表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

天蓋の百合

 府中、そして八幡宿と越え、布田の入り口に差しかかった。

 布田は布田五宿と呼ばれ国領、下布田、上布田、下石原、上石原に分かれ旅籠が十軒に満たないほどの小さな宿場である。それでも五宿通いあるいは、五宿女郎という言葉が聞かれるところを見ると、それなりに夜は賑わうのかもしれない。

 だが、腰の刀を外し茶店に腰を下ろした矢河亥之介には女郎買いなど思いも寄らぬことであり、望むべきでないことでもあった。床几には色の褪せた緋毛氈が掛けてあり、老女が一人店番をしている。茶を頼むとこれからの道中について考えを廻らした。急ぐ旅ではない。しかし、亥之介には時間がないこともおぼろげだが勘づいている。強い夏の陽射しは傾きかけていたが、その気になれば高井戸まで足を延ばせるかもしれない。相変わらず体は熱っぽいが江戸に向かうと決めてから体調はそれほど悪くないのだ。八王子の近在に住む掛かり付けの医者も最初は反対したが、亥之介の強固な意志に半ば諦めて江戸に住む懇意な医師への紹介状と甘草乾姜湯カンゾウカンキョウトウを多めに処方してくれた。

 茶を運んできた御婆が深編み笠の下から総髪に髪を後ろで引き結んだ亥之介の顔を覗き込んで少し驚いたようだ。

「お侍さん、若いのにどこかお悪いのかい? 顔が真っ青だ」

 亥之介は薄く笑い返すと編み笠を外し、印篭から取り出した薬包紙を開いた。茶で薬を飲み干す亥之介を珍しげに見物していた御婆は、気付いたように慌てて茶を継ぎ足してくれた。別に薬を飲む侍が珍しかったのではない。細面の上に頬もこけ、夏だというのに色の抜けるように白い肌を持つ若侍の妖艶さについ歳も忘れて見惚れてしまったと言った方が正確かもしれない。

「御婆、あそこに咲いている花の名は何だ?」

 葭簀の影に優雅で花弁の強く反り返った花が俯いて咲いていた。

 花の色は赤みがかった黄色で暗紫色の斑点があり、紫褐色で細かい斑点のついた茎には小さく披針形で先端のゆるく尖った葉がついている。

 その花は亥之介の心を捉えて逸らさせない。その花の持つ純潔と誇りが江戸の旗本に嫁いで行った幼馴染の紗枝と重なった。紗枝は亥之介と同じ八王子千人同心の娘で二つ歳下であった。そして、紗枝に会うことがこの旅の目的でもある。会わなくても遠くから見るだけでいい。もちろん連絡などはしていない。ただ幸せな紗枝の姿を一目見て脳裏に焼き付けておきたいと無性に思っただけなのだ。短い予感のする亥之介の生涯の中で、紗枝のそばにいた時間だけが輝いている。

「鬼百合も知らないのかい? この辺りじゃどこでも咲いてるだろうに……」

「いや、花は見たことがあったが、男所帯なもので誰もその名を教えてくれるものがいなかった。なるほど鬼百合か……確かに名は聞いたことがあるな」

 自分の浅学さを素直に認めて屈託なく笑う亥之介に御婆もつられて笑ってしまった。

「おもしろいお侍さんだね。わしが三十も若けりゃほっとかないよ。ほれ、団子でも食べなさるか。わしが作った蓬餅も美味いぞ」

 御婆が奥に入って行ったのと同時に、亥之介の来た方向から街道を必死で駆けて来る娘の姿を認めた。追われているようであったが、関わり合いになる気はない。

 現実から逃避するように目を逸らした亥之介は、もう一度日陰に凛として咲く鬼百合に目をやった。

 ところが娘は亥之介を見つけるや、駆け寄ったまま隠れるように背中へしがみついてきた。

 身を捩じらせた亥之介だったが、娘の力は思いの外強い。畑仕事でよく鍛えられたに違いない。

「その娘を渡せ」

 亥之介の前に立った男は、汗と一緒に唾も飛ばしてくる。

 居丈高にものを言う男であった。歳の頃は四十前後というところか。これ見よがしに着た紋羽織の裾が解れている。その紋に見覚えはない。

 男の視線を逸らさずに見据える亥之介にその男の微かなたじろぎが見え始めた。激して見せる割には気の小さい男なのかもしれない。

 男の落ち着きのなさが亥之介の心に煩わしさを増大させていく。

 それに被せるように娘の震えが亥之介の背中に伝わってきた。ふいに窮鳥懐に入ればという言葉が頭を過ったのは、亥之介の臍が曲がったせいかもしれない。背後の不快さよりも目前の疎ましさにより虫唾が走ったというだけのことだろう。

「猟師も殺さず、か……」

 元来冷淡な人間ではない。人が亥之介を避けるようになり、人との関わりを遠ざけていただけである。

「何を訳の分らぬことを言っておる。そこをどかぬか!」

 亥之介の前で口の端から沫を飛ばす男は夏の日差しよりも暑苦しいものであった。

「返さぬと申せば?」

 娘を追いかけて来た侍達が亥之介の冷たい声に一瞬狼狽して刀に手を掛けた。

 不遜な振る舞いが目立つ小太りの男が主で、残りの寡黙な二人は従者なのだろう。

「抵抗いたさば、おぬしも斬る!」

 激した男の声が震えている。

「人を斬ったことがあるのか?」

 亥之介の凍るような声に男達は戦慄した。

「おぬしこそ!」

 亥之介は腰に刀を差しながらゆっくりと立ち上がる。

 病に冒された体は、まるで陽炎が揺れるように動いた。

「拙者もない……」

 男達にふっと安堵の息が漏れた。笑いを浮かべた者もいる。華奢な亥之介の技量をはかり、自分の優位を感じている笑いであった。

 茶店の御婆が後ろから娘を抱きとめて亥之介から遠ざけた。三人の侍は、みな体格がよく亥之介よりも肩幅が広くて胸板も厚い。威圧するように刀を抜く男につられて家来等も刀を抜いた。

「おぬしのような痩せ浪人を斬ったとて自慢にはならぬが、鏡新明智流田上軍兵衛参る!」

 亥之介は静かに鯉口を切った。

「斬り合いならどっか他所に行ってやっておくれよ」

 御婆が悲鳴のような声を上げた。

「心配いたすな。ちゃんと迷惑料は払ってやる。その男の埋葬料も含めてな」

 田上軍兵衛と名乗った男が大仰な脇構えから亥之介に向かって袈裟がけに斬りおろしてきた。

 亥之介の体が一瞬沈んだように思えた。

 御婆も娘も思わず目を背けた。亥之介が斬られたと思った。それほど軍兵衛の踏み込みは凄まじかったのだ。

 だが、茶屋の床几に大きな音を立てて倒れ込んだのは軍兵衛の方だった。

 亥之介はさらに舞うように刀を回し、家来の一人の右手を刀の峰で打った。耳障りな金属音を立てて男の刀が街道に転がった。

「峰打ちだ。ただしお手前方の主の胸の骨、一本や二本は折れているやもしれぬ。用心して運んで行くがよかろう」

 戦意を失った男達に向かって亥之介は静かに言い捨てた。

「お侍さん、見かけによらず強いんだねぇ。体の芯が疼いちゃうよ」

 主を背負い街道を這這の体で戻って行く侍達に右の下瞼を指で引き下げてあかんべぇをした後で、その娘としては精一杯であろうと思われる礼を口にした。

「騒がせたな」

 亥之介は娘を無視して、波銭を数枚床几の上に投げると編み笠に手を伸ばした。娘が先にその笠を取り上げて自分の背に隠すと、馴れ馴れしい目で亥之介を見て笑う。

「どっかで見た顔だと思ったら、矢河のお坊ちゃんじゃないか。あたいだよ、同じ村のおろくだよ」

 亥之介の意を介さぬ天真爛漫な娘の顔に見覚えはあった。自分の田を持たない水呑百姓の娘であった。勿論声を掛けたことも話したこともない。八王子千人同心も武士とは言いながら普段は農作業をしている。どこかですれ違ったに違いない。

 そう言えば、その昔田の草取りをしていた亥之介は遠くの畦道で娘を苛めて囃したてる子供の声を聞いた覚えがある。

(ろくでなしのろく、うそつきおろく……、誰がホントは武田の御姫様だったって? うそつくんじゃないぞ)

「……嘘吐きおろく」

「嘘吐きじゃないよ!」

 頬を膨らませて怒るおろくの隙をついて笠を取り返した。その早技におろくの開いた口はしばらく閉じなかった。

 おろくは勝手に亥之介について歩いた。無口な亥之介にまるで一人語りでもするようにずっと喋っている。聞きたくなくてもおろくの声が勝手に亥之介の耳へ入ってくる。

 おろくは口減らしで隣村にある武家屋敷へ下働きに出されたようだ。田上軍兵衛はその屋敷の主であった。ただ自堕落な品行が目立ち、布団部屋でおろくは軍兵衛から乱暴に犯された。そんなことが何日か続いたという。

「あいつの口が臭いし、涎がねちゃねちゃして気持ち悪いから、逃げ出してきた」

 おろくは屈託なく笑った。十六になったというその娘は、着の身着のままで逃げてきたためか普通の娘より肌の露出が高く、胸の谷間に滴る汗を平気で人目に晒していた。奔放さの中に危うさを孕んでいる笑顔が軍兵衛という中年の男を惹きつけたのかもしれない。

「しかし、お前が逃げ出しては、親父殿等に迷惑がかからぬか?」

「構うもんか! あんな所に奉公に出しやがって。おいら親から捨てられたんだ。何かあったって知るもんか」

 急に真顔になったおろくが亥之介の体を両手で掴み、揺すった。

「あたいをお江戸に連れて行っておくれよ。江戸に行けばあたいみたいなモンでも生きていけるって聞いた。後生だから、さ」

 下から覗きこむおろくの腕を亥之介はつれなく外して、歩き始めた。

「いいじゃないか。邪魔しないよ。勝手について行くから。江戸まででいいんだ。ね、いいだろ? お金ならあるよ。出掛けにあいつの手文庫からくすねてきたんだ。ほら、ご覧よ。切り餅だよ。見たことあるかい?」

 おろくの懐から出した手に二十五両の切り餅がふたつ乗っていた。

「あたいの花代にしちゃあ安いもんだよ。ずっと縛られて甚振られてたんだよ」

 ずっとこの娘の体が忘れられず連れ戻そうとしているのかと思っていたが、軍兵衛は盗まれた金を追って来たのかもしれない。

 亥之介はつい失笑してしまった。盗人の肩棒を担いでしまったのかという自嘲の笑いだった。

 だが、関わりたくなかった。おろくの身の上に同情も湧かない。それに、おろくの盗んだ金を追っているのであれば田上軍兵衛があれで諦めたとも思えない。追いつかれては迷惑だと、無意識に足を速めた亥之介は布田五宿をそのまま通り過ぎて行った。

 おろくはそれでも亥之介に遅れまいと必死で後をついてくる。

 

 高井戸で宿を取った。

 下高井戸宿まで来れば、この街道の起点である日本橋まで四里である。

 風呂から上がったおろくは途中古着屋で買った小袖に着替えて入って来た。陽に焼けた肌を割り引いてもおきゃんな町娘のようだ。甲州街道を汚れた姿で歩く様子に目だけ大きい鴉のような娘だと思っていた。言葉を呑んで見詰める亥之介におろくが笑った。

「どうだい? 言葉が出ないだろう。あたいも磨けばいい女なんだから」

 亥之介の横に座って用意された盃にちろりから酒を注ぐ仕草は商売女のように慣れている。聞けばそんな経験はないと言うので、天性のものかもしれない。

 宿を決めた時、宿帳へ勝手に妻おろくと記載させて笑っていた。

 客が少なかったこともあるが、宿側も疑うことなく夫婦者ということで他に誰もいない一間に入れてくれた。それは亥之介にとっても都合が良かった。思いの外如才ないおろくのはずんだ心付けも効果があったのかもしれない。そうでなければ真っ黒な鴉娘に深編み笠で着流しの亥之介がまともな客扱いをされるはずがない。

「だってこんな大きな娘じゃおかしいだろ? いいんだよ、お礼さ。あたいの体、抱いてもいいからね。今夜はお坊ちゃんのお内儀さんだから」

 甘えて亥之介の肩に撓垂れ掛かるおろくの体をさりげなく遠ざけた。

「あまり傍によるとうつるぞ」

「どっか悪いのかい? 確かに丈夫そうには見えないけどね」

 心配そうに亥之介の顔を覗き込むおろくに亥之介は子供を諭すような笑顔で頷いてみせた。

「労咳だ」

 だが、それを聞いてもおろくは別段驚いた様子もなく、亥之介から体を離そうとはしなかった。

 医者さえも亥之介から体を遠ざけて相対した。亥之介が触った湯呑みや触れた座布団など焼き捨てていることを後で知った。身内ですら亥之介を別棟に押し込め、最小限の接触にとどめるほどであった。

「知らぬのか?」

「血を吐いちゃう病気だろ。近所の姉さんがそうだった。近づくなって言われていたけど、あたいはこっそり姉さんに会いに行ってた。姉さんだけあたいの話を聞いても嘘吐きだって笑わなかったんだ」

 その近所の娘がどうなったか亥之介は聞けなかった。

 この度の江戸行きに父と長兄は旅の理由も聞かず過分な旅費をくれた。千人同心の家に生まれたからには、お目見えは叶わずとも一度は将軍の御座します千代田の城を見てみたいという気持ちはよくわかると、何も語らぬ亥之介の気持ちを勝手に慮ってくれた。

 厄介払いのつもりだったに違いない。帰ってくるなという思いが下男や飯炊き女からも伝わって来た。あるいは亥之介が思っている以上に病状が進行しているのかもしれない。周囲は亥之介の死を願っている。それも関わりのない土地で死ぬことを望んでいる。

「うつされたって構いやしないさ。どこで死んだって誰も悲しんだりしない。ま、あたいは元気なだけが取り柄だから労咳だって尻尾をまいて逃げて行くさ」

 捨て鉢には聞こえなかった。おろくの顔がひどく大人に見えた。二十四の亥之介よりも今は十六のおろくの方が年上に思えるほどだった。

 亥之介の首に手をかけたおろくはそのまま引き寄せて口を吸うと逃げ腰の亥之介に重なって布団の上へ倒れ込んだ。

「あたいの体の中からあの蝦蟇蛙に汚されたところを綺麗に掃き出しとくれ……、風呂でいくら洗っても落ちた気がしないんだ」

 なぜか亥之介の心の中に抗う気持ちが生じなかった。されるままにする自分が不思議だった。細く見えたおろくの体は見た目よりも柔らかで弾む毬のようだった。目を閉じると紗枝の顔が浮かんだ。

――紗枝も細かったが、この娘のようにしなやかなのだろうか

 紗枝とは手も握ったことがなかった。会っても互いに無口でまともに目を合わせることもできなかった。

 上に乗ったおろくは亥之介の兵児帯を解いて手を伸ばしてきた。

 しかし、どんなにおろくが頑張ってみても、亥之介が欲情することはなかった。

 諦めたのか、いつしか疲れたおろくはしどけない恰好のまま亥之介の手枕で寝てしまったようだ。

 この娘は、本当に俺が恐くないのか?

 おろくの寝顔はやはり少女のものだった。そして亥之介を頼り切っているようなそんな潔さがあった。清々しささえ窺える。

 そっと腕を抜いた亥之介は周りに聞こえないように最初の咳を殺した。

 しかし、止まらない咳を押さえるたびに消えそうな行燈の灯が揺れる。

 懐紙で掌に毀れた血痰を拭った。おろくに振り回されてまだ甘草乾姜湯を飲んでいなかったことを思い出し、すぐに温い白湯で流し込んだ。

 薄暗い部屋の中でおろくの寝顔が視界に入った。

 昼間見た鬼百合の花が、おろくの顔に重なった。

 そして、その顔は次第に紗枝へと変わっていった。



 朝早くに高井戸の宿を出て、昼には内藤新宿を越えた。

 暑い夏の日差しから体を休めるようにゆっくりと昼餉を取り八つ半には日本橋についた。甲州街道の起点であり亥之介の終着点である。

 通りは、人の往来が絶えず亥之介とおろくの胆を抜く大型の呉服屋をはじめ、両替屋や大問屋が堂々とした店構えで軒をつらねて活気に溢れていた。店へ呼び込む奉公人の声、高過ぎると値引きする客の声、子供の泣き声、大声で同じ言葉を繰り返す香具師の口上、他愛ないおしゃべり、肩が触れたと始まる喧嘩の怒声……。

 その喧噪は、一塊になってまるで地響きのうねりのように亥之介へ襲いかかり、目眩をともなったやり場のない苛立ちを募らせる。

 しかし、八王子では体験することのない賑わいにおろくははしゃいでいた。

「どっかで、お祭りでもやってるのかねぇ」

 団子を頬張りながら高札場近くの欄干から身を乗り出したおろくは、能天気にお城の方を見上げて言葉にならない声を上げ続けた。川添いには、日本橋蔵屋敷や四日市蔵地、江戸橋蔵屋敷など、諸国から船で江戸に入る物産を納める白壁の蔵が勇壮に並んでいる。

 亥之介は城に背を向け魚河岸の喧噪を眺めた。城を見るとやるせない憤りが湧き上がってくる。あの城の中の侍達は、八王子千人同心のことを武士とは認識していないのだ。苗字を公称することは許されておらず、帯刀についても公務中のみと制限されていた。人別帳にも百姓と記載されている。だから人一倍剣術の修業に身を入れたのかもしれない。亥之介の妙技に紗枝が目を細めて褒めてくれたからだけではない。

 往き交う者は浮かれるおろくをまさに田舎者と軽蔑して一瞥を投げかけてくる。一向に気にした様子はないおろくだが、見下して笑う着飾った小娘達よりもずっと目鼻立ちも整っているし、町に馴染んでいるように亥之介が思うのは、少しでも肌を重ねて情が移ったせいだろうか。

「そろそろお別れだな。楽しい旅ができた。礼を申す」

 屹度睨んだおろくが眉間に皺を寄せてつかつかと亥之介に近づいた。

「こんなところであたいをおっぽり出すのかい? 悪い奴等に捕まっちまったらどうしてくれんのさ」

「おぬしより悪い奴はおらぬ」

「涼しい顔してよくそんな冗談が言えるよ。あんたは世間知らずなんだから暫くあたいといた方がいいんだってことが分からないのかい」

 いつの間にかおろくの呼び方がお坊ちゃんからあんたに変わっていた。

「何しにこんな所まで出てきたのか知らないが、労咳なんだからあたいと一緒にいた方が何かと都合がいいはずだよ」

 おそらく一瞬かもしれないが亥之介の躊躇いをおろくに覚られたのかもしれない。亥之介の心の隙を突くようにおろくは畳みかけてくる。

 周りは痴話喧嘩でも見るような顔で訳も知らずにおろくの応援をして行き違った。それにも元気づけられているようだ。無口な亥之介には分が悪かった。

 突然、威勢の良かったおろくが無口になって亥之介の後ろを指さした。

 振り向くと軍兵衛が五人の小者を含めた家来を引き連れて睨んでいた。

 一度屋敷に戻り態勢を整えてから追いかけて来たのであろう。中には金で雇った用心棒らしき浪人も混じっている。

「問答無用!」

 呆れて立ち尽くしている亥之介に向かって一斉に刀を抜いた。

 軍兵衛の形相に橋に溢れた通行人がさっと道を開け恐いもの見たさの野次馬となった。誰が見ても亥之介の方が非力だし、多勢に無勢に見えている。

「何してやがる!」

 突然人混みの中から聞こえた腹に響く大声に軍兵衛側が怯んだ。

 大声の主は朱房の十手をちらつかせながら亥之介と軍兵衛の間に割って入ってきた。

「てめぇら田舎者が! ここを何処だと思っていやがるんだ。天下の大通りで騒々しいぜ、まったく。昼間っから段平振り回すなんざぁ、穏やかじゃねえな」

 亥之介はそっと鯉口にかけた指を外した。

「俺ァ、八丁堀の島岡慶吾ってもんだ。話なら番屋でゆっくり聞くぜ」

 大柄な男は定町廻り同心であった。顎髭が濃く目の大きい慶吾は、端午の節句に飾る鍾馗様に似ている。嘘か本当か総勢十人程の町奴と火消しの喧嘩の仲裁に割り込み、全員をぶちのめした武勇伝の持ち主である。語る人間によっては、二十人だとも五十人だとも噂する。大人しく机の前で書き物をするよりも、竹刀を振り回す方が好きで、直心影流の免許皆伝であった。その噂は慶吾の目の前にいる軍兵衛や亥之介を除いて野次馬連中のほとんどが周知していた。

 そして慶吾の後ろに控えている岡っ引きは吾妻橋の文吉とその下っ引き佐平である。深川での市中見廻りを終え、呉服橋御門内にある北町奉行所へ戻る途中だった。

「この男は、恥ずかしながら、わが屋敷に奉公する女中を手籠にし、逐電した者。町方の者にはお引き取り願おう」

 軍兵衛は取って付けたような咳払いの後、慶吾だけに聞こえる小さな声で「妾に間男でござる」とうろたえながらも言い繕った。

 まさか盗まれた金を取り返すために白昼堂々と刀を抜いたなどとは言えぬのであろうと亥之介は推測した。ならばおろくの持っている五十両は何か仔細のある金なのかもしれない。

「誰が手籠にしたって? 納屋でふん縛って手籠にしたのはおめぇじゃねえか」

 亥之介はおろくの口を塞いだ。仲裁を買って出た八丁堀の同心に期待してみようと思った。しかし、欠伸しながら不用意に発した同心の言葉に耳を疑った。

「何だ? てめぇの逃げられた妾を追ってきた女敵討ちかい」

(女敵討ちだと?)

 心遣いの欠如しているらしい同心の大声を聞いて亥之介は一瞬頭に血が上ったが、ぴったりと身を寄せるおろくの体のぬくもりが冷静にしてくれた。ふいに昨夜の瑞々しいおろくの感触がよみがえった。確かに女敵討ちと言えなくもない。

「間男見つけりゃその場でたたっ斬ってもお咎めはねぇってもんよ。だがな、場所をよく考えな。ここを何処だと思っていやがる」

 亥之介は成程と感心した。町人ならいざ知らず、武士として女敵討ちは恥以外の何物でもない。公にできる話ではないのだ。それでも同心が出て来た以上、軍兵衛は罪に問われず亥之介を斬り捨てる手段を瞬時に考えついたのだろう。そんな姑息さに五十両だけはおろくから取り上げて返してやろうと思っていた気持ちが失せた。

「ば、場所を変えればよろしゅうござるか。このままでは武士の一分が立ち申さぬ」

「ああ、人目につかねぇ所にしな」

「ならばあの……」

 軍兵衛は蔵地の西河岸を指さした。すぐ近くである。大通りではないというだけだ。

「よし、俺が見届け人だ。場所を移せ」

 亥之介は慶吾の言葉を疑った。てっきり軍兵衛を追い払ってもらえるものだと思っていたのだ。

 慶吾は文吉に命じて野次馬を追い散らかそうとしたが、帰ると見せかけてみんな西河岸の場所取りに向かったようだ。

 亥之介の勝利を信じているおろくだけ威勢がいい。

「二三筋斬らせてやりな。江戸じゃあ女敵討ちの示談は七両二分が相場だが、金のかからねぇように上手くやってやる」

 慶吾が軍兵衛に判らないように片目をつぶって見せたが、何を考えているのだろう。おそらくこの同心も亥之介の分が悪いと思っているようだ。むざむざと斬られる気はないし、七両二分をただで渡す義理もない。さっさと止めろと思ったが、成り行きで西河岸に向かった。いや、正しくはおろくに引っぱられて行ったというべきだろう。

 見物人がいるせいか胸を張った軍兵衛が亥之介に向かって必要以上に大声を出した。

「先日は貴殿の卑怯な振る舞いに思わぬ不覚を取ったが、今度はそうはいかん。まずこの者から立ち合っていただこう」

 卑怯って、何したんだ?

 何だ、前にあの青白いひょろ侍に負けたってことかい。

 賭け直してもいいかい?

 聞きたくなくても野次馬の騒ぐ声が亥之介の所まで届く。いつの間にか賭けの対象になっているらしい。溜息と一攫千金を望んだ声が交錯している。

 おそらく軍兵衛方にも声が届いているのであろう。顔を真っ赤にして眉を吊りあげた軍兵衛が一歩下がると入れ替わりに急遽雇われたらしい男が長尺の太刀を肩に担いで前に出た。

 男は黙って軍兵衛に右手を突き出した。その掌に軍兵衛が忌々しそうな面持ちで数枚の小判をのせた。

「貴殿には何の遺恨もござらぬが、浮世の義理ゆえ覚悟召されよ。新当流相楽次郎左衛門直高と申す。参る」

 言葉は慇懃だったが態度はずっと亥之介を威嚇している。おそらく軍兵衛から亥之介の太刀筋を聞いたのだろう。相楽という武芸者が亥之介を侮っていないことにある種の安堵感を覚えて徐に剣を抜いた。

「天真正伝香取神道流を少々嗜んでおる。矢河亥之介、お相手仕る」

 腰を落とした男は三尺を超える長大な刀身をもった中巻野太刀を肩に担いだままの構えで間合いを詰めて来る。

 亥之介の自然体で隙のない青眼の構えに、同心島岡慶吾の顔色が変わった。

「待て!」

 一時に発散された亥之介の強烈な殺気に慶吾の思わずかけた声へ亥之介は薄い笑いで頷くのと、相楽の剣が上段から凄まじい風を起こして振り落とされたのが同時だった。亥之介はまるで影が揺らめくようにすっとその下を掻い潜り、刀の背で胴を抜いた。

 亥之介の早技に慶吾は蒼褪めて目を大きく見開いたが、峰打ちと分って安堵の溜息を吐いた。

 しかし、慶吾以外の誰もが野太刀の男の陰に隠れた亥之介の方が斬られたと思った瞬間であった。

 野太刀を落とした男が苦しそうに白目を剥いて叢に倒れ込むと観衆の呆気にとられたどよめきが沸き起こった。

「見えなかった……いったい何時斬りやがったんだ」

 岡っ引きの文吉があり得ないといった面持ちで慶吾を窺うと、腕自慢のその同心は胸を張って文吉を馬鹿にするように鼻で笑った。

「次は?」

 亥之介が軍兵衛に向かって剣を突き出した。

「ざまぁみやがれってんだ。顔を洗っておととい来やがれ! この短小野郎!」

 おろくが何度も跳ねてはしゃいでいる。

 あのお武家は短小なんだってよ。

 早漏な顔もしてるぜ。これはしまった、早漏し候なんてね。

 それにひきかえあの痩せ浪人は、ああ見えても、あっちの方も凄ぇんだな。あんな愛くるしい娘が離さないときてる。

 いい加減な野次馬の声が軍兵衛にも届いていた。

 どす黒い怒り顔の軍兵衛は業を煮やして、剣を振りかぶった。

「かかれ!」

 しかし、軍兵衛の家来共はみな腰が引けていた。構えた剣先が一様に震えている。それは遠目で見ている群集にもわかった。意外な成り行きにみな固唾を呑んで今度は見逃すまいと静かに見守っている。

 その場にいる者達は皆、一陣の風を感じた。

 亥之介が八双の構えから軍兵衛等の間を駆け抜ける残像が、その場にいた者達の目に鮮烈な衝撃で残った。瞬いた後には、刀を叩き落とされ腕を押さえて蹲る軍兵衛等がいた。

 さらに軍兵衛の刀は真ん中から折れて、切っ先の部分が軍兵衛の足の甲に突き刺さっていた。

 間を置いて野次馬からどっと歓声が沸き起こった。

「その辺でいいだろう。返り討ちにあったってことで命のあるうちに帰りな。遺恨なしだ。いいな。今度俺の前に顔を出しゃ引括るからな。容赦しねぇぞ」

 思惑がはずれて形無しの慶吾であったが、軍兵衛に向かって恫喝に近い啖呵を切った。

 賭けに負けた者達からの石礫を避けながら軍兵衛は供侍に担がれてその場から逃げ出して行く。

「騒がせてすまぬことをした」

 刀を納めて亥之介は慶吾に頭を下げた。

「姓名は?」

 ぞんざいに慶吾が問い質した。

 さっき名乗ったのを聞いてなかったのかと幾分腹を立てながら亥之介は目の前に突き出された十手の先を見詰めた。

「……八王子千人同心矢河家の亥之介様だよ」

 勝手におろくがしゃしゃり出て来た。

「あたいは、おろく。この人のかみさんだよ」

 咳き込んで蹲りそうになる亥之介を支えながらおろくが自慢げに答えた。苦しくて気が遠のきそうになった亥之介にとって、おろくの吐いた嘘などかまっていられなかった。それよりもおろくの肩の柔らかさが亥之介の病を包み込んでくれるようで不思議な安堵感を覚えた。

「旅の途中と見たが、どこに行く?」

 さらに慶吾が尋問した。

「江戸に仕事を探しに来たのさ。この人は千人同心の家に生まれたけど、三男坊なんだ。耕す田も渡して貰えない。だから江戸に出て来たのさ」

――嘘吐きおろく

 そう吐き捨てたつもりが声には出なかった。おろくが勝手に作り話をしたがあながち間違ってはいないと亥之介は薄れゆく意識の中で思った。同心とのやり取りはおろくが懸命に亥之介を支えながら続けている。次第に胸の苦しさが消えて行った。懐紙を取り出してわからないように口の中の血を吐きだした。

「だいたい話はわかったが、今日はどこの旅籠に泊まるんだい。居場所だけは俺に教えちゃあくれねぇかい」

「何でそんなことまで八丁堀に教えなきゃならないんだ。あんたも同じ同心じゃないか。仲間だろ? それにまだそんなもん決まっちゃいないさ!」

 犬のように吠えるおろくを制した亥之介は慶吾に詫びた。だが、今晩の宿、そして活動の拠点になる住処は欲しい所であった。その時、遠慮がちに横から声がかかった。

「差し出がましいようですが、いかがでございましょう?」

 恰幅の良い男が腰を屈めて亥之介と慶吾の間に入って来た。供の手代を従えて大店の主といった風体であった。

「まだ宿がお決まりでないようですが、手前どもの家においでくださいませ。その辺の安い旅籠よりお持て成しいたしますぞ。あ、申し遅れました。手前は海産物問屋の主、常盤屋勘右衛門と申します。いえ、あなた。今の試合を見せていただきまして感服していた所でございます。いや、御見事な技を見せていただきました」

 慇懃だがよくしゃべる男だった。恵比寿顔で如才なさを装っているが、油断ならない目の光に亥之介は警戒した。

「それに聞けば、お仕事も探しておられるとか。手前も商いの傍ら口入屋のようなこともしております。あなた様の腕前なら用心棒として欲しがる大店も心当たりがございます。さ、おいでなさいませ」

 勘右衛門は連れていた手代に命じて亥之介の荷物を持たせた。

「こいつぁ渡りに舟だ。お前様、ご厚意に預かりましょうよ」

 着ている物も上等で見るからに身上持ちの商人らしい常盤屋の申し出におろくは頗る乗り気になっている。固辞する亥之介を叱りながらおろくは勘右衛門の後に意気揚々とついて行った。思いの外気力を使い果たした亥之介にはもうおろくに従う力しか残っていない。

 取り残された慶吾は幾分困惑ぎみに亥之介を見送った。

「行っちまったよ」

 腕組みした慶吾が溜息を吐いた。

「ええ、困った所について行きましたね」

 野次馬を追い払って戻って来た吾妻橋の文吉が慶吾の隣で同じように溜息を吐いたのには理由がある。

 常盤屋は抜け荷の疑いがあり、今内偵中であった。御禁制の珊瑚、鼈甲で細工した簪、笄などを利用し大奥とも強い繋がりを持ち、確固たる証拠を掴まねば横槍が入る可能性も視野に入れなければならない。特に憂慮される問題は、密輸した阿芙蓉の蔓延であった。つまり芥子の実から生成された阿片を煙草のように女郎達へ吸引させ、客を取らせている情報が入っている。末端で阿芙蓉を小分けし密売するやくざ者も二重三重に取引を複雑化させ卸元の勘右衛門まで辿り着けない工夫がされていた。深川の岡場所にある廓の奥で阿片窟と思われる場所に潜入した奉行所の隠密は、阿芙蓉の禁断症状を見せ大川へ飛び込んで死んだ。これは明らかに挑戦であり、殺された隠密の弔い合戦だと意気込む奉行所であったが、阿芙蓉と常盤屋を結び付ける手掛かりは隠密の死で失った。

 常盤屋勘右衛門――。裏の顔を巧みに隠した、なかなか尻尾を掴ませない狡猾な男であった。

「あのお侍さんも用心棒にしてしまうつもりでしょうかね」

 慶吾が困った顔で頷いた。

「旦那とどっちが強いんで?」

「さあな、奴は死ぬことを恐がった様子がねぇ。その分、おめぇんチの長屋のお師匠さんより強ぇかもしれねぇな」

「てぇことは旦那よりも強ぇってことか……」

 慶吾が軽く文吉の頭を小突いて笑った。

 お師匠さんとは長屋の一棟で手習い指南所を開いている藤堂数馬のことである。文吉の捕り物にも協力的で、父親は西国の小藩で剣術指南役だったが、上意討ちの旅に出たまま、いつの間にか江戸に棲みついていた。

「ほっといていいんですかい? 何ならあっしがあのお侍さんの塒を世話しやしょうか」

「……文吉、そこに捨てられてる丸まった懐紙を広げてみな。ただし、そォオっとだぜ」

 文吉は背筋が寒くなる予感がした。慶吾も同じことを考えているのかもしれない。矢河亥之介という侍の痩せ方、肌の色は尋常ではなかった。それにおかしな咳を繰り返していた。

 文吉は手伝わせようと下っ引きの佐平を振り向いた。佐平はちょうど息を吹き返した中巻野太刀の男の頭を十手で殴ってもう一度気絶させ、袂から小判を抜き取っている最中であった。

「だって、こいつ負けやがったんだから、礼金貰っちゃまずいでしょ」

 愛想笑いした佐平の頭を慶吾が十手で軽く殴ってその五両を取り上げた。

「だからっておめぇが取っていいわけがねぇ。こいつぁお上が預かる」

「あ、あ……ひでぇや、ひでぇや。そんなら給金上げてくれ」

 慶吾に悪態を吐く佐平を今度は文吉が引っ叩いて懐紙の落ちている所まで連れて行った。

 手拭で口を覆った文吉と佐平は、傍に落ちていた木の枝を上手く使って懐紙を開いた。

 佐平が思わず胃の中のものを戻しそうになって口を押さえる仕草をしたままひっくり返った。

「旦那、やっぱ血でベットリだ。胸を病んでるようですぜ」

「離れろ、文吉。野郎はそんなに長くはねぇぜ。死ぬのが恐くねェはずだ」

 文吉は腰の巾着袋から火打石を取り出し何度も打ちつけた。枯れ草に移った火を大きくして懐紙を燃やした。

「川に流すわけにもいきやせんから」

 独り言のように呟く文吉に、慶吾も独り言で答えた。

「おろくといったか、あの娘。おきゃんに見えるが、あいつも刹那すぎる臭いがするぜ。似た者同士だな」

 風のないおかげで文吉のつけた火から上がる煙は線香のように上って行った。


 亥之介とおろくは常盤屋の離れの一室を宛がわれた。六畳間で庭に面しており縁もついている。日当たりも良さそうだったし厠へも近い。最初、人相の悪い浪人者が数名ほど屯する大部屋に通されたが、おろくが夫婦者だと粘った結果だった。勘右衛門が亥之介の腕前を目の当たりにしたことも功を奏したのかもしれない。

 しかし、勘右衛門は亥之介が八王子千人同心の倅だと分かると、微かに浮かんだ侮蔑の表情を笑って誤魔化した。

「ま、最近は武士といっても一生刀を抜いたことのない者ばかりが増えております。それに引き替え矢河様はお侍の中のお侍でございますな。この勘右衛門がしっかりお世話させていただきますよ」

 千人同心の代表が何度か幕府に御家人身分を確かめたが、評定所でその度に却下されていることを勘右衛門も知っているのだろう。紗枝の父親が幕府代官所への根回しに相当の金を使ったと聞いている。どこで工面したのか知らないが、全くの無駄金になってしまったと亥之介の兄達が話しているのを聞いた。

 上目使いに愛想笑いする勘右衛門に亥之介は嫌悪が走ったが、おろくが袖を引いて睨んでいる。また後で世間知らずだと誹るに違いないと亥之介は視線をはずした。金をかけてよく手入れされた庭が見えた。餌が欲しいのか、主人によく似て肥満した錦鯉が泉水から間の抜けた顔を出している。

 おろくは二人きりになるとすぐに亥之介のために床を取り、休ませた。甲斐甲斐しく看病する姿は、まるで世話女房そのものである。

「……すまぬな」

「何言ってんだい。似合わないよ。もっとしかめっ面してな。その方があんたらしいよ」

 一度に六名と剣を交えたことが堪えたのかもしれない。亥之介の寿命が縮まったのではないかと思わせるほど体がだるく力が入らなかった。意志通りに動かぬ四肢に亥之介は焦りを感じた。

 急がなければならない。体が動くうちに……せめて歩けるうちに紗枝を一目見たい。

 紗枝の牧村家とは家格が同じだった。同じように貧しい千人同心の家柄である。八王子の四季は常に紗枝と一緒だった。夕暮れの高尾山を飛翔する野鳥、今熊山麓の滝水が岩に当たり砕ける飛沫を想っても紗枝と過ごした爽快な刻がそこにあった。だが、亥之介は矢河家の三男であり、紗枝の弟がいる限り養子に入る道もなかったのだ。それでも両家とも二人に好意的で、何とか添い遂げさせる道を探ってくれていたが、そんな矢先亥之介は体がだるく咳が止まらないことに気付いた。多くのことがあったが、結果的に病が亥之介から身を引かせた。

 紗枝に縁談の話が来たのは亥之介の病気が表沙汰になって直ぐだった。亥之介としては心を殺しても祝福するしかなかった。おそらく紗枝の家が早々に手を回したのかもしれない。会うことも叶わなくなったので紗枝の気持ちは分らない。

 あれから四年が過ぎた。

 今となっては、紗枝の亥之介に対する気持などどうでもよくなっている。今、幸せなのかそれだけが気がかりなのだ。

「元飯田町に行きたい……」

 譫言のように呟いた亥之介の言葉をおろくは問いなおした。

「元……何だい? どこに行きたいって?」

「元飯田町……佐久間甚五郎という旗本の屋敷だ」

「知り合いかい?」

 亥之介は首を振った。

「場所は? 知ってるの?」

 亥之介の額にかけてある水に浸して絞った手拭を取換えながらおろくが顔を寄せた。顔を寄せねばならぬほど声が聞き取り辛かった。

「わからぬ。江戸は初めて来た……」

「そりゃあ、あたいもそうだけど……ちょっと待ってな」

 長い間おろくは帰って来なかった。いつの間にか亥之介は眠りについていた。

 

 翌朝、目を覚ますとおろくは朝食の準備をしていた。

 箱膳をちょっと持ち上げて、お粥にしてもらったからと笑った。

「そうそう、ここの旦那様に元飯田町ってどこにあるのか聞いたら、地図書いてくれたよ。この黒い丸があたい達のいる日本橋の新右衛門町で、これが楓川……、元飯田は、お堀をぐるりと廻って反対側らしいよ」

 おろくが広げた半紙を亥之介は食い入るように見た。自然と体が起きていた。

「おや、元気になったみたいだね。やっぱり寝て体を休めたのがよかったんだ」

 言われて見て亥之介も体調がよいことに気付いた。隅の方に畳まれた蚊帳と並んで置いてある水の満たされた手桶や鴨居に干してある何枚もの手拭におろくがずっと看病をしていたことが窺える。

「でもね、武家屋敷ばっかしですっごく広い所だから、佐久間って言われてもどこだかわからないんだって。そりゃあたいらが住んでたど田舎とは違うだろうけどさ」

 地図を説明しながらおろくは訝しそうに亥之介の心の内を覗こうとした。

「知らない人でしょ? 何で会わなきゃならないの」

「その者に会うつもりはない」

「じゃあ、どうして!」

 執拗に食い下がるおろくを亥之介は持て余した。しかし、おろくのしてくれた看病のことを思うと、無下にはできない後ろめたさもある。

「理由を教えてくれなきゃ、捜しようもないじゃないか」

 亥之介もついに重い口を開いた。それはおろくだけに心の中を開いてみせたということかもしれない。最近にはないことであった。いつの間にかおろくのずかずかと他人の心に入り込んでくる調子に巻き込まれてしまったようだが、それは決して不快なものではなかった。

「牧村の娘が佐久間家に輿入れしている……」

 おろくの表情が変わった。

「牧村の紗枝様かい?」

「知っておるのか?」

「紗枝様は……」

 おろくは言い淀んだ後、急に饒舌になった。

「紗枝様のことは知ってるよ。綺麗でやさしい人だったねぇ、あたいみたいな娘にも偉ぶったところがなく声をかけてくれた。ずっと昔だけどお手玉、もらったことがあるよ。そうだったの。急にいなくなったと思ったらお嫁に行った……んだね。し、知らなかったよ。へぇ、よかったじゃないか。それで、まさか矢河のお坊ちゃまは紗枝様に惚れてたとか。まさか、相思相愛だったなんてね」

「……そんなとこだ。昔の話だが」

 亥之介が恥じ入るように力なく笑った。

「まだ、紗枝様のことを好きなのかい?」

 おろくが聞き辛そうに亥之介の顔色を窺った。

 しかし、それは亥之介にも予期せぬ問いであった。好きかと問われてすぐにそうだと答えられない自分がいることに戸惑った。ならば何故江戸まで出て来たのだ? 確かにあの時は輝いていた。若者の誰もが経験する感情の昂りを亥之介も持てたに過ぎないのかもしれない。紗枝を捜す旅は、外界との接触を制限され続けた亥之介にとって、畢竟牢の格子から外を眺めるような眩しい世界を覗き見る感じに似ているかもしれない。二度と戻れぬあの目映い時への郷愁なのだろう。闇に転がって行くだけの残りの人生にしっかりと対峙できないでいる亥之介であった。それに空耳かもしれないが遠くで紗枝が亥之介のことを呼んでいる声がする。それも生まれた土地を憎み、逃げ出したかったための口実なのだろう。

「好きかどうか……あの頃のような気持ちはない。まして他人の奥方だしな」

 死に向かって歩いている者の気持ちなど、おろくには分かってもらえまいと亥之介は口を噤んだ。

 しかし、今まで必要以上にわざとらしく騒いでいたおろくが、翻然と真顔になってきっぱりと言い切った。

「じゃあ、会わない方がいい。今はきっと幸せにお暮らしになってるんだからさ。お坊ちゃまが出ていったら御迷惑ってなもんだ。胸の中にしまっていた方がいいよ……」

 睨みつけるような厳しい目でおろくは亥之介を見据えていた。

「だから会う気はない。本当に幸せなのか見ておきたいだけなのだ」

「だから世間知らずだって言ったんだ。女の気持ちなんて解っちゃいない」

「うるさい!」

 激して咳き込んだ亥之介の背中をおろくが慌てて擦った。おろくの掌の温かさに亥之介は邪険に払おうとした手を下ろした。おろくの掌は不思議な感覚だった。亥之介はおろくの手から滲む優しさに酔わされた。ずっとこのまま浸りたい温もりであった。

 縁から覗ける常盤屋の庭にも白い百合が咲いている。だが峠で心惹かれたものとは種類が違うようだった。もう一度あの鬼百合を見たい。紗枝のような花……、手折りたいと思っているわけではないのだ。ただ眺めて、そして自分の生を認知してみたいだけなのだ。

 無口になった亥之介の背におろくは顔を埋めた。

「……わかったよ、あたいがその佐久間ってお屋敷を探しに行って来る。知恵絞ってみるから、亥之さんは見つかるまで体を労わっていなよ。紗枝様に会う前に、倒れちまったらしょうがないだろ」

 やはり無口なままの亥之介をおろくは後ろから抱き締めた。

「でも紗枝様には絶対に声をかけないって、約束して。遠くから見るだけだよ」

 何故、おろくは泣いているのだろう。不思議に思いながら亥之介は頷いた。



 日を経ずして、旗本佐久間甚五郎の屋敷をおろくは捜し当ててきた。

 九段坂から少し北の元飯田町堀留に架かった蜻橋こおろぎばし近くにその屋敷はあった。

「行商の魚屋さんやらいろんな人に聞いてみつけたんだよ」

 褒める亥之介にそれほど嬉しがりもせずおろくは種明かしをした。

 深編み笠の亥之介は佐久間家の門のはす向かいに植えられている松の大きく地面にうねり出た根に腰を下ろした。その家は両側の大きな屋敷に挟まれてはいるものの、それなりの格式ある門構えであった。高い土塀に続くその門は、亥之介を臆させた。まるで不審者を拒絶するかのように固く閉ざされている。

「ここの奥方様は芝居見物が好きで、今日は浅草の芝居小屋に出かけているはずさ。もうそろそろ寄り道しなけりゃ帰って来る時分だよ」

 亥之介は刻限を推し量るように編み笠の隙間から空を見上げた。血のような蘇芳色の夕焼けが目に染みた。

「芝居見物……、紗枝殿にそのような道楽があったとは、思いも寄らなかった。それとも歳月が人を変えるのか」

 決して裕福ではなかった紗枝の家の暮らし向きを思えば、あの頃は芝居見物など夢にも浮かばぬことであったろう。佐久間甚五郎は、御小姓組八百石の家柄だと聞いた。そして、金のかかりそうな奥方の趣味を許している主の度量の深さを思って、軽い嫉妬を覚えた。

「あの行列じゃないかい?」

 行列と口走ったおろくの言葉には皮肉が込められていたが、姑らしき白髪の混じった品のある老婆にかしずいて歩く奥方らしき人物と腰元ひとりに警護の侍二人が蜻橋を渡って近づいてくる。

 亥之介は息が詰まる思いがした。だが、目を凝らして女達の顔を見て愕然とした。

 どこにも紗枝の姿はなかった。

 佐久間の屋敷を通り過ぎてくれと願ったが、門番が出てきて慇懃に門を開いた。

 茫然として亥之介はしばらくの間、自分を失っていた。

 気付くと門番が門を閉めようとしている。居ても立っても入られず亥之介は駆け寄った。

「ここの奥方は、八王子の牧村家から輿入れなされたと聞いたが……」

「悪いが人違いじゃないのかい。この近所じゃ、八王子から輿入れなされた奥方など聞いたことがない」

「それではお女中に紗枝という女子は奉公してござらぬか」

 執拗に亥之介は詰め寄った。

「聞かないねぇ、申し訳ない。門を閉めさせてもらうよ」

 対応は丁寧だが、迷惑そうな表情をあからさまに出して、門番は奥に引っ込んで行った。

 それでも門戸を叩こうとする亥之介の腕をおろくに止められた。

「何故だ! どういうことだ。紗枝は……、紗枝はここへ輿入れしてきたのではないのか」

「そんなに熱くなっちゃ体に障るよ。もう帰ろう。薬も飲まなきゃならないし」

 亥之介はおろくを振り払った。

「ここではないのかもしれぬ。佐久間という旗本は、他にもあるはずだ」

 転んで門柱にぶつかったおろくが着物の裾を払いながら緩慢に立ち上がった。

「ありゃしないよ。ここが佐久間甚五郎のお屋敷さ。紗枝様は、ここじゃない。ここにはいない」

 不思議なことを言うと思った。まるで最初から紗枝の行方を知っていたような言い草だった。

「おろく……」

 名を呼ばれてもおろくは亥之介と目を合わせなかった。「帰ろう……」と呟くだけだった。

「知っておるのか? 紗枝がどこにいるのか知っておるのか!」

 体を強く掴まれてもおろくは顔を背けたきりで口を閉ざし続けた。

 また門番が姿を現して、亥之介等を追い払った。

 亥之介はおろくの手を引いてさっき紗枝を待っていた松の木の下に連れて行った。

「もう帰ろうよ。紗枝様が八王子を出たのも四年も前の話だろ。亥之さんと紗枝様はもう終わっているんだよ」

「何故、そのように言う? 紗枝のことを知っておるのだな。何故、隠す」

 首を絞める亥之介の手に制御できないほどの力が込められて行く。

「わ、わかったよ……」

 苦しそうに喘ぐおろくが気を失いかけていた。

「穏やかじゃねぇですぜ。落ち着きなさいまし、矢河様」

 左右から強い力でおろくの首を絞める手を外された。気付くと先日田上軍兵衛と日本橋で争った時にいた十手者達だった。

 岡っ引きは、吾妻橋の文吉と名乗った。その隣に立っている文吉と同じ年頃の剽軽な若者は佐平という下引きであった。

「何があったか存じませんが、理由をお聞かせいただけませんか。あっしも仕事柄このまま素通りってわけにはまいりません」

 おろくが亥之介を庇うように慌てて文吉の前に出て来た。

「何でもないんです。ただの喧嘩なんです。あたいが我が儘言ったもんだから、つい気が昂っちゃって」

 何度も頭を下げながらおろくはそそくさと亥之介の手を引いて立ち去ろうとした。

「お待ちください。矢河様、まだ常盤屋に居候なさってるんでござんすかい?」

 振り向いた亥之介は、文吉の顔を訝しげに睨んだ。

「矢河様を見込んでちょっとご相談が……お手間は取らせませんからちょっくらあっしらとご一緒願いたいのですが」

 亥之介の顔色を窺う岡っ引きの目に邪気は感じられなかった。意図はわからないが御用に関わることには違いない。いつものように煩わしさを感じないわけではなかったが、目の前の岡っ引きは、紗枝の手掛かりを掴んでくれそうな予感がしてその場を去ることに躊躇った。藁にでもすがりたい気持ちが強かったからに違いない。

 文吉は、帰りが近い方がいいだろうからとお堀に沿って神田の鎌倉河岸まで亥之介を連れて行った。すっかり陽は落ちて案内されたのは鰻屋の狭い二階だった。入れ違いに客が帰って行った。甘い醤油だれの匂いが店中に充満している。食事にあまり執着のない亥之介であったが、つい腹を擦っていた。

「御病人にだいぶ歩かせちまいましたが、精をつけておくんなせい。ここの鰻はちょっと評判なんでございます。精をつけてゆっくり休むことが胸のご病気には一番だ」

「知っておるのか? 拙者のことを」

「おいら達は病気とは縁がねぇようだ。お気遣いは無用に願います」

 文吉の隣に座っている佐平も気楽な笑顔で、仲居をからかいながら注文を頼んでいた。

「酒は、大丈夫なんですかい?」

 振り返った佐平が亥之介に尋ねてきた。何とも愛嬌のある顔だと思ったが、亥之介が嗜まぬと答えたために残念そうな顔で仲居のすすめを断っていた。

「ところでさっきはどうされたんです? 矢河の旦那らしくありやせんでしたぜ」

 亥之介は口を噤んだ。だが、目の前の文吉は無理強いせずに亥之介とおろくを見比べている。信用のおけそうな男だった。村にいた十手を笠に着て威張り散らすゴロツキとは違うようだ。改めて江戸は広いと思った。この男なら本当に紗枝の手掛かりを掴んでくれるかもしれない。そんな思いに亥之介は訥々と今までの経緯を語り始めた。隣で心配顔のおろくが亥之介を止めようとした。おそらく帰ったら、また世間知らずだと誹るに違いない。

「元飯田町の旗本屋敷にその紗枝さんって方は嫁いだわけでございますね」

「そうなのだ。手掛かりはないのだが、何とか見つける手立てはないものでござろうか」

 少し眉を寄せたがすぐに表情を消して「なんとか捜してみましょう」と文吉が応えた。

 料理が運ばれてきた。

 佐平の腹が鳴って笑いを誘った。ひとりおろくだけが笑わなかった。何か思いつめた様子だった。

「お、佐平。白焼きも頼んだのかい? 矢河の旦那、こいつぁ山葵醤油で喰うんだ。タレ焼きとは違ってあっさりしていて美味ェぜ。さ、おろくさんも喰いなせぇ」

 頭を抱えてじっと箱膳を見詰めるおろくの様子が変だった。文吉の言葉が詰まった。

「……いないよ、そんなとこに」

 おろくがずっと我慢していた言葉を吐いた。男達の視線がおろくに集まった。

「いないってどういうことでござんすかい? おろくさんは紗枝さんがどこにいるのか知ってなさるのかい?」

 おろくがかしらを横に振った。

「知らない。知らないけど、紗枝様は……紗枝様は、女衒の駒蔵に連れて行かれた」

 亥之介の体中の力が一瞬抜けて、握っていた箸が落ちた。

「誰が亥之さんにお江戸へお嫁に行ったなんて吹きこんだか知らないけど、みぃんな知ってることだよ。紗枝様が泣きながら駒蔵に連れられて、御殿橋、渡っていくのを見ちまったんだ」

「拙者だけが知らなかったと申すのか」

 やるせない思いをどのように発散させてよいのか亥之介には判らなかった。さっきおろくの首を絞めた時は無我夢中だったこともあったが、おそらくおろくにすっかり甘えてしまっている証ではないだろうか。

「あたいもさんざん弄ばれた後、駒蔵に引き渡されることになってたんだよ。手箱から持ち出した金は手付も入っていたんだ」

 五十両持ち出してきた話をおろくがすると、佐平が勝手に納得しながら感心した。

「そいつぁ高く品定めしてくれたもんだ。目鼻から爪の先、指の反り様、歩きぶりまで見るって言うぜ。おろくさんは上玉ってやつだね。末は、吉原でお職をはってたかもしれないな。確かに気風もいいし、別嬪だし」

「佐平、馬鹿なこと言うんじゃねぇ。誰も好き好んで花魁になるわけじゃねぇんだ。だが、女衒の奴等、浅草の山谷に結構集まって住んでやがる。矢河様、蛇の道は蛇ですぜ。あっしら世間様から蛇だって言われております。紗枝さんの売られた先は思ったより簡単にわかるかもしれねぇ。それに話を聞けば、失礼だが紗枝さんは上玉だ。極玉かもしれない。廓の方からも手を回してみやすが……」

 文吉が虚脱した亥之介を屹度睨んだ。

 五十両と言ったおろくの言葉に亥之介は胸がざわついていた。貧しい紗枝の父が郡代に贈ったといわれる賄賂は紗枝を身売りさせて得た金ではなかったのか? そんな理不尽なことのために紗枝は苦界に落ちることを承知させられたのではないかと思うと亥之介はやりきれなさで胸が一杯になった。幕府が御家人として認めなくても武士であるということは己の矜持ではないのか。金で買うものではないだろう。紗枝の父親に殺意を覚えた亥之介はすぐにでも八王子に立ち帰りたい憤怒で我を忘れていた。

「もし、居場所がわかったらどうしやす? お会いになりやすかい?」

 文吉の声でいきなり現実に戻された。狼狽を隠す間、亥之介はすぐには答えられなかった。

「……親分、調べるだけ調べてくれ。確かに親分の言う通り、誰も好き好んで苦界に身を売る者はいまい。だが、生きておればその中で見つける幸せというものもあるやもしれぬ」

 おろくは小さく鼻で笑ったが、文吉は真摯に頷いてくれた。

「さ、冷めねぇうちにお召し上がりください。たんと精をつけてくだせぇよ。おろくさんも遠慮しねェで」

 ずっと胸にしまっておいた秘密を晒して清々したのか、おろくはこんな美味しいもの食べたことがないとご飯のおかわりを頼んでいた。まるで佐平と喰いっぷりで競争しているようだ。亥之介も文吉にすすめられるままに箸をつけた。江戸に出てきて、いや、生まれて初めて美味い物を食べたと思った。蒲焼の味がよかったのではない。目の前に座る亥之介よりも若い岡っ引きの人柄に違いない。文吉の周りには、夏の暑さを忘れる爽やかな風が吹いている。流石に江戸の男は違う。亥之介はそう思って心が軽くなった。最後に文吉の頼みを聞くまでの短い時間ではあったが……。

 文吉等と別れた帰り道、おろくがぽつりと呟いた。

「あの岡っ引き、きっとあたい等が常盤屋を出かける所からつけて来たんだね」

「そうかもしれんな……」

「どうするんだい? 請け負うのかい、密偵の仕事」

「鰻を馳走になったしな……」

 おろくが馬鹿じゃないのと亥之介の背中を殴った。

 文吉は、熱く正義の道理を説きながら、常盤屋勘右衛門が次に抜け荷をする日と場所を調べて欲しいと申し出た。常盤屋に潜り込まない限り手掛かりが掴めないほど、勘右衛門は用心深いようだ。何人も奉行所の隠密が闇に葬られた話も聞かされた。

 そんな話を聞かされても亥之介は、おろくほど大袈裟に驚きはしなかった。勘右衛門の目の奥に潜む闇のようなおぞましさに、さもありなんと思っただけであった。

 常盤屋では、亥之介を食客扱いにして、自由に振舞わせていた。また、おろくの献身的な頑張りもあって亥之介の労咳も外に漏れてはいない。

 亥之介の体調の良い日は、先に下見を済ませたおろくが江戸を案内した。浅草や上野にも行った。どこも目眩のする人波に長時間はいられなかったが、おろくの元気な姿を眺めているだけで気が休まった。夜、たまに同衾してもおろくと最後までできるようになった。亥之介にとっておろくが初めての女となった。

「亥之さんの子供ができるかもしれないね」

 頬を流れ落ちる汗も拭かず、荒い息を整えながらおろくが笑った。何気なくおろくの口をついて出た言葉が亥之介の胸を締め付けた。

「子……」

 そのまま口を噤んで天井を見詰める亥之介におろくが慌てて裸のまま覆い被さった。

「大丈夫だよ。あたいが亥之さんの病気を治してあげる。必ず治してみせるから、そしたらあたいと亥之さんと子供とどっかの長屋で暮らそう。ね? ね! 親子でさぁ、きっとだよ、きっと」

 亥之介が返事を返すまで、おろくは問い続けた。執拗に続くおろくの問い掛けは拷問のように亥之介を苦しめた。おろくに負けて頷くと、やっと体を離してくれた。おろくが言ったように長屋の片隅に親子三人で暮らす光景が頭を過った。しかし、それは儚い夢に過ぎない。そんな予感に不覚にも亥之介の頬が濡れた。

 

 夕立が上がった。昼間の暑さが一気に和らいで、庭の草木が生き返ったように、亥之介の気分もよくなった時だった。廊下から亥之介を呼ぶ女中の声が近付いてきた。

「小僧さんが、訪ねてきましたよ。庭にまわってもらいましょうか」

「そうしてくださいまし」

 おろくが代わりに返事をしてくれた。不思議そうに亥之介を見るおろくだったが心当たりがなかった。

「おぬしが知らないものを、拙者が知っておるわけがない」

「変な威張り方しないの」

 軽くおろくが亥之介の背中を叩いた。何かあるとすぐ叩く女だということに最近気付いた亥之介である。

 飴をしゃぶりながら男の子が入って来た。小さく折りたたんだ書付けをぐっと突き出した。吾妻橋の親分からだろうとおろくも察しがついたらしく、子供に駄賃の波銭を渡して帰した。

 さがしもの みつかる かやば河岸に 昼八つ おいで乞う 文吉

 書付けにはそう書いてあった。

 茅場河岸は近くである。常盤屋のある新右衛門町から楓川に架かる海賊橋を渡ってすぐだ。亥之介はともかくおろくには場所の見当がついている。与力や同心の組屋敷がある八丁堀に隣接した河岸だということも知っていた。

 心配そうに見つめるおろくを亥之介は抱き寄せた。

「紗枝のことは昔のこと。過ぎた話だ。それがしは……」

 亥之介の口をおろくは人差し指を立てて塞いだ。亥之介の胸の中で、おろくは聞きたくないと首を横に振った。

 次の日の昼下がり、文吉が奉行所の猪木舟を用意してくれた。

 相変わらず夏の日差しは、亥之介を苦しめる。舟はそんな亥之介への心遣いなのだろう。

 日本橋川から霊岸島新堀を下り、大川に出た。そのまま上って行き、待乳山から山谷掘に入って行くという。亥之介には地名を聞いてもさっぱりわからなかった。舟は吉原を目指していた。

 真上に上った太陽に当たらないようにとおろくは手拭を頭から被って、必要以上に佐平とはしゃいでいる。

 深編み笠を通して吹き抜ける川風が亥之介の心の中も吹きさらしていった。

「何を見ても、覚悟は、いいですかい?」

 文吉は最初にそう漏らしたきりで舟の進む方向をずっと眺めている。

 覚悟はできていると答えたものの、亥之介は瞑目してゆっくりとした呼吸を繰り返していた。

 覚悟とは、何だろう。何を見ても取り乱さぬ強靭な心か?

 心とは何だ! 心構えというなら、どのように構えればよいのだ?

 亥之介は答えの出ない循環する自問自答を繰り返した。それは逃げているのだとわかっている。おろくが無駄に騒いでいるのと同じことだ。そんなことはわかっているのに吉原へ向かう舟へ乗り込んでしまった。亥之介の意志とは別に、何か抗えない不思議な力に引っ張られているような気がしてならない。

「矢河の旦那は、渡辺綱ってお侍をご存じですかい?」

 振り向いた文吉が亥之介に尋ねて来た。文吉の真意がわからず推し量っている内に、話を聞いていたおろくが亥之介の隣に慌ただしく移動してきたので舟が大きく揺れた。

「あたい知ってるよ。鬼の手を斬り落とした強いお武家さんだろ。子供の頃、熊と相撲を取ったっていう力持ち」

「熊に跨るのは、金太郎だ」

 亥之介がどうでもいいことのように冷たく言い放つと、おろくは愛嬌のある顔で舌を出した。

「おろくさん、半分当たってるぜ」

 おろくを優しい目で見た文吉は、もう一度亥之介に向き直った。

「吉原の東河岸にお歯黒溝どぶって、女郎衆が鉄漿水を吐き捨てて真っ黒になった溝がありやす。そこは最も位の低い女郎さん方の切見世が並んでおりやして、お客の袖を無理矢理に引っ張るんで、片袖を千切られたお客の姿が、羅生門で片腕を切られた鬼に似ているところから別名羅生門河岸とも呼ばれておりやす」

 亥之介が首を傾げると、文吉がそこへ行くという。

「紗枝さんは、夕顔太夫と呼ばれてたいそうな人気だったようでございます。いや、正しくは、じきに太夫になる寸前だった……」

 侍の娘として育てられた紗枝は立ち振る舞いに気品があり、花を活ければ、歌も詠む。当意即妙な受け答えに客の評判も上々であった。いよいよ大夫に昇格すると決まった時、悋気した花魁の一人が紗枝の頭から溶かして煮え滾る鉛をかけた。顔の半分を覆う火傷の後は消えず、憐れんでいた得意客もその内去り、いつしか羅生門河岸に落ちて荒んだ暮らしをしているという。かつての夕顔時代を知っている者は少なく、今はお夕と名乗っているそうだ。

 文吉の話を聞いていたおろくがやりきれない苦痛の表情を浮かべて唇を噛んだ。

「やっぱり、帰ろうよ。会っちゃいけない。あたいが紗枝様だったら亥之さんに会いたくない」

 亥之介は返事ができなかった。おろくもあまり強く言って亥之介が頑なになることを恐れている。

 日本堤から五十間通りに下りて行った。葦簀張りの茶屋が道の両側にぎっしりと並び立っている。日本堤から吉原の入り口である大門までの距離が五十間であった。極楽と此世の間が五十間、五百間あるほどに気のせく所といわれて、吉原に急ぐ身には長く感じる道ではあるが、亥之介にとっても別の意味で大門口が遠くに思えた。吐き気を押さえるようにゆっくりと歩いた。

 屋根のある黒塗り木造の大門をくぐると、右手に廓の出入りを監視する四郎兵衛会所があり、また左方には、与力同心の手先が非常を警戒する番所があった。文吉が番所に挨拶すると、島岡慶吾が無愛想な顔をして座っている。別に吉原の係とは思えないが、文吉の要請らしい。あるいは、文吉の話を聞いて野次馬よろしく出張って来たのかもしれない。

「おいら達はそこの番所で待っております。その角を左に曲がった行き止まりが羅生門河岸です。九軒目がお夕さんのいる所で……」

 文吉は亥之介ひとりで行かせようとおろくを引きとめた。

「案ずるな。見て来るだけだ」

 心配顔のおろくだったが、亥之介は無理に笑っておろくの不安を取り除こうとした。

 吉原に昼も夜もなかった。人通りのないことを望んだが、亥之介の希望は叶いそうもない。

 重い足取りで角を曲がった。突き当りに近づくにつれて、脂粉と汗の臭いに混じって抹香臭い空気が漂っている。線香一本燃え尽きるまでが五十文から百文、さらにもう一本立てることをお直しという。そう舟の上で文吉が教えてくれた。一日にそれほど多くの客が取れるわけではあるまい。見世の借り賃を払うと、生活するのに十分な収入が得られているとは思えない。紗枝の暮らしに胸を痛めた。八王子の暮らしも苦しかったが、当然ここほどではないはずだ。

 吉原伏見町の通りを歩き切り、ついに羅生門河岸に出た。出た所で急に咳き込んだ亥之介は片膝をついて体を支え、懐紙で口を拭いた。少し血を吐いたようだ。目眩が収まるのを待ってまた立ち上がった。

 客を引きこもうと亥之介の袂を握った年配の女郎が編み笠の下から亥之介の顔を覗き込むと、悲鳴を上げて逃げ出した。もう一度口を擦ってみるとまだ血が拭き切れていなかったようだ。

(地獄の女も逃げ出すか……)

 そう思うといくらか気が楽になり、棟の数を数えて進んだ。逃げ出した女が隣近所に労咳持ちの浪人が来るよと吹聴し廻ったので誰も亥之介を遠巻きに見たまま近寄ってこないのは、ありがたかった。

 六……七……八……九

 九軒目の女は、そんな騒ぎも耳に入らないのか、長煙管をだらしなく銜えて、柱を背にじっとこっちを見ている。解き下げたままの髪で右半分を隠した顔は、醜く引き攣っていたが紗枝の面影を少しばかり残していた。

「おいでよ。胸を病んでるんだって? 浪人さん、そいつをあちきにもうつしておくれでないか。ね、いい考えだろう。みぃんな、江戸中病気にしちまおうじゃないか。うつしてくれるんなら、最初の線香はおまけしてあげるよ」

 亥之介は編み笠の紐を解く指が震えた。酒で潰したのだろう。紗枝の声がかすれていた。

「……紗枝」

 亥之介は編み笠を外して、女に向き直った。

 悲鳴を上げた女の体が痙攣した。朱塗りで長尺の花魁煙管を地面に取り落したまま、中へ飛び込んだ。すぐに後を追った亥之介であったが、片足を入れただけで硬直した。

 女が合口拵えの守り刀を抜いて構えていたのだ。

「今頃、何しに来やがった!」

 構えは紛れもなく紗枝であった。紗枝は小太刀の名手だった。亥之介が真剣で何度も形を繰り返す横で、同じように練習していた。それが言葉の少ない二人の会話だった。

 踏み込めないで躊躇している亥之介に向かって甲高い気合とともに短刀が突き出された。身が勝手に反応して後ろへ跳び下がり、切っ先を避けた。

 亥之介の視界が涙で滲み、ぼやけ始めた。

 紗枝に斬られるなら構わない。

 ふとそんな考えが頭を過った。どうせ遅かれ早かれ死ぬ身だ。狂気の様相を呈した紗枝を前に、気付くと亥之介はだらりと両手を下げて棒立ちになっていた。

「紗枝様、やめて!」

 おろくが亥之介と紗枝の間に駆け込んだ。

「おろく、なぜ来た。文吉親分の所で待っておれ」

 紗枝は短刀を逆手に構え、足をするようにして表へ踏み出してきた。陽の下に出た紗枝は般若のような形相だった。亥之介の隙を窺いながら間合いを計っている。紗枝の腕は落ちていない。

「おや、ろくでなしのろくも一緒かい。つい見なかった間に大きくなったじゃないか。二人揃って落ちぶれた河岸見世の女郎を笑いに来たのかい?」

 紗枝の短刀が、おろくの後ろの亥之介に向いている。

「紗枝様……あたいのお腹の中にはこの人の子供がいるんです。亥之さんを殺さないで!」

 おろくの叫びに紗枝だけでなく亥之介も一瞬硬直した。

 おろくは両手を広げて紗枝の前に立ちはだかっている。まるで亥之介を守るような仁王立ちだった。紗枝に斬られてもいいと思った亥之介の気持がおろくにも伝わったのかもしれない。

 泣きじゃくるおろくの声が耳障りなようで紗枝はわずかに眉を顰めた。

 おろくを追いかけてきた文吉が羅生門河岸に出たようだが、成り行きを見守る女郎衆や物見高い客に阻まれて先に進めないでいる。

「何、ふざけたこと、言ってんだい。二人ともあの世へお行き」

「落ち着け、紗枝!」

 亥之介が声を掛けるよりも早く紗枝は腰を落として短刀を突き出してきた。

 亥之介はおろくを横に突き飛ばし、突きをかわした。

 紗枝が向きを変えた。

「おろく、覚悟をし!」

 地面に腰をついて動けないおろくに紗枝が右手を高く振り上げて突き下げた。

「やめなせぇ!」

 文吉が駆け寄った時には既に、紗枝がおろくの上に倒れ込んだ後であった。

 紗枝の背中が深く斬り裂かれて、おびただしい血が流れ始めた。

 亥之介は血の滴る抜身を下げたまま、激しく咳き込んで片膝をついた。

 瀕死の紗枝が弱った息づかいで頭をもたげた。亥之介を捜しているようだったが、すでに目が見えていない様子だった。

「毎日……逢いたいと祈っておりました。やっと救っていただきましたね。あり……がとう……それから、おろく……綺麗になりましたよ。亥之介様の目は、おまえを見ています……亥之介様を頼みます。幸せにおなり……」

 おろくに覆いかぶさったまま、紗枝が息を引き取った。いつの間に握りをずらしたのか、柄ではなく、切っ先を掴んでいた。おろくを殺す気はなかったのだ。亥之介に自分を斬らせようと背を向けたに違いなかった。死にたかったのかもしれない。死ぬきっかけが欲しかったのかもしれない。きっと紗枝も亥之介に会いたがっていたのだ。ずっと亥之介に斬られて死ぬことを夢に見ていたのだ。紗枝の心が伝わったのか、おろくが紗枝をきつく抱きしめて泣きじゃくっていた。紗枝の般若のような形相が消え、まるで眠っている赤子のような穏やかな表情に変わっていく。

 四郎兵衛会所の若い衆と一緒に、おっとり刀で慶吾も駆け付けた。

「騒ぐんじゃねぇ! ここは俺が預かる」

 慶吾の大声に会所の半纏を着た若者達が縮みあがった。

「女を弔ってくんな」

 慶吾の指示に若い衆は戸板に紗枝を移し替えると筵をかけた。浄閑寺に運んで行くのだろう。浄閑寺は投げ込み寺という別名を持つ。その名の通り亡くなった遊女の遺体が投げ込まれる寺であった。

 万事手抜かりのない佐平がすぐに機転を利かせて女の手から守り刀を外し、髪をひと掴み切り取った。

「化け物がやっとくたばりやがった」

 心ない会所の男がそう吐き捨て女の死体を蹴るのを見たおろくが火のように怒って、殴りかかっていった。

 文吉は佐平と一緒になっておろくを止めた。ひとりでは止められない抗いようだった。

 だが、周りの無責任な騒々しさとは裏腹に亥之介は血の気の失せた唇を真一文字に固く閉じ、お歯黒溝に流れ込む紗枝の流した血を見詰めたまま座り込んでいた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ