王立魔法学園の校舎中央の吹き抜けの階段を半ばまで降りたとき、階段下の廊下を、白の制服を身にまとったクリアストーン王子が歩いているのが見えた。
クリアストーン・ヴィヴァルディア。このジュエルストン王国の第一王子であり、私の婚約者でもある。私の生涯は、この人のためにある。
クリアストーン王子の隣にいるのは、王子の幼馴染みであり、騎士団長の息子でもあるエメラルド・ガーディスだ。暗緑色の制服を着用している。彼は王子の同級生でもあり、護衛でもあり、王子の側を離れることはない。
「王子」
クリアストーン王子に掛けようとした私の声は、誰かの悲鳴によって遮られた。
私の横を、つまり階段を、誰かが転がり落ちていく。私の紫の制服とは対象的な、明るい黄色の制服を着た女生徒だ。女生徒は階段下まで転がり落ちると、クリアストーン王子の数メートル先に仰向けに横たわった。
事件としては、完璧なタイミングだ。
この場に居合わせた多くの生徒が、女生徒を見て、そして私を見た。
まるで時が止まったかのような空間の中を誰よりも早く動いたのはエメラルドだ。彼はクリアストーン王子が女生徒に駆け寄ろうとするのを制し、倒れた女生徒に近づく。そして険しい表情で倒れた女性を目視で検め、武器などを所持していないことを確認して、クリアストーン王子に目配せした。
女生徒は、平民出身ながらこの学園に入学した、聖女の天恵を持つソレイユローズだ。
ソレイユローズに駆け寄ったクリアストーン王子は、彼女に怪我がないことを確認し、射抜くような視線を私に向けた。階段には今、私しかいない。つまり、そういうことだ。
「ヴィラネッタ」
愛しいクリアストーン王子が私の名を口にする。その声にかつて満ちていた愛情は全く感じられない。
クリアストーン王子とエメラルドに抱え起こされるソレイユローズの美しい顔が私に向けられた。
ソレイユローズの表情は、彼女の美しさに相応しからぬ、邪悪で、相手を見下すような笑みだった。
「ヴィラネッタ、お前が彼女を突き落としたのか!!」
クリアストーン王子の氷のような言葉が私に刺さる。
「違う」
私は何もしていない。彼女が勝手に階段を転がり落ちたのだ。しかし、私の釈明を遮り、王子は畳み掛けるように言った。
「お前がソレイユローズのことをよく思っていないと気づいていたが、まさか階段から突き落とすとは。見損なったぞ。婚約は解消する。この学園から、いや、この国から出ていけ!!」
どくん。
私の心臓が跳ね上がる。
まさか、そんなことが。そんなことって。
「待ってください、ヴィラネッタ様は私を突き落としてなんかいません!!」
そう叫んだのはソレイユローズだった。その頬は涙に濡れており、先程の邪悪な表情は微塵も残さず消え去っている。
この平民女、何ていう変わり身の早さなのか。自分ですっ転んでおいて、さらに涙で同情を買って私を追い詰めようという算段か。
クリアストーン王子は改めて彼女に怪我がないのを確認し、安堵に胸を撫で下ろしたようだ。王子は私に向けていたものとは別人のような温かい眼差しをソレイユローズに向けた。
「ソレイユローズ、あのような者を庇う必要はない。それとももしや、弱みでも握られて脅されているのかい?」
ソレイユローズは大きく頭を振った。
「いいえ、いいえ、決してそんなことはありません。私が勝手に転んだだけなのです」
ソレイユローズは涙ながらに事実を訴えると、両手で顔を覆って肩を震わせた。
そのソレイユローズが、指の隙間から私の様子を伺っている。その表情は、まさに邪悪そのものだった。
☆
あれは昨年、残暑がようやく和らいだと思ったら急激に寒さが厳しくなった、そんなある日のことである。
私は父に呼ばれて、我がエズクロシー家に背負わされた役割を知ることとなった。
父の私室に入ると、父は立って私を待っていた。私を見つめるその目は、潤んでいるようにも見えた。
「ヴィラネッタ、お前も今年で十六歳、よくここまで立派に育ってくれた。お前を産んだときに亡くなった母さんも、きっと」
父はそこまで言って言葉を詰まらせ、目頭を押さえる。父はしばらくして仕切り直しをした。
「すまない、お前も今年で十六歳、春には王立魔法学園ブリリアントに入学し、この国の礎となるべく多くのことを学ばなければならない」
「はい、承知しております、お父様」
「だが」
父は何かを言いかけて言葉に詰まってしまった。その表情は苦悩に歪んでいる。
「ヴィラネッタ、すまない、お前にこんな、こんな過酷な運命を背負わせるなど」
十五年半の間、私に愛情を注ぎ続けてくれた父が悩んでいる。
八歳のときに高熱を出して寝込んだ私を、寝ずの看病をしてくださった父が悩んでいる。
十二歳のとき、第一王子と私との婚約が成立し、涙を流して祝福してくれた父が悩んでいる。
「お父様、お父様のためならば、私はこの身が滅びようとも恩を返します。どのような運命でも、どうぞおっしゃってください」
私がきっぱり告げると、父はむしろ慌てたように否定した。
「いや、お前の身が滅びてもらっては困るのだ。そうだな。ちゃんと最初からすべてを話そう。そのためにお前を呼んだのだから」
父がそう言って語り始めたのは、この世界の仕組みについてだった。
この世界は、神聖エネルギーと魔力エネルギーの循環によって均衡が保たれている。そしてこの均衡を保つのに欠かせない存在が聖女だ。
およそ百年ごとに生まれる聖女は、神聖エネルギーと魔力エネルギーの循環を安定化させる「神の器」だ。聖女が王家の血を引く者と結婚することで聖なる儀式が完成し、世界が維持される。
だが世間には、聖女が世界の均衡を維持することしか知らされていない。王家の血を引く者と結婚することが条件なのはもちろんのこと、この儀式に代償が必要だということも秘匿されている。
父はそこまで語ったところで私の目をじっと見つめてきた。父の目には深い愛情と憐れみが宿っている。
「ヴィラネッタ、お前の時代に、聖女が現れるとは」
そして父は続きを語り始めた。
聖なる儀式によって世界を破滅から守るためには、代償が必要だ。
王家の血を引く者と聖女、この両者にとって身近な者が「悪」として断罪され、追放されることで、聖女の善性と純粋性を際立たせ、儀式の効力を増幅する必要がある。
このことを知っているのは、国王とごく限られた側近、そして我がエズクロシー家だけだ。
遠い過去の神託により、エズクロシー家は、代々この役割を担うことを当時の国王と契約した。この契約は魔法契約によって結ばれており、万が一にも破るようなことがあれば、エズクロシー家には恐ろしい災厄が降りかかるという。
「つまり、第一王子との婚約も、そのための布石なのですね。お父様の涙はそういう意味だったのですね」
私がそう言うと、父は何度か目を瞬かせて答えた。
「そうだ、ヴィラネッタ。お前が十二歳になった頃、平民の中に聖女の天恵を授かった少女がいることが判明した。その少女は教会に保護され、教育を与えられて、来春にはお前と同じく王立魔法学園に入学する。お前は、第一王子の婚約者として、その少女と出会うことになる」
なるほど。十四歳の第一王子と十二歳の公爵令嬢の婚約には、そんな裏があったのか。
ジュエルストン王国の第一王子クリアストーン・ヴィヴァルディアは、金髪碧眼で、十四歳にして気品とカリスマ性を備えていた。私はたぶん、王子に一目惚れしていたと思う。
あれから四年、思い返せば付かず離れずの距離を維持するように仕向けられていたのだろうけど、むしろそれは逆境となって私の愛情を加速させただけだった。クリアストーン王子と私の仲はそれなりに深まっていると思う。
王子が私を見る目、王子が私の名を呼ぶ声に親しみと愛情を感じたりもしたのだけど、なるほど。
「全部、ぶち壊せばいいわけですね」
こうして私は、悪役令嬢として聖女と出会うことになったのだった。
☆
この半年の準備期間を、私は悪役令嬢になるために費やした。
私は祖先の書架の「極秘」と書かれた棚を漁り、悪役令嬢として断罪された祖先の日誌を読んで、悪役令嬢としての振る舞いを学習した。日誌には、憎くもない聖女に対して暴力や暴言を振るわなければならない苦悩も綴られていて、胸が痛んだ。
公爵令嬢が追放される事態になりながらエズクロシー家の爵位が剥奪されない理由は、表向きには罪を犯した令嬢を追放した潔さが認められて減刑され、聖なる儀式の成功によって恩赦されたことになるようだ。恩赦とはいえ失った信頼が回復するには長い時間がかかる。
おいおい、過酷すぎるだろ悪役令嬢。過酷すぎるだろエズクロシー家。
どれだけ調べても、悪役令嬢が魔法契約を破ったときにエズクロシー家に降りかかる恐ろしい災厄については分からなかった。考えてみれば、悪役令嬢が失敗して聖なる儀式も失敗すれば世界の維持もできないわけで、悪役令嬢の失敗はそもそも許されないのだろう。
おいおい、過酷すぎるだろ悪役令嬢。過酷すぎるだろエズクロシー家。
私は鏡に向かって自己暗示をかけることを日課に組み込んだ。聖女を平民と見下す。平民が貴族とともに学ぶなどありえない。平民ごときが。平民ごときが。ああ、まだ会ったこともない相手に憎しみを抱くのは難しい。そして、無理に作り出したこの憎しみを表情に出してはいけない。
さらに、古い文献を調べて「貴族ことば」をいくつか覚えた。柔らかな文言ではあるものの、相手を厳しく叱責する言葉だ。うまく使えば武器になるだろう。
ちなみに、ああもう、考えたくもないことだが、父はしばらく家を離れるという。
王立魔法学園への入学一週間前に、父は急にこんなことを言ったのだ。
「ヴィラネッタ、すまないが私は仕事の都合でこの家を三年ほど離れることになる。すまないが家のことを頼む」
このタイミングで家を離れるということは、つまり、そういうことか。
「なるほど、お父様が不在の間に、娘が暴走したということなのですね」
私がそう言うと、父は目を瞬かせたのち、視線を逸らして言った。
「す、すまない」
ああもう、全部私のせいですよ。いいですよ、やりますよ。
私は悪役令嬢ヴィラネッタ・エズクロシー。エズクロシー家の名誉にかけて、必ずや追放されて見せましょう。