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「……っ!」
しばらくし、ためらいがちに扉を叩く音が二度、三度聞こえたのちに、若い男性の声が響いた。
「灯りが見えたので、夜分遅くに失礼いたす。……毒蛇に噛まれてしまい、手当のためにしばし滞留させていただけないだろうか」
扉の向こうからの声に、綾羽はぶるりと震えた。
もし相手が神ならばこんなふうに助けを乞うはずがない。音もなく扉を押し開け、ただ静かに現れるだろう。反対に、悪しきものなら屋敷には入れず――声をかけて油断を誘おうとする。
つまり宵嫁として神の訪れを待つ綾羽がするべきことは、なんにせよ扉を開けないことだった。例え困りきった善良な人間だとしても──儀式中に人間の男を招き入れたことが分かれば、どんな折檻を受けるかわかったものではない。
綾羽はぎゅっと、震える手を胸元にあて、呼吸を整えた。
「あの、その……ただいま、この屋敷は、儀式のために使用しておりまして……」
「ここが呉竹家の領域ということは把握している」
扉越しの声はこの地のしきたりを知るもので、血が通った人間のものだった。丁寧で落ち着いた口調だが、時折荒い息遣いが混じり、切羽詰まった響きがある。
「では……里の方、ですか?」
「いや。私は……都から来たものだ。帝の命を受けている」
都からの来客があるなど、話に聞いていない。しかし綾羽は立場のある人間ではないし、大切な話が耳に入らないこともあるだろう。
「詳しくは言えぬが、私は悪い者ではない。信じてほしい。……このままでは命が危ういのだ」
綾羽は息を詰めしばし迷ったが、その声はどうしても邪なものには思えない。
『綾羽、どんな時でも人には優しくするのよ。そうすれば、きっといいことがあるからね』
亡き母の声が胸の奥で蘇った。
──そう、お母様の言うとおり。今、この方が頼りにできるのは私しかいない。どうせ望まぬ神に嫁ぐ、それも予備でしかない自分なのだから……。
「わかりました。呉竹家の治める山、しかも神聖な儀式の最中に傷病者が──死人が出てはいけません。どうぞ」
扉を開け、向こうに立っていた青年を確認して、綾羽は目を見開いた。
艶やかな黒髪に、血の気のない肌。黒いはずの瞳はどこか蒼を感じる。
もし先ほどのやり取りがなければ、彼を見た瞬間、迷わず神と信じただろう――あるいは、恐ろしさに立ち尽くしていたかもしれない。
しかし落ち着いて眺めてみるとその眼差しには芯の強さがあり、立ち姿も凛として、近寄りがたい美貌とは裏腹に、誠実な青年に違いないと綾羽に直感させるものがあった。
綾羽はしばし自分の目的も忘れて青年を眺めていたが、青年の方でもそれは同様のようで、綾羽をじっと見つめている。
──きっと、異形と言われる私の薄白の髪が気味悪いのだわ……。
視線を僅かにずらし、うつむいた綾羽は血染めの着物と腕に残る深い牙の跡を見て我に返った。
「ご令嬢、慈悲に感謝する。俺の名は蒼月と申す。家名は……」
青年は蒼月と名乗り、さらに身元を明らかにしようとしたが綾羽はそれを遮り、下駄を履いて外に出る。
「いえ、あなた様が何処の誰でも構いません。しばしお待ちを……このあたりなら、解毒に効く薬草が生えているはずですので」
綾羽はそう告げて夜の庭へ出、冷たい露に濡れながら薬草を摘み取る。戻るとそれを手早くすり潰し、蒼月の傷口を酒で消毒してから、薬草を塗った。
「包帯がありませんので、不格好ですがこちらで……」
綾羽が寝具を切り裂いて即席の包帯を作るのを、蒼月は何か言いたそうではあったものの、その様子をじっと眺めていた。
「今日のところは、最低限の処置は出来たと思いますが……」
「かたじけない」
全ての手当が終わると、蒼月はにこりと綾羽に向かって微笑んだ。
悪意のない、しかも若い青年の笑みだ──綾羽は急に恥ずかしくなって背をむけた。
──人命救助のためと言っても、宵嫁の身でありながら異性に触れてしまった……。
「かなり深手を負ってしまったはずなのに、いつの間にかすっかりおさまっている」
腕を見せながら、これでは大騒ぎした自分が阿呆のようだと蒼月は言った。牙のあとは深く、周りの皮膚は黒ずんではいたがその様子を見て綾羽はほっとする。
「あなたの持つ力が、俺自身の持つ治癒力を高めてくれたようだ」
さすがは帝都でも名が知られた呉竹家の娘だと言われ、綾羽はぐっと着物の裾を掴んだ。
「いえ……私には異能の力は何一つなく……。とても呉竹を名乗れません」
幼い頃から、綾羽は沙代理と繰り返し比べられてきた。
「同じ呉竹の娘でも、沙代理は水を操るのにね」
「姉のほうは、ただの飾り……いや、なんの役にも立ちやしない」
「薄桃色の瞳なんで、魔性のもののようで気色悪い」
「母親が旦那様ではなく邪なあやかしと交わって出来た子ではないのか?」
「ご当主様は、どうして綾羽を本家の娘として置いておくのか……」
そう囁かれ、惨めになった記憶は数え切れない。母が亡くなった後はなおさらで、沙代里が家の寵愛を独占する中、妾の子である綾羽は常に蔭に追いやられ、使用人と同じ扱いを受けている。
「呉竹のご令嬢ではないと言うのなら、ぜひあなたの名前を教えてもらえないだろうか。このままだと梅か桃の精としか思えない」
白い髪の毛、薄桃色の瞳を持つ綾羽を不気味だと言う人は数多くいたが、花の精だなんて上等なものに例えられたのは生まれて初めてのことで、綾羽の顔はますます赤くなった。
「あ……綾羽、です」
「美しい名だ。俺は鳥が好きでな」
蒼月の声に応えるかのように、扉の向こうからホーと梟の鳴き声がした。
「あ、ありがとう、ございます」
綾羽はそれきり、何も言えなくなってしまった。
「や、破ってしまいましたが、布団はまだ使えますので……今宵はそちらでお休みになってください」
ややしばらく、蒼月のどこか綾羽をからかうような沈黙に耐えきれなくなって、綾羽はやっとのことで口を開いた。
「そこまではお世話になれない」
「いえ、どうせ今夜は眠りませんので」
宵嫁は神の訪れがあるまで勝手に休んではいけないのだ。
「──宵嫁か」
その言葉に綾羽ははっと振り向いた。




