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明日を斬る剣

 それからの亥之介は言葉を忘れたように、おろくが声をかけても返事すらしなくなった。

 おろくは店にたのんで小机を置いてもらい、買ってきた白木の位牌に香炉と燭台を置き、紗枝の髪と守り刀を供えた。花も毎日取り換えるおろくを見ても亥之介は、何の感慨も見せず、手を合わせることすらしなかった。外に出ることもなくなり、日がな一日、虚ろな目で空を見上げていた。

 いつの間に覚えたのか、亥之介が煙草を吸うようになっていた。長い煙管を吹かしながら、焦点の定まらない目で、煙を吐き出している。

 ぎこちない煙管の持ち方が亥之介に似合わず、おろくには可笑しかった。

「労咳なのに、そんなもの吸っていいのかねぇ。さ、風が出てきましたよ。中に入って、お願いだから」

 聞いていない風でも亥之介はおろくの言うことに反応した。手はかからなかったが、まるで心を失った人形のようだった。

 おろくに言われるままに亥之介が部屋の中央に戻った時、珍しく主の勘右衛門が入って来た。

「そのまま、そのまま」

 座布団を出そうとしたおろくを勘右衛門は商人らしい笑顔で制した。

「このたびは大変でございましたな。矢河様の読売が飛ぶように売れておりますよ。どれだけ真実を伝えておりますことか、案じられますが……」

 亥之介と紗枝のことは、遊女への無礼討ちとして世間を騒がせていた。あの場にいた同心が無礼討ちで処理したので、亥之介にはお咎めがなかった。おろくも読売で騒がれていることを知っていたので亥之介の目に触れさせないようにしていたが、どれも化け猫女郎の最期と書かれたものがほとんどで読売に憤りを感じながらも、紗枝の過去に言及したものはなく、それだけはおろくを安堵させた。

「矢河様、こんな時は外に出ることで気も晴れましょう。どうです? 仕事をしてみる気はございませんか」

 勘右衛門の目が光った。おろくも文吉から聞いて、勘右衛門の裏の稼業を知っている。こんな時に、余計なことをしてくれるなという気持ちで俯いた。

「何、簡単なことでございます。ちょっと私が出かけますので警護をお願いしたいと思いまして、いえいえ、矢河様ひとりじゃございません。他にもあちらに控えておりますご浪人様を連れて行くつもりですが、何と申しましても、ここだけの話、矢河様とは腕が違いすぎます」

 勘右衛門が拳分亥之介の方に膝をすすめると、声を潜めた。

「実は、こう見えましても繁盛しているせいか目をつけられておりまして、よく訳のわからない者達に襲われるのでございます。今夜も柳橋の方で寄り合いがございまして、たいそう物騒な胸騒ぎがするのでございますよ」

 抜け荷は、大坂の港から出た船が江戸の沖合で荷を引き渡し、さらにどこかの蔵に運び込むと文吉に聞いたことをおろくは思い出した。抜け荷の積み下ろしではなさそうだと思った。これは勘右衛門の亥之介の人物を見る試しかもしれない。あるいは簡単なことから引き込んで亥之介を取り込もうとしているのだろうか。おろくは頭を巡らせてみたが、笑顔の裏に隠された勘右衛門の心の奥底まで見当がつかなかった。

「お礼も用意いたしました。どなたがお亡くなりになったのか存じませんが、供養の足しにしてくださりませ。また、今宵、何かあれば同額お支払いいたします」

 供養という言葉に亥之介の肩が動いた。

 上目づかいに笑みを浮かべて勘右衛門は、亥之介の前に五両を置いた。

 引きとめたい気分のおろくであったが、亥之介は何かに操られているようにふらふらと刀を下げ勘右衛門について出て行った。

 寄り合いは本当だったようだ。海産物問屋の主らしい者達が三々五々集まって来ては船宿の大広間に消えて行った。ほどなく三味線の音が聞こえてきて宴会が始まったらしい。一緒に来た浪人二人は、声を掛けても返事をしない亥之介を捨て置いたまま控えの間で大言壮語を吐きながら酒盛りを続けている。

 その料亭は神田川と隅田川の交わる所にあった。亥之介は窓から見える屋形船を飽きもせず眺めた。屋形船の揺らぐ灯りと近くの草叢を飛ぶ蛍の織り成す幻想的な光景からなぜか目を離せなかった。紗枝の魂が浮遊している。亥之介はその錯覚の中に身を酔わせた。

――何故、こんな所にいるのだろう? いったい何をしておるのだ。

 亥之介は心の中で蛍に問うたが、答えは返ってくるはずもなかった。

 羅生門河岸にあった紗枝の見世に踏み込んだ時、「今頃、何しに来やがった!」と紗枝が叫んだ後に「早く刀を抜け……」と口が動いて見えたことが亥之介を苦しめている。

(死にたいほど辛かった紗枝の思念に呼び出されて俺はこんな所まで出て来たのか? 斬らずにすむ手立てはなかったのだろうか。別に容面が醜くなったからといって紗枝が変わるわけではないというのに……。連れて逃げればよかったのか。それでも死にたかったのだろうか? 本当は共に死んで欲しかったのかもしれぬ。やはり紗枝の後を追うのがけじめなのだ。だが、……許せ。病で死ぬのは恐くないが、自分では死ねぬのだ。いや、病で死ぬのも恐い。死にたくないのだ。紗枝……紗枝……紗枝……腰抜けの亥之介は、どうすればいい?)

 毎日毎夜考え続けていることであった。ある意味、紗枝を救ったのかもしれない。だが救った行為の代償を亥之介は受けなければならないと思い始めていた。亥之介の中では無礼討ちで済まされる問題ではないのだ。

――死をもって償わなければ武士ではない。八王子千人同心は武士なのだ。断じて農民ではない。

 自裁できぬ弱さに気付いた亥之介は何としても強い相手に巡り合いたいと考えるようになっていた。その者の刃の下に身を置きたいと願った。

 初めて人を殺めた。その相手が紗枝であった。そのことが亥之介の精神を混乱させ、理不尽な考えに拘泥させていた。

 広間から手締めの音が響いてきた。

 四つを過ぎたところで散会になった。

 十六夜の月の明かりは提灯が必要ないほど地上を照らしている。それでなくても江戸の夜は明るいと亥之介は思う。二人の用心棒は只酒を飲めたことで至福の顔で名残惜しそうに立ち上がった。

 小僧に提灯を持たせて勘右衛門は幾分ふらつきながらも上機嫌であった。二人の用心棒も何も起こらないことを能天気に信じた体たらくな物腰で、勘右衛門の両側を固めている。

 だが、両国広小路からずっと後をつけてくる複数の足音に亥之介は気付いていた。町屋を抜けて、元浜町に架かる千鳥橋を渡った所で亥之介の予想通り十人近いやくざ者に囲まれた。浪人者も三人いた。提灯持ちの小僧が逃げ出す途中に斬られて、橋から落ちた。大きな水音に異変を感じたらしい野良犬が吠え続ける。亥之介と一緒に来た勘右衛門の二人の用心棒は思いも寄らなかった展開に震えながらも刀を抜いた。

「先生方、お願いいたしますよ」

 勘右衛門も予想外の暴漢に声が震えている。

 亥之介の目から見てとても堅気の連中には見えなかった。確かに勘右衛門は危ない橋を渡って今の財産を築き上げたことが窺える。恨んでいる者も数多いるのだろう。

 やくざ者達は声も発することもなく慣れた手つきで匕首や長ドスを抜いた。彼等も金で雇われた殺しの請負人かもしれない。

 勘右衛門の右側にいる髭面の用心棒が突然奇声を上げて、刀を振り回しながら斬り込んでいった。恐怖から出た行動に違いなかった。

 隙だらけの構えに亥之介が危惧を感じた通り、用心棒は四人の男から囲まれて、串刺しにされた後、声も出せないまま嬲り殺された。

 暴漢が迫る前に、亥之介は勘右衛門を後ろに庇って川の前に移動した。まさに背水の陣であったが、これで後ろからの攻撃を防ぐことができる。

 二人が同時に斬り込んできた。亥之介の剣が月の光を反射し、その光がうねる様に宙を走った。亥之介がふたたび構えを青眼に戻した時、襲ってきた二人の男の首が飛んでいた。

 喧嘩を売られても峰打ちで返してきた亥之介であった。無造作に人を斬ることなどなかった。紗枝を斬って、亥之介の何かが変わったのかもしれない。

 もうひとりの用心棒が亥之介の右について勘右衛門を庇うように構えた。先に死んだ者よりは腕が立ちそうだ。

 暴漢等は少し動揺したものの、今度は慎重に四人が斬り込んできた。亥之介は一歩踏み出すと同時に相手の刃の下に身を置く様にして、目の前の二人を倒すと、横に立った男の右腕を斬り落とした。

 もうひとりの用心棒も手傷を負いながら、目の前の男を斬り伏せた。

 残った四人が互いに顔を見合わせると仲間の死骸をそのままにして闇の中に散って行った。

「いや、矢河殿、お見事でござる。勘右衛門の旦那から話には聞いていたが、まこと凄まじき剣技に感服仕った。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるとか、まさに剣の極意でござるな」

 息の上がった用心棒は斬られた左腕を自分で縛りながら亥之介の捨て身の剣を賛辞した。腰の抜けた勘右衛門にも少しずつだが元気が戻って来たようだ。だが、言葉を発するまではなく、亥之介を見て何度も頷いてみせるだけだった。

 亥之介は二人に背を向けた。

(弱すぎる。わざわざ刃の下に潜り込んでやったというのに……)

 唐突な行為に躊躇った刺客に対して、亥之介の剣が意志とは関係なく勝手に動いてしまった。亥之介は、刺客の弱さへ対する怒りで体が震えていた。

 激しい嘔吐が襲ってくる。それは慣れてしまったいつもの吐き気ではなかった。その場に倒れこみそうになる目眩に、奥歯を噛締めて踏み止まった。

 常盤屋に戻ると、亥之介は早々におろくの待つ離れに入った。

 すぐに手桶の中に喉に溜まっていた血を吐きだした。



 うろたえたおろくだったが、すぐに床を用意して亥之介を寝かせた。

 いつもとは違う亥之介に、おろくの蚊帳を吊る手が震えた。すぐに水を湛えた桶を抱えて亥之介の枕元に座ると、手拭を絞り亥之介の額の汗から拭いていった。

 床から伸ばした手がおろくの手を掴んだ。おろくは吃驚して一瞬手を引こうとしたが、さらに強い力で握られた。まるで救済を求める子供のような手に戸惑いを覚えた。

「あたいで、いいんだね……」

 おろくの声が不安と喜びに震えていた。その声が亥之介に届いたかどうか判然としなかった。おろくは今感じた亥之介の心を勘違いかもしれないと打ち消して、白い手を握り返した。

 その後は亥之介に声をかけることも憚りながら、目を閉じて呼吸を整える亥之介の苦痛に歪む顔をじっと見詰め続けた。

 亥之介の何かが変わった気がしたが、それが何か見当もつかなかったし、そのことを聞く勇気もなかった。

 蚊帳の中に迷い込んだ蛍がずっと二人の廻りを飛びながらうら悲しい光を放ち続けていた。

 翌朝、お頭つきの膳と一緒に勘右衛門が幇間のような物腰で入って来た。

 まるで芝居の筋でも語る様に身振り手振りをまじえて昨夜の亥之介の活躍をひとしきり機嫌よく話すと、刀の研ぎ料だと顔を綻ばせて切り餅ひとつ亥之介の前に差し出し帳場へ戻って行った。

 海千山千の悪党である勘右衛門の九死に一生を得たような喜びように、昨夜の刺客が一筋縄では行かない者達であったことをおろくは知った。

 他人事のような顔の亥之介が煙草盆を引き寄せて、煙管に手を伸ばした。おろくは先に煙管を荒っぽく取り上げた。

「人を……、斬ったんだね」

 おろくの悲しみの混じった怒りを受けても表情を変えない亥之介だった。どうしようもなくおろくは亥之介に背を向けると、切り餅を紗枝の仏前に供えて、長い間手を合わせた。亥之介を守ってくれた感謝を紗枝に祈った。

「……、死ねなかった」

 ぽつりと呟いた亥之介の独り言におろくは冷水を浴びせられたような衝撃を受け振り返った。亥之介は、自分の吐き出した言葉も忘れた薄ぼんやりした表情で煙を吐いた。

(死のうとしている。紗枝様を追いたがってる)

 亥之介がおろくのそばから消えて行くような恐さを、思い違いであってほしいと思った。自分に亥之介を繋ぎとめておく力がないと思うと辛くて涙が止まらなかった。

(紗枝様、亥之介さんがそっちに行っても追い返してください。お願いだから……)

 おろくは紗枝の位牌にもう一度手を合わせた。

 そんなおろくの心の内も知らぬはずの亥之介が、おろくを背中から抱きしめた。

 煙草の甘い香りが亥之介から漂っている。おろくも亥之介の吐き出した空気をそっと吸い込んでみた。

「墓をつくろう」

 おろくは一瞬心臓が止まった気がした。紗枝の墓をつくりたいと考えるのが一番自然なはずなのに、誰の墓なのかとっさに判断できなかった。おろくは自分の耳を疑った。

――自分のお墓を建てたいのかい?

 声を出さないまま、亥之介に問うた。

「紗枝の墓をつくる。手伝ってくれ」

「紗枝様の……」

 おろくはやはり振り向かずにただ頷いてみせた。

「……、どこにする。やっぱ生まれた所がいいのかな」

 おろくの頭の中に八王子の寺のいくつかが浮かんだ。

「いや、俺達を追い出した土地などで墓を建てても紗枝は浮かばれぬ」

 故郷へ対する亥之介の憤りがおろくを抱きしめた腕から苦しいほど伝わってくる。

「じゃ、どっかいいお寺、一緒に探そうね。紗枝様が安心して休める所。早く戒名も付けてもらいたいし……」

 おろくの背中で亥之介が頷いた。

 亥之介に言われて探した花が、白木の位牌の隣に活けられている。亥之介がなぜその花に拘るのかわからなかった。聞いても亥之介は寂しそうに笑うだけだった。

 珍しく部屋の隅まで吹き込んで来た風に揺らいで、鬼百合の赤い花弁も頷いてみせた。

 おろくは寺を捜しに行くと亥之介に言い残して、吾妻橋の達磨横丁を訪ねた。

 文吉親分には、お澄美というおろくと同じ年頃の可愛いお内儀さんがいることに少し驚いた。

 文吉は隣の手蹟指南所でそこの師匠の藤堂数馬と談笑しており、お澄美に連れてこられたおろくを中に招き入れてくれた。

「お澄美、お茶を入れてくれ。菓子もあったんじゃねぇか?」

「あいよ。可愛い娘にあんまり鼻の下を伸ばすんじゃないよ」

 お澄美が元気よく前掛けで手を拭きながら出て行った。

 昼を過ぎていたので、子供達は帰った後らしい。

 朱の入った子供達の習字がたくさん壁に貼り付けられていた。地面に落書きしながら近所の姉さんに教わって覚えたおろくの「いろは」よりみんな上手で羨ましかった。

 文吉に向かい合って胡坐を組んでいる若い男がお師匠さんなのだろう。文吉だけに相談したかったおろくは躊躇った。

「心配しねぇでいいよ。ここのお師匠さんは、捕り物好きで気は優しくて力持ちってお方だ。相談に乗ってくれる」

 亥之介とそれほど歳が離れていず、体型もやや大きいぐらいの数馬を見て、力持ちと口が滑った文吉の言葉に首を傾げた。

「あ、わりィ、わりィ、力持ちってのは言葉のあやだ。おろくさんのいい人と同じように、滅法ヤットウが強ぇのさ。今までに何人も悪い奴等をバッサバッサと斬り倒し……」

「やめろよ、おいら人を殺めたことはねぇぜ。こいつぁ竹光だって知ってるだろ」

 亥之介と同じ総髪だが、よれよれの袴を穿いている。壁に立てかけた刀を指さして竹光だと恥じ入りもせず笑う不思議な男は文吉とはまた違った爽やかさがあった。亥之介とは違った。

「中身は、お父上の薬代に化けちゃったのよねぇ」

 お茶と羊羹を切ったものをお盆に乗せてお澄美が入って来た。

「お内儀さん。それは言わない約束ではないか」

 半分怒りながら、恥ずかしそうに数馬が頭を掻いている。

 おろくは呆気にとられるとともに、彼らの明るさが眩しかった。

 藤堂数馬は、亥之介とは全く違う類の二本差しだった。よく見かける背筋のピンと伸びた武士ではなくどこか市井に生きる人間のようで、見るから肩に力が入っていない。比べることもないが、亥之介の方がずっと侍らしくて恰好が良いと心の中で思った。だが今の亥之介は、目の前の男以下である。それが悲しかった。

「おろくさん、赤ちゃんができたんだってね、触ってもいい?」

 お澄美が恐る恐るおろくの腹に手を伸ばしてきた。

「あ、あれは嘘です。紗枝様の前で言ったのは、そうだったらいいなっていうあたいの夢。必死だったんで、何であたい、あんなこと口走ったのか、恥ずかしい」

「矢河の旦那を守ろうとする一心で吐いた嘘だったわけだね。よく機転が利くもんだ」

 文吉が感心してみせた。前に会った時よりも軽口が多くて饒舌なのは、ひょっとして亥之介を紗枝に会わせたことの罪滅ぼしかもしれないとおろくは思った。

「ところで何かあったのかい? 昨夜近所で斬り合いがあったらしいじゃねぇか。常盤屋の小僧さんが殺されたらしいな」

 もう、知っているのかと思ったが、朝、勘右衛門が興奮して話して行ったことをおろくは、文吉に告げた。

 話を聞きながら、文吉は険しい顔に変わった。

「矢河の旦那もとうとう人を斬っちまったかい。日本橋の決闘を見た時、峰打ちにしてたから、そんなことするお人じゃねぇと安心していたんだが。人を斬ったことで心が壊れなきゃいいんだが……」

 心が壊れると呟いた文吉の言葉におろくは小さく息を呑んだ。

「自分の身が危ない時に、手加減ができるか。こんな可愛いおろくさんが傍にいるのに死ぬわけにはいかんだろうが」

 茶を啜りながら数馬が、亥之介のことを庇い、おろくを気遣ってくれた。

「本当にそうなら、嬉しいんですけど……」

 おろくは思い切って不安を口に出した。亥之介が死のうとしていること。そして、死んで紗枝と一緒に葬られたいと思っているらしいことを隠さずに話した。

 お澄美も数馬も文吉から羅生門河岸の経緯を聞いているらしく、おろくの話に溜息を吐きながら思案にあぐねた顔を正直に晒している。

「紗枝様は、おろくさんと亥之介様の仲を認めてくれたんじゃなかったの? 紗枝様が死ぬ間際に幸せにおなりって言ってくれたんでしょ」

 お澄美が亥之介のことを考え違いしているといった様子で口を尖らせた。

「そんなこと聞いちゃいないそうです。それどころじゃなくって聞こえなかったのかもしれない。今は、自分の殻の中にずっと閉じこもって、心が見えないんです」

 腕組みで考えている文吉に代わって数馬が指南所の子供達を諭すような優しい顔をおろくに向けた。

「わかった。おろくさん、早いうちに旦那を連れて常盤屋を出ちまいな。構いやしねぇよ。勘右衛門のことは文さん達や奉行所で何とかするさ。これ以上は素人が首を突っ込むことじゃない。住む場所が変われば、きっとその内に時が解決してくれるさ。おろくさんの気持ちも必ず伝わるはずだ」

 暫く考えていた文吉もお澄美に背中を叩かれて、数馬に同意した。期待していた答えだったが、何か申し訳ないような気もした。

「いいんですか? あたい……」

「いいさ。だが、あの後、紗枝さんの持ち物を調べたら、阿芙蓉が出て来た」

「あふよう?」

 おろくには、聞きなれない言葉だった。そう言えば鰻屋で亥之介の相伴に与った時、文吉がそんな言葉を口にしていたような気がする。あの時は他人事のように聞き流していた。

「ああ、気分が勝手に盛り上がって、習慣になっちまうと人を廃人にしちまう薬さ。煙管で吸うんだ。今、江戸で阿芙蓉を影で取仕切っているのは、常盤屋しかいねぇ。おいら絶対に常盤屋を許すわけにはいかねぇんだ。必ずお縄にする」

「あふよう、吸ってるとどうなるんです?」

「最後は、頭がおかしくなってそれこそ人間が壊れちまう」

 おろくは心臓が止まりそうになった。

「勘右衛門が疲れに効くからって、あの人に……」

 勘右衛門が勧めていたのは、阿芙蓉だったのだ。てっきり煙草だと思っていた。そう言えば、亥之介がそれを吸った後、恍惚とした表情みせる。労咳のせいでおろくとは行為ができないと思っていたが、情を通じることができたのは、亥之介が阿芙蓉を吸った後だったからかもしれない。勘右衛門が阿芙蓉で亥之介を縛りつけようとしているのだ。

「帰ります。あの人が、あふようを吸わされている」

 蒼褪めたのはおろくだけではなかった。文吉もお澄美も、そして数馬も一様に唸った。

「早く常盤屋を出るのよ。住む所ぐらいだったらうちの人が何とでもするからね」

 帰りがけに掛けてくれたお澄美の言葉がおろくの胸に沁みた。


 周りの景色が目に入らないほど走った。とにかく早く常盤屋へ戻りたかった。

 草履を揃えるのももどかしく部屋に駆け込んだ。

 小机の上の鬼百合が揺れただけで、亥之介の姿がなかった。出かけた様子はないので厠にでも行ったのかもしれない。

 おろくは煙草盆に近寄ると震える手で煙管を取った。雁首を持って刻み煙草を詰める火皿を臭った。

 それでも確信の持てないおろくは亥之介のように火をつけて、ひと口吸いこんでみた。途端におろくは、目眩がして、体中の力が抜けた。すぐに煙管を拉ぎ折って投げ捨てた。

(やっぱり煙草じゃない……)

 背中に冷水を浴びせられた衝撃を受けた。

 だんだん腹が立って来たおろくは煙草盆を持ち上げると庭に投げ捨てた。

 騒々しい音を立てて煙草盆が壊れた時、襖が開いて亥之介が入って来た。おろくは戸惑っている亥之介の襟元を掴んで柱に圧しつけた。

「どこに行ってたの! 心配するじゃない」

「いかがした?」

「烏賊がも蛸がもないよ。さ、荷物をまとめる。とっととこんなとこから出よう」

「落ち着け、おろく」

 亥之介がおろくを座らせようとした。崩れ落ちるようにおろくは畳に手をついた。

「吾妻橋の親分の所に行ってきたよ。親分がもういいって、もう密偵の仕事は止めてもいいって言ってくれたんだ」

 おろくは亥之介をしがみつく様にして抱きしめた。

「会ってきたのか? 親分に」

 泣きながら頷くおろくが顔を上げた。

「このままじゃ亥之さんが壊れちまうよ」

「それがしが、壊れる……」

 亥之介も思い当たる所があったのだろう。その場に力なく座り込んでしまった。

「ここを出ていけば、わしは壊れぬのか?」

「そうだよ。まだ当てはないけど、親分にも相談してみるよ。どこかの長屋を紹介してくれるかもしれない」

 おろくが膝をすすめた。亥之介も文吉のことを好もしく思っている。おろくは何度も文吉の名前を出して亥之介の関心を引こうとした。そして、おろくの必死さが亥之介にも伝わったようだ。

「ここへの挨拶は、いかがしよう」

「そんなものどうだっていいよ。すぐに出ようよ」

 すぐに荷造りをしようとおろくが立ちあがった時、開け放たれたままの襖の陰から声がかかった。

「勘右衛門殿か、何か?」

 おろくの胸が高鳴ったが、深い息を何度も繰り返して冷静さを保った。

「入らせていただきますよ。いえ、また、仕事をお願いいたしたくて、参上いたしました」

 二人の話は聞かれていなかったようだ。おろくは胸を撫で下ろした。いつものようにおろくは勘右衛門へ座布団を差し出して、亥之介の隣に座った。

「勘右衛門殿、実は折り入って話がある」

「おや、何でありましょう? 矢河様のおっしゃることで手前にできますことでしたら、なんなりと、仰せつけくださりませ。なんせ矢河様は、命の恩人でございますからなあ」

 大店の主らしく勘右衛門は鷹揚に構えて笑ってみせた。

「その仕事を最後に、ここを出ていきたい」

「何とおっしゃります! 何か私共に落ち度がございましたでしょうか」

 勘右衛門は本心から亥之介が出て行くことに不承知の顔で、戸惑った。

「箱根の方に亥之介様の大恩あるお方が住んでいるのです。そのお方に私共が夫婦になる挨拶をしなければ、義理が立ちません。お許しください」

 おろくの口から出まかせの嘘だった。だが、勘右衛門は信じてくれたようだ。

「挨拶だけでございますか? それならまた江戸に戻って来られるわけでございますね。安心しました。そのようなことでしたらごゆっくりして来て下さいまし。あちらの方はよい温泉もあると聞きます。矢河様にとってもご療養によろしいのではございませんか」

「また舞い戻って来るとは、心苦しくて申せなかった。申し訳ない。それではかたじけなく勘右衛門殿のご厚意を受けるといたそう」

「そうなさいませ。ここを我が家とお思いください」

「それで仕事とはまた寄り合いの送迎か?」

 勘右衛門の目が僅かに光った気がした。口元だけで笑った勘右衛門は目の前で手をヒラヒラさせた。

「今度は、寄り合いではございませぬ。少々大事な取引があるのでございますが、またその荷を狙ってくるよからぬ輩が出てこぬとも限りませぬ」

 文吉の話にあった抜け荷に違いない。おろくは平静を懸命に保った。

「拙者一人では荷が重いな」

「ええ、それはもう心得ております。腕に自信のあるご浪人さんをまた新規に五人ほど雇い入れましてございます」

「それは、上々。何やら勘右衛門殿は敵が多く、たいそう恨まれているようでござるからな」

「人の妬みとは、ほとほと困ったものでございますよ。真似して儲けようというならともかく横から掠め取ろうなどとは不届き千万。さて、それでは早速、出かけましょうか」

 亥之介の皮肉に空笑いで返した勘右衛門は腰を浮かそうとした。

「ちょっと待ってください。今すぐは困ります」

 おろくが慌てて止めた。亥之介を何処に連れて行くのかさえもまだわからない。何とかしなければと思った。

「どうかなさいましたか?」

 言葉は丁寧だが、勘右衛門の顔には鬱陶しさがありありと浮かんでいる。

 おろくは勘右衛門の前で跪き、畳に頭がつくぐらい体を折り曲げて手をついた。何も考えてなかったが、勘右衛門はおろくの次の言葉を待っている。

(あたいは、うそつきおろく……。ここは嘘を吐き通すしかないんだ)

 下腹に力を込めて顔を上げた。下腹に気合を入れたまま、口の両端を引いて顔の力を逃して笑顔を作った。

「これから医師の所で治療してもらう約束をしております。ご存知でしょう? 亥之介様の御病気のことは。取り敢えず処置していただかなければ、お役目に差し障りがあってはなりません」

 おろくはひと拳分身をすすめて声を落とした。

「もし、途中で血を吐いて倒れでもして、旦那様の身に何かあったら、悔やんでも悔やみきれません。今宵だけでも咳を抑えられますよう頼んでみます」

 咄嗟に口から出た言葉だったが、勘右衛門の心を揺さぶることができたようだ。

「本当にそんなことができるものならば……」

「できます」

 おろくが自信を持って言い切った。

「診てもらうのにどれほどの刻が?」

 うまく勘右衛門が話に乗ってくれたようだ。また、座布団の上に座り直した勘右衛門には、それほど亥之介の剣が必要なのだろうか。

「夕刻を過ぎると思います。薬などは私が貰って帰り、亥之介様はそこから旦那様の所へ向かわせますので、ご容赦願えませんか」

「勘右衛門殿、場所さえ教えてくれれば、駕籠でも拾って追いかける」

 亥之介が阿吽の呼吸で話を繋いだ。

「それでは、いたしかたございませんな。そうまで仰っていただけるなら。それでそのお医者様はどちらにお住まいで?」

「……吾妻橋の近く」

 おろくは、他に場所を思いつかなかったが、勘右衛門の顔に安堵の表情が浮かんだ。

「おお、それはよかった。近くでございますよ。歩いても行けるかと。吾妻橋から少し下った所に幕府御米蔵がございます。その一番掘で夜の四つに大切な荷が上がります」

 話し始めれば止まらない勘右衛門である。

「幕府御用の荷も含まれておるんですよ。そうだ、おろくさんに鼈甲の櫛をお土産に持って帰りましょう。今夜の荷に入っているはずです。きっと似合いますよ。手前どもは暮れ六つから少し手前の黒船町にある小料理屋で待機しておりますのでそちらにおいでください。判る様にしておきます」

 やはり命を助けられたせいだろう。暴漢の首が宙を飛んだことを目の当たりにしたからかもしれない。勘右衛門はすっかり亥之介のことを信用し、剣の腕前を信頼しているようであった。

「亥之介様、そういうことでしたら早めに参りましょう。旦那様をあまりお待たせしてはなりません」

 おろくは亥之介の着替えを風呂敷に包むふりをして一緒に紗枝の髪と形見の守り刀を忍び込ませた。

 もうここには戻らないと決心した。亥之介のためにも二度と常盤屋の敷居を跨いではならない。



「とんでもねぇ話だぜ。お上の蔵を使ってやがったのか」

 文吉は、亥之介が怪しまれないよう適当な時間に黒船町へ行ってくれと頼むとおろくが顔を曇らせた。

 文吉の知らせに、時を移さず奉行所の役人も町方に変装して、御米蔵から黒船町の周辺を見張り、捕り方の面々も徐々に御米蔵近くの元旅籠町にある西福寺の境内に集まって身を隠した。

 夜になり、五つを過ぎた頃に対岸の埋堀河岸から文吉等は舟に乗りこんで静かに大川を横切り二番堀に上がった。一番堀が見通せる蔵の陰に身を隠して、抜け荷が上がって来るのを待つつもりである。文吉の呼子笛で一斉に捕縛にかかる手はずになっていた。

 遅れて乞食姿の佐平が茣蓙を抱えて別の舟でやって来た。

「矢河の旦那は、さっき菊水って料理屋に入っていきましたぜ。すでに勘右衛門は、そこの二階にいることを奉行所で確認済みでさァ。権六一家の三下もその周りをうろちょろしてましたぜ」

 権六は櫓下の権六と呼ばれ、勘右衛門の影の舎弟分として永代寺門前山本町を縄張りにしたばくち打ちである。堀留の地先に火の見櫓があったのでその界隈を櫓下といい、櫓下は深川七場所としても有名な岡場所でもあった。権六が表向きは廓を営み、裏では阿芙蓉を闇で流して暴利を稼ぎ出しているという噂を最近奉行所が掴んだばかりであった。

「その料理屋には、他に誰が来てる?」

「勘右衛門の番頭で懐刀の靖次に末吉。櫓下の権六と若頭の金治。それに用心棒が七八人ってとこかな。荷揚げの人足どもはまだ姿が見えませんが、どっかで酒でも飲んでたむろしてるんじゃねぇんですかい。ま、役者が揃いやしたぜ」

 佐平は壁に木刀を携えて寄りかかっている影に気付いた。

「なぁんだ。数馬の旦那も来てらっしゃったんですか。こいつぁ鬼に金棒だ」

「佐平殿、その辺で着替えたらどうだ。臭くてたまらん」

「我慢して下さいよ。他に持ってねぇし」

 佐平は、気を使って少し距離を取った。

「しかし、旦那も好きですねぇ。奉行所の礼金も結構貯まったでしょう」

「馬鹿なことほざくんじゃねぇよ。俺は文さんの身を案じてだな。こうして出てきておる」

「そういうことにしておきやしょう」

 佐平が勝手に数馬の気持ちを推し量って声を出さずに笑い、文吉から頭を殴られていた。

 蚊を追い払いながらじっと文吉等は船の着くのを待った。沖合で荷を積み替えた船が、一旦ここで荷物を下ろす。その後はすぐに小分けにしてまだどこにあるかわからない常盤屋の隠し蔵に運び込む手はずになっている。ここで現場を押さえない限り、一緒に運ばれて来た阿芙蓉が江戸の町を蝕んでいくことになるのだ。文吉は十手を握り直して月明かりで浮かび上がる一番蔵をじっと観察した。

 四つを小半時過ぎた。文吉が焦れ額の汗を拭った時、ぞろぞろと人影が一番堀の辺りに集まって来た。号令をかけて指示を出している権六らしい男の後ろに、用心棒に囲まれて立っている小太りの男の影が見えた。隣の白っぽい着流しは亥之介に違いない。なるべく目立つ色の着物を着てくれと頼んでおいた。捕り方が間違えて捕縛しないようにしたい。

 文吉等も闇に隠れて一番堀の方へ近づいて行った。

 何処からともなく大きな黒い船が近づき、着岸した。

 声を出すなと言われたのだろう。人足達は静かに荷を降ろし始めた。その人足達を囲むように権六一家のやくざ者が作業を見張っている。

 文吉は呼子の笛を吹いた。

 隠してあった御用提灯が一斉に立てかけられ勘右衛門一味を照らし出した。

「お上の御米蔵で荷を上げるとは、言語道断。恐れも知らぬ所業である。神妙に縛につけ」

 捕物出役姿の町奉行所与力の声が一番堀に響き渡った。

 強盗提灯を持った鉢巻姿数名の同心の指示に従い、捕り方が大挙して抜け荷一味を取り囲んで行った。

「何てことだ。何故ここがわかった! 先生方、お願いしますよ」

 勘右衛門が喚きながら亥之介の後ろに隠れたのを文吉は見逃さなかった。

 金を貰った俄か用心棒等は、捕り方が現れたことを全く予期していなかったらしく動揺をみせたが、腹をくくったのか刀を抜いて、斬りかかってきた。勘右衛門が剣の腕前を事前に吟味したらしく、捕り方の何人かが斬られて重傷を負った。

 それ以上に手強いのが権六一家の子分衆であった。捕まれば後がないと死に物狂いで手向かってくるので捕り方側が怯み始めている。

 慶吾が相手構わず十手で殴り飛ばしながら同時に捕り方に向かって叱咤激励しているが、相手の勢いは一向に衰えない。

 意を決した文吉がその中に飛び込むと、文吉を追い越す様に数馬が駆け抜け、木刀を振るった。

 数馬が次々と用心棒やごろつき共を倒して行く。

 亥之介は、数馬の動きに見惚れてしまった。勘右衛門が選び抜いた手練を斬り結ぶことなく一撃で打倒している。無駄な動きがなかった。今までに見たことのない鋭い太刀筋に亥之介は釘づけになった。まさに亥之介の希求を叶えてくれそうな剣であった。

 亥之介は勘右衛門を守るという口実で剣を構えたまま戦闘に参加していない。

 その亥之介の背中に隠れた勘右衛門が「逃げ道を作れ」と切羽詰まった声を出して、しがみついてきた。藤堂数馬の太刀筋に酔い痴れていた亥之介は、ひどく邪魔された気分になった。

 文吉と佐平が亥之介の近くで常盤屋の奉公人共をお縄にしている。

「文吉親分、こっちだ」

 亥之介は、勘右衛門の首根っこを掴むと文吉に向かって勘右衛門を放り投げた。

「くそ、裏切りやがったのか!」

 佐平に殴られながら勘右衛門が恨みに燃えた目で亥之介を睨んだ。

 やがて数馬の活躍もあり小半時で全員を捕縛できた。

 押収した荷を開くと御禁制品に混じって案の定南京袋に詰められた黒褐色の阿芙蓉が出て来た。

「あの労咳侍はどこに行った?」

 島岡慶吾が暑いのか、鎖帷子を脱ぎながら、文吉の傍によって辺りを見渡した。

 文吉も付近を捜してみたが、亥之介の姿はどこにもなかった。誤って捕縛した様子もない。

「達磨横丁の長屋におろくさんを迎えに行ったのかもしれやせんね。ちょっくら先に帰らせていただきます」

 文吉は、数馬と一緒に吾妻橋の長屋へ帰ったが、亥之介の来た様子はなかった。おろくが心配そうに橋の袂へ駆け上がった。


 

 とうとう一晩明けても亥之介は現れなかった。

 まだ、陽も昇る前であったが、おろくは気が狂わんばかりに何度も朝靄の立ち籠める通りに駆け上がった。

「どっかで倒れてるんじゃないだろうか。大川に落ちて流されたんじゃ……」

「落ち着きなせェ、おいらがきっと捜し出す。矢河様は今回一番のお手柄だ。江戸中のお手先や下っ引きを総動員しても捜し出してみせやすから、今は、おいらの所で旦那を待っていなせぇ」

 それでもおろくはじっとしていられなかった。

「今、佐平が御米蔵の辺りを捜してる。帰って来るのを待ちねぇ」

 文吉は無理矢理おろくを引っ張っていこうとした。

 おろくが明け始めた墨絵のような土手の先を見て声を上げた。

 陽炎のような人影がこっちへ近づいて来るのが見えた。落とし差しの刀とは別に、もう一本朱鞘の刀を手に持っていた。

 おろくが息を呑んだ。今までに見たことのない殺気が亥之介の体から立ち昇っている。おろくが怯えた。まるで別人のようだった。文吉も背中が粟立った。

 亥之介は、おろくの呼びかけにも答えず、文吉の前にふらりと立った。

「手蹟指南所の師匠殿に会いたい」

 感情のない凍りついた声であった。

「数馬さんに何の用だい?」

「真剣での勝負を所望……」

「どうしたんです? 勝負がしたいってどういうことなんです」

「拙者は、常盤屋の用心棒だ。金も受け取った。用心棒としての仕事をせねば義理が立たぬ」

「何、訳のわからねぇこと言ってんだ。あんたは、おろくさんと所帯を持ってじっくりと静養しなきゃならないんだろ」

「おろくとは所帯など持たぬ。おろくを江戸まで連れて来るのが、初めて会った布田宿での約束であった。約束は守った」

「亥之さん……」

 おろくが文吉の前に割り込んで来た。亥之介はおろくを押しのけて長屋の木戸を潜ろうとした。

「待ってくれ。数馬さんに会わせるわけにはいかねぇ。出て行ってくれ」

 文吉が押し返そうとすると、亥之介は一気に刀を抜いた。文吉の逃げるのが遅かったら本当に斬られていたかもしれない。

 おろくが悲鳴を上げた。

「お澄美っ! 十手を投げてくれ!」

 障子が開いてお澄美が顔を出すより早く、丸腰の藤堂数馬が飛び出してきた。

「大きな声で話しているから聞こえたよ。俺はおまえさんと斬り合うつもりはねぇぜ」

 数馬が文吉を庇おうとするのを反対に文吉が数馬を押し戻した。

「勝負を所望いたす。おろくから聞いた。竹光では勝負ができぬゆえ、持ってきた。昨夜おぬしが常盤屋の用心棒から叩き落としたものを拾っておいた。悪い拵えではない。受け取れ」

 亥之介が、数馬に向かって二尺五寸の刀を投げた。

「常盤屋の用心棒として、ひとり縄目を逃れたからには、のうのうと生きておるわけにはいかぬ。常盤屋を壊滅させたのは、おぬしの剣だ」

「馬鹿なこと言ってんじゃねぇ!」

 食い下がる文吉を数馬が、制した。

「何が何でも、俺と試合がしてぇようだ。理屈じゃねぇみてぇだな」

 刀を受け取った数馬は、それを腰に差した。

「ここでは長屋に迷惑がかかる。土手に上がれ」

 数馬の決意が伝わってくる静かで低い声だった。

「承知した」

 亥之介の目が俄かに爛々と輝いた。

 口の端だけで笑う亥之介は数馬に背中を見せないままゆっくりと後退ずさって行った。

「何、馬鹿なことやってんだよ。数馬さんまで一緒になって」

 文吉の声に振り向いた数馬が心配するなと口を真一文字に固く閉じて目で頷いた。

 おろくは声をかけられないままおろおろして後を追う。

 何事かと長屋の住人も恐る恐る外に出てきたが、文吉が一喝して家に戻した。

 十手を持って出て来たお澄美が文吉の止めるのも聞かず、おろくの後を追いかけていった。


 亥之介は青眼に構えた。

「確かに修練を積んだ構えだぜ。だが、所詮自己流だな」

 数馬は刀を抜かずに足場を確かめていた。

「おぬしは?」

「俺も似たようなもんだ」

 そう口の端で笑って数馬は右足を前に出すと半身に腰を屈めた。

「抜かぬのか? 居合か」

「調子に乗って近づくんじゃねぇぞ。間合いに入りゃ、バッサリいくぜ」

 刀を押し下げた数馬が鯉口を静かに切った。

 文吉とお澄美が飛び出そうとするおろくを抱きとめている。

「心配するんじゃねぇ。数馬さんに任せておきな」

 だが、そう言う文吉にも自信はなかった。日本橋で亥之介の剣技を見た後、慶吾は数馬より強いかもしれないと確かに言った。

 少し昇った朝陽が靄を散らし、大川の水鳥が一斉に飛び立った。

 文吉の目に陽炎のように冷たい炎が立ち昇って見えたのは錯覚か。亥之介が横に揺れた。

 瞬間、数馬の剣が鞘走りして、空を切った。風が起こって炎が消えた。甲高い金属がぶつかる音が二度聞こえて、互いに鍔迫り合いに入った。相手と剣を打ち合せることもなく一刀で打ち据える数馬が鍔迫り合いをするなど珍しいことであった。力勝負を避けた亥之介が後ろに跳んで間合いを切った。また、数馬は刀を鞘に納めて居合の構えを取った。

 今度は長い睨み合いが続いた。互いに牽制しながらゆっくりと右に廻っている。時々、数馬が踏み込んで目にも止まらぬ速さで剣を抜くとすぐ鞘に戻した。咳を堪えながら亥之介も合わせて冷静に対処している。いつ斬られたのか数馬の左袖が裂けて少しだが血も流れていることに気付いた文吉は無意識に十手を構えた。いざという時には決死の覚悟で飛び込むつもりなのだろう。おろくもお澄美も息を呑んで二人を見入っている。いつの間にか出て来た長屋の連中も数馬の応援をすることを忘れて、瞬き一つしない。いや、息詰まる真剣勝負を前にして、瞬きすることも動くことも忘れていたのだ。

 今度は、脇構えにした亥之介が右に回り込みながら踏み込んで下から斬り上げた。数馬が上から斬り落としてその剣を受けた。また、鋭い金属音がして力勝負になった。数馬の剣に刃毀れが目立ってきた。亥之介が数馬の力を左に流して胴を払おうとした。咳を堪えた分だけ一瞬遅れ、亥之介の体中の血が逆流した。案の定、亥之介の剣を柄で受けて弾き返した数馬はそのまま横に跳び、鞭のように剣を振って態勢の崩れた亥之介の肩の上に刀を落とした。

 腰から崩れ落ちそうになったおろくをお澄美が支えた。数馬の握っている剣の反りが、逆になっていることに気付いたおろくは思わず心の中で数馬に手を合わせた。

 肩を打たれた亥之介は、激しく咳き込んで膝をついた。

「咳を押し殺した瞬間、おまえさんの力が抜けた。俺ァ、命拾いしたぜ」

 数馬が刀を鞘に納めた。

 過度な緊張が続いたためだろう。亥之介は喀血し、夥しい血で辺りの草叢を蘇芳色に変えた。

 駆け寄ったおろくに背中を擦られながら亥之介は恨めしそうに数馬を見上げた。

「何故、斬ってくれなかった。おぬしなら武士の義を立ててくれると信じて来たのに」

「馬鹿野郎! 何が武士の義だ。勝手に俺のことを人殺しにするんじゃねぇ。おめぇさんの寿命は、おめぇ一人のもんじゃねぇんだ。みんな決まってる命の長さ、それが尽きるまで精一杯生きろ!」

「……生きろというのか。紗枝をこの手で殺めたそれがしに生きろというのか」

「くだらねぇ義だとか忠だとか言ってねぇで侍を辞めれば簡単なことだぜ。もっと違うモンが見えてくるはずさ。俺みたいによ」

 数馬の亥之介を見る目が怒っていた。

(こやつは武士を捨てておるというのか? それでもこれほどの強さを保てるというのか! 武士以上の強さを持つおぬしは何者だ? 拙者も武士を捨てればおぬしのように強くなれるのか?)

 訝しく見上げる亥之介の肩に数馬が腰を落として手をかけてきた。おろくとは違った温かさを持つ掌から何かが亥之介の体の中に流れ込んで来た。

「話は文さんやおろくさんから聞いたよ。でもよ、その紗枝さんってお人もおめぇさんに死んでくれと言ったのかい? そうじゃねぇだろう。生きて、てめぇが何のために生まれて来たのかよく考えてみることだ。一緒に考えてくれる人間もすぐ傍にいるじゃねぇか」

 おろくが亥之介の背中を擦る手を休めずに数馬に向いて何度も頭を下げた。

「文さん、大八車はねぇかい。それに誰か要らねぇ布団があったら持って来てくれ」

 立ち上がった数馬がずっと心配で見守っていた長屋のみんなに声をかけている。数馬が何をしようとしているのか亥之介には見当もつかなかった。

「死んだ婆さんのでもいいかい」

 大工の女房のお捨がすぐに子供を連れて長屋へ走って行った。

 刀を鞘に納めた亥之介がそれを脇差と一緒に数馬に差し出した。

「捨ててくれ……」

 八王子千人同心は武士なのだと矜持を持ち続けて来た亥之介であったが、目の前にいる男のように生きたいと思った。そんな亥之介の心が伝わったのだろう。数馬は何も言わずに差し出された刀を受け取ってくれた。


 亥之介はもう歩く力も残っていなかった。それほど数馬との戦いに精力を使い果たしていた。

 布団を敷いた大八車に亥之介は寝かされた。最初上から筵を掛けられた亥之介であったが、首を傾げた文吉が死骸を運んでいるようで縁起が悪いとお澄美に掻巻を持って来させた。

「暑いけど我慢してくんな。人目に顔を晒しても構わねぇんだったら取っちまってもいいが」

 文吉の笑い声は今し方の死闘などなかったかのように爽やかだった。

 亥之介を乗せた大八車を数馬が引いている。文吉とおろくが後ろから押して吾妻橋を越えた。

「どこへ行くんです?」

 おろくが不安そうに文吉に尋ねるのが布団を被せられた亥之介の耳にも届く。

「着いてからのお楽しみ」

 意地悪く笑った文吉に、おろくの荷物を持って追いかけて来たお澄美が文吉の背中を殴った。

 お澄美の癖が自分と同じだとおろくは笑った。

「小石川の養生所でしょ。もったいつけないの」

「養生所?」

 おろくの不安そうな声が亥之介に聞こえる。そんな亥之介も初めて聞く言葉だった。お澄美ではなく文吉が答えている。

「ああ、お上がやってる養生所だ。貧乏人でもちゃんと診てくれる。設備も整っているから心配ねぇよ」

 享保七年(一七二二年)正月二十一日に小石川伝通院に住む町医師小川笙船が目安箱に投書した。笙船は翌月に評定所へ呼び出され、将軍吉宗は大岡忠相に養生所設立を命じる。同年十二月二十一日に小石川薬園内に養生所は開設された。建物は柿葺の長屋で薬膳所が二カ所に設置されており、当初の患者収容数は四十名ほどであったが、評判になるとともに収容の数も医師の数も増員されている。

「江戸ってすごい所だね。何でもあるんだ。そんなとこがあるなんて知らなかった」

 おろくが甲高い声で驚いている。

「おろくさんも看病できるように頼んでやるよ。ついでに養生所で仕事があればいいんだがな。無理ならごり押しの得意な八丁堀の旦那に頼んでやるよ」

 数馬の言葉が心強く亥之介の胸を打った。おろくの歓び様が目に見えるようで、よほど首をもたげておろくを見たかったが、布団から涙に濡れた顔を出すのは憚られた。

「賄いでも洗濯でも何でもします。やらせてください」

 おろくが何度も数馬や文吉に頼んでいる。

 途中で追いついた佐平に、数馬が交代だと命じて有無を言わさず引き手から抜けた。

「ええっ、まだ下谷にも入ってねぇってのに……、後、神田に湯島に本郷だろ。気が遠くなるなあ」

「文句を言わないの」

 佐平がお澄美に怒られていた。

 おろくも笑っている。黴臭い布団に身を包み亥之介はむず痒い思いをしながらずっと大人しくしている。ずっと寝たふりをしているままだ。おろくは掻巻の上から、ポンと拳骨で軽く殴ってきた。おろくのことだ。きっと零れ落ちる涙を隠すために見えない亥之介へあかんべぇをしているに違いない。

 そしておろくは亥之介の病室を鬼百合で一杯にしてくれることだろう。大八車の乗りごごちは決して良くなかったが、いつの間にか亥之介はまどろみ始めた。遠ざかる意識の中で亥之介の耳におろくの笑い声がまるで子守唄のように届いてきた。






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