マリリンの秘密
マリリンは9月16日、誕生日を迎える。9月の中頃と言えば、ここシアトルの街はそろそろ秋を思わせる涼しい風が吹き始める。街路樹の葉も所々、赤く色を変えているのが見える。ピアノの演奏で生計を立てているマリリンはこの街で今日も演奏や作曲活動に忙しく過ごしていた。
「ああ。メトロノームがあったら……」
メトロノーム、それは曲のテンポを合わせる機械。正確なリズムを刻み、ピアノの練習の時に役に立つ。
しかし、当時のメトロノームは今と違い、高級なドイツ製の限られたメーカーの物しかなく、まだ駆け出しのピアニストだったマリリンにとっては高価で手に入れることが出来なかった。
「コン、コン、コン、コン」
マリリンがいつものように家で曲を作っていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい!どちら様ですか?」
「わしじゃよ。マリリン、誕生日おめでとう」
それはマリリンの恩師であるピアノの先生だった。
「さあ、プレゼントじゃ」
「え!ほんとうに」
それは、マリリンが欲しかったメトロノームだった。それもドイツ製の一流メーカーの物で、マホガニー(家具、楽器などの材料となる高級木材)の木目が美しかった。
「先生、こんな高価な物をありがとうございます」
「いいんじゃ。それで練習し、いい曲を聞かせてくれ」
その頃、マリリンの恋人、スチワートはマリリンの誕生日プレゼントを何にするかで迷っていた。
マリリンが以前からメトロノームを欲しがっていたのは知っていたが、まだ見習い時計職人のスチワートにとって簡単に買える代物ではなかった。
スチワートは何度か楽器屋にメトロノームを見に行ったが、行く度に、値札を見て肩を落として帰ってきた。楽器屋の店主に分割にならないかと尋ねたが無理だと言われた。
「どうしてもマリリンにメトロノームを贈りたい!」
スチワートは考えた末、自分でメトロノームを作ることにした。
スチワートが働いている時計店にはメトロノームを作れそうな部品が揃っていた。ゼンマイ、振り子、歯車など、時計の部品がそのまま利用できそうだ。
スチワートは親方に事情を話したところ、部品を譲ってもらえることになった。ただ、時計を作る事には慣れていても、メトロノームは作ったことがない。ましてや見本となる物もない。仕方なく、楽器屋にしげしげと足を運び構造を研究した。毎日のように訪れるので楽器屋の店主には嫌な顔をされたが、裏返してみたり、音を聞いたり、振り子の長さを測ったりして、中の構造を想像した。
スチワートは仕事が終わると毎日、夜中までメトロノーム作りに熱中した。そしてとうとうマリリンに贈るためのメトロノームが完成した。
「マリリン、お誕生日おめでとう。これは君の欲しがっていたメトロノームだよ」
「まあ、スチワートありがとう」
しかし、マリリンはすでに先生から本物の、それもドイツ製の高価なメトロノームをもらっていた。
「ほんとうは楽器屋でドイツ製の物を買いたかったんだけど、今の僕のお給料ではとても無理なので自分で作ったんだ」
マリリンはとてもじゃないが先生からの贈り物の事をスチワートには言えなかった。
「とても、すてき、大切に使うわ」
スチワートのメトロノームは本物に決して引けを取らない出来栄えだった。マリリンは先生からもらったメトロノームはもっと有名になってから使うことにし、普段はスチワートのメトロノームを使うことにした。
しかし、ある日突然、スチワートのメトロノームが止まってしまった。
「どうしたんだろう?」
マリリンは楽器屋に持ちこみ、修理を頼んだが、正規品でない物は修理できないと断られた。
「どうしよう、せっかくスチワートが作ってくれたのに……」
マリリンは仕方なく先生からもらったメトロノームを使うことにしたが、その事をスチワートには言えなかった、スチワートに黙って先生のメトロノームを使う事が心苦しかった。
「何かいい方法はないかしら…… そうだ、中身を取り替えればいいんだ!」
マリリンは名案を思いついた。スチワートの作ったメトロノームの中身だけすっかり外し、その代わりに先生にもらったメトロノームの中身をそのままスチワートのメトロノームに入れ替える。そうすれば、スチワートのメトロノームとして使う事ができる。
マリリンは2台のメトロノームを楽器屋に持ちこんだ。楽器屋は最初驚いていたが、熱心なマリリンに渋々了解した。
あれから、10年近くの月日が経ったいた。マリリンはシアトルでも有名なピアニストになっていた。スチワートも自分の時計店を手に入れ時計作りに精を出していた。そして、マリリンとスチワートは結婚し、幸せな生活を送っていた。
「ねえ、あなた、実は10年間秘密にしていた事があるの」
「え! なんだい? 浮気をしているなどとは言わないでくれよ」
「まさか! そんな事はしてないわ。実は10年前にあなたの作ってくれたメトロノーム、すぐに壊れちゃったの」
「だって、今も使っていると言っていたじゃないか?」
マリリンはあの時の事情を全て話した。
「そうだったのか、だけど何故言わなかったんだい? それに、せっかく先生からもらった高価なメトロノームと中身を入れ替えるなんて……」
「あなたが苦心して作ってくれた物だもの、とても壊れたなどと言えなかったのよ」
2台のメトロノームのおかげでマリリンとスチワートの仲はメトロノームが刻む正確なリズムのようにいつまでも変わることはなかった。
The End