前編
産んだ子を抱くことは、かなわなかった。
十月十日腹で育み、血と共に産み落とした子は、産婆の手で清められ、そして姉の腕に抱かれた。
「男児ですよ」
姉は誇らしげに腕の中の子を見せる。顔を赤くして激しく泣いている。いとしい、と思った。たったいま、私が産み落とした、私の子だ。
荒い息では言葉を紡げず、手だけを伸ばそうとしたが、それも重い。私の手の動きを見た姉は、ふい、と背中を向けた。
「よくなさいました。養生なさい」
美しく背筋をのばし、姉は去っていった。わたしの子を、抱いたまま。
痛みと疲れにもうろうとしながら、何とか話す。自分でも驚くほどぐったりした声で、姉に子どもを抱かせて欲しいと伝えるように、侍女に指示した。侍女は困ったように出て行き、困ったように帰ってきた。
「あの、御子さまはお休み中でございますのでのちほど、とのことでした」
「……姉を呼んでちょうだい」
侍女は今度は泣きそうな顔で出ていき、やはり同じような顔で帰ってきた。
「今は王がお渡りでした、言伝をしておきましたので」
これ以上、この子には無理だ。ありがとう、と虚ろに紡いで、目を閉じた。
姉と私がこの国の王に嫁いだのは、2年ほど前のことだ。母国はこの国の属国であり、私たちは妃どころか人質にさえ足りない、貢物の意味合いが強かった。もちろん正妃などではない。王の正妃は10年以上前に嫁がれてすでに王太子をお持ちで、私たちは王よりもその王太子に歳が近かった。
貢物の宝石のように、後宮という箱に収められ、しまわれているだけの人生だと思っていた。後宮の隅で、ひっそりと生きていくだけの。姉は、それを良しとしなかった。地味な気性の私とはまるで違い、姉は明るく華やかで、美しい。嫁いだその日に妖艶に笑って見せ、王を虜にした。
王は姉を愛した、そしてついでのように一時期私を抱いた。もしかしたら、姉が何かを言ったのかもしれない。そうでなければ、私は王の顔も知らぬまま後宮で朽ちていったのだろう。
皮肉なことに、あれだけ愛されている姉には子どもが生まれず、きまぐれのように抱かれた私は子を身ごもった。
すでに私に興味を失っていた王からはとくに接触はなく、おざなりながらも子を産むのに適した環境が与えられただけだった。喜んだのは、姉だ。毎日のように加減を伺いに来て、あれこれと準備もしてくれた。
そこに、一抹の不安がなかったわけではなかった。
お姉さまがいらっしゃいました、と告げられたのは、子を産んだ次の日の夕方だった。彼女は、赤子を連れてはいなかった。寝台から半身を起こした状態から姿勢を正そうとすると、いいからいいからと押しとどめられる。
「あの子は……」
「お喜びなさい、早速王に名を賜りましたよ、光寿と言います光寿王子です」
誇らしげに言われることばは、私にとって何の意味もない。
「会わせて下さい、乳をやりたいのです」
訴えると、眉を顰められた。
「乳母をつけました。あなたは何も心配しなくていいの。ゆっくりお休み」
「お姉さま、私の子です、私の子なのです」
繰り返すと、姉はますます不快そうな顔をした。しかし、ふとその表情を消して笑みを浮かべた。相変わらず、美しい笑みだ。
「そうですね。あなたが落ち着いたら、ね」
その顔に、悟る。妊娠中に感じていた不安がかたちになってしまったことを。姉は私の子が生まれることを喜んでくれているのではない。王の子を自分の手に入れられることを、喜んでいた。
上品な衣を翻して、姉は部屋から出ていった。私はただ声もなく、それを見ていた。
飲む子どもがこの腕の中にいなくとも、私の体は子どもを養うべく乳を流す。死産した女も、そうだという。
ああ、そうか。ふいに、納得がいった。もう私にとっては死んでしまったのだ、と。
不思議と衝撃はなかった。涙も出なかった。その事実が見えていなかったことには驚いたけれど、その事実自体に驚きはしなかった。
姉の腕の中で泣いていたあの子。顔を真っ赤にしていたあの子。あの子は姉に奪われ、私の手の届かなかった、あの子。
私は産後の疲れからも早々に回復し、寝台を払った。
相変わらず、子どもには会えない。
そして、王のお渡りもない。なかなか手に入らないような布と、宝石類と、褒詞が届いただけだ。どれもこれも美しく輝いてはいるけれど、うすっぺらで何の意味もない。私を抱き、この腹の中に子をなした男は、どこへ消えたのだろうか。
子どもと一緒に、死んだのか。
私はこのまま朽ちていくのだろうと思う。「王子の生母」という立場を得て、しかし誰にも顧みられない。それもいい。穏やかな生活だ。そう思うのは強がりなのだろうかと考えたこともあったが、そうではないように思う。一番近いのは、喪だ。我が子と、もしかしたら私を抱いたその瞬間だけでも、私を愛してくれた男の喪に服している。
喪は、穏やかで静謐であるべきだ。
姉もほとんど顔を出さなかった。やってくるときには一方的に近況を朗らかに語って、去ってくだけだった。私はもう子のことを問うことはしなかったので、姉は安心しているようだった。
ゆっくりと書を読む。のんびりと茶を飲む。それから、刺繍をする。
刺繍が好きだ。
姉にはそんなことは、王に嫁いだものがするようなことじゃないとたしなめられたこともあるけれど、没頭できる趣味があるのはありがたいことだ。
無心で手を動かすのも、出来上がったものを見るのも好きだった。つややかな糸でできていく、青い鳥、赤い花、緑の葉。一休みするときは、それらをなでながら、香りの良いお茶を飲む。
そして、荒天でなければ、墓参をする。
あの子が死んだのだと、そう思ったあの日。私は庭に小さなお墓を作った。手元に残されていたへその緒を美しい箱におさめて埋め、墓石の代わりに小さな石を、椿の根元に置いた。石は濃い緑の、母の持たせてくれた文鎮で、厚みがあって、花の模様が彫り込まれている。そこで手を合わせる。
不思議そう、というよりは、少し気味悪げにしていた侍女に、子が健やかに育つように願いを掛けたのだと嘘をついた。邪魔になるものでなし、誰かがとってしまわぬように頼んでおいてほしい、というと一転顔をほころばせ、そんな願掛けがあるのですね、と無邪気に感心していた。何でも顔に出るこの子は、宮仕えには向いていないと思うけれど、私の侍女には向いていると思う。どこか、気分を和ませてくれるところがある。
日々、ゆっくりと墓を目指して歩き、戻っていく私の様子を見て、私が庭が好きだという噂が立ったらしい。お好みの花などがあれば植え替えをしますと、侍女を通して庭師からの進言があった。彼らは、手を抜かずに手入れをし、青々とした葉としなやかな枝と美しい花を見せてくれている。いつもありがとう、今のままで十分楽しい、と伝えてもらった。雨の日には切り花が届くようになった。それを、侍女と飾る。飾り方や、花入れについて教えてやると喜んだ。ふと、産んだ子が女子だったらと思って、胸の痛むことがある。
それだけの日々。