びたかったのだ。
しかし、アベルはミレーヌが淑女科に進むことを望んだ。彼の意向には逆らえず、ミレーヌは魔術の道を諦めた。また、並外れた才能があるわけではなく、どうにか魔術師になれるほどの魔力しか保有していないのも確かだ。
それでも、せめて選択科目でわずかなりとも学ぶことができればと思ったが、彼は許してくれなかった。
「……この先も、一生こうなのかしら……」
ミレーヌはぼそりと呟く。
両親も伯爵家には逆らえず、婚約者に従えと言っている。また、アベルは両親の前ではにこやかに振る舞うのだ。本性を見せようとしないずる賢さがある。
このまま彼に従い、彼の言いなりになって一生を終えるのだろうか。
そこに幸福は見出せず、かといって抜け出すこともできず、ミレーヌは閉塞感に包まれていた。
ある日の放課後、アベルが小柄な女子生徒と楽しそうに腕を組みながら歩いているところに、ミレーヌは遭遇してしまった。
明らかに、友人の距離感ではない。恋人同士としか思えない接し方だ。
それも、いつもアベルがミレーヌに待っていろと命じている場所でのことだ。間違いなく、見せつけているだろう。
「アベルさま、その方は……」
「何か文句でもあるのか!? 地味な女のくせに、自分の立場をわきまえないのなら、婚約破棄するぞ!」
控えめに声をかけたミレーヌだったが、返ってきたのはアベルからの恫喝だ。
ミレーヌは口をつぐむ。茶色の髪を両親は落ち着いた色合いと言うが、地味であることは否定できない。水色の瞳も、この国ではよくある色だ。
アベルに寄り添っている女子生徒は、ピンク色のふわふわとした髪で、全体的に柔らかそうだ。ばっちりと化粧もしている。
「お前の辛気臭い顔、嫌気が差すな。化粧もせず、服装も流行遅れで野暮ったい。その点、彼女は本当に愛らしい。一人前に嫉妬などせず、彼女を見習うんだな。婚約破棄されたくないだろう?」
「ねぇ、アベルさまぁ。早く行きましょうよぉ。人気のケーキのお店に連れていってくださるんでしょお?」
「そうだな、こんな女の顔を見ていたら気分が悪くなる。早く行こうか」
しなだれかかる女性生徒に微笑み、ミレーヌには舌打ちを残すと、アベルは去っていった。
呆然と見送るミレーヌだが、心には嫉妬どころか開放感すらわき上がってくる。
化粧をするな、服装は慎ましいものにしろと押し付けてきたのはアベルだったはずで、それに対する苛立ちが少しあるくらいだ。
今日はこれから口うるさいことを言われず、少しばかり自由時間ができたということになる。
意識せず、ミレーヌの口元がほころんでいった。
「行ってみたかったのよね……」
弾む声で呟くと、ミレーヌは一人で魔術科の建物に向かって歩いて行く。
ミレーヌの通う淑女科やアベルの通う教養科は貴族が多く、魔術科には平民が多い。そのためか、建物も離れているのだ。
魔術科の建物に近付いていくにつれ、人の姿が見えなくなっていく。貴族は平民が多い場所に近寄ろうとせず、平民も似たようなものなのかもしれない。
「あら……? もしかして、薬草?」
建物に近付いたところで、ミレーヌは花壇を見つけた。
そこには庶民が傷薬として使う薬草が植えられていたのだ。ミレーヌは近付き、花壇の前で屈みこむ。
「この薬草からポーションのようなものが作れないかと考えたのよね……」
ポーションは、魔鉱石に魔力を注ぎ込むことによって治療薬となったものだ。
魔鉱石の純度や作成者の魔力によって効果が決まり、最上級のものは欠けた手足すら再生するという。通常のものでも切り傷くらいなら瞬時に癒すことができる。
ただ、原料の魔鉱石は数に限りがあり、どうしても高額になってしまう。庶民にはなかなか手が届かない。
アベルの家では、ポーションの製造販売という事業を行っている。
もし薬草の効能を引き出し、ポーションに類似したものを作り出すことができればと考えたミレーヌだが、アベルは鼻で笑うだけだった。
「女が事業に口出しするな、お前なんかに何ができるんだ、そんな幼稚な思いつき恥ずかしくないのか……色々言われたわね……」
アベルから言われたことを思い出し、ミレーヌはため息をつく。
だが、すぐに今はせっかくの自由時間なのだから、嫌なことは考えないようにしようと気持ちを切り替える。
「この薬草、乾燥させると効果が落ちるのよね。その分、日持ちはするけれど。もし、新鮮な状態をそのまま維持するか、それとも薬効だけ引き出して凝縮することができれば……それで保存可能にするために……治療薬にするには……」
「面白い考えだね」
一人でぶつぶつ呟いていたミレーヌの後ろで、声がした。
ぎょっとして、ミレーヌは前に倒れてしまいそうになるが、どうにか持ちこたえた。それでも動揺は隠しきれず、勢いよく立ち上がり、振り返る。
すると、そこにはボサボサの金髪を目が隠れるくらいまで伸ばし、くたくたの安っぽいローブを着た男子生徒らしき姿があった。
ローブは魔術科の生徒が着用するものなので、彼も魔術科の生徒なのだろう。
「驚かせてしまいましたね。申し訳ありません。……ところで、淑女科のお嬢さまが何のご用でしょうか?」
彼はミレーヌの紺色のスカーフを見ながら、そう声をかけてきた。紺色のスカーフは、淑女科の証だ。
「いえ……その……魔術に興味があって……でも、学べなくて……それで、気になって……入ってはいけない場所でしたか?」
しどろもどろになりながら答えるミレーヌに、彼は首を横に振った。
「いいえ、誰でも入れる場所ですよ。ただ、淑女科の方はこのような平民だらけの場所、下品で汚らわしいと近付きませんからね」
穏やかに語る彼の姿には、品があった。身なりこそ貧相ではあるが、平民とは思えず、ミレーヌは首を傾げる。
「……でも、あなたは上品ですわ。発音も上流階級の……」
「生まれた家が貴族だっただけのことですよ。今はただの平民です」
ミレーヌが言いかけた言葉を、彼は硬い声で遮る。
はっとして、ミレーヌは言葉を引っ込めた。何かの事情があるようだ。追及するようなことではないだろう。
すると、彼もややばつが悪そうに口元を歪めた。
「……失礼いたしました。私はシアンと申します。魔術科の三年生です」
「私はミレーヌと申します。淑女科の一年生です」
咳払いをして、彼は名乗った。ミレーヌも名乗る。
「ところで、先ほど呟いていた内容、興味深いものでした。薬草など庶民の使うものと、貴族の方は馬鹿にしていらっしゃいますからね。そこから治療薬を作ろうなど、普通は考えないかと」
「……私の家は貴族といっても貧しくて、ポーションなど買えませんでしたから。こっそり薬草を手に入れていましたわ」
「なるほど。ポーションは性能が低いものでも高価ですからね。質の悪い魔鉱石にはさほど魔力を注ぎ込めないとはいえ、一定以上の魔力保有者が必要ですし」
質の良い魔鉱石は、多くの魔力を吸収できるので、高い魔力保有者が必要となる。逆に質の悪い魔鉱石は吸収量が低いため、高い魔力を注ぎ込むと割れてしまう。
アベルの家ではほどほどの魔力保有者を集め、質の悪い魔鉱石からポーションを生産している。ポーションにしては安価で、庶民でもいざというときのために備えておけると、店は繁盛していた。
「作り手も、魔鉱石を己の魔力で変形させる……いわば、己の力で抑え付けてねじ伏せるようなものですからね。薬草から効果を引き出すという考え方が、魔術師としては新鮮です。素晴らしい」
「そういうものなのですか……」
お前は常識も知らない馬鹿だとはアベルからよく罵られたが、シアンはむしろ褒めてくれているようだ。ミレーヌは自分の考えを受け入れてくれていることに驚き、戸惑う。
もしかしたら、貴族も魔術師も凝り固まった常識に囚われているのかもしれないと、ふと思い浮かぶ。
「質の悪い魔鉱石は、高い魔力を注げば割れてしまうので、ほどほどの魔力保有者が力を注ぎます。でも、魔術師にとっては己の力不足で、低い位置に甘んじるしかないということですからね。ところが、もし薬効を引き出すのに高い魔力よりも、ほどほどのほうが都合が良いとなれば……」
シアンはぶつぶつと呟きながら、何かを考え始めた。
己の世界に没頭していく彼を眺め、ミレーヌはどうするべきか迷う。
婚約者以外の異性と二人きりという状況を考えれば、すぐにでも別れを告げて去るべきだ。
しかし、いつも否定され、抑え付けられてきたミレーヌにとって、自分の話をまともに聞いてくれる相手というのは、離れがたい魅力があった。
アベルはミレーヌが他人と仲良くするのを嫌がり、同性の友人すら作れないのだ。他人とまともに会話したことなど、久しぶりかもしれない。
すると、我に返ったようにシアンは独り言を止め、まっすぐにミレーヌを見つめた。
髪の隙間からのぞく青色の瞳に、ミレーヌは目を奪われる。よく見れば、目鼻立ちは整っているようだ。
どうしてよいのかわからなくなるミレーヌの前に、シアンは跪いた。突然のことで、ミレーヌは唖然としてしまう。
「あなたこそ、暗闇に迷う私に光を与えてくれた女神です。今日のこの出会いに、私は生涯感謝することでしょう」
「え……ええ……そんな……思い付きを少し呟いた程度で……ええ……?」
熱烈な言葉に、ミレーヌは困り果てる。
それほど大げさなことだろうかと、理解できずにおろおろとするだけだ。
「いいえ、あなたにとってはちょっとした呟きでも、私にとっては迷路の中で出口への道しるべを示されたようなものなのです。もしよろしければ、今後も言葉を交わすことができればと思います」
これは、今後も会いたいということだろう。
断るべきだと、ミレーヌの理性は訴えかけてくる。
「……その……薬や、魔術のお話をする程度でしたら……」
しかし、口から出てきた言葉は、理性を裏切るものだった。
自分の話に耳を傾け、尊重してくれる相手なのだ。ミレーヌの傷付いた心には、劇薬のように侵食していき、抗うことなどできない。
薬や魔術の話をするだけで、異性との会話とは違うと、ミレーヌは己に言い訳をする。
「ありがとうございます……! 私は放課後はこのあたりにいますので、ご都合の良いときにいらしてくだされば嬉しいです」
顔を輝かせながら、シアンはミレーヌを見上げて弾んだ声を上げる。
自分の返事で誰かが喜んでくれるなど、いつぶりのことだろうか。ミレーヌもまた、喜びを噛みしめていた。
それから、ミレーヌは放課後に魔術科近くの花壇を訪れるようになった。
束縛してくるアベルは幸いにして、浮気相手に夢中になっている。
放課後にアベルを待って浮気相手との仲睦まじい様子を見せ付けられた後、花壇に向かうのが日課となっていた。
「ポーションといえば液体ですよね。でも、薬草から効果を引き出すのなら、液体にこだわらなくてもよいのではないかと」
「そうですね、軟膏のようなもののほうが安定させられるかもしれません」
二人が目指すのは、薬草から新たな薬を作り出すことだ。
そのために意見を出し合い、試行錯誤を繰り返していく。その過程で、基礎的な魔術をシアンから教わることもできた。
ミレーヌにとっては、かけがえのない楽しい時間となった。
「……失敗してしまいましたわ……ごめんなさい……」
「謝る必要などありませんよ。失敗を重ねて、上達していくものです。今の失敗が成功への糧となるのですから、むしろ喜ぶべきですよ」
魔術を教わりながらミレーヌが失敗してしまっても、シアンは決して責めるようなことはしない。
これがアベルであれば、ここぞとばかりに責め立て、ミレーヌを馬鹿にしてきたはずだ。
「何となくの思い付きなのですけれど……」
「……なるほど。いつも、あなたの発想には驚かされます。その方法も後ほど試してみましょう。あなたはやはり女神の英知が宿っていますね」
どのような荒唐無稽な思い付きであっても、シアンは否定しない。
誉め言葉を惜しむことなく、ミレーヌを尊重してくれる。
彼との時間はとても心地よく、それが特別な感情に変わっていくのに、さほど時間はかからなかった。
そして、ついに試作品の薬が出来上がった。
緑色の軟膏を二人で眺め、感慨深さに浸る。
「ついに、薬ができましたね……!」
「まだまだ改良の余地はありますが、大きな一歩です。いずれ、下級ポーションくらいの効能は引き出せるでしょう。それでいて、費用が格段に少ない……これは、庶民の救世主になるかもしれませんよ」
二人は喜び合うが、ある意味ではやっとスタート地点にたどり着いたようなものだ。感動を噛みしめつつも、これからだと気を引き締める。
明日からは、さらに改良を重ねていこうと頷き合い、二人は帰路に就く。
夢に、とうとう指先が触れることができたのだ。いずれ、手につかむこともできるだろう。
ミレーヌは己の未来に希望を抱けるようになっていた。
だがそれは、道を塞ぐものから目をそらし、幻を夢見ていたのだと思い知らされることになる。
「アベルさま……」
花壇から淑女科に戻ろうと少し歩いたところ、腕を組んで怒りの形相を浮かべるアベルが立っていたのだ。
見られていたのかと、ミレーヌは血の気が引いていく。
「まさか、お前に裏切られるとは思わなかった。ずいぶんと楽しそうだったな。あれが浮気相手か?」
問い詰められ、ミレーヌはシアンに累が及ぶかもしれないことに恐怖を覚える。
彼は訳ありのようだが、今は平民だと言っていた。本当にそうであれば、伯爵子息であるアベルに睨まれては危険だろう。
「あの方とは、魔術や薬に関するお話をするだけです。浮気だなど思われるのは心外ですわ」
はっきりとミレーヌが言い返すと、アベルはわずかに怯んだようだ。いつもおとなしいミレーヌが反抗したことに、驚いたのかもしれない。
「お前の言うとおりだとしても、僕の言いつけを破ったことに変わりはない。魔術や薬に関する話? どうして僕が止めろと言ったのに従わない? いや、やはり僕の許可無く他の男と話すなど裏切りだ。恥を知れ!」
「……では、婚約者の目の前で他の女子生徒と体を寄せ合い、腕を組んで笑っているのは裏切りではないのですか?」
これまでなら言わなかったかもしれない言葉が、口からぽろりと出てきた。
アベルはいつも自分のことは棚に上げて、一方的にミレーヌを抑え付け、罵ってくる。それを当然のこととして諦めていたが、何かが違う、このままでは幸せから遠ざかるだけだと、ミレーヌは勇気を出す。
だが、それは蛮勇だった。アベルの顔が怒りで真っ赤に染まる。
「なっ……お前ごときと僕を同列に扱うつもりか! ふざけるな! 身の程を知れ! 婚約破棄だ!」
激昂したアベルはそう叫び、ミレーヌの頬を平手で力任せに叩き付けた。
特別鍛えているわけでもないアベルだが、それでもミレーヌとの腕力の差は歴然だ。ミレーヌは地面に崩れ落ちてしまい、口の中には血の味が広がっていく。
これまでずっと耐えてきたミレーヌの中で、何かが切れる音がした。
「いいか、婚約破棄されたくなかったら心から反省して……」
「婚約破棄、承知いたしました」
何かを言いかけるアベルを、ミレーヌは冷たい声で静かに遮る。
アベルが息をのみ、口をつぐむ。信じられないといった様子だ。
「では、失礼いたします」
ミレーヌは立ち上がると、アベルを見ることなく、その場を後にする。
愕然と立ち尽くすアベルを振り返ることは、一度もしなかった。
自宅に帰ると、ミレーヌの腫れた頬を見て、両親が焦りながらどうしたのかと問いかけてきた。
そこで、ミレーヌはアベルの所業を二人に話す。これまでの仕打ちや、婚約破棄を持ち出して脅してきた事も、全て語る。
「……まさか、彼がそのような奴だったとは……見る目がなかった……いや、薄々気付いていたのかもしれない……目をそらしていて、すまなかった……」
「あなたにばかり我慢を強いてごめんなさい……女性に手を上げるような殿方など、結婚したところで幸せになどなれないわ。後のことは心配しないで」
すると、両親はミレーヌの言い分を全て信じて、受け入れてくれたのだ。
どうせ言っても無駄だと諦めていたが、それは思い込みでしかなかったらしい。ミレーヌの瞳から、涙がこぼれる。
家のことなど考えずに婚約破棄を承諾してしまったが、それも両親は責めることなく、当然のことだと頷いた。
ミレーヌは学園を退学することとなった。
もともと淑女科は、結婚と共に退学していくのが当たり前だ。結婚ではなく、婚約破棄だが、もう通う必要はない。
ただ一つの心残りは、シアンともう会えなくなることだ。それも、理由を告げることもなく姿を消したので、心配させてしまうだろうかと心苦しい。
「……手紙を書けば、届くかしら」
魔術科の三年生ということはわかっているのだから、手紙を書けば届く可能性は高い。
だが、ミレーヌはなかなか手紙を書く気になれなかった。
アベルが暴力を振るって婚約破棄を言い渡したことにより、婚約そのものは無事に解消された。しかし、当然のことながら家への支援は絶たれたのだ。
家は少しずつ持ち直してきているものの、まだ心許ない。
ミレーヌは支援してくれるような、裕福な嫁入り先を探してくれるよう、両親に頼んでいた。たとえ四十歳離れた成金の後妻でもよいから、と。
趣味で薬草を育てることを許してくれるのなら、他に何も望むことはない。どうせ相手がシアンではないのなら、誰でも同じだと投げやりな気持ちもあった。
今、シアンとの繋がりを持ってしまうと、心が揺らいでしまうかもしれない。
手紙を出すのなら、全てが決まってから別れを告げる手紙にしようと、ミレーヌは決める。
そうして、抜け殻のような日々が過ぎていった。
「ラスペード公爵令息がお見えになったが……どういうことだ?」
あるとき、ラスペード公爵令息がミレーヌを訪ねてきたという。
ラスペード公爵家は王家の血を引く名家である。名前だけは知っているが、雲の上の存在だ。
問いかけてきた父と同じように、ミレーヌも戸惑う。
しかし、会わないわけにもいかない。緊張しながら、ミレーヌは応接室に向かう。
すると、そこには短い金色の髪を綺麗に整え、仕立ての良い服を纏った一人の男性が待っていた。その姿を見て、ミレーヌは言葉を失う。
「お会いしてくださってありがとうございます。リュシアン・ラスペードと申します」
「……シアン?」
優雅に挨拶してきたのは、これまで花壇で共に語り合ってきたシアンだった。
ボサボサの髪は綺麗になり、安っぽいローブが高級な服になっているが、それくらいで見間違えるはずがない。
むしろ、彼の優雅な仕草には今の姿のほうが似合っているくらいだ。
「そう、あなたと語り合ったシアンです。恥を忍んで、こうしてやってまいりました。どうか、私の話を聞いていただけますか?」
「は……はい……」
まだ現実感がないまま、ミレーヌは頷く。
すると、シアンは穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます。私はラスペード家の三男として生まれました。しかし、優秀な兄たちと比べると、出来損ないでしてね。家の方針として魔術を学びましたが、それもたいした才はありませんでした。やさぐれた私は、学園の魔術科に入学するのと同時に、家とは縁を切ったのです」
そのために平民と言っていたのかと、ミレーヌは納得する。
生まれが貴族でも、次男や三男が市井に下るのは珍しい話ではない。
「魔術科でも私は平凡でした。ラスペード家では上級ポーションの製造事業も行っていますが、それに携われるような魔力もありません。いずれ市井で薬店でも始めようかと思いながら、そちらもはかばかしくなく……そのようなとき、あなたにお会いしたのです」
シアンはまっすぐにミレーヌを見つめる。
彼の魔力がさほど高くないとは、以前にも聞いたことがあった。その分、細かいコントロールが得意だったのだが、魔力頼みのポーション作成には役に立たないようなことだとも。
「あなたの斬新な発想を聞き、私は道が開けたのです。それだけではありません。あなたの婚約者の話は聞きました。そのような状況にありながら、折れることなく前を見続ける芯の強さに胸を打たれました。そして、家から逃げ出した自分が恥ずかしくなったのです」
薬草から効能を引き出すのに、シアンの繊細なコントロールはうってつけだった。
喜ぶ彼を見ているとミレーヌも嬉しく、心の支えとなったのだ。折れることがなかったのは、彼のおかげでもある。
「あなたが婚約を破棄されて学園を退学したと聞き、私はなりふり構っていられませんでした。あなたと作った薬を手土産にラスペード家に戻り、地面に額を擦りつけて受け入れてもらいました。平民では無理でも、ラスペード公爵家の人間ならば、あなたに求婚できますから」
求婚、という言葉にミレーヌの鼓動が跳ね上がる。
まさかと驚きながら、期待がふつふつとわき上がっていく。
「これまで、あなたには婚約者がいるからと想いを抑えてきました。ですが、もう我慢する必要はありません。あなたの芯の強さ、ひたむきさ、優しい心に惹かれました。どうか私と結婚してください」
ミレーヌの前に跪き、シアンは愛を告白する。
これは現実だろうかと信じられず、ミレーヌは呆然と立ち尽くす。ややあって、涙がこぼれ落ちた。
「その……お嫌でしたら、共同開発だけでも……。父はあの薬に期待していると、私に新部門を任せました。これからも、あなたと一緒に薬を開発していきたいのです。あなたの家への支援もできますので……」
ミレーヌの涙を見たシアンが慌て出す。
涙を拭いながら、ミレーヌは首を横に振る。
「いえ、違うのです。あまりに幸せすぎて、信じられなくて……私のことを理解してくれて、共に歩んでくれる旦那さま……それも……その……実は、私もお慕いしております……」
恥ずかしさでぼそぼそとした声になってしまったが、シアンにはしっかりと届いたようだ。憂い顔だった彼は、晴れやかな笑顔を見せる。
「ありがとうございます……! これから共に歩み、共に幸せになりましょう」
「はい……よろしくお願いいたします」
シアンはミレーヌの手をすくい上げ、手の甲に口付けを落とす。
これまでずっと言葉は交わしてきたが、彼が触れてきたのはこれが初めてだった。
本当に幸せになれるのだ。いや、すでに幸せすぎて恐ろしい。ミレーヌはめまいのようなものを覚えながら、触れる手の温もりに浸っていた。
*
王都の商店街を、アベルはみすぼらしい姿で歩いて行く。
かつて裕福な伯爵令息として過ごした日々は、過去のことになってしまった。
繁盛していた事業は潰れ、このままでは今や名ばかりとなった爵位まで失うかもしれない。
「ミレーヌ薬店……」
かつての婚約者と同じ名を持つ店を眺め、アベルは奥歯を噛みしめる。
失って初めて、存在の大きさに気付いた。彼女は自分のことを好きなはずなので、何をしようと離れていくことはないと思っていたのだ。
だが、彼女はアベルが冗談で言った婚約破棄を真に受け、婚約は解消されてしまった。
「あのとき、婚約破棄さえしなければ……」
思えば、あのときから歯車が狂い始めたようだと、アベルはため息を漏らす。
浮気していた女子生徒は、しょせんは浮気だった。その後、アベルの家の事業が傾き始めると、すぐに手のひらを返したのだ。
家の事業が傾くきっかけとなったのも、かつての婚約者と同じ名を持つ、ミレーヌ薬店のせいだった。
ミレーヌ薬店の薬は、それまでアベルの家が作っていた下級ポーションと同等程度の効果があり、しかも格段に安かった。庶民でも常備しておけるほどに、手頃な値段だったのだ。あっという間に客を奪われた。
しかも、たいした力もない魔術師たちを使ってやっていたのに、彼らはミレーヌ薬店のほうが待遇が良いと、鞍替えしてしまったのだ。
ミレーヌ薬店に圧力をかけようとしても、経営するのがラスペード公爵家の者では、手出しができない。
あっという間に事業は立ち行かなくなり、それからは坂道を転げ落ちるようだった。
「ラスペード公爵家だって、ポーション製造部門があるというのに……」
ラスペード公爵家で取り扱っているのは、上級ポーションだ。客層は貴族や富裕層に限られ、庶民向けであるミレーヌ薬店の薬とは競合しなかった。
打撃を受けたのは、低賃金で魔術師を働かせ、低品質なポーションを作っていた、アベルの家のようなところだけである。
怨嗟の眼差しでミレーヌ薬店を眺め、立ち去ろうとしたアベルだが、そこに立派な馬車がやってきた。
その中から現れた姿を見て、アベルは息をのみ、呆然と立ち尽くす。
「まあ、この薬店を作り上げた伯爵夫妻だわ」
「薬の開発によって、伯爵位を授かったそうね」
周囲の人々が囁くのを、アベルは唖然としたまま聞く。
馬車の中から現れた、上質なドレスに身を包む伯爵夫人は、かつての婚約者であるミレーヌだったのだ。
それも、かつての地味な姿からは想像もできないほど、光り輝くように美しくなっている。穏やかで幸福そうな微笑みを浮かべる姿は上品で落ち着いていながら、みずみずしい華やかさがあった。
顔立ちを見る限り、ミレーヌ本人であるはずなのに、まるで別人のようだ。あれほど美しい女だったのかと、アベルは愕然とする。
「ご夫妻で薬の開発を行っているそうよね。それも、最初は奥さまの発案だったとか」
「有名な話よね。ことあるごとに、旦那さまが奥さまの自慢をして、奥さまが恥ずかしがりながら、夫のおかげだとおっしゃるそうね」
「人前で妻を貶めることが謙遜だと勘違いしている夫も多い中、本当に謙虚だわ。ご夫婦で互いに褒め合うなんて、素敵ね」
微笑ましそうに囁く声が、遠くから聞こえるようだ。婚約破棄以来、ミレーヌの話を避けていたアベルにとっては、初めて知ることばかりだった。
そして、ミレーヌの美しさを引き出したのはその謙虚な夫とやらで、彼女が地味だったのは自分のせいだったのではないかと、アベルは思い浮かんでしまった。
かつてミレーヌは家の事業に口出ししてきたことがあった。そのときは叱り付けて黙らせたが、その結果が今のミレーヌ薬店だ。
彼女はアベルの思うような、地味で無能の役立たずではなかった。
かけらも見抜けず、抑え付けて最後には暴力まで振るった自分は何だったのか。
衝撃を受け、アベルはふらついて建物の壁にもたれる。激しい後悔が襲ってきて、足元がおぼつかない。吐きそうだ。
「つわりを軽減する薬が効くというので、地方の姪に送ってあげようと……」
「まあ、それでしたら……」
周囲の人々が穏やかな会話を交わしながら、アベルの前から消えていく。
流れていく人々の中、アベルは一人取り残されながら、虚ろな眼差しでたたずんでいた。
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