書けないことがない小説家
書き続けることが、書き続けないことより難しいのは、このまま書き続けたとしても、得られる報酬が少なく、書き続けないことで得られる時間のほうが有益で自分のためになると未来を想定できるからなのだと思う。そう思ったところで阿野木田――ぼくが小説を書き続けない理由にはならない。
どこからが小説で、どこからが小説ではないのか。その境がわからなくなるほどの正直者。つまり、このぼくは、いつものようにディスプレイを前に、文章を綴っている。
この物語には、沢山の人物が登場することになる。そして、この物語はミステリーなのだ。だれがなんと言おうと、ミステリー。そんなことを勝手に書いておいて、そのあと、全く謎が思いつかなかったらどうするつもりなのか。そんなことを思ったが、もう遅い――ぼくの手はキーボードの凹凸の凸の方を打鍵しまくっていた。いや、まさかの凹凸の凹の方を押していたなんてことがあったら青天の霹靂だろう(どんなキーボードなんだ)。因みに、青天の霹靂の意味は知らない。調べる前に書いてしまった。
「う、うぉぉぉぉ」
頭の中は空っぽのまま(なんだって!?)、ただ、なんとなく、リズムがいい感じの、文章を綴っていた。なにが『う、うぉぉぉぉ』なのかはわからないが、ひたすらに指を動かしていた。
「は、はあ」
やがて、力尽きたように、ため息をついた。そこまでエネルギー消費はしていないはずなのだが、どうやら、精神面で深刻なダメージを受けているようだった。なぜだ、なぜ、こんなにもくそつまらない文章を量産できるのだ。きっといま、光るモニターに真面目で深刻そうな、口が半開きの滑稽な表情のぼくの顔が映っていることだろう。休憩しようと机に身体をしな垂れ、えっと、こういうときどういう文章表現をするんだっけ、まあいいや。と、そんな感じで、イメージを棚上げにした。思いついたところで、書けないことは、書けない。それが小説家である――そんな大、いやいや違うな。
「宇野木田さま」
と、次の文章が思いつかないで、悩んでいるタイミングに声をかけられた。
「榎田さま。お仕事でお疲れでしょう。もう、これ以上、頑張らなくていいのですよ。あなた一人が、頑張ったところで、地球にとってエネルギーの無駄です。というか、あなたそのものが無駄の根源でしょう。死んでください」
なんだか頭が完全に空っぽになってしまったような気がして、やむを得ないと、執筆を中断したところに菩薩のような全てを包みこむ寛容な笑みを向けてくる、容姿端麗、家事掃除、炊事洗濯、ようは自宅で雇っているメイド――七恋うん子がそこにいた。頭の中が空っぽだから(なんだって!?)、文章が少し変かもしれないが、なにも間違ったことは記述していない。そのまま、(いまという時間軸に対して)前述した通りである。
「あの、どこから入ってきたのかな? いつの間にか、音もなく、この部屋に入ってくるなんて……、ま、まさか、七恋ちゃん……只者では」
「猪木田さま。それは、国家機密に関わる重要な情報、トップシークレットなので、おいそれとは、あなたのような愚かな下々の民、もとい下僕に明言することはありません」
なんだか、さりげなく見下されているのを感じたんだが。なんだろう、この感じ。いつからぼくは、メイドの下僕になったのだ。色々と疑問が尽きない。
それにしても、いつからそこにいたのだ。気配すらしなかったそのメイドは、ロボットのように表情の変化が感じられない。それらしき、メイドの服を着ているが、その名称は覚えていない。白と黒を基調としたデザインになっている。手には掃除機のホース状の部分を持っていて、いまにもゴミを吸い込もうと、動作しているのが、わかった。
きっと、掃除しにやってきてくれたのだろう。働き者の彼女に、感謝している。おかげで、ぼくは限りある時間を、小説の執筆にあてることだできるのだ。
「標的を視認しました。掃除を開始します」
背後で掃除機が稼働する音が聞こえた。
「マニュアルの手順にそって排除します。くらえ。積年の恨み」
なんだか騒々しいな。ぼくの頭皮が涼しい。耳元の至近距離で、ぶぉぉぉぉと掃除機が髪の毛を吸い込んでいる状況を理解するのに、数秒時間を有した。
「おいやめろ。頭髪が千切れる」
「いえ。非常停止ボタンを押すまで、この動作を止めることはできません。あなたのような下衆の脱毛は、本望ではありませんが、しかたがありません、これも仕事です。では、いきますよ」
音量が、大きくなるの感じた。掃除機の吸引力が、もう一段階上がったのだろう。
「おいっ。どこに非常停止ボタンがあるんだよ!」
「それはわたくしの身体の中に隠してある。さあ、どこにあるか、探し出せして見つけてみろ。猪野木田」
「はっ! 身体の中に隠してある、だと!?」
「もし探しても見つからないのなら、それは、きっと、目には見えない……」
「それは、つまり……」
「心の目で、見ろということだ」
「くそ」
一体全体どこにそんなボタンがあるというのだ。こうして考えている間も、ぼくの頭皮から髪が抜けていく。吸い込まれていく。ここから、どうしたら、メイドの身体から非常停止ボタンを押す展開になるのだろう。エッチな展開にはなりそうにはないが。
彼女の蠱惑的な身体つきを見る。あ、そういえば前述していなかったが彼女は、ロボットなので、その、あれだ。あれなんだ。非常停止ボタンは、身体のどっかにはあるのだ。なんて、言うと思うか。
あとぼくの名前は猪野木田じゃない。阿野木田だ。
誰か彼女を制止させてくれ。