猫の来る喫茶店
青年は、窓際のテーブルで小説を読んでいた。
窓の外に植えられたシマトネリコの葉が、穏やかな日差しを散らしている。
青年は麻のシャツのボタンを解く。開いた窓から緩く流れ込んだ風が、青年の身体を通り過ぎた。
夏に手を伸ばすような、心地の良い昼過ぎだった。
青年はテーブルに置いた腕時計に目を向ける。
「いい天気だねぇ」
青年に捻りのない挨拶が掛けられた。暢気な声は晴れた日にお似合いだった。
青年は決して人付き合いの得意な人間ではなかった。大学には通っているが、話す者は講師も含め指を折るほどで。それでもこの陽気。それに浮ついた気持ちも相まって、青年は素直に返事を返した。
青年は窓の外に笑顔を向ける。しかし、そこに人の姿は無い。
あったのは、窓辺に一匹の猫。
灰色の毛糸玉のような猫は、その珠の目で青年を見つめていた。
口元は微笑んでいるように見える。
青年は、片眉を吊り上げた。
「良く来るんですよ」
おどけた顔で青年は振り返る。青年の座るテーブルの傍に、喫茶店の主人が立っていた。
「撫でてみてください。決して逃げませんから」
そういって白のカップを置く。湯気立つコーヒーの微かな香りが青年の鼻に届いた。
マスターは笑顔を残しテーブルを離れた。筋の通った背中だった。
しゃべる猫などいるはずが無い。
青年は頭を振る。過ぎった荒唐無稽な考えを払った。
青年はカップに手を掛け、コーヒーを啜る。熱は喉を通り腹に落ち、酸味が鼻から抜ける。
その一口で、青年の心はえもいわれぬ安心感に包まれた。
青年はまた小説に目を落とす。読んでいた文を思い返す。確かそれは、幼くして未亡人になってしまったところで。
青年は一頁、また一頁と捲る。
しかし、物語はおろか文字すら頭の中に入ってこない。
青年は小説を構えたまま、瞳だけを窓辺にずらす。
窓辺には、猫がいた。毛糸玉のような猫だ。
青年の家では猫を飼っており、青年はその猫をよく撫でていた。決して言う事を聞かず、餌の時さえいい顔をしない。それでも気まぐれに寄ってくる。
青年は猫の気侭な姿に憧れを抱いていたのだ。いつか自分もそうなりたいと強く願っていた。
その心意気を少しでも肖りたいと青年はよく猫を撫でていた。
毛糸玉の猫はまだ青年を見ている。時折自ら毛を舐め、また青年を見る。さも毛を撫でろと言っているように青年の目には映った。
この猫も、中々我の強そうな目をしている。
青年は小説を閉じる。栞を挟み忘れてどこまで読んだのかもう分からない。
青年は頭を抱えてしまった。
撫でるべきか、そうしないべきか。
青年は筋金入りの臆病者だった。
決して醜い面立ちではない青年に寄ってくる者は少なからずいた。男達は学問の話を、女達は家柄や未来展望について青年に語りかけてきた。
しかし青年は、全てではないが、ほとんど言葉を返すことが出来なかった。
理由は全て一つに集約される。
期待に答えられる自信が無かったのだ。
決して努力をしない人間ではなかった。決して自分を信じない人間でもなかった。
ただ、人と比べられると思うと手足、舌に至るまでが強張ってしまう。
青年にとって猫が喋ろうがが喋るまいがどちらでも良かった。ただ、もし喋ったとしたら。
猫は撫でられた感想を言うに違いない。
その想像が猫を撫でたい青年の頭を悩ませた。
青年はテーブルに置いた腕時計に目を向ける。切りのいい時間を迎えようとしていた。
「つまらない男」
それは確かに女の声だった。また、青年はその声に聞き覚えがあった。
青年は窓辺に目を向ける。
そこに猫の姿は無かった。
青年は残念そうに息を整え、乱れた髪を直す。温くなったコーヒーを飲み込んだ。
その日、青年と待ち合わせをしていた女は現れなかった。