6 Nihili est qui nihil amat
しかし何でこんな事になったのか。
本来使われるはずの寝台は空。
代わりに堅い床で寝る羽目になった俺と……
我ながら馬鹿やってると思う。
でもあいつがその馬鹿を望む以上、俺はそうするしかない。
*
部屋は基本的に何もない。
そのがらんとした空間に、棚とベッドが置かれている。机と椅子も一応ある。それだけだ。
俺一人なら狭くはないが、ここに三人もとなるとかなり厳しい。いるだけなら別に良いが、ここで雑魚寝となると……少々辛い。一人用のベッドに三人ってどういう図。横に使うのか?子供二人はいざ知らず、身長的に俺は足が酷いことになる。筋肉痛とか翌日的な意味で。
せめて空き部屋がないかと尋ねたが、あいにく埋まっているそうで……地下室には一部屋空き部屋があるとのことだが、例え一日でも洛叉と同じ階になんか暮らしたくないので俺は辞退したい。
あいつの混血偏愛思考が怖いので、そっちにリフルを送ることも出来ない。
かといってこの子供にこんな埃の多そうな向かいの部屋から異臭とか漂ってきそうな不健康な部屋を貸すわけにも……
「なんだよ、この部屋」
案の定、子供は嫌そうな声。
食い過ぎのせいで、具合はまだ悪そう。なおさらこんな部屋は駄目だろう。
「フォースだったか……俺の部屋、お前がリフルと使え」
寝床を貸すと言った以上、約束は守らなくては。
ここは俺が使うしかないだろう。そう思ったのだが……
「すげ!このベット俺が使って良いの!?やりぃ!!」
フォースのいた村はタロックにあり、畳に布団の生活だったらしい。
店じゃ床に毛布だけ。
無邪気に喜ぶ少年に、何も言えない俺が居た。
*
二人くらいならまぁ、一部屋でも何とかなるだろう。
そう思ったのは良いが。
「お前もこっちにするか?」
この子供と一緒ならあの医者も手出しはしないだろう。
フォースも一人ではいろいろ不安かもしれない。話を聞く限りでは、目の前で人を殺されたり殺したり……いろいろあったんだ。
俺と一緒よりは恩人と懐いているリフルが一緒なら……
俺の提案をばっさり切るリフル。
「昨日の部屋でいい」
昨日……っていうと俺の部屋か。
そう言えば昨日の俺はトーラの手の物によってここまで運ばれたらしいが俺が気付いたときは、こいつもう起きてて座ってたんだよな……床に。
「もしかして……お前昨日寝てない?」
「夜起きて、昼寝る」
それがいつもの生活リズムなら、徹昼したことになる。
はぐれた理由もそんな体調不良で目眩でも生じたのかもしれない。
「疲れてるだろ?ベッドの方使え」
「断る」
即答だった。一瞬、何と言われたのかわからないくらい、即答だった。
元は高級奴隷だったくせに、床で寝る来まんまんのリフル。
試しにあの奴隷屋ではどうしていたのか聞くと、フローリングの床に布団……だそうだ。
流石はセネトレア。タロックの和とカーネフェルの洋が変な風に交じっている。なんて感心している場合じゃない。
「大体お前……」
年頃の娘が……そう言いかけて、俺は気付く。
同じ部屋って不味くはないか?なんとなく。
ついついあの人に似ているせいで、こいつが女だということを忘れてしまう。
いや、確証はない。違うかもしれない。
ここはセネトレアだ。何があってもまぁ、セネトレアだし。それでありとあらゆることが悪いい意味で大抵なんとかなってしまう国。
ああいう格好の方が得物が飛び込み殺しやすい。だから女の格好をさせていただけなのかもしれない。 断定は出来ないが、一緒の部屋っていいのかそれで。
しかし意識されてる風でもない。出会い頭の艶めいた雰囲気なんてまるでない。
信頼されてるってことだろうか。それとも男だと思われていないのか。
あの奴隷屋……“午前零時”と言ったか。
あの老婆は何がやりたかったんだ?金儲け?
そもそもゲームをはじめた奴は、何を企んでいる。
もし俺がそいつだったら……
「奴隷が主を差し置いて寝台を使おうなど、末代までの恥!そもそも奴隷は床で寝るモノと決められていると聞いた」
俺の思考を中断させる、リフルのわけのわからない奴隷理論&奴隷心得。
「だからその……奴隷意識はもういいんだ。お前は奴隷じゃないって言っただろ」
そうは言われても、一日二日で今までの当たり前から脱却できるわけがない。そんな顔をしている。
純血のフォースのような元は普通の生活を知っている奴からすれば、奴隷生活?ふざけんな、の一言だろう。
記憶がないってのは厄介だ。こいつはその当たり前の普通を知らない。
「床の方が落ち着く」
「俺だって床の方が落ち着く」
「嘘を言うな。昨日は床で寝ていなかった」
「あれは俺を運んだ奴の気が利かなかったんだ。俺は床を愛してる。多分前世あたりから」
「私の方が床が好きだ。床も私の方が好きだと言っている。だから私が床だ!」
最初こそ……お互い植え付けられた意識の下での譲り合いだったが、この辺になるとお互い意地しか残っていない。
こんなんでムキになるとはガキだな、俺も。
「……命令でも?」
「私は奴隷ではないのだろう?」
俺の最終兵器は、俺自身が与えた言葉によって打ち砕かれた。
これが本日最後の溜息になることを願って、俺は息を吐く。
「……わかったよ、好きにしろ」
6
Nihili est qui nihil amat
灯りを消した部屋。
背中から伝わるのは、床のヒンヤリとした温度。
温暖なセネトレアとはいえ、夜まで暑いわけではない。
渡された毛布を上にするか下にするか悩んだが、上からの暖かさと選んだことで床の堅さがオプションで付いてきた。
ゴツゴツして、ちっとも眠れない。それでも寝たふりをしなければ、またアスカに気遣われる。
床に慣れてるなんて、嘘だ。
寝台ならあった。寝場所であり、仕事場であり、殺す場所。
それでも、アスカの言葉だって嘘だ。きっとそうだ。
前世なんて無い。
私は、生きてたはずの十年以前の記憶も忘れた。そんなどうしようもないものが私。その私が人間で、アスカも人間なら。生まれる前のことなんか知っているはずがない。だから嘘だ。
馬鹿だな。
アスカの方が疲れているに決まっている。
私がはぐれたせいで、一日中私を捜してくれたんだろう。
疲れたなんて一言も言わないで、明るく振る舞う。見ている此方が疲れそうなくらい、アスカは優しい。
フォースを連れてきたのもアスカだ。宿兼酒場に着いた時、聖十字に引き渡したはずの子供とまた会うとは思わなかった。彼が言うには、厄介事に巻き込まれた際、アスカが機転を利かせて救ってくれたらしい。
ありがとうと言うタイミングを逃してしまったと、フォースは言った。そして私にその言葉を贈ってくれた。帰ってきたらアスカにも言うつもりだったのに。さっきそんなことを言っていた。
「なんか、言い辛いんだよなあいつには」
アスカは礼を言われないような距離、角度、瞬間……そういったモノの隙間から、他人に手を貸しているのではないだろうか。
それとあの飄々とした態度が災いし、酒場ではぞんざいな扱いを受けているようだ。
彼は、わざとそうしているんだろうか。
(ありがとう……か)
そういえば、私も一度も言えていない。
理由はフォースと同じ。その瞬を逃した。
涙を拭ってくれた。
触れてくれた。
探してくれた。
私は人だと、言ってくれた。
いつでも言えたはずなのに。どうして言わなかったんだろう。
ついさっきだって、奴隷じゃないと言ってくれた。
命令されたくないのに、そうされないとどうすればいいのかわからないなんて。馬鹿みたいだ。
どうしたい。
どうすればいい。
自分の思っていることも解らないなんて。
自分の頭で考えていない証拠。そんな私が人間になれるはずがない。
奴隷なんか嫌なのに。
でもいざ人間扱いされたら……それはそれで腑に落ちない。空を指さされ、あれが地面だと教えられているようで。
大嫌いな奴隷としての身分。
けれど、それは私の一つのステータスだったのだ。
何もない私を指し示す、何かとしてのひとつの物差し。大事な指標。
それを奪われることが、私は怖いのか?
今度こそ、何もなくなってしまうようで。
奴隷は道具。それはひとつの存在理由。だから私は必要とされていた。
人殺しの道具。愛玩用の道具。それは私が奴隷だから。命じられたから。
奴隷まで失ったら、私はその理由が無くなる。
私は何?答えを失う。
……私が奴隷でないなら、アスカは私の主ではなくなる。
それなら私がここにいていい意味はない。
(そうか……)
だから私は奴隷でいたいんだ。
「しかし……そっくりだよなぁ……」
背中の後ろから聞こえた小さな声。
寝言ではない。
アスカはまだ、起きているようだ。おそらく独り言だろう。
私はどうすればいいのかわからず、そのまま今まで通り寝たふりをする。
「まるで……マリー様の生き写しだ」
(マリー様?)
それは誰かの名前だろうか。響きからして女の名のようだが。
アスカは今、生き写しと言った。
どうして優しくしてくれるのか。答えがわかった。
アスカは私とその誰かを重ねているのだ。
あの医者、洛叉先生は言っていた。
この世にいる片割れ殺しは三人、もしくは二人。
アスカは、その一人を知っているのか?
だが、それは“私”ではない。私にはわかる。
私がそんな名前のはずがない。
だから、アスカが探しているの私じゃない。アスカが探したいのは、私ではないその人の過去。私はそれを妨害している、類似品……偽物だ。
奴隷でも、人間でも。
ここは私の場所じゃない。
それなら……“僕”は、どこへ帰ればいい。
*
慣れないことはするものじゃない。
全身が痛む。筋肉痛だ。地味に痛い。
早起きをしてしまったのは、そのせいか。
時計を見ればまだ六時前。
隣を見ればぐっすり眠っているリフル。もしかして床好きっての本当だったのか?
いや違うか。単に疲れていたんだろう。
そんな朝っぱらから窓を叩く音。
疲れから来る幻聴か気のせいかと思って無視していると、ガラガラと窓が開けられる音がする。
俺は昨日の夜は確かに窓の鍵閉めたはずなんだが……セネトレアの魔女様の前では常識とプライバシーという物は無意味のようだ。
「ヘロー……って何やってんのアスカ君」
床にいる俺達を見て、不審人物に不審人物扱いされた。けっこう堪える。
「気にしたら負けだ」
「そう?んじゃ気にしない」
あっさりと引き下がるトーラ。まさかこんな朝っぱらから現れるとは思わなかったが、ほら相手は常識皆無人間だから仕方がないのかもしれない。そう思って納得することにした。
「あれ?リーちゃん寝てるの?……寝顔激写してもいい?高く売れそう」
「止めろ」
どこから取り出したのか、カメラ片手ににやつくトーラ。
この女は相変わらずだ。相手をしていると朝っぱらからなんだか疲れてくる。
「こいつは疲れてるんだろ、放っておいてやれ」
「え、疲れるようなことさせたわけ?」
「ああ、徹昼で街中歩かせちまった」
「うわ、華麗にスルー?ツッコミかと思わせておいて意外とボケだよね君」
「朝から下世話な話に付き合えるテンションがないだけだ。大体お前…」
「どうして見た目は可愛いのに、中身があれなんだって?」
「自覚はあるんだな」
「よく言われるもん。そうだな言うなれば……ギャップ萌え?」
「そんなこと言いに来たのか?ならさっさと帰れ」
しばらくそんなやり取りを続けていた俺とトーラ。その喧騒にむくりと起き上がるリフル。
「あ、悪い。五月蠅かったか?」
「顔……洗ってくる」
そう言い残し、すたすたと部屋から去っていくリフル。それを見送った後、トーラがにこりと微笑んだ。
「じゃ、本題に入ろっか?本人の前でどこまで言って良いかわからないしね」
彼女はそう言って片手を差し出す。
「……どうした?」
「機密事項は基本的に紙媒体に遺さないんだ。僕はそれを記憶に留める」
言っている意味がわからない。それなら話せばいいだろう。
「ま、わかんないならとりあえず手、出して」
「ん、ああ」
よく考えず、俺はそれに従う。瞬間、バチッという音が鳴り響く。目に見えない電撃が身体を撃つ。
迂闊だった。こんな成りをしていても相手はセネトレアの魔女。
それでも思わないだろう?
こんな子供が、握手一つで俺を失神させられるなんて。
*
(どういうことだトーラ!)
彼は倒れてしまった。目は情報伝達のショックで気絶したせいで、閉じられている。それでも触れた手から声だけが伝わる。どうやら彼はそこそこご立腹のよう。
『混血は、唯姿形が違うだけじゃない。純血にはない力を持ってる。混血の不遇な境遇のために与えられた力なんだろうね。それを開花させることが出来るかどうかは本人次第だけど』
伝えた言葉に、彼は唖然としているようだ。
それはそうだ。私だって、こんな力……今だってどういう原理なのかわからないもの。
『僕は、情報に特化した数値能力を持ってる。その内の一つがコレ……他人と情報を共有し、見せることが出来る』
情報収集、情報変換、情報伝達。
その全てをなせるのはこの力のおかげ。
これが混血迫害者にばれたら、TORAといえども危うい。今まで他人に教えたことはない。だってリスクしかないから。
それでもこの力を彼に教えたのは、彼が混血に差別意識がないから。そしてそれ以上の理由……彼はそうするに見合う価値があるから。彼はいずれ私の役に立つ。
あの餌のためなら、きっと何だってしてくれる。だから今は、飴をいくらでも与えてあげる。
『便利な力だよねぇ。君は意識を失ってるけど、その内に集めた情報、全部見せるよ。それじゃあね』
(ちょっと待て!)
『僕だって暇じゃないのさ。情報は君の内側に送ったから、そういうことで』
それにあの子の記憶は、何度も見たいようなものじゃない。
まだ、僕の方がマシだって思えるような最低な記憶。
アスカ君をそのまま床に放置し、私は窓から外へと帰る。
宿の屋根を歩く内、私はひとつの視線に気付く。
「さて、リーちゃん。そんなところで誰の出待ちかな?もしかしなくても、僕でしょ?」
リフルと名付けられた子は、廊下の窓の陰にいた。部屋を出たのは、僕がここを通る道を見越してのことだろう。
しかし、“リフル”か。飛鳥君は公私混同し過ぎじゃない?まぁ、僕には関係のないことだけど。
「アスカ君無しで話したいことがあるんでしょ?本当なら凄いお金請求するところなんだけど、でも、リーちゃんならいいや。僕も聞きたいこと、あったし。貸しにしとくから、いつか返して。たぶん僕、いつか君のお世話になるから」
「彼なら大丈夫だよ。二度寝しちゃったから、当分目覚めない。それで、聞きたいことは?」
そこまで言ってあげると、リーちゃんは口を開いてくれる。ほんと、似てないようで変なところばかり似てる。
こっちは解り易い。むこうは解りにくい。でも警戒している。
これを手懐けるにはどうすればいいだろう。そう言う意味では向こうの方が御しやすい。
「マリーという人物を知らないか?アスカと関係がある……」
「君がその名を思い出したの?」
「いや、アスカの……寝言だ」
ああ。だろうね。
君が思い出しているなら、そんな的外れのことを聞いてくるはずがないもの。
続く言葉に、私は誠意はないけれど真実を持って答えてあげる。
「私がその人物と別人だと解れば、私への疑念も晴れる」
「そうだね、君はマリーではない。トーラの名において、それは認めるよ」
「その人は、私に似ているのか?」
「よく似た顔をしているよ」
「その人は……死んだのか?」
「九年前に処刑されて亡くなったね」
「九年前……そうか。だから、か」
「アスカ君にとって、その人は大事な人だったからね。君を重ねて見てしまうのは無理はないと思うよ」
「……助かった。恩に着る」
「質問ってそれだけ?肝心なこと、聞き忘れてないかな?」
「……肝心なこと?」
「そっか。それなら僕は行くよ。それじゃあね、リーちゃん」
この子は、何もわかっていない。どうして疑問に思わないの?そんなに簡単に信じちゃうの?
ほんと、馬鹿。どっちも馬鹿。
だから踊らせられるんだ。それなら有効活用してあげる。どうせ踊るなら、僕のために踊ってよ。
僕は振り返らないよ。僕が助かるなら、手だって離す。
僕は死にたくない。
唯、それだけなんだ。
「あと、二年か」
間に合うかな。
わからない。それでも、もっと情報を集めなければ。全てを手玉に取れるくらい、生き延びるに満足な情報を。手駒を増やして。敵を殺して。ゲームの前に私に有利な盤を創り出す。
それなのに、足りない。いくらあっても集めても、私の心は満たされない。
焦るよ。毎日、リミットが欠けていくから。
時間も、情報も。せめてもっと早く、開花していれば。
いや、悔やんでも過去は変えられない。それなら僕は……それでも僕は前に進もう。
「僕は、絶対に生き延びてやる」
避けられないと知ってしまった以上、僕は最期まで足掻いてやる。
*
それが逆行していると気付いたのは、死んだはずの人間が動いているのを見てから。
それが今までの主なのだろう。
その数が11までカウントされた時、見慣れない景色が飛び込んでくる。
【−3年/セネトレア/ドロゥンオン家屋敷にて/一家惨殺事件】
真っ赤な部屋に佇むリフル。今より大分短い髪。服は赤に染められているが、貴族の家の使用人といった装い。
人形のような顔立ちは相変わらずだが、その格好が少年のよう。
豪勢な造りの家具も、金細工で縁取られた白い壁と天井。血まみれのそれから僅かに赤が引いていく。
女が一人。肉塊に刺さった斧を振り上げる。その度に、肉塊は質量を増し、元の姿を創り出す。やがてそれは、少女の形を作り出す。輝く金髪に青色の澄んだ瞳。その淡い色の瞳からわかる。深い色ではない……成金貴族だろう。
すると女は後ろ向きに物凄いスピードで扉の向こうへと消えていく。手に綺麗なままの斧を携えたまま。壊れた扉まで元通りになっていくのが魔法のようだ。
床に倒れた身体が起き上がる。
首に回した手。少女の手も、誰かの赤に染まっているのが見てとれる。
リフルに触れる唇が離れて、少女の声が聞こえる。
「!?ょしで私!私は主の方貴?!てしうど」
「?ょしでんたしはに人のあ?のいな来出……てしスキ、に後最」
部屋の窓の前で、少女は思いを告げる。
扉を叩く音は激しい。戸を破ろうとしているのがわかる。
「様ヌージルア……」
「!いなせ許が達人のあらかだ……き好が方貴は私」
少女は死を覚悟していた。
扉が破られれば、それは死を意味すると知っていたのだ。
だから、せめて最後に。
扉の鍵を開けて部屋の外へ出る二人。
リフルの手を引く少女。二人は後ろ向きに何処かへと戻っていく。
追っ手が次々に減っていく。
「!いなゃじたっ言てっだ嫌は隷奴てっだ方貴!のるげ逃で人二」
「様、ヌージル…あ」
差し伸べた手を引く少女。
女の胸を貫く矢が抜け、少女の手元に戻る。
リフルの頬から手を放し、距離を広げるその女。さっき、少女を殺したのがこの女だった。致命傷は避けていたのだろう。言葉から、彼女が少女の母なのだとわかった。
「!!っっいなら要うも、も様母お!わたっゃちし殺らかだ。いなら要、様父おなんそ……」
「!ねうよたれさ召に気お層大も様父お!らかだんな猫い愛可の私……の私はれこ!よのいなれな、てんな人恋の女貴らかだ……ようそ」
「?!ょしで弟の私?!ょしで間人は椿璃瑠?!のるす事なんそてしうど!っいなゃじたっ言てっだの私は椿璃瑠!のなりもつういうど様母」
子供らしい少女の矛盾。
人を人とも思わない、両親の行動を認められない。
それでも瑠璃椿……リフルは自分の物で居て欲しい。
一人の人間だと認めているつもりで、それが出来ていない。だから彼女は最後に、命令を口にしてしまった。
「?ねわるかわは味意?のるてげあてしか生でけ情おを血混?よのな血混は方貴」
「わいなきでとこいな体勿なんそ。わいなら売は方貴」
「わだく楽気お当本。わるいでん込い思とだらかたっ入に気が分自、子のあ。かだんるいてっ思とたっやでいなら売にめたの何」
【−4年/同場所にて/育成中の高級奴隷が養子として迎えられる】
場面は変わり、違うの部屋。
リフルと少女と、一人の男。
そこに辿り着くまで俺はいくつもの悪夢を見せられていた。言えるはずがない。覚えていても、あいつが言えるはずがない。覚えていたって、言えない。知られたくない。それを、俺は今見ている。知ってしまった。
今こうして見ていることが、勝手にあいつの過去を覗き込んでいることが、罪なのだと心が叫ぶ。
それでも、目の前の風景は時間を止めず、逆行し続ける。少しずつ、昔のあいつの面影を色濃く増していきながら。
「!じ同と私!間人、らか日今は方貴」
リフルの微かな笑みが、驚きに代わり、少女が微笑む。
「!わたえ貰てっ言てっいなら売は椿璃瑠!のたしい願おに様父お」
「?!に子養ご、をれこかさま」
「!らかだんなぎ継跡の家ンオンゥロド!弟の私は子のこらか日今!よ礼無は度態のそ!?何らかだ?らかだ血混?らかだ隷奴」
「!いさ下え考おを場立おの分自ご減加いい、よすでんなれ別おろそろそうも……すでぎ過し酔心に隷奴のこは様嬢お体大。すまり参てっわ変も容内の強勉……はで様嬢おと隷奴しかし」
「!のいたし強勉でちっこも私」
「すまいざごに間時の強勉……様嬢お」
どうやらあの男は家庭教師のよう。
(ドロゥンオン家?)
確か数年前までそれなりに有名だった、奴隷商の家名だ。
高級奴隷を育成し、高額で売り飛ばしていた悪どい奴隷商の家。
そこの養子になった?
いや、養子制度とは名ばかり。だからこそ、さっきの光景。
養子は体のいい隠れ蓑。養子は、人間以下家畜以下の……愛玩動物の名前だ。
それを知らないから、少女はこんなに嬉しそうに笑っていたのだろう。
【−9年前/セネトレア裏路地/片割れ殺しの混血児、ドロゥンオン家令嬢に拾われる】
場面はまた切り替わり、リフルはかなり幼い。
高級馬車がらそう言う少女は、あの少女の幼い姿。
「?る来に家らなれそ……?のいなが所る帰」
*
私に送られた言葉は、全てマリーという人に向けてのことだった。
死んだ、大事な人に私が似ていたから。だから親切にしてくれたんだろう。
情報屋の消えた窓を見つめ、惚けたままだった私を見つけたのは赤毛の少年。確かエルムと呼ばれていた。
「あ、リフルさん……先生が呼んでましたよ。今日何時でも良いから一人で地下まで来てくれって」
「……ありがとう、すぐに向かうと伝えて貰えるか?」
「わかりました」
階段を下りていく少年を見送った後、部屋に戻り着替えを済ませる。アスカは床に寝ていた。もしかしたら、本当に床が好きだったのだろうか。
いや、それほど疲れていたんだろうな。自分の手を見て、長袖と手袋を付けたことを確かめ、寝台まで持ち上げる。背の高さの割に体重はそこまでないのだろう。運べなかったら毛布だけ上に掛けようと思っていたのも杞憂だったようだ。
階段を下った先では、酒場の店主は朝食作りに追われていて、桜色の少女はその手伝い。少年はカーテン開けと掃除を担当しているようだった。
地下まで降りると、静けさだけがそこにある。まだ、フォースも眠っているのだろう。
昨日入った扉の前に立ち、その戸を叩く。
ギィイと鳴ってそれが開かれ、その内側に招かれた。
「早かったな」
「他にすることもなかったから……」
そうかと医者は頷き、椅子に座るように促した。
「……採取したものを分析してみたが、間違いなさそうだ」
「血はゼクヴェンツ。唾はシュテルベント。涙は アインシュラーフェン。汗はエアヴァイテルト……おそらくその他にも無数の毒が棲んでいるのだろうな、君の中には」
「しかし正確にはそれに、似ていると言うだけで……同じとは言えない。恐ろしいことに既存の解毒剤では完全に無効化できない。せいぜい……三割からよくても六割。複雑に混ぜられた毒を飲ませられたんだろう……」
「だが、君が言っていたように無効化の方法が一つずつだけある。アインシュラーフェン……つまりは涙はゼクヴェンツの入った血で解毒できる。他の毒もそれぞれ符合するモノがあるようだ……」
彼の言葉をまとめると、僕の体液はそれぞれ猛毒でありながら、そのどれかを解毒する解毒剤。毒のパズルのようなものらしい。
「……汗のエアヴァイテルトに、ゼクヴェンツで解毒してしまったんですが」
間違っていた?もしかしたら僕は、助けるつもりであの奴隷の男を……
不安に駆られる僕に、先生は優しく微笑んでくれる。
「いや、ゼクヴェンツは万能のようだ。全ての毒が含まれているからな……もっとも効くが、正解ではない。正解の毒よりは効果は落ちる。しばらく副作用くらいは残るかも知れないな」
正解ではない。その言葉に背筋が震えた。
そのまま先生に頼み、残りのパズルの解析を行って貰うことにした。結果はしばらくかかるらしい……それまで不用意なことは控えた方が良いだろう。殺してからでは、遅いのだから。
「くれぐれも気をつけろ。どういう仕組みはわからないが、二つなら解毒になっても……三つ混ぜれば全てゼクヴェンツとなるようだ」
「ゼクヴェンツを……殺せる毒はない」
そう呟けば、先生は苦い顔で頷いた。
「ああ。君の血に冒された者を解毒する薬は……この世に存在しない」
この血が触れれば、すべて死ぬ。薄い肌の下に恐ろしい凶器を抱えているのだと思うと……何だかとても死んでしまいたい。その方がきっと世界のためだ。
小さく嘆息すると、先生が気遣うような視線を向けた。
「これだけの力、生きにくいだろう。何時からなんだ?」
「気が付いた時には……」
「……職業上、患者の嘘を見抜くのが得意でな」
静かな声。
「君は……いや、貴方は私の知っている人かもしれない」
「私を……知っている……んですか?」
驚きのあまり、口調が屋敷時代に戻ってしまった。
年上の人、目上の人には敬語を使えと徹底的にたたき込まれたせいで、一度これになってしまうと暫く直せない。
けれど彼は別に気にした風でもない。
「それを確実だと言い切るためにも、本当のことを、教えてくれないか?君は何時、セネトレアに来た」
「私は…………僕の記憶がないってのは本当です。唯……セネトレア以前の記憶がない。瑠璃椿は最初の主がくれた名前です」
「僕自身、僕の正確な年齢はわかりません。今年で十五くらいだとは思います。最初の主人に拾われたのが九年前……場所がレフトバウアー。商人達の港町だったと思います」
「僕は気が付いたら、もうセネトレアにいたんです。目を開けて……其処にいて……そこがはじまり」
「高級奴隷……その育成施設を経営している貴族が居て、そこに飼われていて。最初は普通の奴隷として育ててもらっていました。いろいろ教えられた気もします」
歴史や一般教養、歌に踊り、楽器に礼儀作法。養子らしい養子向きの教育。あの頃はまだ、良かった。
「でも、あの人達は僕を売り飛ばす気を無くしてしまったんです」
それもすべてが、この目の力。
「毒の力が強くなったのは、その頃だったんじゃないか……副作用が出たのがその頃でしたから」
それまでもあったんだろう。それでも他人を傷付けるほどの力はなかった。
「……副作用?」
「……僕をどう思いますか?」
そう問えば、真意を量りかねた様子で彼は呟く。
「……そうだな、珍しく、美しい。私の目にはそう映る」
そう、そう映る。そう見えたら終わりだ。もう、いつでも落とせる。
僕は視線をなるべく合わせないようにしながら言葉を紡ぐ。
「混血、片割れ殺し……という珍しい外見。それに毒の為す魔力が加わった結果、僕の目は力を持ったんです」
「深く目を合わせれば、相手を魅了することが出来る。この力は日増しに強まっているようです」
「信じられませんか?」
「いや……なるほど、わからなくもない」
そう呟いて、彼は不思議な笑いを見せた。僕の言葉に彼は何か納得したものがあったらしい。
「他人の心を弄び、殺し合わせる力。僕に触れさせる力。そして僕自身の毒。僕はこの力を知らず、主を殺めました。三年前の事だったと思います」
「……三年前。……ドロゥンオン家か?」
「ご存知でしたか」
「ああ。その筋では有名だった奴隷商から成り上がった貴族だ。あの事件を聞いたことくらい裏側の人間なら一度はあるだろう」
一家心中と呼ばれたが、それには理由が見つからなかった。彼等は金には困らないほど儲けていたから。
殺人事件?犯人なんて見つかるはずがない。使用人達の証言はどれもバラバラ。彼等は精神崩壊をしてしまったものも大勢いたから。何人か残った正気の人間も、堅く口を閉ざすだけだったという。聖十字も事件解決を諦め、晴れて迷宮入りになった事件。
医者が語る事件。それを引き起こしたのは、僕だ。
「……すまない、嫌なことを思い出させてしまったな」
「いえ、本当のことですから」
「僕のことを教えて貰うには、これでは足りないですか?」
しばらくの沈黙を経て、医者は静かに語り始める。
「私は以前、タロックで城仕えたことがってな。医者やら学者なんて肩書きで、ほとんど自由気ままに研究ばかりしていたよ」
「片割れ殺しの生まれる確立を知っているか?限りなく零……あり得ないはずなんだ。遺伝について、混血について……いろいろ調べた。今も情報は集めている」
それは知っている。けれど、それがどれくらいいるのかまでは知らなかった。
だからその明確な数字は僕を驚かせるには十分だった。
「君を入れれば……これまで生まれた片割れ殺しは、三人だけ。もし、私の知っている人と君が同一人物なら……片割れ殺しは二人だけということになる」
「その人は毒薬“ゼクヴェンツ”飲まされ、殺された」
それを飲むことなく体内から検出されることはまずあり得ない。そのあり得ないはずの毒が僕の身体に棲んでいる。
「殺されたのは十年前。彼は生きていれば今年で十六歳。その程度の誤差は十分、あり得る」
「貴方が殺したいと願っている人の……顔を忘れたと言っていたね」
「でもあれは唯の夢……」
何かの深層心理かもしれない。そうは思ったけれど。
「夢などではありません。貴方がかの人の名をもって命じるなら、私は貴方にそれを教えましょう」
「誰……誰なんですか!?あいつはっ……」
熱い、皮膚の下の毒が、ゼクヴェンツが……復讐を求めているのがわかる。ああ、殺したい、殺したい。教えて。そいつの名を。
「あいつは笑っているんだ、その横で女の人が泣いてる。気味悪い仮面を付けた奴等がそれを見ている。苦しむ俺を……愉しんで見てるんだ!」
「命令ですか」
「答えろ、洛叉!」
口から発せられたのは、無意識の言葉。それでもその言葉はそれがさも当然と言わんばかりに傲慢に、僕の口から発せられたのだ。
「御意」
傅き頭を垂れ、彼は答える。
「その男の名は須臾=D=ターロット。西の大国タロックの現国王にして狂王の再来と謳われる人物」
そして……と洛叉は言葉を続ける。
「貴方様の父君で在らせられます」
瑠璃椿の問題の六章です。これ書き方変えたらR18展開になっていたのでさらりと流すことにしました。お暇な方は逆再生でお楽しみつつ行間を想像で埋めてください。ご希望がございましたらサイトかブログで番外編とか書くかもしれません(血迷うな俺)。アルジーヌお嬢様は普通に良い子だったはず。時代が違かったらリー君と幸せになれていたかも知れません……作者が私なばっかりにごめんなさい。ご冥福をお祈りいたします。
ちなみに彼女の名前はトランプのあるスートのQのモデルから来ています。べ、別に主だから主ーヌにしたわけじゃないんだからね!(何故ツンデ以下略)
トランプから取ったキャラ名は彼女だけではありませんのでこれから出てくるキャラ達の名前に気付いてくださった方、はっもしやと思っていただけると嬉しいです。